カテゴリ:理論( 168 )

時間的実体としての意味システム(意識と社会)

 生物体システムと意味システムの違いは、要素の配列の次元において、(空間/時間)という区別があることである。つまり、生物体システムにおいては、要素が空間に配置されており、意味システムにおいては時間に要素が配置されている。生物体は空間システムであり、意味システムは時間システムである。
 生物体システムの要素である細胞は、空間的に存在する。すでに過去に死滅した細胞は、現在のシステムの要素足り得ない。システムの内外環境も、空間的に存在する。
 
 しかし、意味システム(意識システムや社会システム)は、その要素である思考やコミュニケーションが、空間的に存在するのではなく、現在・過去という時間の配列の中に存在する。意識システムという意味システムにおいては、その都度の思考は、過去の思考(記憶)との関係で規定される。意識システムの要素は、現在意識化中の思念(要素)と過去に思考した複数の思念(要素)が連動し、要素間の関係が形成され、意識システムを創発させている。過去の思いと現在の思いが意識システムの要素となるのである。あるゆる意識が過去の意識(記憶)との関係で規定されることは明らかである。

 一方、社会システムの要素であるコミュニケーションは、現在生じているコミュニケーションと、直前や過去のコミュニケーションを合わせた集合である。複数の要素が、時間座標の中に収まっているのである。現在は消滅したコミュニケーションもシステムの構成要素として勘定のうちに入っているのである。もし現在生起しているコミュニケーションのみがシステムの要素なら、要素が単数となり、システムは成り立たない。複数の要素があって、かつ、それらの関係性があり、初めてシステムは成り立つ。

 コミュニケーションは、空間ではなく、時間に沿ってコミュケーションA→コミュニケーションB→コミュケーションC→コミュニケーションD→コミュニケーションEという具合に流れていく。この場合、A、B、C、D、Eと五つの時間を異にする要素からなる社会システムが生成することになる。Eの時点が現在だとすると、後の四つの要素は過去になるが、これらの過去のコミュニケーションがなければ、コミュニケーションEもシステムも創発されない。これらの5つのコミュニケーションが同一の区別コードでなされていると観察されて初めてシステムは創発される。
 そして、要素には順番、つまり序列的接続性がある。前のコミュニケーションそれ自体を観察することで、次のコミュニケーションが生ずる。曲(メロディ)に例えると、わかりやすい。音符という要素どうしの序列的つながりが曲を構成するが、過去の音符がないと、現在鳴っている音符が意味ある曲の要素として認識できなくなる。コードを外すと、不協和音となり、曲が成り立たない。曲は時間の中で生成する。同じく、意味システムも時間の中で生成する。曲も意味システムの一つである。
 
 社会システムは、時間システムである限り、三次元体としての物理的実体をもたない。社会は生物体のように空間に存在する物理的実体ではない。無論、意識システムとしての精神も、時間システムであり、空間に存在する物理的実体ではない。意味システムとしての社会システムも意識システムも、物理的実体ではないが、時間的実体をもち、存在するのである。また、意味システムにおいては、システムと環境の区別も、空間的になされない。意味境界によって区別される。
 このような空間に物理的実体をもたないにもかかわらず、確かに時間的に実在する意味システムなるものを発見したルーマンの功績は大きい。
 
 これは心身問題の解決策ともなる。すなわち、古来より哲学を悩まして来た精神と肉体の二元論問題の解決の糸口となる。生物体たる身体は、空間的システムとしての物理的実体であるが、意識=精神は時間的システムであり、時間的実体となるのである。心は時間に根拠をもち、身体は空間に根拠をもち、時空間の統合点として人間生命を捉えることができるのである。

 このように、存在の根拠について(空間的実体/時間的実体)という区別に基づき、存在を分類することが可能なのである。意識(精神)や社会は、時間的実体にカテゴライズされるのである。そして、時間的存在は、空間的存在と同等の実在性を有することを忘れてはならない。ここでは、存在(=システム)には、二種類があり、自らの要素が空間座標にある物質や生物、自らの要素が時間座標にある精神(意識)や社会に分類されることを押さえておこう。

 また、これまで、社会とその要素を空間的にイメージすることで、社会に対する認識に様々な誤謬が生じてきた。社会の空間的実体視である。例えば、国土の境界と社会の境界の混同することや、人間が社会の要素であるという考え方は、空間的実体のみが実存するという先入観に基づいている。時間的実体が確かに存在することを理解すれば、その先入観にとらわれなくてもすむのである。 

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by merca | 2016-10-02 07:23 | 理論 | Comments(0)

社会構築主義による観察 言葉(概念)が現実をつくる。

 社会構成主義における、言葉(概念)が現実をつくるとはどういうことか?
 それを説明してみたい。
 つまり、それは、言葉の意味する役割や機能を遂行することで、あとから現実が構成されるというメカニズムのことである。言葉が先にあり、後から認識対象が形成されるというわけである。
 簡単な例でいうと、一本の竹竿があり、ある人が釣り竿と見なし、釣り竿として使用できれば釣り竿となるし、別の人が武器と見なし、武器として使用すれば武器となる。また、さらにまた別の人が物干竿として使用すれば物干竿になる。このように一本の竹竿について、釣り竿、武器、物干竿という概念を付与し、そのように機能すれば、本当に釣り竿、武器、物干竿という認識対象が出来上がり、実在することになる。
 そして、釣り竿、武器、物干竿という三つの認識は、どれも正しく、相対主義となる。一つの対象に複数の認識が妨げ合わず成り立つわけである。認識主観の側に認識の原因があり、認識主観のもつ目的に応じて、複数の真理がある世界となる。一つの真理しか認めない自然科学とは異なり、社会科学の世界では複数の真理が成り立つ相対主義の王国となる。 
 要するに、以上のように、何々として見なして使用することで、後から認識対象が構成されることになる。

 また、別の角度の例をあげてみたい。例えば、教師は教員資格に合格して生徒に教えるという役割を遂行することで教師として世間から認められる。役割存在は、役割を遂行し、役割が他者から承認されてはじめて役割存在となるわけである。教師は最初から教師になる人物に内存していた性質ではなく、役割という概念が先にあり、役割付与とその遂行を通して後から現実が形成されることになる。
 一般化していうと、言葉を付与され、その機能を果たしたり、その役割を遂行することで、事後的に社会的現実が形成されることになる。
 虐待という言葉が人々の相互作用を通して虐待をつくり、セクシャルハラスメントという言葉が人々の相互作用を通してセクシャルハラスメントをつくる。感情のレベルでも、親からの体罰的躾を虐待と解釈することで、あとから虐待を受けたという恨みの感情が生まれることがある。感情さえも後から言葉によってつくられる。犯罪行為も、法律による裁判を通して犯罪として社会的に構成される。
  このように、社会的事実においては、言葉(概念)が先にあり、後から現実が構築される。ポンイトは、後から構成されたとしても、認識対象が全くの無ではなく、実在するものとして人々の前に現象化するということである。社会的事実は、人々の意識(意味世界)の外にあるのではなく、意識を離れては成り立たない意存的対象ということになる。社会構築主義の立場からは、人々の意識から全く独立した自存的対象としての社会はあり得ないと結論付けられることになる。ちなみに、社会のメカニズムや構造は、人々の意識から独立して実在する自存的対象であると主張する批判的実在論の立場とは全く異なるわけである。
 
 そこで、種々の分類概念や分析概念をつくりだす社会学者が気をつけないといけないのは、自らがつくった社会理論が社会思想として人々に作用し、本当に社会的事実となることである。いわゆる予言の自己成就である。社会学理論が社会をつくるのである。マルクス主義がそれである。
 批判的実在論も例外ではなく、批判的実在論の科学観が社会をつくるのである。社会構築主義の観点からすると、近代社会における批判的実在論の役割は、科学を確固たる真理として社会に流布し、科学を正常に機能させることである。

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by merca | 2016-01-03 12:26 | 理論 | Comments(0)

「批判的実在論を考える」第2回 社会構築主義の克服

2 批判的実在論は、社会構築主義を克服したか?
 批判的実在論は、社会構築主義と一線を画する。社会構築主義は、科学も含む全ての人間の知識は社会的に構成された相対的なものであり、客観的なものではあり得ないと主張する。しかし、批判的実在論においては、人間の意識とは独立に外界に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとり、それらを把握することが科学の目的であると主張する。
  実験という方法で「閉じられた系」を作り出し、近似的に生成メカニズムや構造を解明していくことになるという。実験は意識が予測していない結果を出してくれるわけであり、意識の外にある自然界からの応答であるとも言える。つまり、人間の意識とは独立した自然界からの反応をメッセージとしてキャッチすることが実験の目的である。このような実験の意義については、自然科学の世界では当たり前の話であり、何も批判的実在論でなくても、たぶん科学者は普通にそのように考えていると思われる。実験が意味をもつためには、意識とは独立した存在=自存的対象を前提とする必要があるというわけである。
 さて、ここでポンイトは、外界に実存すると言っても、素朴実在論や経験的実在論のように経験的に存在する事物が実在すると言っているわけではないのを押さえておく必要がある。経験的に実在する事物は、意識によって加工された意存的対象にしかすぎない。例えば、目の前にあるイスや机などである。これらのように意識によって認識された目に見えたままの世界は、実在物ではなく、かえって意識や言葉によって構成されたものにしかすぎず、社会構築主義によってその実在性を骨抜きにされるのである。
 要するに、批判的実在論は、直接観察可能な事物=現象が実在すると言っているではなく、直接観察不可能であり実験でしか把握できないものこそが実在すると言っているである。この直接観察不可能で経験を越え、実験の積み重ねによる論理的推論やリトロダクションでしか捉えることができないものとは、生成メカニズムや構造のことであり、これのみが意識や社会による構成とは別に、世界で実在するというのである。
具体的にいうと、イスや机は意識によって把握された概念的存在=人工物であるが、イスや机を構成する木の細胞や細胞を構成する分子は実在するというのである。おそらく自然階層ごとの一個体のみが実在するということになると思われる。このような立場は、自然科学においては、科学的実在論というかたちで、洗練化されつつある。批判的実在論は、どらちかというと、社会科学をターゲットにしている。
 
 批判的実在論においては、人間の心も社会も直接観察不可能であるが、階層として異なる次元に独立に実在するという立場をとる。しかし、批判的実在論は、自然のメカニズムのように不動の存在として、社会が実在するとは捉えていないようである。
 バスカーは、社会構造に制約されたかたちで人間は相互行為をするが、その相互行為を通して社会構造も変化していくと捉えている。また、変化した社会構造が相互行為を制約する。パスカーは、このような螺旋状の循環的相互作用を見抜き、「社会構造とエージェンシーとの相互作用における分析的サイクル」として定式化している。これは、社会学者ギデンズの構造化理論と同型の社会理論である。
 
 しかし、ここまでくれば、社会構築主義とあまり変わらなくなる。基本的に、社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 
 批判的実在論と異なる点は、社会構築主義が社会の中に意識を取り込んだ理論にしている点である。パスカーによる「社会構造とエージェンシーとの相互作用論」では、意識の次元と存在の次元が交わることがない。ギデンズの構造化理論も同じてある。当事者の意識の次元と社会構造の次元を独立したものとして区別している。
 一方、社会構築主義は、意識の次元の内容が存在次元の客観的な規範=社会構造として外化し、さらにまたそれを意識が内在化することで個々人の行為に制約を加えるという構図になっている。
 かたやバスカーの相互作用論では、どのように社会構造が相互行為を制約し、どのように相互行為が社会構造を変化させるのか具体的に説明がない。
 というよりか、社会構造と相互行為の相互作用のメカニズムを説明していない。意識(=心)と社会が別次元の階層に属するという批判的実在論の立場からは、原理的に相互行為と社会構造の具体的関係は解明されないことになるのである。
 
 このような困難は、実はルーマンのシステム論では克服されている。別次元にありつつも、社会も意識も同じ意味システムであるという視点をとることで解決される。つまり、コミュニケーションを要素とする社会システムという発想で解決できるのである。
 コミュニケーションは、情報、伝達(発信)、理解についての選択からなる。意識システムが他の意識システムに何を伝えるか選択し、その伝達方法も選択し、そして他の意識システムが選択的に理解する。この一連の過程がコミュニケーションである。そして、コミュニケーションがどのようなコードに準拠して創発されたかで、創発されるシステムの種類が決まる。創発されたシステムは、コミュニケーションを通して自己を再生産する。事前のコミュニケーションが後続するコミュニケーションの前提となることで、コミュニケーションを再生産していくことになる。
 いずれにしろ、社会の創発に関して、意識システムが介在することになるわけであり、意識と存在の並行論とはならない。ルーマンは、社会構築主義と同じく、意識と存在の交差論の立場をとる。

 社会構造(ないしは社会システム)が前提となり、相互行為(コミュニケーション)をつくり、相互行為(コミュニケーション)が社会構造(ないしは社会システム)をつくるという循環過程については、社会学の本質的メカニズムにかかわる問題であり、簡単に語り尽くすことはできない。
 とりあえず、ここでは、並行論と交差論という二つの立場があることを確認しておこう。そして、批判的実在論が並行論をとることで、人々の意識によって社会が構築されるという相対性を排除していることを確認しておこう。

参考文献
 ロイ・バスカー著「科学と実在論」
 バース・ダナーマーク他著「社会を説明する」

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by merca | 2015-12-31 18:15 | 理論 | Comments(0)

「批判的実在論を考える」第1回 統計的実証主義の克服

 「批判的実在論を考える」第1回 
   サブテーマ 批判的実在論は、統計的実証主義を乗り越えたか?

 ロイ・バスカーを創始者とする超越論的実在論の思想的発展形態である批判的実在論が、統計的実証主義(エビデンス主義など)やそれと対立する社会構築主義を乗り越えたと豪語しているが、それが本当か理論的に検証してみたい。

1 統計的実証主義の克服・・・メカニズムを無視した認識論的誤謬
  批判的実在論は、とにもかくも、ヒュームに源流を持つ経験主義を嫌う。経験主義は、統計的実証主義(とりわけその最高形態であるエビデンズ主義)として近代科学思想に根付いている。統計的実証主義においては、現象の根底にある生成メカニズムが解明されなくても、統計的に有意な相関関係や因果関係を見いだすことができれば、科学的真理として認定し、実用することになる。その典型が医学における医薬品の効果におけるエビデンス主義である。
 しかし、批判的実在論の立場からは、生成メカニズムが解明されていない現象は、たとえ統計的に有意であっても、科学的真理として扱われず、実験を繰り返し、メカニズムが解明できれば、そのメカニズムそのものが科学的真理となる。
 
 「全てのカラスは黒い」という仮説は、白いカラスが発見された場合、統計的実証主義からは否定される。しかし、カラスの遺伝子構造というメカニズムが解明され、発見された白いカラスが遺伝子病からたまたま白くなっているだけであると分かれば、「全てのカラスは黒い」という仮説は、否定されなくなるし、このような例外についても遺伝子構造から説明可能となる。個体の内部構造が正常であれば、「全てのカラスは黒い」ということになる。反証主義のポパーは単純すぎるのである。
 この場合も、批判的実在論においては、「全てのカラスは黒い」という現象に関する命題が科学的真理であるわけではなく、カラスの羽を黒くする遺伝子構造というメカニズムが科学的真理ということになる。

 うつ病についても、脳内のセロトニン不足にあるという仮説があるが、どのような外部構造と内部構造を条件として、セロトニン不足がうつ状態という気分障害をもたらすのか、そのメカニズムを解明しないがきり、十分な科学的真理とは言えない。例えば、ストレスの少ない安定的環境にあれば、セロトニン不足であったとしても、気分障害という現象が発現しない場合もあると考えられる。その場合、環境が生成メカニズムの発現の抑止要因となっている。メカニズムが作動しているとしても、内外に存在する多様な諸要因が力としてはたらき、メカニズムによる症状発現を止めたり、変形したり、その程度を左右する。パスカーは、多様な諸要因が存在する状態のことを「開かれた系」と定義している。人体という生命体は「開かれた系」である。内外環境という要因を無視して、現象が偶然に生じることもあるという可能性を排除する統計的実証主義は不完全な認識なのである。研究対象となる現象の生起は、多様な内外環境に左右され、偶然の産物にしかすぎないおそれがあるのである。
 
 多要因の力関係で構成された「開かれた系」においては、様々な要因のペクトルの均衡点が現象であり、その意味において、現象は諸要因に影響される偶然であり、規則性を見いだすのは困難になる。これは、いわゆる複雑系である。そこで、批判的実在論においては、内外条件を統制し、実験を繰り返すことで、相対的に「閉じられた系」をつくりだし、純粋に生成メカニズムを浮き彫りにし、生成メカニズムを解明することを科学の目的として定めている。
 
 しかし、複雑系で注意しないといけないのは、創発特性である。批判的実在論においては、おおよそ原子、分子、生命体、精神、社会の順番において、階層が実在すると考えられている。例えば、生命体は、一つの階層であり、分子構造のみから説明することはできない性質=創発特性をもつ。従って、生成メカニズムとは、階層化された存在の働きに帰属することになる。
 実のところ、批判的実在論は、階層性という一種のホーリズムを密輸入している。複雑な分子構造からなる細胞という生命体が一個体として実在することを認めている。
 創発特性は、要素を条件とするが、要素に還元できない全体性をもつ。この全体性が要素の存在の条件として逆に作用もする。例えば、うつ病がセロトニン不足という脳神経システムたけでは説明がつかず、精神という別の階層に属する病気であるとすると、セロトニン不足は一つの条件ではあるが、精神=心的システムの病理となり、精神分析学が有効となるわけである。
 
 批判的実在論が、自然階層における一個体を実在するものと見なし、ホーリズムを科学に持ち込んだ功績は大きいと思われる。
 要素同士の相互作用、外部との相互作用だけから現象を説明するのなら、還元主義の一種にしかすぎないが、要素や外部という要因以外に、階層に伴うシステムとしての全体性が実在し、それがメカニズムの帰属先となっているという認識なのである。統計的実証主義は、要素同士の相互作用、外部との相互作用の関係を捉えることしかできないが、批判的実在論は階層システムを捉える。ただし、階層システムを捉える方法が客観的ではない。自然階層が存在すること自体は、究極的に学者の哲学的直観の産物なのである。つまり、経験を越えた超越論的な直観である。この直観に実証的根拠はないが、論理的にそれを前提とすることなしに現象を説明することができないというレベルでないといけない。それが批判的実在論の本質的方法であるリトロダクションと呼ばれる知的作業である。
 例えば、ハーバーマスのコミュニケーション的行為論において、理想的発話状況の前提として、真理性、正当性、誠実性の三つをあげているが、これは統計による実証的根拠によって得られた知識ではなく、リトロダクションによって得られたメカニズムなのである。ある現象を説明するのに前提とせざるを得ないものを論理的直観で把握することがリトロダクションなのである。ほとんどの社会理論がこの方法で見いだされており、リトロダクションによる生成メカニズム把握こそが科学の目的であるのである。統計的データは、その手段にしかすぎないのに、統計的モデル理論が幅を利かせている。しかし、統計的データのみからはいかなる理論も構築できない。
 論理的直観に対して科学的根拠はないと批判することは可能であるが、批判的実在論は論理的直観なしにメカニズム把握はできないと考えているのである。

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by merca | 2015-12-30 10:44 | 理論 | Comments(0)

超越論的実在論の科学観・・・メカニズム論の肯定

 超越論的実在論は、ロイ・バスカーが打ち立てた科学哲学である。超越論的実在論は、批判的実在論として発展していき、一つの思想的潮流を形成している。さらに、批判的実在論においては、今、社会構成主義=相対主義を越えた社会科学を基礎付ける哲学として注目されている。批判的実在論の哲学的基礎は、全てロイ・バスカーが提唱した超越論的実在論にある。

 超越論的実在論による科学観によれば、科学が追求する真理とは、観察可能な経験的現象ではなく、その背後にある実在する生成メカニズムについての真理であるという。しかるに、これまでの科学哲学においては、ヒュームの古典的経験論を源流とする経験論的実在論が科学哲学の主流を占め、経験的実在論のみが科学を基礎付けると勘違いされてきたというのである。経験論的実在論には、ポパーの反証主義も含まれるし、エビデンス主義に代表される統計的実証主義も含まれる。
 ロイ・バスカーは徹底的に経験的実在論の科学観を否定する。最大のアンチ・ヒューム主義者である。カントの認識論も超越論的観念論として位置づけ批判している。因果関係は人間の認識の形式ではなく、独立に外部世界に実在するメカニズムの発現であるという立場から、カントの観念論も否定される。
 近代科学を基礎付けることができるのは、経験的実在論でもなく超越論的観念論でもなく、唯一、バスカーによる超越論的実在論のみであるというわけである。言い換えれば、実験という科学の営みが意味をもつのは、超越論的実在論の世界観以外にはあり得ないということである。実験は、事象間の相関関係を検証するのが目的ではなく、その背後に潜むメカニズムや構造を見つけ出すことが目的である。色々な条件で実験し、探ろうとしているのは、単に事象間の統計的な相関関係ではないのである。科学者は、メカニズムを解明するために条件を変えていき実験しているわけである。
 例えば。統制された条件(閉じられた系)において、水は100度で沸騰するという命題が実証されたとしても、その命題は何ら科学的真理ではない。水の分子構造からその現象が説明されてはじめて科学的真理となるのである。つまり、メカニズムが解明されてはじめて科学的真理となるのである。また、気圧が低ければ、100度でなくても、水は沸騰するわけであり、それは水の分子構造を把握してはじめて説明できる現象である。
 医学の分野でも、偽薬効果が統計的に実証されても、そのメカニズムが解明されない限り、偽薬効果は科学的真理ではないのである。この点を勘違いし、偽薬効果を科学的真理だと思い込んで議論するニセ科学批判者はよく見かける。
 
 経験的実在論は、経験したままが真実だと勘違いしているのである。これを認識論的誤謬という。人間が認識したままの世界が真実であり、それが科学的知識であると思い込む誤謬である。
 手品を例にとろう。手品で人間を箱の中に入れて切断し、また体がもとにもどるというものがよくあるが、認識したままが本当なら、人間は切断されていることになる。また、ステックから鳩がでる手品なら、認識したままでいうと、本当にステックから鳩が生まれたことになる。お客は、手品で起った現象を真実だとは誰も思わない。手品には必ず種があり、背後に錯覚させるメカニズムがあるのである。もし種がなければ魔法使いだということになる。経験的実在論者は、手品師を魔法使いだと勘違いし、経験的に認識した出来事をそのまま科学的真理である独断するのである。
 バスカーの言わんとすることは、このような経験的現象を絶対化する経験的実在論に基づく科学は、真の意味で科学足り得ないということである。超越論的実在論からすると、事象間の有意な相関関係の統計的検定さえも、科学的根拠になり得ないのである。メカニズムを提示してこそ真なる科学的根拠となるのである。

 西條氏の構造構成主義の科学観も、超越論的実在論から否定される。構造構成主義は、外部の存在の実在性を否定し、人間の共同主観的な言葉の使用法の同一性を科学の根拠とする哲学的立場である。カントの観念論に近い立場である。
 ロイ・バスカーは科学を人間の社会的活動であると認めつつも、人間の認識とは独立に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとるわけであり、明らかに外部存在の実在性なしに科学が成り立つとする構造構成主義の科学観は否定されることになる。

 社会科学的関心からすると、最大の問題は、超越論的実在論ないしは批判的実在論が、社会構築主義を克服している科学哲学になりうるかである。反証主義や単なるエビデンス主義に代表される統計的実証主義の科学観よりも深い科学哲学だとは認めよう。
 実は、批判的実在論は、社会学にとっては、一つの救いとなる。理論社会学が提示する統計的根拠のない社会理論は物語ではなく、実在する社会のメカニズムであると言えることも可能であるからである。例えば、パーソンズの社会体系論は、観念論的ではなく、実在する社会のメカニズムや構造になるのである。統計的根拠がない社会理論は全て個々の学者によって構築された物語であるという考えを退け、相対主義を回避できるからである。
 
 しかし、事態はそんなに簡単なことではないだろう。社会のメカニズムを認識することが社会学の役目であるが、システム論のように社会が人間の行為ないしはコミュニケーションという要素から構成されているシステムだと考えると、人間は再帰的に社会のメカニズムを構築することもできるからである。社会のメカニズムに意義を申し立て、メカニズムの発現を阻止することもできるのである。 批判的実在論は、社会はその都度創発されものであるとするルーマンのラディカル構築主義と真っ向から対立する。批判的実在論は、マルクス主義同様に存在論的社会観に立脚するが、ルーマンの社会システム論は創発論的社会観に立脚する。
 
 超越論的実在論のバスカーは、(閉じた系/開いた系)を区別し、実験は人間が作為的に閉じた系を作り出すことで可能となると考える。開いた系においては、多様な諸要因が働き、純粋にメカニズムが発現したり、発現を認識できたりし得ないというのである。社会は、雑多な開いた系であり、社会学では実験は困難であるという。
 しかし、ルーマンによれば、社会は開いた系ではなく、むしろ閉じた系、区別によって閉じられた閉鎖システムである。区別によって閉じられることで社会は創発されるのであり、バスカーの社会観とは逆である。バスカーは、社会よりも自然は閉じられており、実験しやすいと考えているが、本当は社会のほうが閉じられているのである。社会システムは自ら閉じることで社会システムたりえるのである。自ら条件統制された内部環境をつくりだすのである。一つの社会がどのような区別コードに準拠して閉じているか認識すること=第二次観察することが、社会の構造ないしはメカニズムを捉えたことになる。しかし、それは創発されたものにしかすぎず、創発された時には実在性はあるが、そうでない時には、可能態としてあるだけで実在性はない。
 例えば、コンビニに行くと、お金を払えば商品が手に入るという因果仮説は、店員と客が経済システムを創発することで可能となるのである。批判的実在論者ならば、売買行為を資本主義社会のメカニズムの発現として説明するであろう。資本主義社会が実在するので売買行為が存在するというわけである。
 しかし、究極の社会理論からは、それは逆である。むしろ売買行為が発生したから、資本主義社会が実現されたと考えるのである。もし売買行為が一切起らなかったら、資本主義社会は創発されず、そのメカニズムも実在しないのである。
 システム論社会学では、人々の相互行為によってメカニズムはあとからつくられるものなのであると考える。また、他人の意思による自己選択(他者性)は自己の意思を制限することになるので、それが社会の拘束性の源になる。最初に不動の資本主義社会のメカニズムが実在し、それが個々人の意思を制約するというのは、マルクス主義の錯誤的発想である。社会の拘束性と外存性は、大澤氏の第三審級論によって解明されているとおり、他者とのコミュニケーションによって作動する。
 
 とりあえず、ここで言えることは、批判的実在論は、自然科学には通用するが、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるかぎり、社会科学の世界には不適合であるということである。
 社会には、つくられざるメカニズムは存在しない。その代わり、その都度、創発される閉じたシステムがあるのみである。

  参考
「科学と実在論」ロイ・バスカー著
「「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想」
 http://mercamun.exblog.jp/14829440/ 
「偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!」
 http://mercamun.exblog.jp/14839902/
「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」
 http://mercamun.exblog.jp/14793660/

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by merca | 2015-12-21 00:11 | 理論 | Comments(0)

柄谷行人の交換史観による憲法9条の存在意義

 柄谷行人は、現代日本における真なる思想家である。独自の思想を構築しており、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズに匹敵する現代思想家である。
 柄谷行人は、カントを援用しながら、長年にわたりマルクスと向き合うことで、一つの体系的な社会思想を完成させたのである。それが「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」という三部作を通じて完成させた交換様式に準拠した社会理論である。私は、それを交換史観と呼びたい。つまり、社会(構成体)の在り様は、交換様式という経済構造によって規定されるという理論である。
 ただし、実証主義的な方法はとられていないので、社会科学的に一つの確立した社会理論として見なすことができるかどうかは検討の余地はあるが、マルクス主義よりも説明能力が高い理論体系であることには間違いがない。
 
 マルクス主義では、社会構成体においては下部構造が上部構造を規定すると考えるが、その下部構造についての捉え方が異なる。マルクスは下部構造を生産様式としてのみ捉えたが、柄谷行人は下部構造を交換様式として捉え直す。従って、マルクスにおいては上部構造だと考えられていた国家や民族共同体は、下部構造として見なされる。ここが柄谷行人の交換史観における最大の思想的な独創性である。
 
 交換史観について説明しよう。まず、三つの交換様式があり、それが混在しているのが現実の社会構成体であるという。その三つとは、民族=ネーションに準拠する互酬(贈与-返礼)という交換様式A、国家=ステートに準拠する略奪と再配分(支配と保護)という交換様式B、資本(商品交換)に準拠する交換様式Cである。そして、近代社会は、基本的に交換様式Cが中心となる社会構成体である。

 マルクスは、国家主義と民族主義を単なる上部構造として甘く見ていたために、必然的に高度に発達した資本主義社会で社会主義革命が起ると考えてしまった。しかるに、先進国の資本主義社会では社会主義革命は起りはしなかった。先進国の資本主義社会では、民族としての平等性や統合性を強調したり、国家が資本に介入して不平等を是正したりすることで、階級格差による不満を押さえて来たために、共産主義革命などは起らず、依然として資本主義経済のままである。
 また一方で、多くの社会主義国は、民族主義をかかげる独裁者が現れるなどして、国家の力が強くなり、全体主義化し、人々の人権や自由を束縛した。つまり、国家主義と民族主義によって、資本主義社会が延命し、社会主義革命が全体主義化したのである。
 柄谷行人によれば、国家主義と民族主義は上部構造ではなく、社会構成体を決定する交換様式という下部構造なのであるが、マルクスはそれを見損なったというわけである。すなわち、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、全ての主権国家における国民社会においては、資本=民族=国家が三位一体となるボロメオの環が機能しているというわけである。ちなみに、これは、システム論的には、三つのシステムの構造論的カップリングとして記述できる。
 ともあれ、資本主義社会が福祉国家として階級格差を是正し自らを延命するとともに、社会主義社会においても、ソ蓮が崩壊し複数の民族国家に分裂し、中国が市場経済を導入するなど、民族主義や資本主義を導入することなしには、成り立たなくなっているのである。
 つまりは、政治形態が資本主義であれ、社会主義であれ、主権国家としての国民社会は、資本=民族=国家という三位一体のボロメオ型社会となるというわけである。社会学でいとうところの後期近代社会は、全てこの形態をとることになり、原則的に社会進化は終焉するわけである。柄谷行人は、これをフクヤマの歴史の終焉になぞらえている。
 しかし、柄谷行人は、この先に一つのユートピアを希求する。それがカントのいう世界共和国である。異なる国民社会どうしが互酬(贈与-返礼)を結び、超越論的仮象としての世界共和国を目指して、諸国連邦を形成するということである。交換様式Aの世界規模での回復としての交換様式Dによる下部構造をもつ社会構成体の実現である。
 ちなみに、交換史観では、世界社会は、四つのレベルで考えられている。交換様式Aのレベルの氏族社会=ミニ世界社会、交換様式Bのレベルの世界帝国、交換様式Cのレベルの世界経済、そして交換様式Dのレベルの世界共和国である。
 社会システム論の視点からいうと、柄谷行人が希求する交換様式Dの世界社会とは、交換様式A、交換様式B、交換様式Cが全て対等に自律的に機能分化する社会を意味している。それは、友愛をもたらす交換様式A、平等をもたらす交換様式B、自由をもたらす交換様式Cの三つが対等に互いに自律的に関係しあう世界規模の社会である。
 
 最後に、永遠平和を提唱する戦争放棄の憲法第9条こそが、日本国による全世界の国への贈与となり、世界規模での交換様式Dとしての意味を持ち、来たるべき世界共和国への第一歩となると提言する。
 しかし、武力を放棄することで、他国もその返礼として侵略しないという関係が本当に形成されるのか?
 ここに不安を抱く人も多いだろうが、これは他国が日本の憲法9条をどう評価しているか調査することでわかるであろう。戦争をしない憲法をもつ国を世界の諸国はどう観察するのだろうか?
 これは、自国の平和のみを願うという偏頗な意識ではなく、世界の平和を望むという高い意識の人々が登場することになしには困難だと思われる。交換様式Dによってつくられる人々の道徳意識は、「各人は他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」であるからである。これは人権思想の根幹でもある。
 
 もはや世界平和なしに一国の平和もあり得なくなった時代であり、日本国のためではなく、世界平和のために憲法9条は必要だということである。
 このことを了解した上で、交換史観に根拠付けられた柄谷行人の護憲思想が若者に浸透していき、憲法9条改正反対運動の思想的根幹となっていくか観察していきたい。
 今流行っている学生社会運動であるSEALDs「自由と民主主義のための学生緊急行動」等に代表される平和主義の若者たちが、全共闘時代における古典的な唯物史観(マルクス主義)ではなく、世界平和を掲げる柄谷行人の交換史観を運動の思想的なベースとしていく可能性はないだろうか?平和主義運動をする若者たちが、こぞって交換史観を自己の思想的アイデンティティとしたとき、柄谷行人は今世紀最大の思想家となろう。
 やっと、マルクスの唯物史観ではなく、柄谷行人の交換史観による世界社会革命が始まりつつあるのである。

  参考
・マルクス主義でいう社会構成体という概念は、いわゆる社会学(システム論社会学)でいう社会ではない。この点を押さえておくべきである。社会学でいう社会とは、あくまでも、創発されたコミュニケーション(あるいは行為)の総体であるが、マルクス主義でいう社会構成体とは、コミュニケーションの結果生じた物象化された社会関係の総体をさす概念である。創発論的社会観ではなく、存在論的社会観に準拠した概念である。
 実のところ、社会システム論の観点からは、社会構成体は実体ではなく、(意識/存在)というコードで第二次観察された社会の記述にしかすぎない。


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by merca | 2015-07-12 10:24 | 理論 | Comments(0)

千葉雅也の切断論に対する哲学的批判

 哲学者・千葉雅也が切断論において唱える切断とは、非意味的切断のことである。非意味とは、自己選択によらない偶然の切断のことを指している。この点、ルーマンの自己選択=意味による複雑性の縮減とは根本的に異なる形而上学的概念であり、意識レベルではなく、存在レベルで語られている。
 
 意識レベルでは、存在論的に接続していても、意識の外においやることで、切断することはいくらでも可能である。つながっているもの全てを意識しているわけではなく、意識は常に意識されるものとされないものの区別をもち、意識化された事物のみを接続していると認識する。意識化されたものは認識作用を通じて接続されていく。そもそも、意識とは、意識化されていないものを意識するとともに、すでに意識化されたものを意識の外においやる運動である。接続と切断を同時に行う運動である。意識は、意味によって接続と切断を同時に行う同時的弁証法なのである。
 一方、切断論のいう非意味的切断(あるいは非意味的接続)は、このような意識が行う接続・切断運動のレベルではなく、意識の外での出来事であり、存在論レベルのことを指している。

 簡単に言うと、もともと永遠に無関係な存在どうしがあったり、切断されたら永遠に無関係になるものどうしがあったりするということである。しかし、そのような存在論は、関係主義に基づく哲学や仏教思想では否定されている。一切は一切のものと関係しているとする形而上学とは真っ向から対立する。全てのものは差異関係にあるという構造主義、全ての存在は関係し合っているとする縁起の法、それに全ての存在が全ての存在を映し出すというライプニッツのモナド論とも相容れない。
 
 このような関係主義の哲学を否定するために、千葉氏は、関係の外在性という観念を持ち出す。関係の外在性とは、関係が変わっても、関係項の本質が変わらないという原理である。例として、コップはテーブルの上にあるという位置関係を持ち出す。確かに、コップをテーブルから離しても、コップはコップとして変化しない。位置関係が変化しても、関係項の観念は変化しないわけである。コップの内的本質にとっては、テーブルは無関係であり、テーブルとの関係には左右されず、分離されているというわけである。コップが存在する原因はテーブルであるとは言えない。

 しかし、この議論には、この性=単独性が抜け落ちている。このコップがこのテーブルの上にある場合、このテーブルにのっている状態があってこそ、このコップをこのコップと指し示すことができる。このテーブルの上になければ、このコップではなく、別のコップになってしまう。このコップは、このテーブルの上にあることによって、このコップたりえ、あのコップと個別的に区別されるのである。このコップと別のコップの区別は、位置関係も含めて全ての具体的状態を含んでいる。世界に一つしかない個別=単独のものとしてコップを捉えると、このテーブルの上にあるという位置関係は根本的に重要である。このコップがこのテーブルの上に存在することによって、別のコップがこのテーブルの同じ位置に存在することができない関係にあるのである。かけがいのない今の瞬間にどのような具体的状態にあるのかという、この性は、明らかに全ての存在との位置関係に規定されている。
 そもそも、ライプニッツ の不可識別者同一の原理からしても、この世に同じ位置を占める存在はなく、全ての存在が全ての存在と異なるという関係性でかえって結合されているのである。
 
 実は、千葉氏の切断論は、一見、存在論を装いながらも、個別的関係=存在論的関係をコップの概念の同一性の問題にすりかえているのである。具体的個物は、他の具体的個物との関係によって、具体的個物足り得るのである。私の考えからすると、関係の外存性は、むしろ概念のレベルあるいは意識のレベルで成り立つのであり、存在論のレベルでは成り立たない。
 
 いかなる切断、無関係化も、存在論のレベルでは不可能である。そもそも、関係の存在形式には、最初から項と項が区別=切断されていることと同時に、項と項が不可分で同一であることが含まれている。関係性とは、切断=別異と接続=同一の二つの要素を含むのである。もし関係するものどうしが完全に同一なら関係は成り立たないし、もし完全に別異ならば無関係となり成り立たなくなる。関係するものどうしは、同一でもなく、別異でもなく、同一かつ別異でもなく、それら全てを離れても成り立たないと表現する他ない不思議なるものであり、それが存在の実相である。
 また、このような同一性と別異性を含んだ一切と一切の関係の形而上学は、ホーリズムに還元されず、他者性も確保できるのである。ジャン=リュック・ナンシーの「複数にして単数の存在」などにも、関係項どうしが同一性と差異性を含むものとして捉えられているが、ホーリズムに陥っていない。レヴィナスにおいても、他者性は他者との完全な切断ではなく、むしろ顔と顔の関係性のおいて捉えられている。
 関係性が即ホーリズムにつながるという千葉氏の思考は短絡的である。むしろ無関係性が独我論に陥るという論理的必然性こそを見極めてほしい。
 
 ちなみに関係しているものは常に変化している。静止していては、互いに影響を与えていないことになり、関係していないことになるからである。関係することと、変化することは同一である。縁起の法と所行無常は同一である。変化するとは、関係する他者と関わる側面を変えていくことに他ならない。接続している部分と切断されている部分を変えていくということである。

 完全に無関係なものどうしは、論理的に互いを認識できないことになり、相互に独立したバラバラな独我となる。認識もできないし、関わることもできないものは、我々にとって存在しないのと同じであり、哲学的に思考することもできない。別の言い方をすると、世界には、関係の中にないものは存在しないのである。
 さらに、世界には究極的に一つの全体的存在しか存在しないというホーリズムも独我論=実体論である。世界に一つの存在しかないのなら、関係はあり得ない。関係は複数の存在が必要だからである。同じく世界には互いに影響を与えない存在がバラバラに存在するという原子論も、自分以外の存在を必要としない独我論=実体論である。ホーリズムも切断論(無関係論)も、他者に依存しない独我論という点においては全く同一である。切断論だけではなく、その反対であるホーリズムも関係性を否定する世界観であるという論理が千葉氏には全く哲学的に理解できていない。千葉氏は、ホーリズムこそが関係性を否定する形而上学であるということがわかっていないので、レヴィナスやナンシーの哲学も理解できていないと考えられる。千葉氏は、一切の存在が実体なき空なるものであるという龍樹の中論を勉強し、出直すべきである。
 
 最後に切断論を脱構築しておこう。
 切断とは接続されているものを切断するわけであり、接続とは切断されているものを接続するわけであり、そのような運動としてしか捉えることができず、接続と切断は関係し合っており、互いに前提となっている。接続が絶対あり得ない非意味的切断のような完全な切断は、自己矛盾的であり、決して成り立たない。完全な切断は、接続を肯定しても否定しても成り立たない。

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by merca | 2014-06-15 23:10 | 理論 | Comments(0)

千葉雅也の「切断論」よりもルーマンの「複雑性の縮減」の方が有効

 哲学者・千葉雅也が「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物を世に出した。日本のポストモダン思想の系譜でいうと、浅田彰の「構造と力」、東浩紀の「存在論的、郵便的」に続く大作であると騒がれており、注目されている。余談ではあるが、この人物が若手社会学者・古市憲寿と手を組むと、どうなるのか楽しみである。
 しかし、千葉氏が唱える「切断論」は大した思想ではない。接続過剰社会において、多数の関係に束縛され身動きが取れなくなることから解放されるために、自由に接続したり切断したりしながら生きようということに他ならない。言っていることは、おそらくノマド論と変わらない。
 
 千葉氏は、このような切断論を唱える思想的根拠をドゥルーズの哲学に求める。要約すると、ドゥルーズの哲学が、世界の連続的同一性(ホーリズム的関係主義)を唱えるベルグソンの生の哲学と世界の切断的原子論的世界観(無関係主義)を唱えるヒューム哲学の中間にあることを確認した上で、あえて切断の重要性を強調する。切断がなければ、個体の生成も他者性もなく、全てが一体化した世界に飲み込まれるというのである。最後に、神のモナドを抜いたモナドロジーこそがドゥルーズの哲学の究極的立場ではないかと類推しているように読め、千葉氏が唱える切断論の哲学的根拠をそこに定めている。
 かなり大雑把な要約で申し訳ないが、結局、思想的本質を述べるとかようになる。これ以上これ以下でもない。全体性や同一性を否定・批判する思想的傾向は全くポストモダン思想のそれであり、進歩はない。共同体や連帯性を主張する右翼思想や絶対主義を主張する左翼思想とは異なり、やはりポストモダン的である。
 ただし、これまでのポストモダン思想と少し異なる点は、切断論による関係主義批判を強調した点である。全てのものは差異関係の中にあり、実体がなく、相対的であるというポストモダンの関係主義から距離をとっている。全体性に準拠するツリーの関係のみならず、横の関係=リゾーム的関係も過剰ならば切断すべきだと論じている。全体性や共同体に包括されない単独的関係=非対称的関係も絶対化しないところに少し斬新さがある。現代社会が接続過剰であり、人々が身動きできなくなってしまっているという感覚があるのだろう。若者や老人の孤独化が問題視されるなか、逆に切断論は孤独化・原子化を勧める。接続可能な社会という言葉も流行っているが、その反対を主張している。

 千葉氏の切断論は、そもそも(接続/切断)という区別に準拠しているわけであるが、この区別に対して(全体/部分)と(現実態/可能態)という二つの区別から第二次観察していくことが可能である。
 例えば、あるものに全ての側面において接続しているのが嫌なだけであり、部分的に接続しているくらいなら接続を否定する必要はないかもしれない。何をするにも全てその人と一緒だと窮屈だが、部分的にある時間帯だけつき合うならかえってよいとも言える。全面接続による包括化は不自由だが、部分接続なら自由は確保できるのである。
 また、現実に接続している人、切断している人と、これから接続していく人、切断していく人を区別しておくことができる。全ての人との接続可能性と切断可能性を温存させておき、状況に応じて自己選択し、接続したり切断したりしていくことも可能である。
 このやり方は、ルーマン社会学における複雑性の縮減と同じである。各種のゼマンティクを使用し、あるものを接続するとともに、あるものを切断し、またその反対の可能性も温存していくのである。
 
 ルーマン社会学では、そもそも世界は無限の複雑性として前提されており、意識システムにとっては、接続過剰であるので、この複雑性を概念によって処理して縮減する。完全な切断や接続によって複雑性を処理するのではなく、部分的に接続・切断し処理する。現代成熟社会では、切断論に頼らなくても、社会システム論的には、コミュニケーションメディア(貨幣・権力・真理・愛など)によって接続過剰性は処理されているのである。
 千葉氏の切断論は、接続過剰社会における処方箋としては、単純すぎると言わざるを得ない。単につき合う人とそうでない人を整理しましょうみたいな話にしかならないだろう。あるいは過剰な対人関係から退却して無人島や山ごもりするという話にしかならない。そうではなく、社会システム論に基づく処方箋では、違うコードでコミュニケーションをして関わり方を変えることで、過剰な関係を縮減し無害化することも可能なのである。
 
 ともあれ、浅田彰の逃走論のように、千葉雅也の切断論も一つの思想として若者の価値観に採用され、生活スタイルに影響を与えていくか見ていきたい。切断論は、スローライフを重んじるメンタル系の若者やひきこもりには流行りそうな気がする次第である。

 余談
 ちなみに、ニセ科学批判者の視点からすると、おそらく「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物は、科学的実証性を欠く、わけのわからない空想であると相手にされないであろう。社会調査もなしに社会を語るなという人もいるだろう。

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by merca | 2014-06-11 00:02 | 理論 | Comments(0)

ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論 | Comments(15)

ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

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by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論 | Comments(5)