カテゴリ:理論( 169 )

社会学玄論講義 相対化作法の類型1

相対化作法の類型1
 
 他者の説を相対化する作法を相対主義と定義するのなら、相対主義は色々な種類が存在する。それについて説明していきたい。
 さて、黒木玄さんの相対主義に関する見解が掲載されている以下のHPがある。
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html#absolutism
 しかし、実はこれはかなり古すぎる考えであり、相対主義についての見解として単純・凡庸すぎる。認識と価値に区別して相対主義を分類する方法は、単純すぎる。他にも、別の区別に準拠して相対主義を考える必要がある。多くのニセ科学批判者は、相対主義の種類が単に認識論的相対主義と価値論的相対主義の二つしかないと考えており、相対主義について深く思索してきた人文系の研究者にとっては、全く話にならないのである。
 
(認識論的相対主義)
 まず、認識論的相対主義の基本を押さえておこう。このタイプの相対主義は、事実(真理)は一つという考え方は間違っており、認識方法が異なると対象は異なって認識されるので事実は複数存在しており、一つの認識方法に基づいた知識のみが正しいと考えるのは、間違いであるとして、他説を相対化する。例えば、同一対象についての科学的認識も宗教的認識も、どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも正しく、平等であると相対化する。進化論も創造論も同等の正しさがあると考えるわけである。同一の対象に矛盾した認識があっても、どちらも正しいとして肯定する。認識論的相対主義者という視点から観察すると、自己の認識のみが正しく他説は正しくないと否定する科学主義者やニセ科学批判者は、自説を他と比べて特別化・絶対化しているので、絶対主義者として観察されてしまう。言い換えると、事実は一つであり、他説は間違っていると堂々と批判するニセ科学批判者は、認識論的絶対主義ということになる。認識論的絶対主義の否定が認識論的相対主義である。
まとめると、次のようになる。

認識論的絶対主義・・・一つの対象についての事実は一つであり、正しい認識方法は一つしかない。暗黙に、対象が単相的・全体的であることを前提としている。
 
認識論的相対主義・・・一つの対象についての事実は複数であり、複数の異なる認識方法のどれも正しい。暗黙に、対象が複相的・部分的であるとことを前提としている。異なる認識方法は、対象の異なる部分を観察していると考えているのである。

 認識論的絶対主義も認識論的相対主義も、別の区別から観察すると、同一の観念であると観察できる。それは、いずれも真理の対応説に準拠しているからである。どちらの主義も、真理は対象と認識の一致という考えを採用している。この前提を共有していることについて、両者は盲目である。

(機能的等価主義)
 これは、ある目的(あるいは意味)から観察すると、異なる知識や思想であっても、手段=機能として同一であるとし、相対化する方法である。例えば、仏教もキリスト教も、人々に死生観を与えて生きる意味を提供するという点においては、同一の機能を有することになる。教義内容は全く異なるが、生きる意味の提供という目的からすると、同一であり、どちらも正しく、互いに否定しあう必要もなく、対等である。信教の自由なので個人の選択まかせればよい。
 また、人々に科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識であると流布する目的(科学のイデオロギー化という目的)から観察すると、ニセ科学もニセ科学批判も、機能的等価である。この観点からすると、ニセ科学もニセ科学批判も目くそ鼻くそを笑う関係であり、ともに科学主義として観察されることになる。
 この観察点から最初に記事を書いたので、目くじらを立てて、菊池氏や天羽氏が私のブログに殴り込みに来た。つまり、科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識とその獲得方法であるという前提をニセ科学もニセ科学批判も共有していることに、盲目であることを指摘したら、怒って来たのである。ちなみに、ニセ科学とニセ科学批判が機能的に等価であるという視点は他にも多くある。(思想としての機能とか・・・)
 とにかく、あくまで特定の視点に立ったら、ニセ科学とニセ科学批判が相対化されてしまうことを理解できなかったようである。もちろん、他の視点から観察をすると、ニセ科学とニセ科学批判は差別化されると思われる。私は社会学の立場にたち、社会学的の視点(イデオロギー論的視点、知識社会学的視点)を選択化しているだけであり、絶対化しているわけではないのに、絶対化していると菊池氏は勘違いな反応をしてきたが、ナンセンスなので、あえて答えなかったを覚えている。
 このように機能的等価主義とは、特定の視点や目的から観察することで、異なるものを同一視して相対化する手法なのである。ただ、これと反対の作法である機能的不等価主義もあり、異なるものの中から一つのだけを絶対化する作法も理念としては考えられる。例えば、科学の公準などに含まれる実証性という点からは、科学は他の知識体系よりも優れており、絶対化されることになる。しかし、これも一つの観点にすぎないのに、ニセ科学批判者は他者に押し付けることで絶対化している。ニセ科学批判者は一つの観点を固定化し、それを他者にも共有することを強制し、相手を説得にかかる傾向にあるので、要注意である。
 正しい視点はあり得ないが、仮に同一の視点を共有することで、議論の正否は確定できるという穏健な態度を理解できていないので、ニセ科学批判者はコミュニケーションで摩擦が起きているのである。
やはり、コミュニケーション形式を観察すると、全てのニセ科学批判者は、自己の視点のみを他者に押し付けて正当化する原理主義者である。
 究極のメタな視点=神の視点が存在しなく、基本的には異なる全ての視点が平等であるという相対主義を機能的等価主義は前提としている。

     続く

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by merca | 2010-09-11 12:25 | 理論 | Comments(0)

知性発展段階説

 相対主義の問題については、実はかなり前から以下の説=知性発展段階説のように私は捉えている。あまりにも難解なことなので、あえて単純な相対主義の立場をとっていたし、現状ではそれが適切だと判断していたのである。
 情報学ブログさんが色々と誤解している節がある。(意図的に誤解していただき、議論を発展させたいのだと思うことに期待) しかし、なかなかおもろしい議論なのでのってみよう。単純な相対主義とそうでない相対主義の区別を明確化しておく必要があるからである。天台仏教にアイディアがあるが、人間の知性は次のような段階で発展すると私は考えている。

1 有見=素朴実在論
 認識できる現象には全て実体があり、存在するものの根拠=底があるという考え方。素朴実在論がそれにあたる。我々の日常的思考である。日常生活を円滑におくる上で、必要な思考である。真理の対応説をとる。科学も基本的には、この立場であると考えられる。
 しかし、このものの見方にこだわり、相対的な現象を永遠不変な実体であると思い込み、それに執着すると、我着となり。苦が生ずる。
 
2 空観=単純相対主義
 一切の事物は、つくれたものであり、無常であり、固定的な実体がなく、相対的であると悟るものの見方である。仏教では空の思想と呼ばれる。現代風にいうと、底が抜けているということである。真理や道徳に絶対的で固定的な基準自体などなく、底が抜けていると考えるわけである。所謂、相対主義である。老荘思想や社会構成主義などがこの立場に入る。
 ただし、空観も、これを絶対化すると、一切が無意味だというニヒリズムに陥る。世界にある全ての思想を絶対的でなく、相対化して否定するだけであり、何も現実に選択できなくなるからである。生きるとは価値判断の連続であり、何かを選択することなしには生きていくことができないのである。仏教でも、空観=単純相対主義が悪しき場合には、無見と呼ばれることになる。私がこの立場に陥っていると情報学さんは思っている。
  
3 仮観=相対主義の相対化
 一切の現象には固定的な実体がなく、構成されたものであるが、その都度、現実に差別相をもって現象は立ち現れており、全くの無ではない。従って、やみくもに事物を相対化して否定するのではなく、状況に応じて選択していくことが求められる。仮観とは、固定的なものの見方をせず、その都度、適切なことを判断していく立場である。胃が悪い人には胃薬を、目が悪い人には目薬を与えるわけである。胃薬も目薬も同じであると相対化し、胃の悪い人に目薬を与えては間違いとなる。現実の差別相を観察し、目的に応じた適切な選択をとるのである。
 この立場は、相対主義の相対化と呼ばれるものである。例えば、現代社会においては、民主主義には絶対的な正しさはないと悟りつつも、あえて民主主義を採用しているわけである。宮台真司が、「民主主義の不可避性と不可能性」」という主張をしているがそれにあたる。ポストモダン社会においては、絶対的なものはないと知りつつも、あえて現実を生きるために仮に民主主義のような相対的なものであっても、目的に応じて選択していくことが求められるというのである。
ちなみに構造構成主義は、相対主義そのものを前提として、全ての科学の統合を目指そうとしているわけであり、この段階の思想である。
 宮台流の「あえて主義」については、このブログでも何度も論じて来た。情報学ブログさんも、この段階の思想であり、自らは相対主義ではないと言っているのである。そして、情報学ブログさんは、おそらく私の思想を空観の相対主義だと見なし、自己とは異なると考えている。
 情報学ブログさんが悪しき相対主義に陥らず、科学を肯定的に捉えようとする態度に表れている。ただし、科学を仮に肯定する究極目的は明かしていないように思われる。時と場合によっては、科学を批判し、ニセ科学を肯定するおそれがあるので、ニセ科学批判者が気味悪がっているのだと思う。
 ニーチェの積極的ニヒリズムもこの段階の思想かと思われるが、肯定するための目的が不明確であるため、結果として、悪しき相対主義と変わらない。
 仏教では、この立場が悪しきものになると、亦有亦無見と呼ばれることになる。

4 中道第一義観=関係主義 
 これは、全てのものには、実体がなく、底が抜けているというものの見方=空観(相対主義)と、それでもあえて状況に応じて現実に選択していくことが必要であるというものの見方=仮観(相対主義の相対化)が、互いに依存しあっているとするものの見方である。
 仮観だけならば、現実を選択肯定するだけで終わってしまう。しかし、選択においては何かを肯定することが常に別の何かを否定することをともなっていることを悟る必要がある。あえて何かを選択することは、あえて別の何かを否定することを伴う。肯定することだけに目が奪われ、この否定の側面=相対化の側面が見落とされると、不十分となる。あえて民主主義や科学を選択することは、それ以外のものの仮の相対化を伴う。
 いずれにしろ、これまで述べてきた全ての知性の段階は、バラバラに存在するのではなく、つながっており、関係し合っている。その関係性を深く認識し、なぜ人がそのようなものの見方に陥るのか観察していくことが求められるのである。

 平和のためには、単純な相対主義をあえて選択したほうがいいというのが、私の立場である。
 また、私は、ニセ科学批判者や科学主義者などの原理主義者にはあえて単純な相対主義で対応しておいた方が適切であると選択している。その理由は、原理主義者は自己の主張を究極のところで絶対化しているからである。この我着=絶対主義を否定しておかなくては、次の段階の思想に進めないのである。徹底的な相対化を経ないと、知性は後退したままになるのである。相対主義も方便であり、人を見て法を説けということである。

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by merca | 2010-09-05 03:37 | 理論 | Comments(0)

真理のコミュニケーション説(社会学の真理観)

 社会とは、コミュニケーションを要素とするシステムである。経済、法律、教育、政治、宗教、科学などは、社会そのものではなく、コミュニケーションを要素とするシステムたる社会が生み出した産物(人工物)=社会現象にしかすぎない。
 しかし、経済システム、法律システム、教育システム、政治システム、宗教システム、科学システムとなれば、それぞれ独自のコードに準拠したコミュニケーションを要素とするシステムであり、社会である。社会学独自の対象は、コミュニケーションを要素とするシステムであり、経済、法律、教育、政治、宗教、科学は社会学そのものの対象ではなく、それ故、これらの社会的産物を扱うのは、経済学、法律学、政治学などの他の社会科学である。

 社会そのものと社会的産物(人工物)との区別は、社会学にとって非常に重要である。例えば、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率、貧困率、科学的真理などは、コミュニケーションの外にあるもの、つまり社会の外にあるものである。これらの社会的産物は、人々に情報や知識や思想としてコミュニケートされてはじめて社会的事実となる。実は、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率などの統計的事実を語ることは、社会そのものを語ることにはならない。社会そのものを語るためには、それらの社会的産物についてのコミュニケーション過程を語らなければならない。
 
 ところが、どんなかたちであれ、社会について語ることが社会をつくるという自己言及的側面を忘れてはならない。語るとは、すでにある種のコミュニケーション過程であるからである。
 ただし、厳密にいうと語るだけでは学コミュニケーションを創発したにすぎない。人々が実演することで本当の意味での社会的事実となる。経済成長率が上がったという情報がマスコミで人々に伝えられ、その情報に促され、消費行動=売買コミュニケーションに変化が生じた時には、社会的事実となる。また、治安が悪化したというマスコミの報道を人々が受けて、それを信じて人々が防犯活動をしだした時には、社会的事実となる。このように人々のコミュニケーション過程の内実に影響を与えることができた時のみ、社会的産物は社会的事実となる。
 社会学的発想からは、コミュニケートされないものは実在しないのである。つまり、実在するとは、コミュニケートされることである。科学主義者ドーキンスがどういおうが、神についてのコミュニケーションが接続されるかぎり、社会学的には神は実在するのである。これは、物理的事実と対等の実在性をもつ。
 ここで釘を刺しておこう。物理的事実のみが本当の実在性だと考えるのは、科学至上主義者の発想である。学問的には、物理的事実も社会的事実も心理的事実も同等の実在性をもつ。神は物理的事実としては無であるかもしれないが、社会的事実や心理的事実としては実在するのである。物理的世界、社会的世界、心理的世界の三つは対等であり、物理的世界のみが正しいとするのは科学絶対主義者の偏った発想なのである。

 とにかく、このような真理のコミュニケーション説こそが、社会学の真理観である。犯罪発生率や人口増加率という社会外の事実をもって社会を客観的に語ったという人たちは、社会学とは何であるかをまったく理解していないのである。理論社会学を勉強していない社会学の素人である。
 コミュニケーション過程に無関係な事実は社会学的には価値はなく、そもそも原理的に社会学の対象外である。これらは、他の社会科学に委ねるべきなのである。

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by merca | 2010-08-22 09:21 | 理論 | Comments(0)

いじめの処方箋としての相対主義

 何か全体=関係がまず一次的に存在しており、その後から要素としての各項が二次的に存在するという考え方がある。これを関係主義、あるいは関係の第一次性と呼ぶ。
 関係主義的社会観においては、行為あるいはコミュニケーションはあらかじめ全体的関係の中で規定されており、選択の自由はないものとなり、社会病理に至る。社会学者内藤朝雄のいじめ理論は、この立場から分析している。
 
 いじめは、仲間集団のノリという全体的な場の雰囲気から逸脱しないために創発されたコミュニケーションシステムであり、場に参加する個々の成員の独自の自己選択性は、逸脱による制裁を恐れて、大きな制限を受けることになる。そのために、個々の参加者にいじめの自己責任感覚はない。
 制裁を予期し参加者の自由な自己選択性を制限することで、(いじめる/いじめない)というコードに準拠したコミュニケーションしか連接させないわけである。そこで、自由な自己選択性を制限するシステム作動条件の粉砕こそがいじめの問題への対応策となる。なので、内藤氏は、いじめシステムの作動条件である、中間集団全体主義というマクロ社会環境にメスを入れる。
 
 何が言いたかったというと、自己選択性を制限する要因=システム作動条件として、他者一般(仲間)からの制裁と報酬の予期が各個人の価値観とは関係なく、機能することで、集団秩序が発生するということである。パーソンズなどは、各個人が所有する共通の価値規範によって、秩序が発生すると考えたが、それがなくても秩序は発生するのである。
 いじめ集団に参加する個々人は、いじめ反対の価値観=「人をいじめるのは嫌だ」をもっていても、集合的制裁を恐れて、いじめ集団に加担するわけであり、集団秩序発生は個々人の価値観とは全く関係ないことになる。つまり、異なる価値規範を所有している人間どうしでも、共通の制裁と報酬の予期構造を共有することで、秩序は発生する。言い換えれば、個々人の実現可能な選択肢が、制裁と報酬の予期構造によって制限されることで、集団秩序が発生するのである。少なくとも、これは、理論社会学的には論証できなくても、臨床社会学的には、実証できる事実である。
 
 価値規範の共有ではなく、予期の構造の共有こそが、システム維持=秩序発生の源ではないかと考えるわけである。従って、人権道徳教育で個々人の価値規範を変革しても、いじめはなくならない。なぜなら、いじめは、個々人の内面化している価値観や道徳観念とは別次元で生ずる集団社会現象であるからである。
 
 いじめ集団特有の「制裁と報酬の予期構造」を破壊することで、いじめ秩序は崩壊するのである。いじめ撲滅は、集団破壊と同じなのである。

 確かに、仏教的にいうと、一切の存在は関係の中にあり、関係なしにはあり得ない。しかし、一つの限定された関係に閉じ込められ、異なる他の関係を選択できないところ問題がある。仏教の無常の公理からは、関係それ自体も無常であり、変化していくはずである。
 関係の制限性=関係の実体化を否定する関係の自己選択性こそがキーワードになるであろう。関係そのものも空なのであり、関係項を離れて実体化できる絶対的関係=全体者はない。一つの関係(社会観)を絶対化、実体化、固定化することで、社会病理現象は発生する。
 
 子供とっては、仲間集団が世界の全てとなり、絶対化、全体化してしまっているのである。もっと他の世界を生きることができることを示し、関係を相対化することが必要なのである。相対主義はいじめの処方箋になるのである。

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by merca | 2010-05-15 09:53 | 理論 | Comments(0)

意味システムと生命システムの本質的差異

 意味システム論では、原理的にベルグソン的な連続的変化つまり持続は存在しない。意味システムの変化は、常に断続的であり、区切りがある。社会システムにおけるコミュニケーションの連接には、区切りが必ずあり、断続的である。また、意識システムにおいても、一つの思考から別の思考にうつるという区切りがあるし、睡眠によって停止することで区切られる。
 
 一方、生命システムは、連続的に変化し、持続するわけであり、即、停止は死を意味する。意識システムも社会システムも、作動と停止を断続的に繰り返すが、それが可能なのは、意識システムの究極的な作動条件である生命システムが連続的に持続しているからである。(意味システム/生命システム)の区別は、(断続/連続)のメタ区別に準拠しているわけである。
 
 オートポイエーシスシステム論は、連続性を本質とする生命体を記述する理論として始まったが、意味システムのように断続的な現象をどのように捉えるのか、これは大きな課題である。
 今のところ、連続性システムと断続性システムの統合については、弁証法的な考え方を利用するしかない。つまり、システム論に弁証法を組み入れることで、この難点を克服できないかと考えるわけである。

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by merca | 2010-05-09 17:45 | 理論 | Comments(0)

作動一元論批判 システム論に伴う論難

 システムは作動している時のみ、実在し、停止している時は、消滅する。そして、作動と停止を繰り返す。意識システムにあてはめると、これはわかりやすい。起きている時は作動し、睡眠している時は停止する。社会システムも、コミュニケーションが連接している間は作動しているが、コミュニケーションが途絶えると停止し、消滅する。
 問題は、停止しいてる時も完全無に帰したと断ずることはできないことである。むしろ、停止中こそポイントである。停止中の周囲の状況こそが次の作動の条件をつくるからである。停止中にシステム作動条件が確保されていないと、システムは作動しない。例えば、生命システムと脳神経システムが作動している条件でのみ、意識システムは、作動と停止を繰り返すことが可能となる。また、社会システムは、複数の意識システムが作動しているという条件でのみ、作動と停止が可能となる。
 
作動と停止の区別があって、はじめてシステムは真実在する。このことは、作動一元論=創発論的社会観の欠点と限界をしめしている。
ルーマンのシステム論は、作動一元論であると批判されることがよくある。つまり、システムが創発された時のみ、システムたりうるという考えである。しかし、作動一元論だけでは、社会現象の拘束性・規則性は説明できない。作動一元論だけでは、社会は完全な偶然性としてしか観察できず、社会現象の拘束性・規則性=蓋然性は観察できない。
 
 実は、選択という概念に、この問題を解く鍵がある。コミュニケーションは相互選択である。他者からの情報を理解する際に、多くの観察コードから一つの観察コードを選択して理解し、コミュニケーションを連接させていく。選択された観察コードは顕在化し、選択されなかったコードは温存される。システムが作動すると、選択されなかった状態と選択された状態の区別が生ずることになる。何を選択するかは偶然ではあるが、実は選択肢の数が限定されていることが、社会の規則性・拘束性の起源である。
 つまり、意識システムが所有する選択コードの数は限定されているのである。もっと簡単に言えば、個人が所有する概念や価値観は限られているのである。限られた選択肢から、個人は行為を選択し、他者に対してコミュニケートし、他者も限られた選択肢から理解してコミュケートし返すのである。自他が共有している限定された選択肢こそが、社会の規則性・拘束性をもたらし、秩序を生成するのである。この限定された選択肢は、共同主観と呼ばれるものである。無限の選択肢は神のみがもつが、社会的人間には有限な選択肢しか与えられていないのである。ただ、限定された範囲での選択肢から、どの選択肢を選択するかは、自由であり、偶然である。必然の中の偶然こそが蓋然性と呼ばれる事態なのである。

 作動一元論からは、選択肢の温存という発想は出てこない。むしろ、作動が可能になるのは、停止中に可能態として選択に必要な選択肢が温存されているという条件である。社会システムが停止中に、複数の意識システムに選択肢が所有されていないと、そもそも社会システムの起動はありえないのである。作動は停止を前提とし、停止は作動を前提としているのである。

 コミュニケーションが何でもありになり、予期理論だけでは、社会秩序の生成を説明することができないというシステム論に対する論難は、意識システムに所有されているゼマンティクが限定されていることで説明がつくのである。

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by merca | 2010-05-08 10:54 | 理論 | Comments(1)

「社会の社会」を読むために「思想としての社会学」を読む

 ルーマン社会学の集大成として、「社会のXX」というシリーズがある。「社会の宗教」、「社会の科学」、「社会の経済」、「社会の法」、「社会の教育」などである。そして、その集大成が「社会の社会」である。
 名前が奇妙に感じられるかもしれないが、社会科学と社会学の関係を考えることで、この表題の謎が解ける。
 そのことについては、ルーマンに並ぶ社会学者である富永健一著「思想としての社会学」における「社会の社会」への論評で解明されている。「社会の社会」を読む前に、是非、「思想としての社会学」を読むことをおすすめする。
 富永健一は、広義の社会と狭義の社会を区別し、社会科学における社会学の独自領域を明確にしたことで有名であるが、私なりの表現に変えて説明すると、次のようになる。

広義の社会
人間がつくりだした全てのもの。法律、経済、宗教、教育、科学、芸術などである。自然と対比して、文化と呼ばれる領域であり、自然科学のような方法では認識できない領域であり、経済学や法律学などの各種社会科学や文化科学の対象となる。

狭義の社会
(みんな/みんなでない)というメタコードに準拠したコミュニケーションを要素 とするシステムである。抽象的には、ルーマンのいう相互行為(システム)、組織体(システム)、社会(システム)を指す。具体的には、国家、国民社会、組織、家族、地域社会、社会階層、仲間集団などを考えることができ、これらが社会学独自の対象となる。
 
 つまり、 ルーマンの「社会の社会」は、「(広義の)社会の(狭義の)社会」となる。例えば、そうなると、無論、「社会の経済」は経済システムの記述であり、「社会の法」は法システムの記述となる。

 社会学の「社会」は何を指しているのか明らかになった。単に人間がつくった全てのものではなく、コミュニケーションを要素とするシステムである。やはり、社会システム論は社会学の王道なのである。

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by merca | 2010-01-30 11:36 | 理論 | Comments(0)

世界社会と国民社会の区別・・・結論

 国民社会を全体社会として見なすか、世界社会を全体社会として見なすかは、見なすことによって自己言及的に決定される。つまり、両者が実体として最初から存在するのではなく、連接していくコミュニケーションを観察するセカンドオーダーの観察者によってその都度規定される。
 簡単に言うと、国民社会を創発するか、世界社会を創発するかは、その都度の生成消滅するコミュニケーションの流れに委ねられる。
 従って、国民社会と世界社会は互いに絶対的に排斥する関係にはない。ある時は、人々のコミュニケーションは国民社会を創発し、別の時は人々のコミュニケーションは世界社会を創発しているという具合にである。これが実際であり、創発の妙理である。
 学コミュニケーションをしている時は、真偽の区別に準拠しており、国民社会の国境など関係なく、真理について語り合うことになる。これは、学システムの次元において世界社会を創発していることになる。しかし、投票行動や選挙活動をしている時は、人々は国民社会を創発していることになる。
 このように無限にある区別の中から一つの区別を他者と相互選択し、瞬時に一つの世界=社会をつくりだすことができるのである。参入とは生成、離脱とは消滅を意味し、生成即消滅の自由自在の境地に達するのである。区別によって三千大世界は生ずるのである。
 一つの区別を実体視し執着することを煩悩と呼ぶのである。一つの区別を実体視することから脱却するためには、区別そのものを否定し同一性=無我の境地=ニヒリズムに至るのではなく、別の区別を用いるべし。この点、再参入の区別の論理は、ニーチェの単なるニヒリズムや相対主義を凌駕しているのである。

 参考・・・ルーマンな人たち
「ポストヒューマンの魔術師」はいずこに いずこに・・・。興味ある方は検索すべし。
 しかし、「ポストヒューマンの魔術師」よりも、偉大な先人=狂人がおられるのである。
ルーマンカルト同盟は怖いのである。(エクルス)
山人のみが真人である。
ニセ科学批判者のブロガーたちは上の人たちを知っているかな・・・。
                    
  論宅の独り言
             (わかる人は社会学玄論のツーです。)

 
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by merca | 2010-01-18 22:28 | 理論 | Comments(0)

世界社会と国民社会の区別


 ルーマンやボルツは、全体社会を国民社会ではなく、世界社会と考えているようである。全体社会とは、自給自足的で包括的な社会の単位である。この点、デュルケームやパソーンズなどと区別しておく必要がある。グローバリゼーションを考えるまでもなく、社会をコミュニケーションの総体として捉える立場からは、それは必然的な論理的帰結となる。
 また、ボルツが指摘するように、距離が離れているかどうかに関係なく、いつでも連絡さえつけばコミュニケーションは接続可能となる。世界社会を考えるポイントとして、(連絡可能/連絡不可能)という区別は大きい。
 確かに階層分化が優位な時代では、階層分化の範囲は国民社会や民族社会の範囲と重なり、国民社会が単位となると考えられるが、高度に機能分化した社会では国民社会の範囲を超えてくる。
 例えば、経済システムは、(支払う/支払わない)というコードで創発するコミュニケーションであるが、そのようなコミュニケーションは国民社会を越えている。市場は国民社会を越えている。
 
 しかし、近代化は、国民国家が誕生し、国民社会の内部で生ずるというのが常識である。機能分化も、国民社会の内部における分化から始まったはずである。法、政治、経済、教育、医療、福祉などの社会各部門がゲゼルシャフト組織によって合理的に機能遂行されるようになった。やはり国民社会や国民社会の代表機関である国家という単位がなければ、近代化は不可能であったと言わざるを得ない。小林よしのりがその点に敏感であり、国民社会及び国家とそれを支える神話を絶対化しようとしている。
 今、学者や知識人による格差社会論が流行っているが、これも日本社会という国民社会を対象として論じている。学問的に「社会」を論ずる場合、多くは国民社会のことを指している。例えば、湯浅氏の反貧困論についても、日本社会という国民社会単位での話であり、アジア・アフリカ諸国の貧困と比べられば、日本が貧困であるとは到底言えなくなる。湯浅氏の反貧困の盲点は、(国民社会である/国民社会でない)という区別である。これについては、以前、別のエントリーで取り上げた。小林よしのりから湯浅氏に至るまで、国民社会という単位に準拠し、自己の思想を形成しているのである。
 以上のように、社会とは、究極的には世界社会であるというルーマンの理論、思想は特異であり、微妙である。もとより、ルーマンが提示した各機能システムのコードには、(国民社会である/国民社会でない)を前提にするという縛りはない。議論する際に、我々が暗黙に前提にしているにすぎない。社会学を社会学する際に、その社会学者や思想家の理論や思想を(世界社会/国民社会) という区別で観察してみよう。議論のすれ違いを観察できるに違いない。

 参考
 ボルツのポストモダン社会論は、ポストモダン化が進むと、全体社会が国民社会から世界社会に移行するというふうに読み取れる。国民社会内部での機能分化した各システムが国民社会という枠をはみ出でくるということを意味していると考えられる。国民社会の消滅=ポストモダン社会という解釈は面白い。柄谷行人の帝国主義論や世界共和国論と対峙させたい。

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by merca | 2010-01-17 10:26 | 理論 | Comments(0)

犯罪の規範意識論神話の刑事政策的意義

 浜井浩一や治安悪化神話批判論者たちは、障害、貧困、孤立、不就業などの生活要因が犯罪や非行を生み出す要因であると観察している。彼らは、どちらかというと、規範意識に犯罪や非行の原因を帰着させることを非科学的だとして嫌う。
 
 ところが、現実の刑事政策においては、規範意識ほど重宝される概念はない。犯罪者·非行少年は、規範意識が一般人よりも希薄であるから、犯罪や非行をすると考えている。つまり、犯罪の規範意識論である。規範意識論に準拠すると、犯罪·非行の自己責任論をもたらすことになる。規範意識とは、個人を取り巻く生活状況ではなく、個人の価値観·道徳観に基づく意識であるからである。湯浅氏が、貧困を怠け癖=勤労道徳の欠如に求める自己責任論を厳しく斥けるのと同様に、浜井浩一や治安悪化神話批判論者たちは、犯罪や非行の自己責任論を忌み嫌う。自己責任論をとると、刑事政策のイニシアティブを非科学としての法学にとられ、厳罰化論を肯定することになるからである。
 
 規範意識論に立脚した刑事政策は、特に社会奉仕活動に見られる。欧米では、社会奉仕命令を犯罪者に義務付けていることがあるが、これは犯罪者処遇ではなく、罪滅ぼしの刑罰として導入されている。しかし、日本の刑事政策では、処遇として利用されている。家庭裁判所では、社会奉仕活動を非行少年に履行させ、規範意識の向上に利用しているという事実がある。また、学校教育においても、社会奉仕活動が導入されており、規範意識の向上が目的とされている。以前、新聞記事で読んだが、やはり犯罪者処遇の一部として社会奉仕活動が応用されることが検討されているようである。

 「社会奉仕活動をすると、規範意識が内面化される。」という前提で刑事政策が進められているわけだとすると、日本の刑事政策は明らかに規範意識論に立脚していることになる。つまり、規範意識が高ければ、貧困や失業に関係なく、犯罪をしないという理屈である。
 しかし、「社会奉仕活動をすると、規範意識が内面化される。」という仮説が科学的根拠のあるものかどうかは実証されているだろうか? 安倍内閣が美しい日本という神話のもとに、社会奉仕活動の義務化を唱えたように、「社会奉仕活動をすると、規範意識が内面化される。」というのは、神話としても解釈できる可能性もある。
 
 しかし、実は、社会学理論の常識から判断すると、「社会奉仕活動をすると、規範意識が内面化される。」という命題は妥当である。人は社会的行為を通じて所属社会の価値規範を内面化していくからである。それを社会化という。この命題は、デュルケーム、パーソンズ、ミードなどの社会学理論と矛盾することはない。これまでの社会学的知識と矛盾することがないので、実証しなくても、この命題は社会科学的には妥当だと演繹されるのである。社会奉仕活動は、刑事政策における社会学的知識の応用なのである。
 ともあれ、規範意識論に基づく刑事政策は、規範意識や道徳を研究する理論社会学によって演繹的に根拠づけられ、責任論については法学によって処理されるのである。この分業が刑事政策の本道かと思われる。規範意識論に基づき、分業すると、浜井氏のように、法学と人間科学の対立は起こらないのである。

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by merca | 2009-12-19 18:08 | 理論 | Comments(0)