2008年 02月 28日 ( 2 )

ニセ科学批判の恣意的運用の危険性

 ラベリング論で問題にされるのは、レッテルを貼る側に基準がなく、あるいは仮に基準があっても曖昧で解釈次第であり、ラベリングが恣意的に運用されることである。社会的強者が弱者に対して恣意的にレッテルを貼るという危険性を問題視した社会学理論である。裁判官の所属階層と同じ社会階層に属する少年は、そうでない少年よりも、同じ非行を犯しても、少年審判で軽い処分しか受けないなど、セレクティブサンクションとして問題化されている。たとえ法律という基準があっても実は解釈次第であり、このように恣意的な運用がなされることがある。

 社会学的に見て、ニセ科学批判は、レッテルを貼る側の基準が実に曖昧であり、恣意的に運用されるおそれが非常に大きい。まず、非科学と科学を区別する基準もしっかりと人々に共有されているわけでない。科学哲学論争で科学とは何かという究極的結論は出ていない。さらに、科学を装うというのは、どのようなことを指すのか、それ自体共有されておらず、完全に恣意的であり、ニセ科学批判者の主観に委ねられている。また、法的に言うと、「科学」という名称そのものの特許申請は存在しえず、科学という名称の占有権は誰にもない。法システムから観察すると、誰が科学と名乗ろうが違法性はない。その意味で、ニセ科学批判者は、「科学」という名称の使用権利が自己のものだけと勘違いをしており、傲慢なのである。

 おそらく、人々が科学を共有しているというのは嘘であり、科学という名称と科学は正しいという観念だけが共有されているレベルである。言い換えれば解釈次第の世界であり、ニセ科学批判者の恣意性・主観性によってレッテルが貼られる危険性が高い。   
 逆に言うと、人々の間に共通の科学の基準とニセ科学の定義が合意の上で共有されているという前提においてのみ、社会的にニセ科学批判は正当化される。

 現状では、ニセ科学批判は、ニセ科学批判者の恣意性・主観性に委ねられており、解釈次第である。いや本当に恣意性・主観性をどのように克服するのか知りたいものである。恣意性・主観性のチェックがないまま、レッテルを貼られると、魔女狩りと同じになってしまう。これを何とか防ぎ、客観性を確保できないものかと思う次第である。共有されていない曖昧な基準や定義に基づく現状のニセ科学批判の社会的正当性は、どこに根拠があるのか知りたい。このままでは、ニセ科学批判の悪用も十分考えられるのである。


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by merca | 2008-02-28 23:07 | ニセ科学批判批判

ダメなニセ科学批判=科学(万能)主義

 近代化とは、機能分化の過程であると、社会学者ルーマンは考えた。
 つまり、近代後期では、社会システムは、経済システム、政治システム、法システム、宗教システム、学システムなど各種システムに分化し、相互に従属関係がなく、対等な関係で自律性を保つと考えた。それぞれのシステムには、メタコードがあり、経済システムは(支払う/支払わない)、政治システムは(与党/野党)、法システムは(合法/違法)、宗教システムは(内在/超越)、学システムは(真/偽)というメタコードで観察されて創発されると考える。ちなみに、中世西洋社会においては、宗教が学問を含めて全ての社会領域を統制するなど、システム間に従属関係があった。ところが、完全な成熟社会=後期近代社会では、全てのシステムは対等であり、互いに閉じており、独自のメタコードで観察されるようになるわけである。これが機能分化という社会進化である。人類学でいう人間が誕生して以来、人間は脳ではなく、社会を進化させてきたわけである。(唯脳論の盲点)

 ところで、科学という学システムが他の全てのシステムを支配し、自己のコントロール下におこうとするのが、所謂、科学(万能)主義と言えよう。少しでも科学的知識に反する、政治、法律、教育などがあったら、それらは全て認めず否定し、科学的知識と合致するものだけが肯定されるのである。ちょうど、中世西洋社会で、キリスト教に反する政治・法律・学問が批判にあったのと似ている。このような在り方は、当然のごとく、ルーマンの社会観に反する。経済、政治、法、宗教、教育はそれぞれ独自のメタコードに基づく価値を有しており、科学という学システムのメタコードである(真/偽)という価値に一元的に還元されるものではない。それぞれには、他に還元されないそれぞれの自律的な価値や世界がある。科学の立場から宗教やスピリチュアルを否定するのは、明らかにおかしな行為なのである。科学が宗教やスピリチュアルを批判できるのは、宗教やスピリチュアルが自身のメタコードを使用せずに科学のメタコード(真/偽)に基づいて自らを主張し、科学の領域を侵犯した場合のみである。
  
 ニセ科学批判は、科学と名乗るものを批判するわけであり、科学と名乗らないものまでも批判する権利はない。ニセ科学批判は、科学が分限を越えて他の社会的領域を侵略することを防止する科学自身による自己足枷である。ダメなニセ科学批判は、科学を名乗らない対象までも、自己の恣意的判断で批判対象とするのである。科学のように見えるものまで批判の対象とすると、完全に批判者の恣意性と主観性に委ねられ、魔女狩りと同じになるのである。魔女狩りにおいては、魔女のように見える者が魔女狩りの対象とされたわけである。同じ歴史的過ちを繰返してはならない。そのためには、ニセ科学批判は、批判対象を科学と名乗るものだけに禁欲すべきである。そのことが科学が他の社会領域の価値を破壊することを防ぎ、他の社会的領域と共存する処方箋となるのである。逆に言うと、自己の分限を越えて暴走するニセ科学批判は、科学万能主義の一種なのである。
 宗教やスピリチュアルも同時に批判しているニセ科学批判者を見つけたら、科学万能主義者であり、危険なのである。反対に、批判対象を科学と名乗るものだけに限定した適切なニセ科学批判は、科学万能主義を防ぐ社会的装置になるうるのである。

 
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by merca | 2008-02-28 22:06 | ニセ科学批判批判