2008年 03月 09日 ( 4 )

「信じぬ者は救われる」書評3

 「信じぬ者は救われる」書評3

 ニセ科学とスピリチュアルが本質的につながっているという議論もなされており、科学者たる菊池教授もスピリチュアル批判をしている。事実と異なる嘘を言って騙しているという点において両者は共通しており、どちらも信じる側の心理構造が同一だというのである。一方で、宗教は認めるという主張がなされているのが興味深い。さらに、菊池教授が(マーケティング/マーケティングでない)という区別に準拠し、スピリチュアル批判をしている。

  ・なぜ江原氏のスピリチュアリズムのみ批判するのか?
 菊池教授は、現代の宗教の現状をあまり把握していないと言える。宗教社会学を少しでもかじっていればわかると思うが、前世・輪廻転生とかは、あらゆる巨大な新興宗教の教義に出てくる。さらに、信仰で病気が治るという教義を唱えている非科学的な新興宗教はいくらでもある。事実と異なる嘘であるという観点からスピリチュアリズムを批判するのなら、同時に他の新興宗教も全て批判しないといけないことになる。なぜ江原氏のスピリチュアリズムのみが批判にさらされないといけないのか理解できない。
 菊池教授の観点からは、前世・輪廻転生を肯定し、病気が信仰で治癒するという非科学的な新興宗教は、全て嘘によって信者から金をとっていることになるので、批判の対象としないといけなくなる。もし菊池教授の主張に論理的一貫性をもたせようとすると、スピリチュアリズムだけではなく、社会的勢力をもった大きな新興宗教に抗議することになるだろう。ちなみに、仏典には前世・輪廻転生がいくらでも出てくるので、仏教そのものを否定する必要が出てくる。
 ところで、宗教のような組織的な布教活動と違って、江原のスピリチュアリズムは、信じる者の自由選択にまかされており、強制がないのが特徴である。教条主義的一神教のように、自分達の教義が普遍的真理であり、万民が信じるべきであるという大きな物語を人に押し付けているわけではない。
 菊池教授も、一応、宗教には生きる意味を付与する機能があり、科学にはない存在価値があると考えているようである。しかし、それは宗教だけの機能ではなく、スピリチュアリズムにもある。むしろ宗教が十分に機能しなくなったので、スピリチュアリズムがその機能を担うようになったとも言える。社会の進化とともに、宗教が多元的価値(多神教)を認めるスピリチュアリズムに収斂していく可能性もある。

  ・受容形態の相違を無視している。
 第2点であるが、ニセ科学を信じる者とスピリチュアリズムを信じる者の心理構造が同一であるという仮説を検討したい。この仮説は間違いであると思う。やはり人々にとっては科学は手段にしかすきず、もしニセだと分かっても、損失が生じるだけであり、自己存在の否定や生きる意味の喪失にはつながらないだろう。科学を信じる心理構造は、社会的役割=専門家への信頼と同じである。例えば、医者に薬をもらうと、風邪は治るだろうという信頼と同一である。その本質は、専門性への信頼である。ニセ科学を信じる場合も、科学という専門性を信頼しているわけであり、心理構造的には、科学への信頼と同じである。
 一方、スピリチュアリズムを信じる者は、自己の存在理由と可能性を与えてくれるスピリチュアリストによる物語を受容しているわけである。正確に言うと、物語を規範化するわけである。社会構築主義を基本原理とするナラティヴセラピー(物語療法)と原理的には同じである。科学に対する信頼とは次元が異なるのである。物語は、事実として受容されるというよりかは、規範として受容されるのである。物語が、自己の自我観念(アイデンティティ)と結合してしまうわけである。一方、科学への信頼は、自己の自我観念と全く関係なく、手段にしかすぎない。
 このように、科学への信頼とスピリチュアリズムへの信仰は、心理構造において全く異なるのである。

 

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by merca | 2008-03-09 23:26 | 社会分析

「信じぬ者は救われる」書評2

「信じぬ者は救われる」書評2
菊池教授も香山リカも、ニセ科学を信じる人々の単純な二分法的思考に問題があると捉えている。物事に(ウソ/本当)の白黒の区別をつけたがり、手間のかかる思考判断過程よりも、結果のみを重視する人々の態度に失望している。さらに、科学者が、大衆のそのような願望に応じて、本当の科学とニセ科学の区別をつけてやることにも疑問を抱いている。科学を信じる理由もニセ科学を信じる理由も、同一であり、科学者の権威を無批判に受容する態度にある。言わんとするところは、要するに、自分の理性=思考で物事を判別してから受容せよということだと思う。

 ・二分法的思考は、機能分化した成熟社会における人々の適応形式である。
 菊池教授や香山リカの考えは、理性的啓蒙と呼ばれる立場であり、理性は必ず良い結果をもたらすという安易な前提に基づいている。また、もし理性的啓蒙だけで生きていくとすると、複雑な現代社会に適応できなくなる。理性に過剰に負荷がかることになってしまう。複雑に専門分化した現代社会では、各分野の専門家の行為や言明や技術を信頼し、思考のコストを削減する。これをシステム合理性という。法律的問題は弁護士に相談し、病気治療は医者の診断を受け、経理状況は会計士に監査してもらい、教育は教師に任せるのである。それぞれの専門的な社会的役割を信じることで、社会は回るのである。
 実は、その際、メタコードとして二分法が有効に使用される。例えば、多様な側面を持つ問題に対して、(違法/合法)かというメタコードに基づき、法律の問題として観察されれば、そのように処理される。複雑で多面的な事柄に対して、そのままストレートに関わったのなら、未整理で雑多な複雑性に押しつぶされしまうので、二分法に基づいて処理し、問題を加工して単純化して解決するわけである。例えば、患者として医者と関わる場合、その人物の医者以外の人格全体と関わるとコミュニケーションは混乱をきたし、不確定・不安定となるが、医者だと単純化して見なすことで、コミュニケーションにかかる余分なコストがなくなるのである。(医者/医者でない)という二分法の使用である。このように二分法は、複雑性を縮減し、自我に過剰負担をかけることを防ぐのみならず、役割コミュニケーションをスムーズに進ませ、社会生活上の目的をうまく達成させ、社会秩序を安定化させるはたらきがあるのである。

 このように二分法的思考は、成熟社会の適応形式として極めて合理的なのである。ただし、リスクを考える必要がある。社会学でも、リスク社会論が流行っている。信頼においては、完全にリスクを排除できるわけではない。人々が無条件に専門家を信じることに伴うリスクはある。信頼はリスクと表裏一体である。リスクを管理することが必要となってくる。ニセ科学問題を科学に伴う一つのリスクとして、定式化できる可能性はある。ともあれ、リスクを覚悟の上で専門家を信頼するという態度は、単純な思考ではない。我々個人にできることは、専門家の専門分野を学ぶことではく、信頼とともに生ずるリスク管理だけである。例えば、占いやスピリチュアルを真偽というコードでなく、物語という区別コードで観察する賢明な人々は、ある種、自己でリスクを回避しているわけである。
  
 両氏は、ニセ科学を二分法的思考で単純に信じていると大衆に疑問を投げかけているが、成熟社会あるいはハイモダニティ社会の基本的な在り方に対する無知に基づいているのである。

 

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by merca | 2008-03-09 18:44 | 社会分析

「信じぬ者は救われる」書評1

 ニセ科学批判者の菊池教授と香山リカの対談「信じぬ者は救われる」を読んでみた。
 テーマについていうと、ニセ科学に対する批判というよりも、基本的にそれを信じる大衆批判だと感じた。「なぜニセ科学を人々は安易に信じるのか」という大衆への疑問・批判・失望である。ニセ科学を信じる理由も科学を信じる理由も、人々にとって同一だとすると、それは社会学が扱い慣れてきた問題である。物事に対する信じやすさの問題は、自明なものを全て疑うという社会学の伝統においては、繰返して論じられてきたことである。
 対談なので、掘りさげ方が浅いという印象は受けるが、押さえておくべきことを発見できた。ちなみに、後藤氏からは、香山リカは俗流若者論者として批判されている。私は、社会構築主義の立場から、後藤氏のこの見解は支持している。
ニセ科学批判者と俗流若者論者の対談ということで、非常に興味深い!!

   (事実主義)  
 菊池教授は、科学的知識を客観的事実と見なしている。ニセ科学のみならず、スピリチュアルを批判する最終的根拠も全てそこにあることがわかった。例えば、前世は客観的事実ではない虚構であるから批判するのである。客観的事実という言葉に迷わされてはならない。基本的に、客観的事実とは、対象と認識が一致した真理のことを意味している。菊池教授には、客観的事実それ自体も共同主観によって社会的に構成されたものであるという視点が全くないようである。事実は事実として厳然と存在しているという信念があるようであり、科学が事実を知る有効な手段となるというわけだと思う。この場合、信じることの定義は、それを客観的事実だと思うこととなる。

 2点ほど批判すべき点がある。
 客観的事実のみしか信じる対象にしないとしたら、いかにも浅薄である。人は未来を信じる。スピリチュアルな人や信仰のある人でなくても、事実でないとわかっている対象を信じることがある。例えば、約束である。人と約束すると、その人が本当に約束を遂行するものだと信じて社会は回っている。事実だけを信じる対象にすると、社会は壊れる。規範・役割というかたちで、客観的事実でなくても、信じるのである。また、現実には存在しない理想や目的を人は信じる。

 もう一つ言うなら、科学それ自体に疑いの目をむける視点が欠落しているので、説得力がない。信じやすいと大衆を非難するのはよいが、自らは科学的思考方法を信じているわけであり、なぜ科学的思考方法を信じるようになったのか明かさないと説得力をもたない。大衆とは異なる理由で、科学的思考方法を信じているということだと思うが、いま一つわからない。ニセ科学を信じる人たちから、「あんただって科学を信じているじゃないか!」と言い返されたら、終わりである。

   さらに、以下の視点についても、随時、評論していきたい。
 ・科学に生きる意味を求める人々
 ・嘘でも信じたいという人の存在
 ・二分法的思考がニセ科学問題のメタ問題
 ・スピリチュアルとニセ科学との同一性


 

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by merca | 2008-03-09 11:56 | 社会分析

鬱病の苦悩

 鬱病で悩む人は多い。特に、鬱で悩む若者達は、鬱系やクスリ系やメンヘル系と呼ばれたりする。鬱は時代の病でもある。
 さて、鬱になると、自己否定的になり、自己の存在価値を問だし、人生の意味や生きる意味について悩みだす人が多い。つまり、何のために生きているのか哲学的・実存的に問い出す傾向にある。鬱になると、これまでの人生を振返り、実存的問いを考え出すのはなぜだろうか? そもそも、生きる意味に解答を見い出すことで、鬱は治るのか? 生きる意味を支える物語で、鬱は治るのか?そんな疑問が湧いてくる。
 
 鬱で苦悩している人は、気分障害であり、その感情に苦しめられている。例えば、鬱の人から「私は死にたい。もう私が生きている値打は無い。生きる意味がわからない」と言われたら、二通りの対応が考えられる。その言葉の意味通り、生きる意味について人生相談にのる。もう一つは、お医者さんに薬をもらいなさいという。前者が物語論的治療であり、後者が科学的治療である。科学的治療について言うと、脳内の物理的現象から気分障害が生起しているわけであり、投薬が気分障害を緩和させるという物質的な必然の因果律が、本人の内面的な精神世界の意味秩序と関係なく、独立に存在するのである。なお、カウンセリングや認知行動療法は、基本的には人生相談と同じ次元であり、鬱病患者の意味世界や認知構造にはたらきかけ、気分障害を緩和しようとする。
 鬱病の人の精神的苦悩は、科学で治癒するのか、物語で治癒するのか、どちらであろうか? 科学は本人の外部にある因果律であるが、物語は本人の内部にある意味世界である。そもそも鬱病の人たちは、生きる意味が喪失してストレスがたまって鬱になったと思っているのか、脳内現象として鬱になったから生きる意味を喪失したと考えているのか、微妙なところである。

    参考
 ターミナルケアの分野で、医師の日野先生が代表で日本スピリチュアルケア学会なるものが出来たらしい。意味世界あるいは精神世界を操作できる達人たち=宗教家の力が、医学という科学にも必要とされつつある。
 意味世界は科学物理システムには還元されないことを見抜いたシステム論者・ルーマンは、正しく卓見である。意味世界の現象である社会・意識は、意味システムと呼ばれる。意味システムは、物質世界から閉じられている。この閉鎖性が科学と宗教の区別を境界づける根拠である。

 

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by merca | 2008-03-09 09:44 | 理論