カテゴリ:理論( 169 )

必然と偶然と自由意思

 科学は、偶然を必然にする理性の運動であると定義することができる。つまり、あらゆる現象=出来事について、因果関係を確定し、一般化できる因果法則を見つけだし、世界を必然として捉えることである。それは、物理的現象だけではなく、心理的現象、社会的現象など、あらゆる分野の現象を因果関係で説明しようとするわけである。因果関係で説明がつくということは、必然ということになるのである。人類が進歩するに従って、未知の現象も、科学的理性によって記述され、必然化されていくわけである。
 
 科学的根拠があるというのは、科学が発見した因果法則に基づいているということを意味している。いずれにしろ、科学は、(必然/偶然)という区別に準拠しているわけである。さらに、必然は規定性、偶然は未規定性と言い換えることができる。科学は、未規定な現象を規定して因果法則のもとに加工していくのである。科学的真理とは、科学によってつくられた構築物なのである。その構造の形式が因果図式である。
 そして、理屈の上では、世界の未規定な領域がなくなると、科学という理性の運動は自己消滅する。しかし、それは世界が有限であると前提したときのみの場合である。世界が無限であるのなら、科学という運動は永遠の命を得ることになる。科学を絶対化・永遠化するためには、かえって世界が無限であるという信仰が必要であるのである。世界の根源的未規定性とは、世界が無限であるという信仰のことであり、実は、科学と宗教の二つに地平・前提を与えるのである。
 
 さて、逆に現象=出来事に対して偶然という態度で接した時、どのようなことになるのか?偶然に対しては、信じるしかない。あるいは祈るしかない。別の言い方をすると、願望や不安を投射するしかなく、我々はそれを物語と呼んでいる。そして、物語の中でも多くの人ひどに共有された場合、宗教や思想となる。ウェーバーの苦難の神議論がこれである。予期せぬ天災・事故などで不幸を被った際に、人ひどは神が与えた試練として解釈し、世界の不条理性を免れる。宗教は偶然の不幸を処理する機能をもつ。
 
 ここまでは、二分法に従って論じてきた。しかし、二分法的思考では限界がある。そこで、弁証法的思考に準拠して論じたい。(必然/偶然)というコードそれ自体の止揚として、自由意思というものがある。自由意思は、必然と偶然の二つの要素をもっている。自由意思とは、自分の思い通りに環境を変えることである。自由意思そのものは、他のものに拘束されない点において偶然であるが、他のものを変える原因となるわけだから必然でもある。
 
 かくして、必然と偶然、科学と宗教は、人間の自由意思によって止揚されるのである。というよりも、事態は逆であり、人間の自由意思が科学と宗教をつくりだしたのである。人びとは、偶然に対しては物語=宗教を、必然に対しては科学をあてがうのである。
 
 複数の自由意思とのせめぎ合いで、社会は自然創発するが、実は、社会も自由意志や自律性をもっているため、科学的因果法則の外にあり、法則は成り立たないばかりか、人びとの共同主観的な物語の外にもあることになる。社会を一つの自由意志をもつシステムとして捉えると、必然と偶然を止揚した新しい社会観が誕生するだろう。

 ルーマンの社会システム論は二元コードだけで記述されていたが、弁証法的原理によってあらたなシステム社会学を創発できるかもしれない。
 
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by merca | 2007-01-07 23:20 | 理論

共同体の定義

 共同体の空洞化とか言われているが、そもそも共同体とは何かという定義は曖昧である。
 国家共同体とか言う場合もあり、国民社会の行政組織である政府までも共同体と呼ばれることがある。前近代社会における村落共同体と言うのは、非常に分かりやすい。家族も共同体の範疇に入ることがある。共同体は、コミュニティの訳である。
 
 そこで、まず、創発論的社会観から共同体がどのような区別に基づいているのか考えたい。簡単に言うと、共同体とは、(共有している/共有していない)という区別に準拠していると考えられる。例えば、生活環境を共有していることで地域共同体が定義され、愛情と衣食住を共有していることで家族共同体が定義され、教育環境を共有していることで学校共同体が定義されることになる。何を共有するかによって、共同体の種類を区別できるのである。
 共同体では、その成員が互いに何を考え、どんな感情を抱いているのかわかり、共感しあえる関係にある。基本的には、共同体内コミュニケーションは、透明性が高く、期待外れなコミュニケーションは起こりにくい。

 ちなみに共同体と連続した集団現象として、場の雰囲気やノリというものがある。ゴフマン社会学に準拠して、これを状況と呼びたい。これも、(共有している/共有していない)という区別に準拠して刹那的に発生する。状況を共有しているものどうしは、同じ場にいると感じるわけである。しかし、状況は、共同体というよりも、まだ共同性のレベルである。職場や学校で自然発生する仲良グループは、状況の積み重ねを共有することで自然に出来上がった集団であり、こうなると共同体と呼べると思われる。従って、共同体足り得るためには、さらに(仲間/仲間でない)という区別も付加する必要がある。
 
 ここで厳密に定義すると、

 共同性・・・(共有している/共有していない)という区別に準拠 
 共同体・・・(共有している/共有していない)と(仲間/仲間でない)という区別に準拠

 共同体内コミュニケーションは、(共有している/共有していない)という区別に基づいて連接していく。しかし、システム内コミュニケーションは、共有とは関係ないコミュニケーションで連接していく。例えば、売買コミュニケーションなどは共有とは関係ない、経済システムにおけるコミュニケーションである。


 
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by merca | 2007-01-04 01:01 | 理論

近代社会の構成要素

 ここで、社会学の教科書とでも言える富永健一の近代化論に準拠して、近代社会の基本的構成要素を提示しておきたい。

 近代に入って社会の構成単位は家族と企業(組織)の二つに分化し,家族はゲマインシャフトとして消費を担い,企業はゲゼルシャフトとして生産を担うことになった。そして,両者の間に形成されたのが市場である。さらに家族,企業,市場などを法律でもって秩序だてる機能を負うのが国民国家となる。近代社会の全体像は,そのような構成になっており,社会システム論のいうように全てがゲゼルシャフトから構成されているわけでない。社会システム論の欠点は,原理上,ゲマインシャフトを扱えないことである。なぜなら,社会システム論は,ゲゼルシャフトの学であるからである。ゲゼルシャフトが成り立つためには,かえってゲマインシャフト集団から刻印された共同性が必要である。

 ゲゼルシャフトである組織集団がインフォーマルな自然発生した職場の仲間集団の感情的連帯によって支えられていることはよく知られている。
 機能分化として近代を観察するのではなく、その前提である家族と組織の構造分化として近代社会を観察する枠組みのほうが、観察の深度が深いのである。

  
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by merca | 2007-01-01 11:22 | 理論

創発論的社会観

 国家,法律,市場,企業組織,家族,そして全体社会,これら社会的なるものは,全て目に見えないものであり,物理的存在のように,実体的に捉えることができないものである。近年,社会調査法の技術進歩によって,社会を測定できるという考えが隆盛を極めているが,果たしてそもそも社会なるものを確固とした認識対象として定立できるか疑問である。実際のところ,社会調査法の測定対象である社会は,それ自体,事後的に研究者によって構成されたものである。例えば,国民の所得や意識調査などを実施し,日本社会の階層構造を分析しようとする。この場合,はなから日本社会という実体的対象が存在するのではなく,逆に調査そのものによって,日本社会なるものが事後的に構成されるのである。測定対象がはじめから存在するのではなく,各種指標に対する測定行為そのものが社会を構成するのである。要するに,人々の所得や意識を媒介として,社会なるものが事後的に構成されるわけである。社会なる実体が最初に存在し,それを直接測定するのではない。先に,社会なるものが実体的に存在し,それを測定し記述したと思わせるのなら,それはまやかしである。統計的手法によって,下流社会論などの格差社会論が盛んに人々にリアリティがあるように受け止められているが,それは全て認識論的顛倒である。格差社会も社会調査に基づき構成されたものしにかすぎないのに,人々は単純に日本社会を測定したものと勘違いしているのである。
 
 このように,社会的なるものは,構成する以外にない,つくられた存在なのである。このような立場は一般に社会構築主義と呼ばれている。社会学が学問足り得るためには,その対象である社会というものを確定しなければならないが,その対象たる社会は,自然科学のような物理的実体はなく,上述のように研究者によって事後構成されるものなのである。社会をつくられたものとして定立する社会構築主義の対極をなすのが,「存在が意識を規定する」という立場をとるマルクス主義やマンハイムの知識社会学(存在拘束性)である。個々の意識を離れて社会なる実体(あるいは社会関係)が存在するという立場である。要するにイデオロギー論である。社会構築主義からすると,イデオロギー論は間違いである。社会そのものを実体視しているからである。社会そのものは人々によって構成されたものにしかすぎないのであり,そのようなコミュニケーション過程から超越した確固とした社会は存在しない。また,ある意味,国家主義も社会構築主義の対極にある。というのは,国家主義は国家を個々の意識に先立って実体的前提とするからである。国家主義は,国家が国家主義者によって構成されたものであることを隠蔽し,太古の昔から存在するものとして定立しようとするからである。国家は,実体ではなく,構成された想像の共同体なのである。マルクス主義や国家主義は,構成されたものを実体視する意味において,神話と何ら変わらないのである。このような社会を実体視する考えを存在論的社会観と呼びたい。
 
 ここで,社会構築主義にも種類があることを述べたい。認識論に依拠する社会構築主義と,創発論に依拠する社会構築主義である。認識論に依拠する社会構築主義は,対象の認識内容が構成されるという考え方である。あくまでも対象は認識に先立って存在するが、認識内容が構成されるという立場である。それに対して,創発論的社会構築主義は,認識内容でなく,対象そのものがはなから構成されるとする立場である。構成されるという言い方ではニュアンスが掴みにくいので,つくられる,あるいは創発されると表現したらわかりやすいと思われる。簡単に言うと,対象そのものを生み出すわけである。そもそも、認識と対象という区別に準拠してはいないのである。
 
 さらに、創発論的社会構築主義においては、あるものをつくりだすわけだから,そのつくりだされたものは、認識内容=観念ではなく,かりそめにも実在するものとしか表現できないのであり、逆説的ではあるが、観念論とは対極をなすことになるのである。認識論的思考は認識に先立って存在する実体的対象=ものそれ自体を前提とするが,創発論は,いかなる実体的存在も前提としない。つくられるものが最初から存在することはないからである。しかし,つくられたら,その実在性を獲得する。もちろん,壊れたら実在性はその時点で消滅する。
 
 ともあれ、創発論的社会観に準拠すると、実は、社会を認識するという営みは、そのまま社会をつくることなのである。
 
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by merca | 2006-12-31 22:53 | 理論

脱社会的存在

 宮台社会学が社会学の徒に与えた影響は大きい。しかし、宮台氏の社会解釈が適切だったかどうは、検討しなればならない。
 神戸のサカキバラ事件以降、「人を殺せるのはえらい」という殺人者崇拝の思想が一部の少年達に流布し、実際に人を殺してみたかったという理由で事件を起す犯罪が数件ほど起り、マスメディアで報道された。サカキバラに共感できる少年達も少なからずいるという報道もよくなされていたのは記憶に残るところであり、子供がおかしいなどとテレビの特集番組が多く流され、人々の社会不安を煽った。そして、殺人をしてみたいからやったという犯罪動機では、人々は満足できず、様々な精神科医や教育学者がこぞって、少年の犯罪動機を透明化するために解釈しだした。また、哲学者や倫理学者が「なぜ人を殺してはいけないのか」というような殺人禁止の道徳的根拠を若者達に合理的に説明するための書物を書きだした。これに輪をかけたのは、テレビでの若者討論番組であった。平気で、殺人をしてもいいというインテリ学生も現れたりし、殺人を否定する論理的根拠がないことを主張したりした。おかげで、若者全体が、無気味な殺人鬼としてのレッテルを張られだした。
 とりわけ、若者に対する宮台真司の解釈は、明解であったし、分かりやすく、多くの社会学や哲学の徒に受容された。それが脱社会的存在という定義だった。脱社会的存在とは、コミュニケーション=社会に失望し、コミュニケーションの外で、自尊心を調達する一部の若者達のことを指す。コミュニケーションの外とは、社会の外であり、道徳や法律の外でもあり、殺人も非難されない空間である。少年の猟奇犯罪は、この脱社会的という枠組みで解釈されるようになり、映画のテーマなどにもなりはじめた。さらに、宮台氏は、このような脱社会的存在が生ずる社会変動も問題視した。成熟社会に入って共同体が空洞化し、他者からの承認は、個々のコミュニケーション能力に委ねられ、自己責任過多となり、その苦労に耐え切れず、コミュニケーションから降りる若者たちも現れ出したというわけである。その一部がひきこもりとなり、別の一部が脱社会的存在である。確かに、スクールカーストが学校の成績という基準とは関係なく形成され、ある意味、その基準がコミュニケーション能力と関係していることから、それはうかがい知れる。

 「人を殺せるのはえらい」という考えが若者達に流布したというのは一部認められると思うが、本当に脱社会的態度から、それを採用したかどうかは疑わしい。では、どのような若者達が「人を殺せるのはえらい」という思想を採用したがるのか?
 
 そのような若者が現状の自己が置かれているコミュニケーションに不満を抱いていることは間違いないと思う。ここまでは、宮台氏が正しい。しかし、ここからが解釈が異なる。
 
 私の解釈・分析はこうだ。まず、スクールカースト下層でいじめにあったり、仲間集団や友達ができず、コミュニケーションから疎外されており、自己イメージが低い若者たちがいる。そのような若者たちのほんの一部が、自己の弱さや自信の無さに向き合わないで済むために、自己防衛として、他人よりも卓越している自分をつくろうとし、「人を殺せる自分はえらい」という物語にすがっているだけなのである。動機は、他人との比較に基づいており、脱社会的であるどころか、他者への当てつけであるという点において極めて社会内存在である。
 殺人崇拝物語あるいは殺人鬼英雄化物語は、ルサンチマンをもつ弱者の自己防衛装置なのである。平たく言えは、弱い自分を取り繕うために物語にすがって強く見せようとしているだけである。これはスターに憧れ、自己を同一化する若者の心理と変わらない。コミュニケーション弱者が生き方のモデルを殺人者にしか見い出させないことが問題かもしれないが、臨床心理学的には本当に陳腐な動機なのである。プロの臨床心理士が面接すれば誰でも見抜ける動機である。また、処方箋も簡単に見い出すことができるのである。脱社会的存在や人格障害も持ち出す必要はない。
 
 ちなみに、卓越化の物語として脱社会的存在というタームが、どの程度、コミュニケートされていき、若者達の自己概念として採用されていったかは、自分を「脱社会的存在」だと自称している若者のブログを見つければよいが、ニートと違って、あまり見かけない。もっとも世間に「脱社会的存在」だと自称した時点で、脱社会的存在ではなくなるというパラドックスがあるが・・・。 
 
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by merca | 2006-12-31 14:09 | 理論

成熟社会という物語

後期近代産業社会論=成熟社会論=ポストモダン論は、全て何らかの区別に基づいた物語にしかすぎず、どこにも実体はなく、床屋談義以上のものでないのである。
 しかし、この床屋談義ほど怖いものはない。
 なぜなら、床屋談義も多くの人々が支持・共有し、それにまつわるコミュニケーションをすることで、リアルなものとして生成するからである。物語に先行して存在する社会という実体はないが、あたかもあるがごどく創発されるのである。
 まずは、(存在論的社会観/創発論的社会観)の区別を述べなくてはなるまい。

 また、コメント屋としてコメントしました。
 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10022033872.html
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by merca | 2006-12-24 16:28 | 理論

社会調査法批判

 社会調査法の技法(統計)に基づき、社会を測定し、様々な社会論が横行している。社会調査によるデータのない社会理論は観念論として退けられる傾向にある。
 しかし、よく考えて見たまえ。社会調査法によって社会を測定するという発想そのものが、おかしい。社会という対象があらかじめ実体として存在し、それを統計的手法によって測定しているということであるが、この考えは過っている。
 というのは、実際は逆だからである。実は、社会学者は、人々の意識や所得などを指標として調査し、項目間の相関関係を見い出し、事後的に社会という対象を構成するからである。社会は、社会調査を媒介として、事後構成されたもの、つくられたものなのである。社会という対象があり、それを測定し、認識するというのではないのである。社会調査法は社会を写し取るのではなく、逆に社会を構成するための方法なのである。

 統計的手法に基づいて様々な社会論が溢れているが、これらは全て学者によって構成された社会であり、実体としては存在しないのである。しかし、それらを本当に社会を写し取ったものとして錯覚している者たちが、その社会観に準拠する区別でコミュニケーションする時、システムとして創発され、それが本当に実在してしまうおそれがあるのである。例えば、(上流/下流)という区別にこだわり、人々がコミュニケート(例えば消費行為)しだしら、それがシステムとして創発され、実在してしまうのである。

 ともあれ、社会調査法は、社会を測定する技法ではなく、社会を構成する技法なのである。
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by merca | 2006-05-26 21:13 | 理論

社会構築主義批判

 社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 このような社会構築主義の公理は,共同主観によって社会共同体は維持されるというという現象学的社会学や,また人々の意味付与過程から社会現実がつくられるというシンボリック相互作用論の発想とも,通ずる部分がある。要するに,社会構築主義は,社会は複数の人々によるコミュニケーションを通じての主観的な意味付け作用から構成されるという原理を基礎においている。
 ところが,このような人々の内面的な意味付けのレベル,つまり共同主観的意味から社会はできあがっているわけでない。例えば,平等思想をもつ共産主義者が集まっても,平等な共同体が出来上がるとは限らない。平等主義を唱える共産主義者たちが集まり,かえって差別的な共同体が出来上がる例にはこと欠かない。また,ドイツのように,自由と民主主義を求める大衆がファシズムを生み出した歴史上の事実は見逃させない。人々の主観的意味が,集合的レベルになると,全く逆の意味になるというパラドックスこそ,社会の創発特性のなせる業である。100人の善人が集まっても,単純に善なる社会が生まれるとは限らないのである。
 このパラドックスは,社会構築主義から決して解明されない。つまり,人々の共有する主観的意味が外在化して社会が出来上がるという理論は,システム論的には,端的に間違っている。もしそれが正しければ,自由と平等という思想をもった人々がコミュニケーションをし合えば,自然に民主主義的社会が出来上がるはずである。実際には,そうはならない。正確に言うのなら,人々によるコミュニケーションの意味付けとは直接関係なく,社会はつくられる。社会は社会自体の要素(コミュニケーション)をオートポイエーシス的に自己産出していく。人々によるコミュニケーションの意味付け,これをハーバーマスは生活世界と呼び,社会システムと区別した。言わば生活世界の意味と,社会システムの意味は別次元なのである。例えば,1つのコミュニケーションについて,複数のレベルから意味付けすることが可能である。ある人が他の人に贈与税を支払った上で多額の金を与えたとする。この場合,当事者である2人が互いの友情を確かめ合うコミュニケーションと意味付与しあっても,社会システム論的には,経済システムの要素となる。さらに,例えば,売春は,当事者どうしにとっては相互利益のある有意味なコミュニケーションであっても,法システムの意味付けからは非合法的であり,社会秩序を破壊するものとして処理される。当事者の意味付け=観察と,社会システムの意味付け=観察は,このように異なる。また,社会システムによるコミュニケーションの意味付け=観察は,極めて社会の維持に関わる機能主義的なものであることが分かる。そこで,共同主観的意味と対比して,機能主義的意味とでも呼んでおきたい。
 システム論的には,共同主観的意味=(複数の)意識システムと機能主義的意味=社会システムは,それぞれ異なる区別でコミュニケーションを観察しているわけである。異なった区別で観察するこの落差が,つまるところ,先ほどのパラドックスを説明してくれることになると思われる。
ともあれ,人々による相互の主観的意味付与活動から社会が構成されるという社会構築主義の理論は,システム論的には,間違いである。社会は独自の区別で人々のコミュニケーションを観察し,自己の要素としているのである。社会を構成するのは,社会それ自体であり,人々による相互の主観的意味付与活動ではないのである。社会は、人々の相互作用から生ずるのではなく, 自らを自己構成(自己組織化)するシステムなのである。
 社会構築主義と社会システム論を同一視することはできない。生活世界と社会システムを区別することが必要である。
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by merca | 2006-05-26 16:40 | 理論

創発の妙理

  ラディカル・システム論

 100人の善人が集まっても、善なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の悪人が集まっても、悪なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の善人が集まっても、悪なる社会が生まれることがある。
 100人の悪人が集まっても、善なる社会が生まれることがある。
 
 歴史は語る。民主主義者の集まりが、全体主義を生み出したように・・・。
 創発という妙理が社会の起源である。第ニの自然としての社会空間を創発せよ!
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by merca | 2006-05-26 16:07 | 理論