社会学玄論
2023-11-26T19:31:44+09:00
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社会学を社会学する自己言及ブログ
Excite Blog
東浩紀氏の訂正可能性の哲学は、相対主義の一変種である。
http://mercamun.exblog.jp/33552502/
2023-11-25T11:01:00+09:00
2023-11-26T19:31:44+09:00
2023-11-25T11:01:00+09:00
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相対化作法
さらに、個のレベルにおいては、訂正可能な存在であるためには、交換不可能な存在でなければならないと言っている。交換不可能な取り替えのきかない存在、すなわち単独者のみが訂正可能性に開かれた存在になるというわけである。
そもそも、最初から、それぞれの人間は、世界に一人しかいない唯一の存在=実存である。ただ、その属性はいつでも変動し、訂正可能である。例えば、この私は、子供であったり、大人であったり、教師であったり、親であったり、色々と述語面は変化し、訂正可能である。このような訂正可能性は、かえって主語の交換不可能性を前提としている。主語そのものは訂正されず、述語面の属性のみが訂正される。従って、個人は、自身を取り替えの効かない存在であるという実感を得ることが大切になってくる。そのような実感は、家族や親密圏でのみ得られることになる。自我統合において、このことは大きい。矛盾対立した複数の部分的アイデンティティを自身の自我に統合するには、究極的には個の単独性=交換不可能性=唯一性によって可能だからである。自我統合の作法として、訂正可能性の哲学は、一応、合格である。
訂正されざる個の単独性においてこそ、訂正可能性が可能となるのである。社会学の観点からすると、この思想は、宮台真司が懸念した社会の過剰流動性に対する、解決策となっているのである。
これを個人のレベルではなく、社会のレベルに置き換えてみると、日本社会という主語は不動に存在し、述語のみが訂正されていくことになる。左翼が唱える革命とは、主語たる日本社会の存在そのものの存在否定である。一方、右翼が唱える伝統保持とは既存の日本社会の変化を否定する立場である。東氏は、絶対否定と絶対肯定の二元対立を嫌い、この対立を温存しつつも、訂正という立場をとることで、止揚しようとする。明治維新も戦後の象徴天皇制も、既存の社会の全否定ではなく、実は日本社会はこれこれであったという訂正によって成し遂げられたというわけである。
また、自然と作為(社会)の二元対立についても、両者を否定するのではなく、ルソーを引用し、「自然を作為する」という立場をとり、それが訂正する力によって為されると考えている。
ここでいう自然とは、端的にルソーのいう一般意志のことを指し示していると考えられる。そもそも、自然は作為されないから自然と言われるにもかかわらず、作為された自然を認めている。これは、社会契約思想における自然法という概念がそもそも物理世界のような不動の法則によって貫かれているものではなく、究極的には人間や社会が作り出した物語だということを意味している。しかし、一旦、作り出されると、それがあたかも自然界の不動の法則のように人々に表象される。しかし、実は、自然法も、所詮、人間や社会が作り出した物語にしか過ぎないということである。つまり、ルソーのいう自然法や一般意志は、不動の存在として君臨しているように人々は捉えるが、いつでも訂正可能な可変的なものなのである。いつでも訂正できるが、一旦、出来上がると、不動の存在のように認識され、人々を拘束することになる。
しかし、東氏のあまいところは、社会=一般意志の発生を人々の意図的な作為としてのみ捉えており、人々の相互作用によって意図せざる方向に向かって自然に発生するものであるという社会的事実を見損なっていることである。
デュルケーム流に言うと、外存性と拘束性をもった第二の自然である一般意志=社会は、個人の作為や複数の人々の共同の作為から発生したのでもない。人々の共同主観的意図とは関係なく発生する、社会による社会の産物である。
例えば、言語は誰か一人が発明したものではなく、人々のコミュニケーションの積み重ねによって、人々の意図とは関係なく、出来上がったものである。確かに一般意志は訂正可能性はあるが、訂正する主体は、個人ではなく、社会である。社会が社会を訂正するわけである。いくら学者や政治家が社会の訂正について発言しても、その内容の通りに社会が訂正されるわけではなく、その思想が人々に共有され、人々のコミュニケーションに影響を与え、その結果として、色んな方向に社会が変わることになる。平等社会を目指すマルクス主義が平等社会を生み出さずに、思想の自由のない独裁主義による階級社会を生み出したように、思想内容とその影響による結果は一致しないのである。それが社会創発の妙理である。
多くの場合、人々の作為が作為の内容とは異なる結果を生み出すのである。社会学の立場からすると、訂正可能性の哲学は、社会が訂正内容どおりに訂正されないということを見落としている。
最後に、訂正可能性の哲学が、やはり相対主義の一変種であることを述べておこう。
訂正可能性の哲学は、ある存在に対して、絶対否定も絶対肯定もせず、訂正のみを行う。先にも述べたが、交換不可能な主語の存在の同一性=単独性は、温存し肯定され、訂正によって交換可能な述語たる属性のみが部分否定される。
つまり、訂正可能性の哲学の論理的正体は、主語面における絶対主義と述語面における相対主義の二つを織り込んでいる相対主義である。それは、柄谷行人のいう、「単独性と特殊性」という区別に準拠している。「主語ー述語」「単独性と特殊性」という区別に準拠し、絶対主義と相対主義を共に肯定するタイプの相対主義であり、無論、単純な相対主義よりも高度な哲学思想である。
参考
「バウマン社会理論の射程」書評 他者性の社会学は可能か?
https://mercamun.exblog.jp/19834975/
抜粋
「中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。
一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。」
内在的社会批判と外在的社会批判の二元対立も、訂正する力で止揚できるだろうか。
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人権思想の副作用としての感動ポルノ論 愛なき福祉社会
http://mercamun.exblog.jp/32581593/
2022-12-03T21:59:00+09:00
2022-12-03T22:13:45+09:00
2022-12-03T21:59:05+09:00
merca
社会分析
しかし、感動する視聴者は、本当に障害者の努力物語を自己のストレスを解消するために消費しているだろうか?
また、感動とはそもそもストレス解消行為なのだろうか?
視聴者や読者は、障害者だから感動しているわけではない。障害者であろうがなかろうが、一人の人間の生き様に心を打たれ、尊敬の念を抱き、勇気づけられ、エンパワーメントされているだけである。それは、他と比べることができない実存的な出来事、遭遇である。真なる感動は消費されず、お金に変えることはできない。
ヘレンケラーの物語に感動する人たちは、消費ではなく、学びを得ているのである。このことを全く感情ポルノ論者はわかっていない。感動とは、決して消費されるような類いものではない。感動は、かけがいのない出来事であり、一般化できない。比較できるような感動は偽物の感動であり、ストレス解消にしかすぎず、そこからは何も学ぶこともなく、心の成長にはつながらない。
ある人の生き様を見て感動し涙を流すことの意味は、他者の人格を敬うことであり、心の成長や学びにつながる。決して、感動ポルノという安易な言葉には還元できない実存的な心の出来事なのである。
さらにいうと、障害者の努力を見て同情して涙を流す人も、相手が障害者だから涙を流しているのではなく、相手が苦境に負けずに努力する姿や周囲の温かな支援に涙を流しているのである。同情をする人は、障害者じゃなくても、一様に苦しんでいる人に同情し、涙を流すのである。
同情する人は、貧困にあえぎ餓死しそうな子供たち、虐待を受け痣のある子供たち、闘病生活に苦しむ患者、いじめにあって不登校になっている子供たち、衰弱した路上のホームレス、劣悪な家庭環境の中でも更生しようとする非行少年、戦争で犠牲になった人たちなどにも同情するであろう。
ワンピースの物語であるが、コラソンが孤児のローに同情して流した涙は偽物ではなかった。その涙は自らの命を犠牲にしてローを守り、彼に自由をもたらした。決して見捨てることはなかった。同情したコラソンの愛は偽物ではなかった。この物語が示すように、人は同情心から自然に相手を救いたいという気持ちが出てくるものである。
しかし、今や、そういう人たちの愛や慈悲に対して、同情することは一種の差別であるとレッテルを貼るようになってきた。人の善意を偽善とみなし、人の同情を差別と見なし、人の温かさを感じることができなくなってしまっているのである。これは一種の社会病理現象である。
実は、社会学的には、人の涙を卑しめ、人の温かさを差別とみなす思考回路は、近代社会の人権思想を基礎とする福祉主義に由来している。そもそも、特別に同情されなくても、健常者と同様に生きていけるノーマライジェーションが実現した共生社会では、社会的障壁がなくなり、同情による支援に頼らなくても、普通に生きていけるわけである。人々の善意や同情がなくても、国家の精緻な福祉制度があれば、その支援によって、健常者と同じように生きて行けるし、完全な社会参加と自由を実現することができる。そうなると、善意や同情は無用の産物となるばかりか、やっかいな代物となる。障害者が求めるものは愛や慈悲という不確かなものではなく、国家の福祉制度という確かなものなのである。
つまり、障害をもつ者にとって、国家の福祉制度による支援があれば、生きて行ける時代になりつつあり、人々の善意や同情は差別として観察されるようになったのである。このような社会では、障害者にとっては、端的に人々からの愛は差別なのである。
しかし、皮肉なことに、そもそも福祉の歴史は、熱い心を持つ宗教家や篤志家たちによる慈善事業から始まっている。つまり、善意、同情、慈悲、愛が動機となっている。ところが、人が人を助け合うことの基本に、愛がなくても可能な社会、それが福祉主義が目指す共生社会である。たが、そのような社会はかえって心が貧困化した社会となるであろう。
感動ポルノに話を戻そう。
人々が障害者の克服物語を見みて感動することを感動ポルノと見なすことは、結局のところ、一部の障害者やその支援者がもつ価値観のフィルターから構成された考え方である。
本当に感動するとは、その人の人生を変えるほどの衝撃とエネルギーが与えられる出来事=奇跡であり、感情ポルノ論者のいう消費行動には還元されない。マスメディアが流す障害者の生き様を描いた努力物語が一部の障害者が不快感を感じるのは、人権思想に基づく福祉主義の価値観のためである。その本質は、健常者=強者=悪、障害者=弱者=正義という区別に基づくルサンチマン思想である。一部の障害者やその支援者たちが、人の純粋な善意を偽善とみなし、人の同情や愛を差別と見なすようなったのは、この価値観に洗脳されているからである。この価値観を近代社会の作り出した価値観にしかすぎないと相対化し、視野を広げ、認知の歪みをなくすことが大切である。
ちなみに、サイコパスと対照的な存在であるエンパス(極度に共感性の高い人)という人たちがいるが、この価値観からは、エンパスは感動ポルノ依存症のレッテルを貼られてしまうであろう。
ともあれ、人権思想の副作用は、人の愛や慈悲を否定する感情ポルノ論者の中にも観察できることがわかった。
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精神医学と心理学の境界線 精神科医による心理学への不当侵略
http://mercamun.exblog.jp/32371459/
2022-10-09T01:47:00+09:00
2022-10-09T08:47:17+09:00
2022-10-09T01:47:17+09:00
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理論
おなじような現象が心理学にも起こっている。精神科医による心理学領域への不当侵略である。精神科医というだけで、臨床心理学の専門的知識やカウンセリング技術の専門的訓練を受けずに、安易にカウンセリングを行っている場合がある。実は、心理学の専門家からすると、きちんと、臨床心理学に基づいた専門的訓練なしに、カウンセリングをする精神科医は、えせカウンセラーと何ら変わりはない。産業カウンセラーでも、ロジャース心理学に基づいたそれなりの訓練を受けており、臨床心理学を学んでいない精神科医よりも、カウンセリングはできると思われる。
基本的に、カウンセリングは人の心理に対して行うものであり、精神科医の領域外である。ただ、心理学よりも、精神医学のほうが、格が高く、科学性があると勘違いされている。同じ国家資格でも、業務独占の医師免許の権威性は、名称独占の公認心理師を凌駕しており、人々は、心理学よりも医学の方が科学的であり、たとえカウンセリングの訓練を十分に受けていない精神科医であっても、そちらを選択するのである。人々が学問に対する科学的リテラシーがないために、このようになる。
もう一つの問題として、精神医学の対象である精神と心理学の対象である心理はよく似ており、これらの対象は区別できるのかという議論がある。精神病の人には、カウンセリングは効果がない、とよく言われている。カウンセリング等の心理療法では、精神病を治療できないことはよく知られている。脳神経における神経伝達物質に働きかける投薬治療が必要となり、公認心理師では、それは扱えない。このように対象と方法は区別されている。一方、人生の意味や道徳観念による苦悩で悩んでいる人に、いくら投薬治療をしても、根本的に解決できない。心の意味世界の領域の問題は、カンウセラーとの対話による気づきによって、心が整理され、解消されていくことになる。
システム論的にいうと、精神医学の対象である精神は脳神経系システムによって創発された精神現象であり、一方、心理学の対象である心は精神現象の意味内容のシステムであると言える。両者は、閉鎖性のある自律システムであるが、影響を与え合っている。
例えていうのなら、ガラスのコップと水の関係である。ガラスのコップが精神であり、水が心である。濁った水が入っている場合、いくらコップを洗っても落ちない。奇麗な水に入れ替える必要がある。また、水をいくらいれても、コップに穴が空いていたら、水は漏れてしまい、たまらない。
また、もっと言えば、精神と心の区別は、形式と内容、ハードとソフトの関係に対応している。精神が、形式、ハードに対応し、心が内容、ソフトに対応する。例えば、ハードであるテレビがあっても、ソフトとしての番組の放送がなければ、意味がない。また、ソフトとしての番組が放送されても、ハードであるテレビが故障して映らなければ、意味がない。
また、精神科医がカウンセラーにリファーし、カウンセラーが精神科医にリファーするためには、精神と心の区別を弁える学問的知見が必要となる。この区別ができないと、精神科医が心理学の対象に侵入し、その科学性を見失うことになる。
事例を示そう。
何をやっても意欲がわかないという人が相談に来た場合、それが心の問題なのか、精神の問題なのか、区別することが大切である。意欲がわかない原因が過去の失敗体験に基づき、自尊心の低下にあるのなら、心の問題であり、カウンセラーのテレトリーであるが、ストレスによる鬱病に原因があるのなら精神科医のテレトリーである。前者の場合、投薬治療を受けても根本的に解決できない。後者の場合、カウンセリングを受けても治らない。
社会福祉士や精神保健福祉士などのソーシャルワーカーによるインテークにおいては、適切にスクリーニングすることがことが求められる。
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コロナ自殺の防止 社会福祉士、公認心理師が果たすべき役目(天命)
http://mercamun.exblog.jp/30388319/
2021-01-09T16:17:00+09:00
2021-01-09T19:08:40+09:00
2021-01-09T16:17:15+09:00
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反ニーチェ
もし心あるのなら、その倫理に従い、
以下のことをボランティアで実行されたい
あなた方は、見捨ててはならないのです。
アウトリーチしてほしい
再度の緊急事態宣言が出された。 コロナ自殺が増えて来た。
世界人類が抱えた今世紀最大の苦難である。
次のような話しがよく聞かれる。
夢と希望をもって、銀行等から借金をし、長年の苦労が報われ、
一人の料理人が念願だった自分の店をもった。
しかし、開店してまもなく、コロナ過が襲って来た。
必死に店を守り続けたが・・・。
赤字経営となり、閉店。
借金を抱えたまま、苦境に立たされる。
そして、夢も希望も断たれ、自らの無力を感じ、
借金と引き換えに、妻子を残し、自らこの世を去って行った。
残された子供は、こう叫ぶ。
帰って来てお父さん・・・。
もしこのような状況になり、SOSを発することなく、死んでいった人たちがいたとするのなら
それを救うのがあなた方の天命です。
今、コロナ禍で人生にいきづまっている人たちへ
是非とも、ツィッターで社会福祉士、公認心理師を検索し、
その人が心ある人だと思ったら、その人にDMで直接SOSを発して下さい。
相談すること、それはあなたが生きるための権利です。
きっと、心ある本物の社会福祉士や公認心理師なら、あなたを助けてくれるはずです。
あなたのSOSを受けとめる優しさと社会的資源につなぐ専門的能力をもっています。
最後に、もし死にたいと思ったら、その前に、ネットで検索し、パッヘルベルのカノンを聴いてほしい。
カノンは、あなたの存在を肯定します。
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新型コロナウイルス緊急事態宣言の自粛解除後に自殺増加となった原因について
http://mercamun.exblog.jp/30295448/
2020-11-15T23:57:00+09:00
2020-11-16T00:10:08+09:00
2020-11-15T23:57:13+09:00
merca
社会分析
この事実は、自粛という観点からいうと、下の仮説を実証したかたちになった。
「新型コロナウイルス感染拡大防止による自粛で、逆に自殺者は減少する。(デュルケームの自殺論からの考察)」
https://mercamun.exblog.jp/30073433/
緊急事態宣言中の自粛が解かれたことによって、人々には自粛という国民的目的による社会連帯もなくなってしまい、再度、孤立化に向かったためだと思われる。また、仕事や学校が再開し、嫌な対人関係の中で生き辛さを感じてしまう人たちもいたと思われる。
つまり、緊急事態宣言による自粛による社会連帯や欲望の規制によって抑止されていた自己本位的自殺やアノミー的自殺が、抑止要因がなくなり、増えだしたのである。また、学校や仕事が始まったために、いじめやパワハラなどの嫌な対人関係におかれ、宿命的自殺がおこりやすい状況になったものと思われる。
また、自粛による諸々の効果によっておさえられていた本年4月から6月の自殺者の数が、そのまま自粛解除後の数字にずれ込んで上乗せされたのではないかと推察される。
社会学的には、自粛による自殺抑止効果がなくなったことが、本年7月から自殺増加となった原因である。
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「正しさよりもやさしさを」ニーチェへのメッセージ
http://mercamun.exblog.jp/30077775/
2020-05-27T22:20:00+09:00
2020-05-27T22:31:49+09:00
2020-05-27T22:20:58+09:00
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反ニーチェ
「正しさよりもやさしさを」
これは、バッシング社会(排除型社会)への心理学的処方箋である。
多くの人は自分が正しいと思って他者を非難する。
しかし、愛のない正義(道徳)、愛のない権力、愛のない科学は、ニヒリズムに行きつくだろう。
例えば
人々は、正義という道徳的観点から犯罪者を評価し、社会から排除し、更生の機会を奪う。
しかし、それは正しくても、愛はなく、利己的である。
このように、正義に基づいた社会的排除が、かえって再犯を生み出し、被害者を出す。
これは社会学的真理である。
今、必要なのは、正しさよりもやさしさである。
ニーチェへのメッセージ
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新型コロナウイルス感染拡大防止による自粛で、逆に自殺者は減少する。(デュルケームの自殺論からの考察)
http://mercamun.exblog.jp/30073433/
2020-05-25T00:58:00+09:00
2020-05-30T08:50:44+09:00
2020-05-25T00:58:48+09:00
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社会分析
実は、社会学の伝統的立場からすると、新型コロナウイルスによる外出や経済活動の自粛によって、かえって自殺者は減少することになる。社会学の古典であるデュルケームの自殺論からは、自殺は減少すると予測されるのである。
デュルケームは、集団凝集性の高低と社会統制の強弱によって、自殺を四類型に分けた。すなわち、自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、宿命的自殺である。
自己本位的自殺とは、社会集団の凝集性が低くなり、対人関係が希薄化し、生きる意味を喪失し、自己否定に至る自殺である。つまり、孤独感や無意味感による自殺である。
集団本位的自殺とは、集団の凝集性が高く、集団の中に人々が埋没し、集団のために自分の命を犠牲にするというものである。例えば、お家を守るための侍の切腹や宗教的な殉死が該当する。
アノミー的自殺とは、社会秩序が崩れ、社会規範による社会統制が弱くなり、欲望を制限することができず、際限のない欲望に駆り立てられるものの、決して満たされることがなく、結局、自殺に至るというものである。
宿命的自殺とは、社会統制が強すぎて、絶望を感じて自己否定する自殺である。例えば、受験や就職に失敗して、社会の勝ち組になれず、この社会では自分の未来はないと思い、自殺する場合がそうである。また、いじめ集団の集団規範から起こるいじめ自殺もこの類型に入る。
このように、正しくデュルケームは、自殺は個人現象ではなく、社会現象であるという前提に立ち、自殺を分析したのである。
ここから本題であるが、デュルケームは、戦争が起こると、自殺率が下がることを発見した。
その理由とは何か?
それは、戦時には、人々が共通の目的でもって連帯し、孤独感や無意味感から解放され、自己本位的自殺が起こりにくくなり、さらに社会の規制も強くなるので、欲望が制限され、アノミー的自殺も起こりにくくなるからである。近代社会の自殺の多くは、自己本位的自殺とアノミー的自殺であるわけであり、戦時は、これらの社会的原因が除去されることになる。
さて、してみれば、コロナウイルス感染拡大予防のための緊急事態宣言による自粛と規制も、戦時と同じで、社会が連帯し、大きく欲望が規制されている社会状態になっている。
また、一人一人の行動が全体に影響を与え、新規感染者が減ったことも明らかである。この社会全体の集合的行動によって、人々は、私は一人ではない、みんなとつながっている、一人一人の行動が社会全体のためになると感じたのである。
確かに物理的な社会的距離をとり、対面的接触は減ったものの、家にこもったことで孤独になるのではなく、かえって社会的連帯や家族の連帯は高まっているのである。
逆に、いつもは孤独な人も、社会から存在価値が付与され、自己有用感を得たのである。ひきこもりでさえもである。いやむしろ、家にこもることができる能力を持つひきこもりや仕事をしないニートの存在価値が評価されたのである。逆説的であるが、対人接触しない孤独な人ほど、評価され、社会的価値を付与され、社会的連帯の中に包摂されるわけである。
さらに、例え失業や破産をしても、その不幸を多数の同じ境遇の人と共有することができるし、周囲も理解を示し、味方になってくれ、乗り越えられるエネルギーをもらえるので、自己否定の自殺に至らない。
テレワークや休校によって、人々は、集団本位的自殺である過重労働による自殺、宿命的自殺であるパワハラ自殺やいじめ自殺からも解放されたのである。テレワークで労働時間が減ってメンタルヘルスが保持され、パワハラも減るし、いじめられっ子も学校に行かずにすむので、いじめられなくなる。
今、コロナウイルス感染拡大予防のための緊急事態宣言による自粛や規制によって、デュルケームのいう全ての類型の自殺が起こりにくい状態になっているのである。
それを裏付けるように、実際に、去年に比べて、緊急事態宣言が始まった今年4月の自殺は減少している。
社会学の古典的な知見であるデュルケームの自殺論による仮説は、今でも有効なのである。
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続世界論
http://mercamun.exblog.jp/30003580/
2020-04-12T20:42:00+09:00
2020-04-12T20:52:04+09:00
2020-04-12T20:42:54+09:00
merca
反ニーチェ
しかし、
世界には、意味や目的はない
世界は、意味や目的を与えられた途端に閉じてしまい
世界でなくなるからである
世界は、決して誰も支配できない
世界は、大いなる自由である
この大いなる自由の中で、我々は生きている
存在の意味や目的は、自己でもなく、他者でもなく、
その両方でもなく、またその両方を離れてはあり得ない
一切の存在と一切の存在の関係性たる世界から、その都度、
個々の存在の多様な意味や目的が生まれてくる
ただそれだけであるが、それ故に、我々は自由なのである
(ニーチェへのメッセージ)
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社会学者なら、トイレットペーパー不足デマによるパニックを解決する社会的処方箋を考案すべし!!
http://mercamun.exblog.jp/29949220/
2020-03-06T01:16:00+09:00
2020-03-06T20:19:44+09:00
2020-03-06T01:16:35+09:00
merca
社会分析
まず、予言の自己成就とは、嘘=デマが本当になるという社会現象である。例えば、銀行が倒産するという噂を聞いて、多数の顧客がその噂を信じてお金を引き降ろすと、銀行に資金がなくなり、本当に倒産してしまうということがある。また、ある商品が不足するというデマが流れると、多数の人々がそのデマを信じてその商品を買占め、本当にその商品が品薄になって不足してしまう。
確かに、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックは、大勢の人々がトイレットペーパーを買占め、一時的に店頭で品薄のような状態になっているように思えるわけであり、予言の自己成就として分析できるのではないかと思ってしまう。
ところが、今回のトイレットペーパーデマの複雑なところは、人々はコロナウイルスとは関係なく在庫がありデマだとわかりつつも、買占めている点である。
この現象を分析するに、デマであるトイレットペーパー不足を信じて多くの人々が買占めるという予期(予言の自己成就が起るという予期)、さらにはトイレットペーパー不足を信じて多くの人々が買占めるという予期に基づいてデマとわかりつつも人々が買占めるという予期(予言の自己成就が起るという予期の予期)がはたらき、買占めているのである。
つまり、予言の自己成就が起るという予期に加えて、予言の自己成就が起るという予期を多数の人が信じて買占めるという予期による自己言及的な二重のパニック現象である。言い換えれば、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックは、人々が予言の自己成就(デマが本当になる社会現象)という社会学理論が正しいと信じること、またその社会学理論を正しいと信じる人が多数いると信じることで、起きていると考えられる。
従って、単なる予言の自己成就ではなく、予言の自己成就の予期の予期なのである。石油ショックでデマが本当になるという社会現象=予言の自己成就を学んだ国民は、予言の自己成就の観点から今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックを観察し、あるいはその観察を観察し、買占めパニックに至っているのである。
厳密に言うと、今回のパニックは、予言の自己成就の予期(の予期)を前提とした社会的選択による人々の行動結果であり、適用される社会学理論としては、マートンの予言の自己成就ではなく、社会的選択理論あるいは合理的選択理論による分析が正解なのである。ここを誤解して単に予言の自己成就だと分析している学者は、全く本質を理解していないことになる。
また、人々の合理的選択が集合化することで、全体として不合理な社会的状況をつくりだしており、合理性が不合理性を生み出す社会学的パラドックスも観察できるのである。
普通に合理的に考えると人々は在庫があって不足はデマだとわかった時点で買占めはしないはずであるが、人々は石油ショックでデマが本当になるという社会現象=予言の自己成就を学んだために、このような買占めのパニックに陥っているのである。
今回のトイレットペーパーデマの社会学的原因は、予言の自己成就という社会学理論を人々が暗黙のうちに共有していることにある。正しく社会学理論が社会をつくるのである。
そこで、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックを解決する社会学的処方箋として考えられるのは、人々の予期の構造(厳密には予期の予期の構造)を変えることである。
当たり前であるが、基本は在庫があり買占めをする人がいなくなったという情報を流すことである。特に買占めをやめた多数の人々の映像を流すことである。みんな買占めをしていないのなら、買占め行動を促す予期の構造は破綻するのである。
さらに、例えば、トイレットペーパーを買い損ねて困っている老人の姿を映し、「今、すぐに必要な人が困っています。買占めをしているあなたは、デマを流した人と同罪です。」という内容のCMを流し、道徳的に負い目を掻き立て、余分な買占めを抑止する方法もある。
全ての社会学者に呼びかけたい。
今こそ自然科学や心理学ではできない社会学独自の実践のチャンスである。
社会学理論を使い、デマによるパニックを解決する社会学的処方箋を考案するべし!!
今、社会学者の社会的存在意義が問われているのである。
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公認心理師の欠格事由 精神疾患者の資格からの社会的排除
http://mercamun.exblog.jp/29856710/
2019-12-31T15:44:00+09:00
2019-12-31T17:05:08+09:00
2019-12-31T15:44:04+09:00
merca
社会分析
これによって、占師まがいの非科学的なカウンセラーは、カウンセリング市場から排除されることになったという意見も聞く。
国家のお墨付き=科学的と考えている現代日本社会の大衆の短絡的な思考形態にはぴったりな資格である。
なので、多くのカウンセラー志望の老若男女がこぞって受験したのだ!!
ちなみに、第一回公認心理師試験において、社会構成主義の問題が出ていたが、専門的な社会学の立場からしたら全く社会構成主義の本質を理解しておらず、非社会科学的だと思った。だが、心理学だから社会科学に音痴なのは仕方ないから、それはいいとしよう。
さて、今日、取り上げるのは、令和元年12月14日から施行された公認心理師の欠格事由にかかる一部改正である。
http://shinri-kenshu.jp/topics/20191225_1606.html
これまでの成年被後見人又は被保佐人が欠格事由だったところ、下のように改正された。
●公認心理師法
第1号 心身の故障により公認心理師の業務を適正に行うことができない者として文部科学省令・厚生労働省令で定めるもの
●文部科学省令・厚生労働省令
第1条 公認心理師法第3条第1号の文部科学省令・厚生労働省令で定める者は、精神の機能の障害により公認心理師の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者とする。
論点は、
「精神の機能の障害により公認心理師の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない」という定義が何をさすかである。
そして、問題は、どんな精神障害・精神疾患が含まれるかである。
加齢による認知症のことだけをさすのなら、わからなくもないが、抑うつ障害、双極性障害、統合失調症、不安障害、発達障害、依存症などの人たちも、公認心理師になれないことになるのではないかと思ってしまうわけである。
そうなると、やっかいなことになる。
潜在的に欠格事由をもつ公認心理師やそれを目指す人たちは多いのではないかと思われるからである。自身の心の病やコミュニケーション障害を治癒・克服せんがために、心理の道を目指し、カウンセラーになる人たちは多くいる。そういう人たちが、大学院に行き、心理学や精神医学という人間科学を学び、精神保健福祉士、臨床心理士、公認心理師などになっているわけである。
なので、心療内科や精神科にかかったら、その通院歴から取得できなかったり、取り消されたりしないかと不安に怯えてしまうわけである。いじめを受けて精神疾患となり、長いひきこもり生活から抜け出て、大学と大学院に進学し、いざ公認心理師を取得しようと志したら、通院中で投薬中だったら、アウトとなるわけである。
ましてや精神障害者福祉手帳があったら、もうおしまいである。
こんな不安をもつ敏感な公認心理師を目指すカウンセリングおたくは多くいるはずである。
以上は、私が危惧する最悪のシナリオであり、未来は異なるかもしれないが、もしこうなっていくようなら、人権擁護のエージェントである社会福祉士たちは、この改正に対して精神障害者を職業社会からはじき出す社会的排除だと猛烈に抗議するだろう。
そのような心の病をもつカウンセラー志望の人たちを救済する術はないのか?
ひとつあるとしたら、カウンセラーの民間資格の多様化である。
例えば、そのなかでも、臨床心理士やシニア産業カウンセラーなどは非常にレベルが高い。
また、心屋仁之助の学派もあり、一部の大衆から支持を得ている。
幸いなことに、公認心理師は業務独占の資格ではなく、名称独占の資格だから、誰でも心理カウンセラーになれるわけであり、心理学ではなく、極端な話し、東洋思想に基づいたカウンセリングもOKなのである。
実際、森田療法や内観療法は、非科学的である東洋思想に基づいている。漢方薬や整体師と同じであり、人口に膾炙している。
私は、思想多様性を肯定する相対主義者なので、色々な心理学の流派と多様なカウンセラー資格が存在することが同業界の発展につながると思っている。心理カウンセラー業界にも、適者生存の進化論的観点と経済学でいう市場原理の導入が必要である。国家権威主義かつ科学主義たる公認心理師による独占市場は、特定の科学思想の絶対化を生みだし、人々の思考の可能性を制限することになってしまうだろう。
心理国家資格から排除された多くのカウンセラー志望者たちを救済することが急務なのである。
そのためには、思想多様性に基づいたカウンセリング資格の多様化が必要である。
武道に多くの流派があるのと同じあり、多様な選択肢があることで、一つの業界や分野は発展していくのである。
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「健康で文化的な最低限度の生活」論評 福祉素人公務員の大活躍物語である。
http://mercamun.exblog.jp/29298823/
2019-03-08T23:27:00+09:00
2019-03-12T10:24:50+09:00
2019-03-08T23:27:40+09:00
merca
社会分析
ホームレス支援NPOの実践家や社会福祉士の資格を取得した福祉エリートたちからみたら、さぞかし腹立たしいことだと思われる。無資格で実務体験のないド素人の真面目な可愛い女の子が、強制的に職務としてホームレスやアルコール依存症のオヤジなどの相手をさせられているのである。
児童福祉司が福祉的実務経験のないド素人の行政職員にやらせていることが、虐待を適切処理できずに放置する要因であると批判されている昨今に、福祉のド素人の新人女子公務員である主人公の活躍を描いているのである。「健康で文化的な最低限度の生活」という作品は、福祉専門家たちに挑戦状を叩き付けているような気がしてならない。
同作においては、社会福祉士の資格を気取って登場していくる人物は描かれず、公務員組織の中で奮闘する市役所職員(労働者)の姿が描かれている。そして、見る限り、上司の指導や先輩職員の実務経験から学ぶという経緯で、ケースワーカーとしてのキャリアを積んでいき、鍛えられていく。どこかスポーツ根性物と似ている。福祉課の新人教育の仕方は、OJTというよりも、社会学的には、徒弟制度と全く同じである。社会福祉学という科学的な体系を先に取得し、実務に入るのではなく、いきなり上司や先輩から教わりながら実務をこなしていくのである。前近代的手法である。
しかし、どうだろうか? 福祉を専門としない行政一般職の公務員のほうが、かえってよいではないかと思ってしまうのは、私だけだろうか?
偏った福祉専門職のイデオロギーに毒されていないので、一般市民にとっては行政官としての偏りのない公平な感覚のほうが安心できるのではないだろうか?
また、何よりも、福祉的専門知識という先入観に毒されていない主人公の若手女性職員の純粋な人間としての素直な反応に心を打たれはしないだろうか?
誰かのために一生懸命になる姿や人間としての良心の葛藤が描かれており、読者の共感と賛同を得る。困っている人を見捨てないという気持ちに感銘するのである。
社会福祉士を気取る人たちや貧困NPO活動従事者のように福祉に自身のアイデンティティを求める人たちよりも、明らかに安心できる存在なのである。
他者論倫理学的には、福祉的知識によって救われたという被援助者はおらず、多くの被援助者は、SOSを受けとめてくれたその人によって救われたというのである。専門的知識が救うのではなく、人が人を救うのである。「健康で文化的な最低限度の生活」においては、福祉専門家としての役割ではなく、人が人を救うという臨床哲学的真理を感じ取ることができる。
同じことは、今、話題になっているコンビニ店による子供食堂にも言える。コンビニ店による子供食堂を批判する福祉エリートたちがいるが、福祉の素人であるコンビニ店員は、変に福祉をかじっていないので、かえって人間としての純粋な心で子供にかかわることができると期待している。
これは、福祉専攻でない福祉課の行政官が生活困窮者とかかわるのと全く同じ構図である。多くの福祉エリートやNPOエリートたちは、福祉の素人は困っている人を助けられないという認識が自らのイデオロギーにしかすぎないことに気づいてない。社会学的には、「福祉の素人は困っている人を助けられない」という命題は、実証されておらず、専門分化した分業システム社会における専門家集団のイデオロギーにしかすぎないのである。
ともあれ、福祉の専門性にアイデンティティを求める人たちは、共有された権威的専門的知識にすがろうとし、人が人を助けるというもっともシンプルな哲学的真理を見失ってしまい、自分たちを脅かす活動を批判攻撃し、対人援助活動の独占権を得ようとするのである。
しかし、皮肉なことに、一般市民は、魂の汚れた福祉の専門家ではなく、素朴な若手行政官の純粋性に対人援助の本来の精神=他者愛を見て、信頼するのである。対人援助を行う権利が全ての人に開かれる時に、対人援助はその世界性を獲得するのである。
ちなみに、多くの人事担当者は、一般行政職の公務員のほうが、福祉職や心理職の公務員よりも、公平性や社交性があり、常識的でコミュニケーション能力が高く、職場での対人摩擦は少ないと感じているようである。これは、端的に、もともと対人関係の苦手意識をもつ内向的な若者が、心理学や福祉学を大学で学び、福祉や心理の世界を目指す傾向にあるからである。
「健康で文化的な最低限度の生活」においては、福祉の専門的知識をもつケースワーカーではなく、誰かのために一生懸命になれる純粋な心を持つ一人の女性若手行政官の姿が描かれており、一般市民はその姿に感動するのである。そんな一般職の若手行政官が全国の福祉課におり、福祉の最前線において、我がままな酔っぱらいやホームレスの暴言に耐えながら対応をしていることを知って欲しい。自己の自尊心のために援助する福祉エリートやくたびれたずるいベテランケースワーカーよりも、まともな意識をもっている子たちであり、その倫理的卓越性は国民の賞賛に値するのである。
「健康で文化的な最低限度の生活」では、誰が福祉を支えているのか、真実を見直すことを提起しているのである。
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民主主義が平和的に機能する前提 自分の正義が他者を苦しめていることがわかる感性
http://mercamun.exblog.jp/28143254/
2018-02-17T10:29:00+09:00
2018-02-18T10:10:15+09:00
2018-02-17T10:29:29+09:00
merca
社会分析
それは、社会学者宮台真司氏のいう成熟社会=ポストモダン社会の意識をもつ民衆だろうか。ポストモダン社会においては、底が抜けていると自覚しつつも、底があるかのように振る舞うことが不可欠であるという意識が人々に共有されてくるという。このような意識を再帰性という。宮台氏はこれを「普遍主義の不可能性と不可避性」と表現している。つまり、全ての前提には絶対的・究極的な根拠はないが、それを意識化した上で、あえて物事を選択し、善悪と真理の物語を構築することが必要であるという意識である。このような相対主義者こそが成熟した民衆なのだろうか?
故西部氏は、単純な相対主義を強烈に批判して来た。だが、宮台氏のいうポストモダン社会の相対主義は単純な相対主義ではない。自らも相対化する相対主義である。それは、民主主義が絶対的でないと知っている人たちである。民主主義が独裁者による全体主義社会を生み出した歴史的事実を自覚している民衆である。民衆が独裁者の専制を選択したらどうなるのか? 民主主義は自らによって否定の道をたどる。成熟した民衆とは、このようなパラドクスを自覚し、民主主義を絶対化しない社会学的啓蒙を受けた民衆である。
しかし、社会学的啓蒙だけでは、民主主義を可能にする成熟した民衆とはなり得ない。
決定的に、ある一つの人間的感性が必要である。それは、他者性の尊重(他者愛)である。簡単にいうと、自分(たち)の正義が他者を苦しめている可能性があることがわかる感性である。
このような感性は、社会学的啓蒙だけでは、不十分である。それは、コミュニケーションの外からもたらされる哲学的真理だからである。本当に、民主主義を担える民衆とは、どんな正しさであっても、それが本当に正しいかどうかとは別次元の問題として、正義が一つの暴力であることを知っている人たちである。そのような感性の持ち主こそが民主主義を担う成熟した民衆である。
この感性がなければ、決して民主主義は平和的に機能しないだろう。平和的に機能しない民主主義は、容易に独裁者を生み出し、自己破壊の道をたどる。自分が唱えて来た正義や道徳がどれだけ人を傷つけてきたかわかっていない人物が民主主義や平和を語る権利はない。今、そのような人物が増えていないだろうか? 社会学的には、正義こそが、いじめ、差別、迫害、排除、ハラスメントの真なる犯人である。(道徳的排除)
自分たちの正義が人を苦しめていることを悟り、それを恥じよう。
「愛のない正義」を唱える為政者や政治家たちが、戦争を起こさないように。
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アドラー心理学は、実証科学ではなく、思想。
http://mercamun.exblog.jp/26841030/
2017-05-07T23:52:00+09:00
2017-05-08T21:22:03+09:00
2017-05-07T23:52:25+09:00
merca
理論
しかし、まずは、アドラー心理学は、科学ではなく、思想であることを理解する必要がある。残念ながら、アドラー心理学には、実証科学的根拠はないのである。因果律ではなく、目的論を採用していることからも、それはわかる。科学は、統計学的手法により、因果図式で対象を捉えるからである。
アドラーは、無意識が人の精神や行動を規定するという因果律を唱える精神分析学を否定する。また、過去のトラウマが精神状態に影響を与えるという因果律を唱えるトラウマ学(ハーマン)を否定する。人間は、因果律で動くのではなく、主体的に体験を意味付けることで、与えられたものを利用するという立場を取る。
従って、目的によって選択された意味付け次第で精神や行動はいかようにもなると考える。さらに、個人は、性格分類等で分析的にバラバラにして捉えることが不可能であると考え、個人心理学という立場をとる。不可分の個別性は、実証科学の外である。科学は、反復する一般性のみを対象とし、唯一無二の個別性は対象にできないからである。主観によって、世界や体験を解釈するというのなら、心理構成主義の一種とも言えるかもしれない。
アドラーは、幸福になるための三つの原理を提示している。自己受容、他者信頼、他者貢献の三つである。
自己受容とは、ありのままの自分を受け入れること。
他者信頼とは、他者は敵ではなく、味方=仲間であるという感覚をもつこと。
他者貢献とは、自分の価値は、他者の役に立つと思うことで得られること。
これは、ロジャースがあみだした無条件の肯定的配慮、共感的理解、自己一致というカウンセリングの三原則に似ているが、アドラーの三原則のほうが範囲が広い。つまり、アドラーは、カウンセリング関係のみならず、人間関係一般を射程に入れているからである。
アドラーは、この三原則を実践することで、人間は共同体感覚を得て幸福になれると考えている。簡単に言えば、いかなる他者とも仲良くし、善行を為すことで、他者とつながり合って、幸福になるという考え方である。これは、エゴイズムを否定する究極の性善説であり、科学的根拠はない。これを実践して幸福になった人間を調査し、統計的な因果関係が立証されないかぎり、科学とは言えない。思想のレベルにしかすぎない。
しかし、私は科学的手法のみが正しいという固定観念からは自由なので、アドラーの思想が真理であるという可能性は否定しない。というよりか、近代社会では、アドラーの思想に反対する価値観をもっている人は少ないと思われる。アドラーの思想を所有することで、近代社会が平和になり争いがなくなるのに役立つのである。つまり、世界平和に役立つ思想である。平和を望む社会では、アドラーの思想は、(社会的)真理となるだろう。つまり、道徳的真理として機能するわけである。
特に、アドラーのいう共同体感覚というのは、全ての他者との肯定的な関係性(仲間意識)を感じる感覚であり、個別の国家共同体を越えて、人類社会を含む宇宙全体を意味している。従って、個別の国家共同体という枠ではなく、人類社会という枠がより上位の共同体であり、国家間の争いや対立は相対化されることになる。人類はみんな仲間であり、戦争は否定されることになる。さらに重要なことは、世界の中心に自分をおくべからずと、アドラーは考えていることである。世界の全ての他者と対等に関係しているのが真実だと主張し、自己を中心におく思考では真に幸福になれないと考えているのである。これは、脱エゴイズムである。
アドラー心理学は、平和な世界社会を可能にする思想なのである。しかし、アドラー心理学と同じような立場をとる思想や哲学は世の中に多くある。人々に注目される目新しさはどこにあるのかと思ってしまう。
思想的には目新しくないが、人々に流行るのは、心理学という科学の装いをしていること、加えて全ての問題は人間関係にあると考える点だと思われる。つまり、心理学が科学だと思われており、科学のみが真理だと思っている現代人には受け入れやすいこと、さらに人間関係で悩む人が多い現代社会では、全ての問題は人間関係に帰着するというアドラーの価値観は適合的であるからである。
いずれにしろ、アドラー心理学という思想が後期近代社会にどのように機能していくか見極めて行くことが、社会学の役目である。
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市民社会(普遍性)と国民国家(特殊性)の止揚としての近代社会(全体社会)
http://mercamun.exblog.jp/26324559/
2016-10-29T09:57:00+09:00
2016-10-29T10:28:20+09:00
2016-10-29T09:56:41+09:00
merca
社会分析
ところが、市民社会も、一つの区別に準拠していると見なすことは可能である。(普遍性=市民社会/特殊性=国民社会)という区別によって創発したシステムとして観察できる可能性がある。国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察する立場は、システムとして両者を捉えることも可能である。市民社会の環境は、国家社会であり、国家社会の環境は、市民社会であるという区別が立ち現れると、システムとして存在が可能となる。
そういう意味では、近代社会は、普遍性たる市民社会システムと特殊性たる国民国家システムという二つのシステムを止揚した何者かである。その何者かが真なる全体社会だとしたら、ルーマンのいう世界社会の解釈と合致する。ありとあらゆるコミュニケーションの包括的総体が社会システムだとしたら、市民社会と国家社会を包括した近代社会そのものが、全体社会となる。実は、全体社会は、単一でも複数でもなく、そのどちらを離れても実在しないシステムとして観察するほかないのである。弁証法的観察のみが全体社会を捉えることができるのである。 対立しているものが実は相互に前提とし合っているという弁証法的思考で、システム論を再解釈すると、以上のようになるのである。
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時間的実体としての意味システム(意識と社会)
http://mercamun.exblog.jp/26241942/
2016-10-02T07:23:00+09:00
2016-10-02T07:31:50+09:00
2016-10-02T07:22:53+09:00
merca
理論
生物体システムの要素である細胞は、空間的に存在する。すでに過去に死滅した細胞は、現在のシステムの要素足り得ない。システムの内外環境も、空間的に存在する。
しかし、意味システム(意識システムや社会システム)は、その要素である思考やコミュニケーションが、空間的に存在するのではなく、現在・過去という時間の配列の中に存在する。意識システムという意味システムにおいては、その都度の思考は、過去の思考(記憶)との関係で規定される。意識システムの要素は、現在意識化中の思念(要素)と過去に思考した複数の思念(要素)が連動し、要素間の関係が形成され、意識システムを創発させている。過去の思いと現在の思いが意識システムの要素となるのである。あるゆる意識が過去の意識(記憶)との関係で規定されることは明らかである。
一方、社会システムの要素であるコミュニケーションは、現在生じているコミュニケーションと、直前や過去のコミュニケーションを合わせた集合である。複数の要素が、時間座標の中に収まっているのである。現在は消滅したコミュニケーションもシステムの構成要素として勘定のうちに入っているのである。もし現在生起しているコミュニケーションのみがシステムの要素なら、要素が単数となり、システムは成り立たない。複数の要素があって、かつ、それらの関係性があり、初めてシステムは成り立つ。
コミュニケーションは、空間ではなく、時間に沿ってコミュケーションA→コミュニケーションB→コミュケーションC→コミュニケーションD→コミュニケーションEという具合に流れていく。この場合、A、B、C、D、Eと五つの時間を異にする要素からなる社会システムが生成することになる。Eの時点が現在だとすると、後の四つの要素は過去になるが、これらの過去のコミュニケーションがなければ、コミュニケーションEもシステムも創発されない。これらの5つのコミュニケーションが同一の区別コードでなされていると観察されて初めてシステムは創発される。
そして、要素には順番、つまり序列的接続性がある。前のコミュニケーションそれ自体を観察することで、次のコミュニケーションが生ずる。曲(メロディ)に例えると、わかりやすい。音符という要素どうしの序列的つながりが曲を構成するが、過去の音符がないと、現在鳴っている音符が意味ある曲の要素として認識できなくなる。コードを外すと、不協和音となり、曲が成り立たない。曲は時間の中で生成する。同じく、意味システムも時間の中で生成する。曲も意味システムの一つである。
社会システムは、時間システムである限り、三次元体としての物理的実体をもたない。社会は生物体のように空間に存在する物理的実体ではない。無論、意識システムとしての精神も、時間システムであり、空間に存在する物理的実体ではない。意味システムとしての社会システムも意識システムも、物理的実体ではないが、時間的実体をもち、存在するのである。また、意味システムにおいては、システムと環境の区別も、空間的になされない。意味境界によって区別される。
このような空間に物理的実体をもたないにもかかわらず、確かに時間的に実在する意味システムなるものを発見したルーマンの功績は大きい。
これは心身問題の解決策ともなる。すなわち、古来より哲学を悩まして来た精神と肉体の二元論問題の解決の糸口となる。生物体たる身体は、空間的システムとしての物理的実体であるが、意識=精神は時間的システムであり、時間的実体となるのである。心は時間に根拠をもち、身体は空間に根拠をもち、時空間の統合点として人間生命を捉えることができるのである。
このように、存在の根拠について(空間的実体/時間的実体)という区別に基づき、存在を分類することが可能なのである。意識(精神)や社会は、時間的実体にカテゴライズされるのである。そして、時間的存在は、空間的存在と同等の実在性を有することを忘れてはならない。ここでは、存在(=システム)には、二種類があり、自らの要素が空間座標にある物質や生物、自らの要素が時間座標にある精神(意識)や社会に分類されることを押さえておこう。
また、これまで、社会とその要素を空間的にイメージすることで、社会に対する認識に様々な誤謬が生じてきた。社会の空間的実体視である。例えば、国土の境界と社会の境界の混同することや、人間が社会の要素であるという考え方は、空間的実体のみが実存するという先入観に基づいている。時間的実体が確かに存在することを理解すれば、その先入観にとらわれなくてもすむのである。
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