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祝 人気ブログランキング社会科学部門1位

 社会学玄論のブログが、1月5日午前0時48分現在、人気ブログランキング社会科学部門1位となりました。
 読者の皆様!! 応援、ありがとうございます。
 ついでに、社会学玄論のツィッターを紹介しておきます。
 https://mobile.twitter.com/rontaku14?p=s
 今年は、ネット社会学者、ネット思想家の立場から、著名な思想家や学者に議論をふっかけていきたいと思います!!
              放浪の社会学ブロガー 論宅より

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by merca | 2016-01-05 00:55 | Comments(0)

反社会学講座の盲点をつく・・・批判的実在論の観点から

 反社会学講座は、ほとんどの場合、人々の抱く常識を統計的データや史実によって否定し、常識と反対の命題を提示するという脚本で出来上がっている。これは一見すると、常識の根拠を問い直す社会学の方法とよく似ている。
 しかし、この脚本が読者に功を奏するのは、統計的データや史実こそが客観的な事実であるという常識が人々に流布しているからである。もし人々が統計的データや史実こそが客観的事実であるという真理観・科学観を抱いていなかったら、何のリアリティもパオロ氏の説に抱かないであろう。統計的データは、科学でもなんでもなく、特定の観点から現象を記述したものであり、様々な諸要因から生じた偶然の産物にしかすぎないのにである。 
 このように、パオロ氏は、多くの人々に共有されている共通の真理観・科学観を利用して逆説的な自説を真実に見せかけているのである。
 ここで、もしパオロ氏が本気で自説が正しいと思っているのなら、「統計的データ=客観的事実」という世間の常識に自らが染まっていることになる。
 パオロ氏は人々は常識や通説に騙されていると主張するが、自らも社会の常識に騙されていることになるのである。きちんと科学哲学を知っていれば、「統計的データ=客観的事実」という短絡的思考に行き着くことはない。また、自己の論理を自己適用しないところがパオロ氏が社会学でない証拠でもある。 
 
 具体的に示そう。
 さて、パオロ氏は、昔に比べると少年犯罪は減少しているという統計データでもって、古い世代の人間は今の世代の人間よりも凶悪であると結論付けている。本当にそうか?
 実のところ、これは、端的に社会条件を無視した議論である。戦後間もなくの日本社会と現代日本社会とでは、全く社会条件が異なる。戦後間もなくは、経済的、政治的にも不安定な社会であり、食べるのに困る人たちで溢れかえっていた社会である。また、教育制度や刑事政策制度も今のように進んでいない。そのような不安定な社会では、犯罪が多発するのは当然である。秩序は緩み、生きていくために犯罪をする人たちも多くいたわけである。
 
 このような社会条件を無視して、古い世代の人間は現代の世代の人間よりも凶悪であるというのは全くの戯論である。過度の孤立、貧困、失業が犯罪を生み出す要因になるという犯罪発生のメカニズム、それと犯罪抑制要因である刑事政策の進歩を無視した非科学的思考である。
 同一の社会条件のもとで、犯罪が減少したのなら今の若者のほうが凶悪でないと言えるが、このように著しく社会条件が異なるのに同列に比較し評価する彼の手法は明らかに科学的に間違いである。
 
 また、逆に戦後社会が安定して教育制度も充実化して来たにもかかわらず、犯罪をする現在の少年の方が凶悪化しているとも言えるわけである。殺人をしてみたいから殺したという理由のない殺人=脱社会性の少年による猟奇的犯罪のほうが明らかに凶悪である。
 社会学者宮台氏の分析のほうが優れているのである。質的観点からいうと、裕福な家庭に育ち理由なき猟奇的殺人をする現代の少年のほうが、貧困にあえぎ食うに困って強盗する戦後間もなくの多数の少年よりも明らかに凶悪である。

 他にも、パオロ氏は、近代化論を無視して、前近代社会である江戸時代の日銭稼ぎの就労者と後期近代社会である現代のフリーターを同列に扱い、フリーターになることを奨励したりしている。社会条件が全く異なるのに、過去の日本人と現在の日本人を単純比較し、昔はパラサイトシングルやフリーターも肯定されていたみたいな説を唱えている。 

 いずれにしろ、ほとんどパウロ氏の議論は、故意かどうかわからないが、社会条件を無視して、比較できないものを比較するという過ちを犯している。この過ちは、「統計的データ=客観的事実」と考える統計的実証主義の科学観にありがちな誤謬である。パウロ氏には、批判的実在論を勉強することを勧めたいものである。

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by merca | 2016-01-01 22:47 | Comments(0)

「卑怯者の島」にドラゴンナイトが到来する時

 戦後70年に際して、小林よしのりが「卑怯者の島」というフィクション作品を出し、戦争について日本国民に問うた。これはフィクション作品ではあるが、価値伝達としての思想の押しつけは一切ない。小林よしのりは、戦争論のような事実を語る作品については思想漫画家として価値伝達を行うが、フィクション作品では価値観の強制がない優れた作品となることが多い。
 全くの直感としての予言(期待)ではあるが、将来、「卑怯者の島」は映画化され、話題を呼ぶと予想している。さらに、同作をニヒリストである北野武が監督をすると、アカデミー賞になると考えられる。この予言は根拠のない私の期待であるが、そうなったら素晴らしい。
 今後、小林よしのりには、是非とも漫画家の本分としてフィクション作品を書き続けて欲しいものである。
 
 「卑怯者の島」は、戦争の当事者としての兵士の視点から戦争について描かれている。ストーリーも引き込まれやすい。主人公は、死ねなかったことで卑怯者としての罪の意識を持ち続け、その葛藤がよく描かれている。戦友が一人一人死ぬごとに、罪の意識が強まっていく。
 戦争とは、(敵/味方)という区別で創発された殺人ゲームである。この区別が実体化されると、善良な市民であった兵士も、戦場では殺し合いをし、地獄世界をつくりだす。その地獄絵図が「卑怯者の島」では克明に描かれている。
 生き残った者、死んだ者、誰一人として幸福になっていない。無念で死んだ者、生き残っても、手足を失い物乞いになったり、主人公のように一生罪の意識に苛まれながら生きている者もいる。
 
 (敵/味方)という区別が消滅することで戦争という地獄ゲームは終わるが、この区別がなくなるということは、同時に普通の人間(殺し合わない存在)にもどるということである。だから、本当に戦争という地獄ゲームから解放された兵士は、自分が死ねなかったことに対する罪の意識ではなく、人間として敵兵や敵国の市民を殺害したことに対する罪悪感をもつようになる。
 ところが、卑怯者の島の主人公は、戦後においても、敵兵を殺害したことに対する罪悪感はもたず、死ねなかった自分に対する負い目による罪悪感のみに縛り続けられており、(敵/味方)という区別から解放されていないのである。彼の心には終戦はないのである。
 もしかしたら地獄の戦争ゲームから多くの日本兵たちは、この主人公のように未だに解放されていないのだろうか?そのような疑問が湧いてくる。
 他者性に基づき、被害者意識ではなく、加害者意識をもつことが本当の戦争からの人間としての解放である。「卑怯者の島」の主人公には、本当の意味での他者性の意識が認められない。
 悲しいかな、それが小林よしのりの描く戦争の限界でもある。米兵にも家族があり、守るべきものがある。小林よしのりが描く日本兵には、そのような敵を対等な他者として認める視点が欠落している。敵兵である英国海軍422名を救助した日本海軍の軍人である工藤俊作艦長のような武士道に基づいた他者性もない。

 戦争が本当に終わるとは、人々の間に(敵/味方)という区別が消滅し、人間としての平和な日常生活にもどるということである。社会システム論の立場からすると、(敵/味方)の区別そのものがつくれた虚構にしかすぎない。だから、原理上、いつでも廃棄することができる。つまり、戦争ゲームを消滅させることができる
 実は、戦争中にもそういう奇跡が稀に起る。それがドラゴンナイトである。「世界の終わり」が歌うドラゴンナイトの到来である。ドラゴンナイトは、第一次世界大戦時にドイツ軍がフランス軍・イギリス軍と交戦し、戦争中に敵味方の区別なくクリスマスを一緒に祝いあったというクリスマス休戦をモチーフにしていると言われている。
 クリスマス休戦は、クリスマスを祝うテノール歌手の「きよしこの夜」の歌がドイツ陣営から聞こえて来て、フランス軍から拍手が沸き起こり、一挙に(敵/味方)という区別が消滅し、別の区別が生じたのである。戦争という地獄ゲームが解除され、クリスマスを祝う普通のヨーロッパの庶民に戻ったのである。
 ドラゴンナイトに似たような現象は稀に起る。ドラゴンナイトという曲には、世界中の全ての戦場にドラゴンナイトが到来することを願うという平和のメッセージがあると確信している。
 ここで、卑怯者の島にも、ドラゴンナイトが到来する可能性はあったか問いたい。いやむしろ、ドラゴンナイトが到来して欲しかったのである。
 社会学理論上は、ドラゴンナイト現象は、可能である。それは、(敵/味方)を無効にする別の区別が到来した時に起こりうる。社会学者は、社会病理現象である戦争システムを脱構築する技術を開発する必要があるのである。
 
 天から一つの音楽=カノンが降り注ぎ、傷ついた戦場の兵士たちを敵と味方の区別なく癒していき、殺し合うことが正義でないことを知り、武器を捨て、ドラゴンナイトが訪れるのである。

  参考
ドラゴンナイト的な現象には下のようなものがある。
・帝国海軍工藤俊作艦長による敵兵救助
・上杉謙信が武田信玄に塩を送った。
・日本人残留孤児を育てた中国人
・逆襲のシャア
 アクシズの墜落をジオン軍兵士も連邦軍兵士も一緒に防ぐ。
・起動戦士ガンダムのククルス・ドアン
 戦争で子供の親を殺し、ジオン軍から離脱する。
・超時空要塞マクロス 映画「愛・おぼえていますか」
 リン・ミンメイの歌声に敵が文化を感じ、停戦する。

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by merca | 2015-08-16 09:59 | Comments(0)

「仏教思想のゼロポイント」書評 弁証法的思考の欠落

 「日本仏教はなぜ悟れないのか」という衝撃的なフレーズが帯に掲げられ、「仏教思想のゼロポイント」という書物が発売されている。大型新人哲学者の書物らしい。知識人にも受けがよく、よく売れているらしいので、購読してみた。
 これは、仏教入門書というよりも、大乗仏教批判の書であることがわかった。私は、この書について、何が本来の仏教かどうかという視点よりも、論理的に正しいかどうかという側面で批評してみた。
 これは、魚川佑司氏による独特の仏教解釈の書である。大胆にも、涅槃の境地について論理的に述べられている。注意したいのは、魚川氏自身が解脱し涅槃の境地たるゼロポイントに体感的に身をおいて悟りを開いているわけではないことである。つまり、宗教家のように、自らの涅槃に至る解脱体験から、涅槃=ゼロポイントの本質を論じているわけではない。
 あくまでも、この書物は、仏典の解釈にしかすぎない。解脱体験者が書いたものではないので、ある種、説得力に欠くものの、論理構成は簡潔で、非常に分かりやすい。
 分かりやすいだけに、疑問点が露骨にいくつも見受けられたので、それを指摘しておきたい。一言で言えば、魚川氏の仏教解釈における誤謬は、弁証法的思考の欠落である。仏教でよく言われる有無の二偏に囚われている思考のまま仏教を解釈している。

1 「無我だからこそ輪廻する」について
 仏教は輪廻を唱えていないという学説があるが、魚川氏は仏教は輪廻を否定していないと解釈する。仏教が輪廻を否定しないというのは正しいが、その根拠となる論理が半分間違っている。
 魚川氏によれば、無我だからこそ輪廻(変化)していくという。つまり、そもそも輪廻する主体が固定的な実体我であっては、所行無常は成り立たず、輪廻はありえないというわけである。仏教は実体我のみを否定しているのであって、変化する体験我は否定していないというのである。
 しかし、輪廻するものは、完全に無我であっては輪廻しない。論理的には、無であるものは無のままであるからである。輪廻の主体が、実体我であっても完全な無我であっても、輪廻は成り立たない。
 輪廻が成り立つためには、輪廻の主体が有無を離れた存在でなければならない。輪廻する我は、有でもなく、無でもなく、有無を合わせたものでもなく、また有無によらずしては成り立たない同時的弁証法的存在なのである。この論理は、龍樹の中論に説かれている。龍樹に比べると、魚川氏の仏教解釈はかなり浅いと言わざるを得ない。

2 仏教が世界について無記の態度をとる根拠について
 「世界は常住か無常か、有限か無限か」については、仏教は無記の態度をとる。その根拠として、そもそも世界は人の煩悩によって構成された実体のない物語であることをあげている。
 従って、物語としての世界について判断するのはナンセンスということになり、何も答えない、すなわち無記である他ないと主張するわけである。カントのように理性にとって世界が不可知だから、答えられないというのではなく、そもそも世界は煩悩によって構成された物語だというのである。
 しかし、世界は誰か一人の煩悩によって構成されたものではなく、複数の他者との関係によって生成する。つまり、無数の存在の関係たる縁起の法こそ世界そのものである。華厳経でいう事々無碍法界こそが世界である。一つの存在が成り立つためには、無数の他の存在を必要とするような関係である。真なる世界とは、関係そのものであり、関係を否定することは縁起を否定することになってしまう。真なる縁起の世界は、不可思議故に、常住か無常か、有限か無限か、という思議を越えているから、無記の態度をとるというべきであろう。決して、世界が物語だからではない。
 また、物語世界であれば一人の自我で自由自在に作りかえることができるが、縁起の法界は無数の他者との関係によって形成されており、一人の自我では到底自由に作り変えられない世界なのである。世界は、その都度、状態は変化はするが、物語ではないのである。魚川氏の仏教解釈には、世界における他者性が欠落しているのである。

3 「本来性」と「現実性」の二元論について
 魚川氏は、煩悩によって構成された物語の世界と、煩悩を離れた構成されざる無為の境地である涅槃を分け、仏教が目指す涅槃こそ本来性であるという。すなわち、不生不滅の無為の世界としての本来性と、生成消滅する有為の世界としての現実性の二元論を唱える。これは、西洋哲学における本質と現象という二元コードと同じである。
 しかるに、このような二項対立図式は、簡単に脱構築されてしまう。物語世界を否定することで涅槃に至るのなら、かえって物語世界に涅槃が依存してしまうことになるからである。
 そして、論理的には物語世界を否定しても肯定しても、本来性は矛盾を抱えて成り立たなくなってしまう。本来性は現実性を離れてはなく、現実性も本来性を離れてない。この二つは世界の二側面であり、弁証法的に止揚される。大乗仏教でいうところの生死即涅槃、煩悩即菩提という弁証法的論理によって脱構築されてしまうことになる。物語世界に相対することで、涅槃も絶対化できなくなってしまうわけである。涅槃という片方の項の優越性、根源性を主張する魚川氏の二元論の論理では、涅槃が絶対化、実体化されると同時に、逆に劣位の項である現実性に依存することになり、矛盾を抱えって成り立たなくなるのである。
 
 また、涅槃を目指すこと、すなわち一切の煩悩を断つことも、一つの欲=自己愛であり、それ自体一つの煩悩である。その最後の煩悩を捨てるには、利他業=他者愛を組み込むしかない。いわゆる菩薩道である。システム論的に言うと、涅槃を目指すこともそれ自体一つの欲であるという解脱における自己言及のパラドックスについて、(利他/利己)という区別で脱パラドックス化したのが、大乗仏教の菩薩道なのである。
 この点における仏教の進化について、当書を推薦している宮崎哲弥も鈍感なのかもしれない。大乗仏教革命における仏教の脱バラドックス化の意味について、魚川氏は理解していない。真実には、菩薩道を経由することなしに、真なる解脱・涅槃はあり得ないのである。これが、致命的な魚川氏の誤謬あり、同時に小乗仏教の限界でもある。
 
 ともあれ、これは、論理上における本質的な構成主義の難点でもある。(本来性/現実性)というコードに基づいて観察する限り、仏教は単なる心理構成主義ということになってしまう。そして、本来性に基づいて、現実性たる物語世界を相対化し、無限定に現実世界を肯定する立場に行き着くことになる。現実世界は、全て虚構だから、どれを選択しても自由だということになり、結局、何も選択できないニヒリズムに陥る。

 惜しいことは、仏教思想が極めて単純で浅薄な教えとなってしまっている。しかし、魚川氏の観察は、小乗仏教の観察だから仕方ないと言える。結局、ゼロポイントからニヒリズムに行き着くことになるだろう。
 
 ここで、大乗的観点から、ゼロポイントを再解釈しておこう。
 真なるゼロポイントは、単なるゼロではなく、プラスとマイナスの逆方向のベクトルが存在することで、力が相殺されて、ゼロとなる均衡点をいう。
 プラスとしての現実性とマイナスとしての本来性が二つあってゼロになっているのである。本来性だけを否定すると、ゼロではなくなり、現実性が実体化されてしまう。逆に現実性だけを否定すると、ゼロではなくなり、本来性が実体化されてしまう。涅槃の実体化である。従って、対等に本来性と現実性が統合された時に、力のバランスがとれ、真なるゼロポイントが出現するのである。
それが二偏を双照する中道第一義諦たる龍樹の中観思想なのである。
 龍樹のように (本来性/現実性)というコードそのものを脱構築した大乗仏教の方が、やはり思想としては優れていると言わざるを得ない。

   参考
 知性発展段階説
 http://mercamun.exblog.jp/13926104/

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by merca | 2015-07-20 15:45 | Comments(0)

正義からの解放(相対主義の勝利)

 人類は、そろそろ正義という暴力装置から解放されるべきである。社会学的に分析すると、正義という暴力装置は、肥大化すると、世界を破壊する悪魔と化す。実は、絶対化された正義そのものが、社会病理現象である。
 国家や共同体が正義を独占した時に、この社会病理現象は人々に蔓延し、人々を集合的に殺人鬼に変える。国家は、正義を自己目的化してはならない。
 
 正義のために戦争は行われ
 正義のためにテロは行われ
 正義のためにいじめは行われ
 正義のために差別され
 正義のためにバッシングされ
 正義のために排除され
 そして、正義のために、人々は家族、友人、居場所、そして自分も失い、不幸になっていく。

 社会科学に出来ることは、この正義という暴力装置を科学的に解明し、正義の副作用を無効化する処方箋をつくることである。
 ニーチェは、正義を無効化する思想=積極的ニヒリズムを開発したが、この思想は諸刃の剣であり、成熟社会では、もはや十分に機能していない。ニーチェの企ては失敗したのである。
 いかなる正義も自己目的化すると、世界を破壊する力となる。正義は常に相対化されることで、人類社会は平和でいることができる。
 古来より、あらゆる哲学者が正義とは何かという問いを追求して来たが、カントを含めて万人を納得させる結論を出した者は未だいない。相対主義の勝利である。
 神は、決して人間に正義を与えることはないであろう。もし正義を手にした者がいたとしたら、正義に反する者を殺戮する悪魔となるのであろうから。
 プロタゴラスに始まる相対主義は、正義の暴走をとめる優れた人類の英知である。してみれば、正義は、暴力であり、煩悩である。

正義によって煽動されることなかれ
正義への囚われを捨てよ
正義を得たと思った瞬間に、人は堕落し、他者を迫害するであろう
だから、宇宙の法則=相対主義は、人に正義を与えない
もし正義という化物が世界を支配しようとしたら、許しと愛が解毒剤となろう

 参考
 「西洋道徳の本質は暴力」
  http://mercamun.exblog.jp/6329988 
 「アドルフに告ぐ」・・・手塚治虫の反戦漫画
  正義の愚かさが説かれている。

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by merca | 2015-05-06 11:07 | Comments(0)

「かぐや姫の物語」評論「もし天人の音楽ではなく、カノンだったら」

 高畑監督の「かぐや姫の物語」のラストシーンにおいて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンがある。このシーンは、色々と話題になっているようである。特に、BGM 「天人の音楽」はあまりにも軽快で明るく優美であったために、違和感を感じる人も多かったようである。
 しかし、天人の音楽は、極めてスピリチュアルであり、この音楽でないと、この場面は成り立たない。かぐや姫の本心である地上界に止まりたいとする欲望は、あけっなく無慈悲に断たれる。優美で明るいにもかかわらず、この曲が怖いと感じた人たちも多くいるようである。それは、天人の世界とは涅槃=死を意味するからである。涅槃とは一切の煩悩のない境地である。高畑監督の描写でも分かるように、天人の世界は、苦悩のない平和な阿弥陀仏の極楽浄土と同じであり、出迎えの光景は阿弥陀二十五菩薩来迎図そのものである。
 死とは、自己の意思とは関係なく、そのように無慈悲に突然やってくるものである。死によって、人生は突然途切れる。地上でのかぐや姫の生も途切れ、この世における一切の記憶はなくなる。記憶がなくなることで一切の煩悩から解放される。この場面における天人の音楽が怖いと感じる人たちは、自己の生もいずれは死によって途切れるという恐怖からくる。
 しかし、一方で、涅槃への誘いとしての昇天は、全ての記憶を失いリセットされる感覚があり、何も考えず、一切から解放され、自由になった気分もする。実は、この昇天の儀式そのものが何度も繰り返されてきたような感覚に襲われる。この昇天の儀式そのものがとても懐かしい気がする。心地よさと懐かしさを感じるのは、私だけであろうか?
 それにしても、死に際して、全てを忘れて何も残さず地上から去ることができる人などいるであろうか? 多くの人たちは、煩悩を断ち切れず、幽霊として地上界に半ば止まり続けているような気がする。
 ともあれ、天人の音楽には、どんなことも全て忘れてリセットしようじゃないかみたいなスピリチュアルメッセージがある。かぐや姫の物語を見てこの曲が耳に残った人たちが多くいるようである。魂の深い部分と共鳴したものと考えられる。昇天の儀式の記憶である。皮肉な事であるが、地上の記憶は忘れてしまうが、逆に昇天の儀式の記憶は魂に刻まれているのである。
 
 さて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンが、もし天人の音楽ではなく、神曲「パッヘルベルのカノン」だったらどうなるだろうか? カノンは、天から授かった人類史上最高のスピリチュアルな曲である。カノンは、一切肯定の曲である。記憶も含めて全てのこれまでの過去を肯定し、未来永劫に生きることを肯定する曲である。煩悩も肯定され昇華されていくことになる。これに対して、天人の音楽は、過去の生を無にするリセットの曲である。ある意味、対極にある。仏教的にいうと、阿弥陀教と法華経の違いである。
 あのシーンに、カノンを流すと、おそらく、かぐや姫の物語の意味が一変することになる。かぐや姫は自己の生を肯定し、煩悩の意味を転換し、昇天し、永遠の生命を生きることになる。
 そうすると、高畑監督が描こうとした物語のテーマを変えてしまうことになる。手塚治虫の火の鳥と同じになってしまう。カノンのスピリチュアルメッセージである「宇宙に存在するものには全て意味がある」が物語の意味を一変させてしまう。かぐや姫の物語から切なさが消えてしまうだろう。
 そうなると、かぐや姫が輪廻転生して再度地上界に生まれ、同じく来世でも夫婦になった竹取の翁のもとに子供として生まれないといけなくなっしまう。宇宙生命によって、がくや姫の煩悩は肯定されることになる。その際、カノンを流すべきである。カノンは生命の曲である。
 
 「魔法のプリセンセスミンキーモモ」を知っているだろうか? 実は、大体、 魔女っ子物シリーズは古典竹取物語の設定にモデルがある。 同作も設定が似ており、夢のファナリナーサから来て、地上世界の夫婦のもとで暮らするというパターンである。いずれ別れはやってくるが、その別れがかぐや姫と異なる。主人公のモモは、子供をかばって交通事故で死ぬが、今度は地上界の父母の本当の子供として生まれ変わることになる。まさしく、ミンキーモモの最終話こそが、かぐや姫の希望=煩悩の肯定の物語なのである。このような物語ならば、天人の音楽ではなく、生命の再生・誕生を肯定するカノンがふさわしくなるであろう。
 確かに「かぐや姫の物語」においても、ラストに地球を見て自然に涙するかぐや姫と月に映し出された赤ん坊のかぐや姫のシーンによって、地上界の思い出は煩悩の消滅した極楽浄土に行っても意識としての記憶からは消えるが、魂の記憶として未来永劫に残るという可能性を示唆して終わっている。
 しかし、それは、あくまでも魂の記憶としてであり、本当にまた地上界の懐かしき場所に帰ってくることができるかはわからない。だから、切なさが表現できる。そして、魂の記憶としてこの希望はかえって永遠化されることになる。
 私は、「かぐや姫の物語」に、魂に刻まれた記憶は永遠不滅である、というメッセージを読みとったのである。このメッセージを伝えるためには、天人の音楽による極楽浄土の描写がないといけない。カノンを使用すると、昇天によって記憶を永遠に魂に封じ込めるのではなく、命の再生のイメージとなってしまい、昇天が新たな別の生を生きるための儀式となってしまう。
 お迎えの場面のBGMをカノンにしたら、「かぐや姫の物語」は、魂の記憶の問題ではなく、永遠の生命(輪廻転生)をテーマとしたものとなってしまうのである。物語のもう一つの可能性として、それはそれでよしかもしれない。

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by merca | 2015-03-21 15:51 | Comments(0)

小林よしのりの新戦争論は、事実を括弧に入れて読むべし

 ネット右翼の生みの親と呼ばれている小林よしのりが、ネット右翼の梯子を外しにかかるために、漫画思想書である新戦争論を書いた。過去に、小林よしのりは、エイズ薬害訴訟運動について、運動にのめり込むあまりに左翼思想に染まっていった若者たちの梯子を外したのと同じでバターンである。またかである。
 戦争論からネット右翼になった若手右翼思想家KAZUYAや古谷経衡たちは、ある意味、同書によって見事に梯子を外され、日常に戻って仕事で地道に頑張れと勧告されたことになるのである。若者たちは、思想家小林よしのりの梯子外しに気をつけるべきである。
 小林よしのりは、等身大を超えて膨張した自我が嫌いであるので、読者はその点を注意すべきであり、すぐにかぶれてはならないのである。自尊心を調教できない若者は排除されるのである。
 
 ちなみに、小林よしのりは、ネット右翼は戦争論の誤読によって生じたといい、自分だけがネット右翼の生みの親のように思い込んでいるが、嫌韓・嫌中の潮流はテレビ「たかじんのそこまで言って委員会」によって生み出されたことが大きいと思われるのである。この番組が関西人を右傾化させた役割は大きい。
 小林よしのりだけに右傾化の原因を押し付けるのは気の毒であるし、自分だけがネット右翼を作り出したという肥大化した意識を小林よしのりに植え付けてはいけない。
 
 ここで、多くの若者たちに、小林よしのりの漫画思想書を読むにあったての注意をしておきたい。その注意点は、二つである。

(事実として描かれている部分は括弧に入れ、物語として受けとめる。)
 まず、同書で事実と主張されていることは、括弧にいれて読むべきである。事実を分析した歴史書ではなく、あくまでも特定の価値を提示した思想書として読むべきである。
 歴史的事実については、大学の科学的な専門教育を受けた歴史学者にまかすか、あるいは自分で第一次文献にあたるべきである。そのような暇がないのなら、事実であるかどうかは判断できないので、事実判断はアポケーし、純粋に価値判断を提示する思想書として読むことを勧めたい。その思想に感銘するかしないかは、個人の判断で自由である。
 いずれにしろ、事実は括弧に入れて、事実のように描かれている部分は、物語として受け止める態度が、小林よしのりの漫画思想書を読む基本的な作法である。これを忘れる者がかぶれてしまい、自我を肥大化させ、挙げ句の果てに梯子を外される羽目になるのである。

(事実判断と価値判断を結合してはならない。)
 歴史的事実だから小林よしのりの保守思想の価値も正しいと思ってかぶれてはいけない。ここに心理学的詐術を見抜くべきである。戦争論にかぶれた多くの人たちは、歴史的事実だから、その思想も正しいと思い込んで洗脳されてしまったのである。
 例えば、本当は、ひめゆり学徒隊や神風特攻隊は自ら進んで志願したのであり、軍国主義による洗脳や強制ではないとことが事実であると描くことで、読者に太平洋戦争は悪ではないという価値観を植え付けることに成功しているのである。人々が自ら志願したことが事実であっても、太平洋戦争肯定という価値観には直結しない。戦争論にかぶれた右翼は、事実の正当性のインパクトが強いために、その事実に基づいた価値判断までも受け入れてしまう傾向にある。小林よしのりの書物全般に見られるこの心理トリック、すなわち認識と価値の同一化現象=「事実を述べる者は、価値判断においても正しい」という錯覚を見破らないといけない。事実を知る者が正しい倫理観をもつとは限らないのである。
 そもそも、事実判断と価値判断は別次元であり、事実判断が正しいからといって価値判断も適切であると言えないのである。
 例えば、人類社会は戦争の歴史であるという事実判断から、必然的に戦争は正しいという価値判断は導出されない。リンゴてあるという事実判断から、美味しいという価値判断が一般的に導出できないないとの同じである。リンゴが嫌いな人にとっては美味しくない。価値論的にいうと、真理は価値ではないのである。
 自虐史観が歴史的事実と異なるというインパクトを与えた上で、事実判断の正当性と価値判断の正当性を結合させるという心理的トリックによって、戦争論は、多くの若者を保守化へと誘ったのである。少し哲学や社会科学をかじった若者なら、この点のメディアリテラシーはあってもよさそうなものである。
 
 思想・哲学を表現した漫画家としては、手塚治虫のほうが断然レベルが高いことを忘れてはならない。マンガ史的にいうと、所詮、手塚治虫がいなかったら、日本の漫画会が成立しておらず、小林よしのりの漫画もないのである。戦争論を読んだあとに、火の鳥を読むと、戦争論で語られている価値観が非常にケツの穴が小さいことがわかるであろう。
 手塚治虫は事実に頼るのではなく、物語をつくることで深遠な哲学・思想を提示したのである。事実に頼ろうとする小林よしのりとは、その逆である。手塚治虫は世界で読まれるだろうが、小林よしのりは世界では読まれないだろう。
 
 小林よしのりは、国家という大きなものに依存して自我が肥大化した右傾化した人たちに日常に戻れと宣告するが、それは自らにも言えることなのである。小林よしのりは、天下国家についてゴーマンをかますことで多くの人たちを煽動して来た自己を天才と思い込む万能感を調教し、普通の漫画家に戻るべきなのである。漫画家は事実ではなく、物語をつくるプロなのであり、安易に事実に頼るな!! と言いたい。
 
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by merca | 2015-02-21 21:01 | Comments(0)

近代化の一貫性社会変動論

 アジア社会は、後発的近代化の道を辿っている。
 
 近代化とは、経済においては資本主義、政治においては民主主義、法においては人権主義と平等主義、教育においては学校主義、学問においては科学主義、思想においては言論の自由、宗教においては信教の自由、対人関係のスタイルは個人主義、軍事外交は平和主義、家族においては核家族主義となることをいう。それぞれの社会領域において、かくのごとき価値観が原理となる現象が近代化なのである。日本社会のように後期近代化社会=成熟社会に移行しても、あいるはポストモダンに突入したと主張しても、これらの近代的価値観は依然として根本原理のままである。
 
 どの社会領域から近代化するかは、国によって異なってくるが、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義は、近代的価値のセットとなっており、究極的には切り離すことはできない。これらは、近代化の尺度となり、これらが達成されている国は近代化されているのである。
 また、一つの社会領域が近代化すると、自らを維持するために、別の社会領域も近代化せざるを得なくなるのである。例えば、思想において言論の自由が進むと、政治の分野においても民主主義を採用ざるを得なくなってくる。言論の自由はあるのに、政治体制だけが全体主義という社会は不整合であり、その不整合を正すために社会変動が起きるわけである。
 
 ルーマンのシステム論的社会学では、各社会領域については、経済システム、政治システム、法システム、学システム、教育システム、宗教システムなど、自律的な機能システムとして記述する。こられの異なる機能システムが近代社会では、先述の近代的価値観でプログラミングされていることになる。それぞれの機能システムはコードによって自律的に閉じているが、一つの機能システムは、別の機能システムとの関係によって制限を受けることになる。
 また、異なる機能システムどうしの相性の良さを構造的カップリングという。例えば、資本主義をプログラミングした経済システムと民主主義をプログラミングした政治システムは相性が良く安定性がある。
 
 ここから一つの社会変動論を構築することができる。構造的カップリングによる社会変動論である。システム論的社会変動論である。定式化していうと、優位な社会領域システムに合わせて他の社会領域システムが構造的カップリングするように変動することになる。システム相互の力関係に左右されるものと考えられる。近代化については、近代的価値の一貫性による構造的カップリングが必要となり、そのような方向で各社会領域において社会変動が起るのである。
 
 アジア社会を見ると、中国社会では、政治システムが民主主義ではなく、近代化されていない。香港や上海で資本主義を採用しているが、政治システムと経済システムの構造的カップリングが悪く、経済が発展すると、自ずと民主主義国家に変わることになる。
 すでに、香港では自由選挙制を掲げて民主化を求めてデモが起っているが、システム論的社会変動論においては、当たり前の社会現象である。経済が近代化されると、他の分野も近代化されることになり、政治システムが民主主義を採用せざるを得なくなるのである。資本主義を維持するためには、自由選挙制=民主主義が必要である。また、民主主義を維持するためには資本主義が必要となる。
 
 世界は、資本主義、民主主義、人権主義、学校主義、科学主義、自由主義、平等主義、個人主義、平和主義、核家族主義に基づく近代化の方向に進んでおり、この流れをとめることは、今の人類にとっては不可能である。国連も準拠するこれらの近代的価値に共通する根本原理の正体は何か? これには私も哲学的関心を抱いてしまう。
 
 いずれにしろ、この流れからすると、究極的にはマルクス主義と国家主義は消滅することになり、非マルクス主義的左翼=ハイモダン主義が勝利することになるだろう。
 皮肉なことだが、ネット右翼も歴史に対する事実主義(科学主義)という近代的価値を採用する限り、自己の思想に不整合が生じ、近代的価値全体に取り込まれ、国家主義を捨てる方向に向かうことになるであろう。右翼にも左翼にも言いたいが、近代的価値という文化を越えて伝播する人類普遍の価値(と思われる)についての哲学的考察を怠ることなかれである。
 
 左翼であれ、右翼であれ、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義のうち、どれか一つでも近代的価値観を受け入れると、思想に論理的一貫性を保つために、近代的価値全体に染まってしまうことになるだろう。

 
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by merca | 2014-11-23 09:41 | Comments(1)

社会的包摂主義ファシズムの対抗思想としての切断論

 福祉の道に進んだ人たちや反貧困主義者は、(包摂/排除)という区別から社会を観察し、排除型社会を否定し、包摂型社会を理想としている。民主主義や平和主義という政治思想よりも、包摂主義を尊重する思想的傾向にある。また、政治家も官僚も基本的に包摂型社会を支持しており、包摂主義に準拠した施策を打ち出している。このように社会的包摂主義は、あらゆる分野において民主主義にとって変わる価値観になりつつある。
 包摂型社会とは、雇用、教育、経済、法律、科学、医療、政治、スポーツ、芸術等のあらゆる社会の分野において、特定の負因をもった人々が排除されず、コミュニケーションに参加できる社会をさす。正社員と非正社員の二極化社会に対する批判にかかる言説なども、この系譜に属する思想である。反貧困主義者たちが、階級闘争によって社会革命を起こそうとするマルクス主義(共産主義)に安易に吸収されないのは、包摂主義の価値観を所有しているためである。日本社会におけるあらゆる立場の人々に、包摂主義は浸透しており、共通の価値観になりつつある。
 しかし、一部には違う動きもある。例えば、ニセ科学批判のように、科学的コミュニケーションから、クリティカルシンキング(批判的思考)を欠いた疑似科学を排斥するという排除主義も認められる。疑似科学を科学として包摂する寛容性や価値観の多様性は、ニセ科学批判者にはない。同じく、ネット右翼のように政治的コミュニケーション等から外国人を排斥しようとする排除主義も認められる。とはいえ、包摂主義が現代社会の中心的価値観を占めつつあるということに変わりはない。
 
 論理的には、包摂主義は、民主主義と同じであり、論理的矛盾のある思想である。包摂主義は、排除主義を包摂しても排除しても、論理的に成り立たず、自己言及のパラドックスに陥るからである。一方、排除主義は、論理的には、包摂主義を排除することで論理的一貫性をもち、自己言及のパラドックスに陥ることはない。
 その意味で、排除主義は、道徳的には人々に賛同されないものの、論理的には包摂主義に勝ることになる。従って、論理的純粋性を尊重する人たちは、排除主義の立場をとるであろう。ニセ科学批判者しかり、ネット右翼しかりである。そして、さらに言うと、接続過剰社会を批判する切断論者もそうである。包摂による自己矛盾を抱えたくないために切断論者は、多様な存在との関係を断ち切り、自己の論理的一貫性を保とうとするのである。
 
 社会学的には、(包摂/排除)という区別は、そのまま(接続/切断)という区別に対応し、同じ内容を別の言葉で表現しているだけであり、機能的等価である。包摂されているものは接続されつながっており、排除されているものは切断され分離しているのである。
 従って、究極のところ、哲学者千葉雅也の切断論は、排除主義のカテゴリーに入るのである。接続過剰社会は包摂過剰社会と同義であり、接続過剰社会批判は包摂型社会批判でもあるのである。
 放浪生活を好んでしているホームレスに社会的包摂を勧める反貧困論者は、切断論者から根本的に否定されるであろう。社会的孤立者の中には、自ら自己選択で社会からの切断を望んだものがいる。にもかかわらず、強制的に、包摂主義者は、自己選択・自己責任でホームレスになった人たちを包摂し社会に関係づけようとするのである。包摂主義ファシズムである。
 
 実は、このような包摂主義ファシズムに対抗できる哲学的根拠を示したのが、千葉氏の切断論となるのである。切断論の本質は、排除論なのである。自己を束縛する社会(関係)を自己から排除することを唱える。
 そこで、包摂主義の流布や包摂主義に基づく国家の施策(ニート・ひきひもり支援など)によって、接続過剰型社会が生み出され、身動きがとれなくなっている人たちが多くいるという社会診断が正しいかどうか検証してみる必要があるのである。
千葉氏の切断論は、湯浅氏の反貧困論(社会的包摂論)とは逆の提案をしているわけであるが、それが有効であるためには、包摂を望む人たちと切断を望む人たちが、どれだけ社会にいるのか社会調査が必要かと思われる。有効な包摂主義ファシズムへの対抗思想になるかどうかはそれ次第である。 
 
 ここからは社会的予言をしておこう。社会学者ルーマンによれば、社会進化は分節化、階層化、機能分化(近代化)の段階で進んで来たが、今後、未来社会は(包摂/排除)に基づいた社会分化に進む可能性があると指摘している。おそらく、それは、社会の内にいることも社会の外にいることも、同時に肯定されるような社会であろう。社会の内を居場所とすることも、社会の外を居場所とすることも、自己選択することができる社会であろう。

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by merca | 2014-09-07 10:29 | Comments(1)

「科学を語るとはどういうことか」書評 伊勢田氏の誤算

 科学哲学者の伊勢田哲治は、戸田山和久と同じく、疑似科学批判やニセ科学批判で有名である。端的にニセ科学批判者と言えよう。
 伊勢田氏著「疑似科学と科学の哲学」については、ニセ科学批判者のバイブルであり、ニセ科学批判創始者である物理学者の菊池氏も重宝しており、疑似科学に対する両者の考えは、ほぼ思想的に同一である。
 さて、科学哲学と科学者の対談であれば、伊勢田氏と菊池氏の対談がまずは考えられるが、そうではなく、今回出版された「科学を語るとはどういうことか」という対談は、科学哲学に批判的な物理学者の須藤靖氏との過激な対談となっているのである。一体、これはどういうことか?

 伊勢田氏は、クリティカルシンキング(批判的思考)という方法論を選択し、思考の誤謬を正すというかたちで自らの哲学的思索を行って来ており、ポストモダンや社会構成主義などに批判的な立場をとっている。疑似科学とともにソーカル問題に代表されるような思弁的なポストモダン哲学を葬り去ろうとしているのである。
 一方、物理学者の須藤靖は、日頃から科学哲学不要論の立場をとっており、ポストモダン哲学のみならず、科学哲学あるいは哲学そのものを疑問視している。役に立たない目的のない学問として科学哲学を批判する。その過激さは、伊勢田氏を遥かに凌駕する。
 
 このような両者の対談を読ませてもらった。非常に興味ある点があった。同じようにポストモダン哲学を嫌うくせに、互いに分かり合える部分が少なすぎるという点である。
 因果論、自由意思論、反実在論などが論題になったが、伊勢田氏の科学哲学の主張は、悉く須藤氏の科学観からしたら非常にナンセンスであり、意味のないものだとされていく。そして、須藤氏は、哲学議論の本質をほとんど理解しない。
 実は、この分かり合えなさや対立は、科学哲学と科学者の壁というよりも、まずは伊勢田氏のクリティカルシンキング(批判的思考)そのものに原因がある。
 まず、伊勢田氏のクリティカルシンキングは、科学知と競合する知となってしまっている。別の言い方をすれば、クリティカルシンキングは極めて科学的な思考なのである。つまり、現実の科学者の思考の不十分さをより科学的にしようとするために、現実の科学者と対立し、反発されることになる。クリティカルシンキングは哲学内科学である。クリティカルシンキングに基づく科学哲学は、現実の科学に対抗し、科学をより科学らしくせんとする脅威として、現実にいる普通の科学者にはうつるのである。
 伊勢田氏がクリティカルシンキングという方法で「疑似科学と科学の哲学」を著し、不十分な科学とそうでない科学を分別しようとしたことからも、その傾向は伺われる。伊勢田氏の科学哲学が科学的思考による科学哲学であるために、知の競合が起り、かえって須藤氏と対立し、分かり合える部分がなかったのである。
 さらに、クリティカルシンキングによる科学哲学は、実験をすることのない科学的思考である。実験をする科学的思考をする普通の物理学者は、現実の実験データを尊重するわけであり、実験なしに勝手に科学について考えられては困るのである。そのような嫌悪感が須藤氏から見て取れた。科学者は、現実の実験データを根拠とする仮説を正しいとして、理論を構築していき、未来を予測し、実践に生かしていく。
 
 面白いことに、ニセ科学批判者が科学と非科学を分ける基準の重点は、実験ではなく、クリティカルシンキングであるかないかというところにある。ニセ科学批判者は科学の定義の中にクリティカルシンキングを取り入れている。
 水伝問題において、実験ではなく、菊池氏が別の基準で非科学であることを主張したことにもそれは現れている。現実の科学者は実験結果を重視するが、ニセ科学批判者の科学観においては、実験よりもクリティカルシンキングによって解釈されているかどうかのほうが重要なのである。いくら実験しても、それがクリティカルシンキングによって検討されていなければニセ科学となる。実験だけで正しいというなという価値観である。この文脈から、伊勢田氏がポパーの反証主義に否定的であり、須藤氏がポパーの反証主義に賛同したのは、よく理解できる。
 要するに、実験重視の現実の科学者と、実験よりもクリティカルシンキングを重んじる科学哲学者とが分かり合えなかったのである。
 
 伊勢田氏の盲点がある。それは、科学が社会の近代化の中で誕生した知であるという事実である。社会を抜いた科学論は空虚である。近代化(社会分化)とセットにしないと、科学は語り得ない。
 社会学的観点から科学について述べると、近代社会から科学に求められている機能は、人々に共有の真理を提供することである。この場合、科学哲学的に本当に真理かどうかは関係なく、人々が真理だと認めて共有でき、実用できることの方が大切であり、理性的啓蒙であるクリティカルシンキングの基準とは全く異なる。真理の機能に着目して科学の価値を捉える、このような立場を社会学的啓蒙という。
 社会学的観点からは、科学者は科学哲学的思考に準拠せずにひたすら実験を重視して役割遂行することで、科学的真理の生産に寄与することになる。科学哲学に煩されることなく、科学的研究に没頭できる。その意味で科学哲学を嫌う須藤氏の価値観は科学者集団の価値観に極めて適合的である。
 このように、社会分化に伴う役割関係に無知であることから、伊勢田氏は対立の真なる原因=社会的原因を認識できなかったのである。
 伊勢田氏の誤算は、クリティカルシンキングが実験を懐疑する手段としてはたらき、実験を重視する現実の科学者集団の社会的エートスに反することが分からなかったことである。伊勢田氏は、社会学的啓蒙を学ぶ必要があるのである。

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by merca | 2013-07-15 17:29 | Comments(0)