カテゴリ:理論( 169 )

生物多様性は自然の摂理 思想多様性は社会の摂理

 相対主義は、多様性を肯定する思想である。実は、人為を越えた自然界も相対主義が貫かれており、意外にも、相対主義の根拠は自然界にもある。
 考えてみよう。もし自然界に一つの種類の生物しか存在しないのなら、生物は絶滅しているだろう。生物多様性という言葉が流行っているが、生物は多様性をもつことで、生き残ってきたのである。さらに、その多様な種類の生物が関係すること(食物連鎖=生態系の形成)で、それぞれの種が維持されている。多様な生物は相互依存することで、生き残っている。
 自然界では、どれか一つの形態の生物のみが正しいわけではない。みんな正しいのである。多様性を肯定し、多くの選択肢を温存させるこの自然界の知恵=摂理こそが、相対主義の原型なのである。
 
 思想においても、同様であり、人間社会に溢れる多くの異なる思想は、どれか一つだけが正しいというわけではなく、多様性をもちつつ、相互依存しているのである。人類は多様な思想を生産してきたからこそ、状況に応じて多数の思想から適切な思想を選択し、現在、生き残っているである。人類社会は、多様な思想を生産することで、発展し、絶滅を逃れているのである。
 自然界の多様な個々の生物は、他の生物の存在との関係性を前提として生かされており、バラバラに存在するのではない。関係性こそが多様性を可能にしているのである。それと同じく、一つの思想が他の思想と関係し合うことで、一つの思想は成り立つ。多様な思想はバラバラでは存在し得なくなるのである。論理面において、このことに最初に気づいたのが西洋ではヘーゲルである。
 なお、念のためにいうと、悪しき相対主義は孤立的にバラバラに思想が存在すると捉えるが、私の主張する相対主義は関係性を前提とした相対主義であり、全く異なる。この点の重要な区別がつかず、原理性相対主義などと私を批判する者がいるが、それは的外れだと言えよう。私の相対主義を批判する者たちは、(関係性/無関係性)というコードのうち、無関係性のコードに準拠していることに気づかない未熟な論客なのである。
 さて、話を戻すと、生物多様性が自然界の摂理であるように、思想多様性は、社会の摂理である。
 にもかかわらず、科学のみが正しい知識・思想であるという科学主義がはびこり、思想多様性が破壊されつつある。ニセ科学批判がそれである。ニセ科学批判者は、相対主義を批判することで、思想多様性という人類の社会進化を否定していることになるのである。
 ニセ科学批判という思想は、ニセ科学という思想を獲物にしなければ生存できないわけであり、ニセ科学を完全に否定しては成り立たないのである。また、ニセ科学批判は通俗道徳という他の思想に依存しなければ死滅する。
 相対主義たる思想多様性の摂理に基づき、思想の生態系=思想地図を作成し、思想の相互依存性を解明することは、まさしく、これからの新知識社会学の使命なのである。

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by merca | 2011-07-24 09:58 | 理論 | Comments(0)

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙

 ルーマンやブルデューと並ぶ現代社会学の巨人と言えば、英国の社会学者ギデンズである。ギデンズは、二重の解釈学、構造化理論、再帰的近代化、親密な関係など、多くの有意味な社会を観察する方法を提示し、日本の社会学者や大学院生に影響を与えている。
 ギデンズ社会学の核心は、二重の解釈学という考え方にある。これは、社会は対象と認識の一致という素朴な自然科学的な真理観では観察できないということを意味している。
 
 二重の解釈学によれば、出来事、行為、コミュニケーションなどの意味付けは、社会内で行為する当事者の共同主観的な意味付けと、社会学者が行う意味付けの二つのレベルが存在している。また、この二つのレベルは、相補的な関係にあり、当事者の主観的な行為が社会構造を創造・再生産するというのである。
 具体例を示そう。例えば、結婚するという行為は、結婚する当事者たちにとっては、恋愛を成就させて一緒に暮らしたいという目的で遂行されるわけであるが、社会システムから見れば、家族や社会階層の形成や将来の社会成員の再生産を意味していることになる。社会システムを維持するために結婚したという人はいないにもかかわらず、結婚によって未来の労働人口を確保し、結果として社会システムの構造を維持することにつながるのである。恋愛は結婚で成就する、あるいは結婚して家庭をつくることが人間の幸福という思想が共同主観として男女に内面化され、求婚活動を動機付けているのである。誰もわざわざ社会構造維持のために結婚して家庭をつくっていると思っておらず、好きな人と結婚して子供をつくりたいと思っているだけなのである。
 とにかく、社会内当事者たちが共同主観に基づいて主体的に行動すればするほど、社会の構造が再生産されるわけである。重要な点は、当事者の意味付けの内容と社会学者の意味付けの内容が一致してなくてもいいということである。時と場合によっては、内容が矛盾していても、かまわない。
 例えば、過去の全共闘運動においては、共産主義革命という意味付けの学園闘争をすればするほど、資本主義社会は成熟化していくという逆説的な結果が起こった。個々人の思惑を離れて、個々人の行為の総和が全く異なるかたちで社会全体に影響を与えるということは、よくある。これも一種の創発の妙理であろう。
 ちなみに、システム論の文脈で言うと、当事者間の意味付けは共同主観的意味付けであり、社会学者による意味付けは機能主義的意味付けということになる。前者は第一次観察に対応し、後者は第二次観察に対応する。また、ハーバーマス社会学の文脈でいうと、当事者間の意味付けは生活世界を構成し、社会学者による構造に対する意味付けは、システムということになる。
 ハーバーマスは、システムが生活世界を植民地化するという危機意識をもっていたが、ギデンズは構造が人々の主体的な行為を支配するのではなく、逆に人々の主体的な行為が構造を生産すると考えており、社会に対する疎外意識・拘束感を視野の外に入れた。
 
 ともあれ、社会学者は、対象となる出来事や行為に対して、当事者である人々による内面的な意味を把握しながらも、社会全体に対する意味を見つけ出し、この二つのレベルの相互関連を注意深く分析していくことになるのである。
 付け加えると、この二つのレベルの解釈は、どちらが正しいということはない。例えば、祭りは神様へのお礼のためにするという当事者たちの共同主観的意味と、祭りは共同体の凝集性を高めるという社会学者による機能主義的意味のどちらも間違いではないということである。むしろ、神様へのお礼という共同主観的意味が単純な科学主義によって否定され、人々が祭りをしなくなり、共同体がバラバラになるほうが有害なのである。社会学は、科学主義が事実の名のもとに人々の生活世界(意味世界)を破壊することを唯一防ぐことができる学問なのである。ギデンズの二重の解釈学は社会学的啓蒙の一つなのである。
 
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by merca | 2011-05-01 10:58 | 理論 | Comments(2)

反ニーチェ講座 第二回「ニーチェを捨てよ!!」

 社会科学的には、ニーチェの道徳分析=道徳のルサンチマン説は、端的に嘘である。嘘、すなわち物語である。ニーチェが自説を正当化するためにつくった物語にすぎない。
 ニーチェは、弱者のルサンチマンによってキリスト教道徳=利他主義ができあがったと主張している。強者に虐げられている弱者が強者に悪のレッテルを張り、その反対である弱者が自らを善とすることで、強者から弱者が自己防衛するために善=利他主義が出来たという。
 しかし、この説には全く実証的な根拠はない。なぜなら、弱者という対象に意識調査を実施していないからである。まず、弱者とは何かを概念規定し、その上で弱者たちの一部をサンプリングし、弱者の所有する道徳意識がどのようなものであるか意識調査することで、はじめて実証的に解明される。
 そのような社会科学的な手続きを経ずに、ニーチェは西洋社会の道徳について弱者が強者にもつルサンチマンが起源であると断定する。このように社会科学的には全く根拠のない嘘であるニーチェの道徳論を思考を媒介とせずに、多くの若者たちや大学院の哲学科学生が支持しているのは誠に滑稽である!!

  人間科学の立場からすると、一般に道徳の起源は、社会学における社会化理論(価値規範の内面化)やコールバーグの道徳性発達理論、フロイトのエディプスコンプレックス説によって説明される。
 社会化の理論とは、人は他者と関わるなかで価値規範を身につけていくという説である。つまり、幼少時から親や学校や地域社会の人々とのコミュニケーションにおいて、道徳規範を学習し、取り入れていくというわけである。弱者だから道徳規範をもつのではなく、人との関わりで道徳規範を身につけていくわけである。そして、人々が共通の道徳規範を身につけることで、社会秩序が保たれると考える訳である。これは、社会学による道徳の起源の説明である。
 当たり前の話しであるが、自分がなぜ道徳を身につけたのか振り返ってみると、親や教師や周囲の大人などからの影響であるとすぐにわかるのである。自分は弱者だから道徳意識を身につけたという人間はいないのである。このような社会学による説明は、自明すぎるが、誰にも当てはまる実証的なものである。
 コールバーグの道徳性発達理論は、他者とのコミュニケーションを通じて具体的にどのように道徳規範を学習していくのか解明している。賞罰の意識から普遍的な善悪の意識が生ずる錬金術を見事に描いている。コールバーグの道徳性発達理論は、現実の人間の発達過程に対する臨床的観察から得た実証的なものである。まさしく、社会学における社会化理論の内実を補うものである。
 精神分析学のエディプスコンプレックス説も、フロイトが臨床知から得た理論であり、神話を比喩として用いているが、極めて臨床的な実証知である。エディプスコンプレックスとは、子供が父親に母親を奪われるのを防ぐために、父親のように強くなろうとして、父親をモデルとすることで、道徳規範としての超自我を形成するという説である。フロイトが、多くの現実の患者の治療を通して発見した道徳の発生原理であり、物語ではない。
 これらの人間科学の知見からすると、ニーチェの道徳論は幼稚すぎるのであり、実証主義社会学者コントに言わせれば、神話的段階の知識に相当するだろう。ニーチェのルサンチマン道徳論は、まさしく神話なのである。
 
 さらに、知識社会学的にいうと、ニーチェのルサンチマン道徳論は、善悪の基準が絶対的に存在しないと考える思想つまりニヒリズムを正当化するための神話にしかすぎず、近代社会が生み出した一部の裕福な知識階級の子弟のイデオロギーにしかすぎない。つまり、全く実証的根拠を欠く自己のイデオロギーを正当化するための神話なのである。

 このような神話を本気で支持する人たちは、自らの思想であるニヒリズムを正当化するために、ニーチェにかぶれているにすぎないのに、それに気づいていない。

 大震災などの災害が起きた時に、助け合わなければならなという社会規範は強くなる。今、東北関東大震災によって多くの人々が被災しているが、このような危機場面においては、人々はかえって助け合い、利他的にふるまい、道徳意識が高まるのである。全国の人たちが助け合おうとしている。助け合うことは災害時規範と呼んでいいと思うが、阪神大震災の時も、被災者自らが利己的に振る舞わず、助け合い、神戸を復興させている。
 このような事実を考えると、ニーチェの利他主義批判は全く的を射ていないわけである。ニーチェのいう弱者の道徳など全くの虚構であり、社会学的に利他主義は社会的人間の中に最初から埋め込まれている道徳原理なのである。

 ニーチェ哲学では、人を助けたいという人たちの善なる心の本質を解明できないのである。ここでニーチェに心酔している知的な若者にはっきりと言いたい。
 ニーチェを捨てよ!!  社会学をコツコツと勉強し、ボランティア意識を身につけなさいと。

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by merca | 2011-03-16 00:42 | 理論 | Comments(4)

反ニーチェ講座 第一回「ニーチェは死んだ」

 
  はじめに 

 成熟社会である日本社会において、ニーチェの思想が流行っている。ニーチェの思想の眼目は、絶対的な真理や善悪は存在しないから、それゆえ自分の思うままに何をしてもいいということにつきる。認識論においては、唯一の事実は存在しえず、全ては解釈であるという極端な主観主義をとり、また価値論においては、善悪の基準は人間がつくりだしたものとして、極端な価値相対主義をとる。
 ニーチェは、科学も、キリスト教と同じく、真理の存在を前提とする信仰に支えられた思想であるとして、否定している。従って、ニセ科学批判なんてものは、ニーチェにとっては全くのナンセンスな代物ということになろう。そもそも、科学も宗教も真理を前提するという点において、ニーチェにとっては同じなのである。
 
 さて、現代社会科学からすると、ニーチェの思想は、狂人の戯言や妄想にしかすぎない。にもかかわらず、人々に広く流布するのは、それなりの理由があるからである。そして、戯言であっても、それがコミュニケーションされることで、ある種の社会的リアリティをもってくるのである。
 ニセ科学批判のような科学主義や通俗道徳に基づく思想が流行る一方で、全く逆の価値観をもつニーチェの思想が流行るという現象が起きている。
 成熟社会に適合的な思想は、科学主義(ニセ科学批判)かニーチェ主義かどちらであろうか?
 このテーマは奥深い。二つの対極にある思想を批判的に分析し、そして、どちらも止揚・相対化することが社会学の使命である。

 私は、これまで科学主義やニセ科学批判に対する批判を、くどいほどしてきたので、私をニーチェ主義者=相対性原理主義者と同じであると勘違いする人たちもいるかもしれない。私はニーチェのような単純な相対主義者でもなく、また科学主義者のような単純な絶対主義者でもない。
 いずれにしろ、しばらくニーチェの思想を批判していき、その虚構性と欠陥を暴き、ニーチェに騙されている人たちを覚醒させたいと考えている。そのために、当ブログにおいて反ニーチェ講座を連載していきたい。

 反ニーチェ講座 第一回 「ニーチェは死んだ」
 絶対的真理や絶対的善悪は存在しないから、それらは必要ないし、自由に生きればよい。ニーチェはこのように喝破し、キリスト教や科学を批判する。
 ところが、どうだろうか? 真理や善悪を追い求める人間は減るどころかポストモダン社会である現在においても存在し続けている。例えば、真理や善悪=人生の意味は要らないから、今をまったりと生きようと若者に呼びかけた宮台真司のまったり革命は、見事に頓挫した。意味を求めずにうまく今をまったりと生きているはずであったコギャルたちが、結局、メンへル系や自傷系へと落ち込んでいった。つまり、完全に意味を求めない生き方は、どこか無理が生ずるのである。成熟社会では、完全に意味を放棄すると、過剰流動性の中で自己を見失い、超人どころか、廃人となってしまうのである。まったり革命の失敗が、現在の宮台思想の保守化への転向の契機となったのである。
 ちなみに、仏教では、無意味=空無に執着する物の見方を但空観といい、偏った段階の思想として否定されることになる。
 
 実は、真理や善悪は不可能であるが、人間の生や社会にとって必要不可欠な観念なのである。真理や善悪という物語をもつことで、人は動機付けられ、他者と適切なコミュニケーションをとることができ、社会は秩序が与えられるのである。自我統合と社会統合は、真理と善悪なしには、あり得ないのである。
 社会学や心理学を学ばなかったために、こんな単純なことも、ニーチェはわからなかったのである。虚構でもいいから、真理や善悪があることで、人は意欲的に動き、社会は回るのである。
 現代社会では、科学が真理を独占し、人権思想(民主主義)が善悪を独占しているのである。科学も人権思想も一つの虚構ではあるが、それを全否定することはできず、人々の社会生活にとっては必要なのである。社会学の立場からすると、虚構は機能することでかえって真理となるのである。このような社会学上の妙理を悟ることができなかったことがニーチェの限界であり、欠陥でもある。
 
 科学と通俗道徳を真理・善悪とみなし、それらに動機付けられ、意欲的に動いている人たちがいる。ニセ科学批判者たちである。ニーチェの提示する生き方とは逆のベクトルである。科学と通俗道徳によって自我統合と社会統合を達成した人たちである。ただ、科学と通俗道徳が絶対的だと思い込んでいる点において、限界があるが、ある意味、科学と通俗道徳が機能しているわけである。

 まとめると、過剰流動性のある成熟社会では、意味を求めない生き方=超人は、必ず、心の病にかかり、ひどい場合には廃人となる。ニーチェの思想は成熟社会では、通用しないのである。まさしく、ニーチェは死んだのである。
 
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by merca | 2011-03-06 23:53 | 理論 | Comments(17)

反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法。

 多くの知的な若者たちが反社会学講座に騙されている。ここで、私が警告を鳴らしておく必要があると感じ、当エントリーを書いている。
 「スタンダート 反社会学講座」 http://pmazzarino.web.fc2.com/index.html#mokuji
 見てのとおり、パオロ・マッツァリーノ氏の反社会学講座には、全く社会学理論が使用されておらず、社会学の手法や論理とは無縁である。社会学とは、社会学理論という観察道具を通して社会現象を記述することで成立つ学問である。多くの社会学者は、デュルケーム、ウェーバー、ジンメル、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、ミード、ブルデュー、ゴフマンなどの社会学理論を現象に適用して観察し、記述してきた。従って、これらの社会学者たちが作り出した社会学理論の伝統の上に、社会学は成立っているわけである。
 例えば、宮台氏の著作は一般向けであって比較的分りやすくて人気があるが、あらゆるところに様々な社会学者や社会学理論による解釈がある。
 パオロ・マッツァリーノ氏の著作には、ほとんどこれらの社会学者の名も出てこず、社会学理論の適用が認められない。単なる統計や史実による記述等が大半を占めている。社会学理論という観察道具を用いない記述は、居酒屋談義と同じであり、社会学ではない。
 従って、パオロ・マッツァリーノ氏が社会学の手法や論理を使用していると豪語しているのは全くのデタラメである。そして、この嘘にはめられている読者は可哀想である。
 
 バオロ君、悔しかったら社会学理論を用いて社会現象を観察してみたまえ!!
 準拠集団論、行為の四類型、社会圏の交差、他者一般、システムによる生活世界の植民地化、顕在的機能と潜在的機能、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、複雑性の縮減、近代化の後発的発展理論、コミュニケーション的理性、役割距離、ハビトゥス論など、これらの社会学理論を駆使して社会現象を観察し、記述してみなさい。(ご存知のとおり、私のブログではルーマンやブルデューや宮台の社会理論を多用している。例えば、私の理論的核心である価値次元相対主義はルーマンの機能分化論に基礎をおく。)

 私のライバルであるニセ科学批判者たちの御得意の論理を拝借させていただくと、バオロ氏の反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法である。つまり、社会学者の虚像として自分勝手に藁人形をつくりだし、その虚像である藁人形に対して批判をしているのである。パオロ氏の反社会学講座は、社会学理論による観察を得た記述がない全くのニセ社会学なのである。

 ルーマンやブルデューやギデンズとまではいかなくとも、少なくともデュルケームやウェーバーやジンメルなどの基礎的・古典的社会理論を学んだ社会学の徒なら、パオロ氏の嘘とトリックがわかるはずである。
 もし社会学部の学生でパオロ氏の読者コントロールに騙されている者がいるのなら、今すぐに、反社会学講座を捨て、デュルケームの「自殺論」やウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの社会学の古典的名著を読むべし。反社会学講座による洗脳から解けると思う。

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by merca | 2011-02-12 23:33 | 理論 | Comments(20)

ベーシックインカムによる社会革命に備えるべし!!

 全ての国民に対して、最低生活を維持するための所得を給付する制度をベーシックインカムという。基礎所得保証ともいう。この制度の導入に肯定的な政治家も多くいることから、夢ではない話らしい。
 重要な点は、これによって、働かなくても食べていけることも可能となることである。そうなると、ひきこもり、ニート、ヤンキー、ホームレスなどは、大手を振って喜ぶであろう。ひきこもりは、組織労働に付随する対人関係の煩しさから解放されることになるし、またニートやヤンキーは働かず怠けて遊んで暮らせることになるのである。ホームレスにとっては、椅子取りゲームたる社会の競争に参加せずに毎日のんびりと暮らせることになる。皮肉なことに、社会的自立を支援する、ひきこもり支援団体やホームレス支援団体の苦労が水の泡になるのである。
 また、共産主義を唱える意味がなくなる。マルクスが前提とした資本主義社会は消滅することになるからである。ベーシックインカムは、共産主義の存在価値を全否定することになる。全ての人民が労働し、その生産物を共有財産として平等に分配する共産主義の理念からすると、正当な理由がなく働かずに食べていく人間を認めることは原理上できないのである。共産主義では、生産物は全ての人間に平等にあてがわれることになり、そのかわり勤労の義務も平等に生ずるのである。正当な理由なく労働をしない人間という例外は認められないわけである。だから、左翼系や共産主義者でベーシックインカムを否定する者も多い。
 反対に、勤労道徳を美徳とする右翼も精神主義的観点からベーシックインカムを否定するであろう。道徳的な理由から、怠け者は許せないのである。
要するに、左翼も右翼も働かずに食べる人間がいることに耐えられない人種なのである。

 誰かが労働することなしに、社会は成立たないのは事実である。ベーシックインカムは、全ての国民が働かないという選択をした場合には破綻する制度である。もっと厳密に言うと、一定多数の国民が働くことがないと、破綻する制度である。逆にいうと、ベーシックインカムは人間は労働を好む存在であるという人間観に基づいている。
これは社会心理学者マクレガーのXY理論におけるY理論に基づく人間観である。X理論とは、人間は怠け者であり、賞罰がないと働かないという根本仮説である。Y理論とは、人間は自己実現のために進んで働く存在であるという根本仮説である。マクレガーは、マズローの欲求段階説に準拠し、低次の欲求(衣食住)が満たされると高次の欲求を満たすようになると考え、Y理論を支持した。ベーシックインカムが破綻しないためには、Y理論とマズローの欲求段階説が人間科学的に正しいことが前提となる。
 確かに、食べていける財産はあるのに、働く人たちが多くいることも事実である。地域社会においては、自らの生計とは関係なく、自治会長、民生委員、保護司など、公務員がすべき労働をやっている人たちがいる。また、ボランティアをしている学生や主婦なども多くいる。食べていくことと関係のない活動で社会を支えることをしている人たちがいるのである。また、一生食べていける資金がある企業家が、食べていけるから働かなくなることはほとんどない。大企業家は、食べていける財産があるのに、資本の論理によって、よく働くのである。得たお金をまた投資し、資本を増やすために働くのである。
 確かに、こういう人たちはY理論が当てはまるかもしれないが、まだ人口のごく一部である。ヤンキー、ひきこもり、ニート、ホームレスは、X理論かY理論のどちらで生きているのか調査する必要があるのである。ベーシックインカムで一番怖いのは、食べるお金を得るためだけに働いているヤンキーが肉体労働をしなくなり、人手不足で建築業界などが打撃を受けることである。社会分業が破綻することが懸念される。自分の好まない労働につくことを拒否できる社会になるのである。
 また、上意下達による組織労働が破綻するおそれがある。食いはぐれがないから、上司の命令に従わない会社員が増え、会社の経営が成立たなくなるのである。さらに、押し進めると、「いい学校 いい会社 いい人生」という文化的目標も完全否定され、受験競争の脅しから子供たちは解放されるだろう。人生のレールからはずれたら食べていけなくなるという脅迫観念で悩む必要がなくなるのである。教育システムが根底から破壊され、ゆとり教育が復活するのである。
 ベーシックインカムの導入は、根底から社会を変革することになり、その影響力は計り知れないのである。経済、法律、教育、政治、福祉、道徳、宗教など、全ての社会分野に影響をもたらすのである。社会システム論的には、これは、共産主義革命をも凌ぐ、左翼と右翼を消滅させる社会革命である。その影響を全体的に計測することのできる科学力は、経済学ではなく、近代化理論を対象とする理論社会学にしかないのである。ベーシックインカムの導入に際しては、デュルケームの社会分業論、パーソンズとルーマンの社会システム論、ブルデューのハヴィトゥス論など、全ての社会学理論を統合した大理論が求められるであろう。大理論社会学の復権が望まれるのである。

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by merca | 2011-01-15 10:50 | 理論 | Comments(14)

ニーチェはいらない。

 善悪の内容は、社会によって異なり、相対的であるのが事実であり、異なる社会同士の道徳観は対立することもある。何を善とし、何を悪とするかは、倫理学の根本的テーマである。
 さて、古くから、西洋哲学では、功利主義(幸福主義)に基づく道徳観と理性主義に基づく道徳観との対立がある。ベンサムに代表される功利主義とは、人々の利益になることが善であり、人々の不利益になることが悪であると考える道徳観である。簡単に、アリストテレス風に表現すると、善とは幸福の手段であり、悪とは不幸の原因であるということになる。功利主義は、行為の結果に着目した道徳観と言える。
 これに対し、カントに代表される理性主義とは、損得とは関係なく、すべきことをし、してはならいことをしないことが善であり、すべきことをせず、してはならないことをすることが悪となる道徳観である。例えば、人の命を救うことは、すべきことであり、結果の損得とは関係なしに、善である。また、人の物を盗むことは、してはならないことであり、結果の損得とは関係なしに、悪である。このように、行為の結果に関係なく、善悪はあらかじめ無条件に定められているということになる。簡単に言えば、道徳規範に従うことが善であり、反することが悪であるということである。道徳規範の内容が問題になるが、カントの場合、実践理性による自由の実現が道徳規範の内容となる。

 いずれにしても、功利主義も理性主義も、何を善とし、何を悪とするかについて、満足のいく回答ではない。そこで、善悪を別の区別から観察してみたい。
 (利他/利己)という区別で観察すると、善は利他に対応し、悪は利己に対応することになる。よく思い起こしてみると、我々は、普通に利他的人物を見ると感動するし、利他的人格の人間をいい人だと人格判断している。宮台真司が指摘するように、多くの人々は利己主義者には感動が湧かず、利他主義者に感動と尊敬の念を抱き、その価値観に感染することは事実である。
 逆に、多くの人たちは、自分のことしか考えない利己的人物をつまらぬ悪い人だと感じる。全く他人に思いやりのない利己主義者は人から軽蔑され、嫌われる。
 このように、利他と利己は、純粋に善悪の観念と直結しているように思える。この感覚は重要であり、ここに功利主義と理性主義を越える秘訣が隠されている。
 
 実は、利他主義は、功利主義の要素と理性主義の要素の両方を含んでいる。利他主義は、目的において他者の利益や幸福のために行為するわけであるから功利主義的であるし、また自己の利益や幸福を度外視して他者のために行為すべきと考え、自己犠牲的に振る舞う点において理性主義的である。動機において自己の欲望を抑えてまでも他者のためにすべきと考え、結果において他者に利益と幸福をもたらそうとする。仮に、結果的に自己の行いが他者のためにはならなかったら、利他主義者は後悔の念に襲われ、自己を責めることになるだろう。つまり、利他主義こそが善なのである。そして、利他的行為を妨げる利己主義が悪となる。とにかく、利他主義は、功利主義と理性主義を止揚するジンテーゼの位置にあるのである。
 
 さらに、キリスト教、仏教、儒教などの世界宗教においては、(利他/利己)という区別はそのまま善悪と同義である。仏教では、端的に善行とは利他を意味している。儒教においても仁愛とは、他者への思いやりの情である。キリスト教の隣人愛も他者へのいたわりである。このように文化を越えて伝播する世界宗教は、善悪の基準として(利他/利己)という区別を採用している。世界宗教の場合、利他の「他」とは特定の共同体の内部を越えた人類全てを指すということはいうまでもない。利他的行為の対象である他者は全人類であり、全人類を救済の対象にするからこそ、世界宗教たりうるのである。

 人々のおおよその自然な善悪感覚及び世界宗教の倫理観からすると、「利他は善であり、利己は悪である。」 簡単であるが、これが事実的な善悪の基準の回答である。これには多くの人はさして異議はないと思うし、これで十分である。多少異議が有ろうとも、私は、利他を善と呼び、利己を悪と呼ぶことに違和感はない。
 
 なお、明確で厳密な善悪の基準の定義=概念を求めたがる人は、善悪の基準を法則と勘違いしている人である。人と人の関係に先立って、善悪は宇宙の法則のようにあらかじめ存在するものではない。人と人が関係しあうことでコミュニケーションが創発され、それを一つの区別から観察することで後から善悪は構成されるものである。
 私は、利他を善と名付け、利己を悪と名付けるだけであるし、そうすることで、他者とのコミュニケーションにおいて差し障りはない。私が利他的行為をなす人を見て善人であると言ったとしても、私の言葉の使い方がおかしいという人はいないであろう。
 私の場合は、ニーチェのように絶対的で明確な善悪の基準にこだわりすぎて、ニヒリズムに陥り、ことの本質を見失うということはないだろう。
  
 利他は善であり、利己は悪であることで、倫理は成立ち、世界社会は回るのである。ニーチェはいらないのである。

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by merca | 2010-12-26 23:35 | 理論 | Comments(2)

社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

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by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論 | Comments(0)

(目的/手段)という区別の脱構築

 (目的/手段)という二項図式においては、手段よりも目的のほうが時間的にも先にあり、価値論的にも優位であると考えられている。しかし、この二項図式も脱構築されてしまう。
 
 一般に行為の意味は、他者から(目的/手段)という枠組みで解釈され、人々に理解可能なものとなる。つまり、目的が手段たる行為をつくりだすのではなく、行為は他者に解釈されることで、後付けで目的がつくられる。他者に理解可能でコミュニケーションされた行為のみが、社会的事実だとすると、行為の目的や意味はあとでつくられるものである。目的があたかも時間的に先行したと思うのは、一つの錯覚である。犯罪行為の目的や動機が取調べ機関の濾過を経て、社会的に形成されることはよく知られている。行為の意味はあとから付与されるのである。
 
 とにかく、このように手段たる行為が先にあり、手段を条件として、他者の観察によって目的が形成されることになる。コミュニケーションとは、情報、伝達、理解の選択過程であり、特に他者がどのような区別を選択して理解するかが重要なのである。コミュニケーションの事後成立性は、目的と手段の優劣関係を逆転させることになる。
 
 また、(原因/結果)という区別から観察すると、手段が原因となって目的達成という結果を生み出すわけであり、これまた手段が目的をつくりだすことになる。目的は手段に依存していることになる。
 
 実は、何か目的があって手段を選択するというのは、意識システムの次元だけの話であり、意識システムにおいてのみ手段は目的に先行することになる。行為者の意識システムの目的や意図とは別様に、行為は他者による観察によって目的や意味が付与され、コミュニケーションされていくことで、社会的事実となるのである。

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by merca | 2010-09-18 09:01 | 理論 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型2

相対化作法の類型2

(弁証法)
 弁証法による相対化について説明したい。弁証法と言えば、やはりヘーゲルやマルクスである。しかし、ヘーゲルやマルクスが流行っていた時代があったが、かなり廃れて来たように思える。あまり弁証法を使用するネット論客を見かけなくなった。寂しさを感じるのである。
 簡単に言うと、弁証法による相対化とは、相手の命題と反対の命題を立てることで、相手を相対化するという手法をとる。詳しく言うと、反対の命題を立てて、相手の命題とその反対の命題はともに同等の正当性があり、どちらの主張も正しいという自己矛盾を指摘し、その矛盾を止揚するジンテーゼに導き、相手の説を否定するとともに包含し、より高次の立場に導くわけである。だから、単なる相対化とは話が違うことになる。相手を相対化するものの、ジンテーゼという解決策を示すことで、ニヒリズムに陥ることもない。
 具体例を示そう。「世界は有限である。」という命題を相対化するために、「世界は無限である」という命題を立てる。カントのアンチノミーであるとおり、この二つの命題は互いに矛盾しているが、同等の正当性を主張し、どちらが正しいかわからない。そこで、「世界は生成変化する」という命題を提示することで、有限と無限を止揚することができる。生成変化においては、一瞬一瞬の状態は区別され有限であるが、次の瞬間に別のものに変わることで無限に続いていく。生成変化のエレメントとして、有限と無限があり、有限だけでも無限だけでも、生成変化という運動を説明することはできないのである。かくして、「世界は有限である」と「世界は無限である」という二つの命題は、「世界は生成変化する」という命題によって止揚される。
 ヘーゲルは、同一性と別異性、有と無、善と悪、真と偽などの哲学的な概念は、弁証法によって克服されていくと考えた。このような弁証法は、一般に正反合の過程で形式化される。
 これを科学主義やニセ科学批判を相対化することに応用するとなると、かなり難しい。弁証法は哲学的な抽象概念を相対化する技法であるからであり、かなりレベルを抽象化しないと適用しにくい。適用するとすると、科学やニセ科学批判の根本的前提にかかわる部分だけになる。
 
 例えば、ニセ科学批判者は「事実は一つしか存在しない」(客観主義)という命題を前提とし、ニセ科学の知識が虚偽であると批判するわけである。その場合、ニセ科学批判者の「事実は一つしか存在しない」という命題に対して、「事実は複数存在する」(主観主義)という対立命題を定立して科学を相対化したとする。どちらが正しいかは決めることができず、結局、決定不可能に陥る。そこで、事実は、対象と認識主体の関係性で形成・構成されると考え、同じ認識方法を採用すれば、事実は一つになり、異なる認識方法を採用すれば、事実は異なり複数になるという考え方で止揚する。
 つまり、同じ認識方法で認識すれば、必ず同じ認識内容を生ずることになり、対象についての事実は一つになる。一対一対応となり、客観化される。しかし、認識方法が異なると、事実も異なることになる。対象と認識主体の分離主義ではなく、関係主義をとることで、止揚することができる。認識内容の客観性は認識方法の同一性によって担保されるし、認識内容の主観性は認識方法の別異性によって担保されることになる。かくして、客観性と主観性の対立矛盾は、関係主義によって止揚されるのである。
 ニセ科学批判者は、相手の認識方法が異なることを無視し、事実は一つであるから、自己が正しいとしてニセ科学の主張を批判する。さらに、認識方法が全く異なるスピリチュアルまでも批判するのである。事実を根拠にして、相手を批判する場合は、相手も自己と同じ認識方法を採用している場合だけである。ニセ科学批判者は、しはしば、この鉄則に違反していることがあるので、要注意である。

 さて、以上のように、弁証法は、相手の説に対して反対の説を提示し、相手の説を相対化しつつも、相手の説を取り入れることで、思考を発展させていき、総合的解決へと導くのである。弁証法は、固定化された原理主義とはほど遠いのである。また、「相対性も特定の目的を実現するためにのみ有用」や機能的等価主義などとも異なる作法である。弁証法は対立する考えを総合する運動が目的であり、目的は固定化されているところが異なるのである。世界にある全ての異なる観点を総合へと向けて無限に発展させていくのである。目的が固定化されているからといっても、相手を完全排除するのではなく、むしろ包摂していくところが弁証法の特徴であると言えよう。特定の目的から相手を完全排除するタイプの相対主義のほうがむしろ原理主義になってしまうのである。

 弁証法はポストモダン思想の前に流行った思想であり、日本でも弁証法をうまく使用できるタイプのネット論客をほとんど見かけない。ヘーゲルのドイツ観念論をきっちりと習得したネット論客は少なく、いたとしてもかなり年配であり、つまらぬネット議論からは距離をとっておられることと思われる。若手のネオ・ヘーゲリアンの登場に期待したい。

                                    続く

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by merca | 2010-09-12 12:38 | 理論 | Comments(0)