2008年 04月 29日 ( 1 )

世界、私、他者

 世界は無限である。だから、私は永遠に生きられる。世界は尽きることなく、出ることもできない。だから、世界なのだ。私は存在しているから、世界は無限だと信じざるえないのだ。
 私は存在し、世界の中で生きている。無数の他者とともに、変化し動きまわっている。時の流れを感じつつ、私は活動することで生きており、存在している。私の生を支えるのは、世界の無限である。

 世界が有限だと感じたときには、私は止まり死んでしまっている。世界が有限だと思ったときには、狭い世界を本当の世界と錯覚しているからである。この錯覚が全ての根源悪であり、後にも先にもこれ以外に人間が悪と呼べるものはない。私を殺すのも、他者を殺すのも、この悪のみである。

  世界の外には出ることができない。出たときには、すでにそれは世界ではなくなってしまっている、なぜなら、世界とは、中にいるかぎりにおいて世界であるからである。無限なる世界からは決して出ることはできない。出た瞬間、それは無限なる世界ではないことが証明されるからである。だから、理性は世界が無限であることを証明できない。但し、理性がはたらきであることそれ自体は、世界が無限であることと並行している。世界が無限でないと、理性は止まり死ぬからである。

  小さな世界を小さな世界と思えるのは、無限なる世界の中に生きているからである。小さな世界と心中する者は、小さな世界が自分の住んでいる全ての世界であると錯覚している。むしろ、小さな世界が存続するためには、無限なる世界と浸透しあうことが必要なのである。よき共同体は無限なる世界に包まれているのである。

  世界は無限である。だから、私は全てを把握することはできない。しかし、無限であることは知っている。それは私も無限であるからだ。世界の不可知性は、いささかも私を不安定にさせない。むしろ、世界の全てを知ってしまうと、世界は消滅し私も死ぬ。だから、世界は不思議のままでよろしく私を永遠化する。不可知の知こそ、世界についての私の態度。

 懐疑の魔手は、人と人を分断し、全ての宗教を滅ぼすだろう。そして、無限なる世界のみが最後に残る。懐疑は無限なる世界を否定することはできない。なぜなら、懐疑が懐疑として生きるためには、無限なる世界が必要だからである。人間にとって最初で最後の信仰、それが無限なる世界である。

 星空を眺めながら私は思う。星空は遠くにあるのではない。私は星空の中に存在しており、そのかけがいのない一部であることを。

           拙著「形而上学玄論・論点集」より
 
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by merca | 2008-04-29 10:20