カテゴリ:理論( 168 )

意味世界の真理観=限定的な相対主義

 意味世界は、複数の真理が成立つ相対主義の世界であるが、無制限の相対主義ではないことを述べたい。
 例えば、一つの棒があるとする。
科学の立場からは、樫の木の枝であると観察したら、杉の木の枝であることはできない。一つの真理しか成立たないのが自然科学の世界の論理である。
 ところが、意味世界では、一つの対象に対して複数の真理が成立つのである。その棒に対して、ある人は杖であると言い、別のある人は物干竿であると言い、さらに他の人がバットであると言ったとする。棒が杖として、物干竿として、バットとして機能すれば、正しい認識=真理となる。目的に応じて対象物に意味付与することができ、一つの対象に対して複数の真理が存在し得ることになる。
 また、宝くじに当選したという偶然の出来事が起きたとする。「神様が奇跡を起こしてくれた」「日頃のよい行いのためだ」「祈りが通じたからだ」とか多様に意味付与することができる。

 複数の真理が一つの対象について成立つのであるが、無制約ではないことを説明しよう。まず、棒の例でいうと、棒が固くなくすぐに折れるようならバットとして機能しないわけだから、その棒をバットであると観察するのは真理ではないことになる。あるいは、その棒をバットとして誰も使用しないのならバットであるというのは正しくない。
 次に宝くじの例でいうと、宝くじに当選した人が「日頃のよい行いのためだ」と解釈し、お金を福祉に寄付したとすると、社会全体の立場からすると、有益であり、真理となる。反対に霊感商法のように100万円の壷を買って先祖の因縁が断ち切れたと認識している人が自分も壷を他の人に売りつけるようになり、買いたくない人々に強制し金銭的に迷惑をかけるようになると、社会全体の立場からすると、有害であり、非真理となる。
 このように、意味世界における真理の正しさは、対象との一致ではなく、目的に応じた有用性、実践性から判断される。目的に応じて、意味世界の真理は複数存在し、互いに妨げ合わないが、有用性・実践性から判断し、不適切なら、非真理として斥けられ、必ずしも無制限の相対主義にはならないのである。
 

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by merca | 2009-10-25 13:35 | 理論

実践理性の領域について

 神の存在や死後の世界などが科学の対象外であることは、ある意味、哲学では常識である。何でも科学の対象となると考える人は、一から哲学を勉強し直す必要がある。

 カント哲学では、理論理性と実践理性を区別し、その適用領域も限定されている。物理世界=経験世界は、理論理性で認識しうる因果法則が定立できる領域であり、それに対して、精神世界・倫理社会は、実践理性で意志することで成立つ領域であり、理論理性=科学の対象外であり、宗教・倫理学の領域だと考えられている。この区別によって、カントは、科学から信仰の領域を守ったとよくいわれている。カントのこの区別は、(自然/文化)、(物理的リアリティ/社会的リアリティ)などに受け継がれている。カントは、近代化による合理化・脱呪術化の流れから宗教やスピリチュアルを守ったのである。
 科学主義者やニセ科学批判者が、科学の立場つまり理論理性から、客観的事実でないとして、宗教やスピリチュアルを批判することは、カント哲学からすれば、実践理性が対象とする領域である精神世界への不当な侵入なのである。
  
 実践理性の領域は、因果図式の適用外であり、目的論・意味論の世界でもある。人間精神や社会の存在は、目的や意味によって構成されているのである。例えば、人間の行為は、目的-手段という図式で理解され、解釈される。同じく、社会も目的-手段という図式=機能主義的分析で観察され、解釈される。
 その意味で、社会学者ルーマンが意識システムや社会システムを意味システムとして観察したことは妥当なのである。意味システムは、物理システムと異なった次元で実在するのである。
 意味システムたる社会を因果図式で観察しようとする社会学者もいるが、当の因果図式そのものが意味システムによって二次的に構成されたものであることを忘れてはならない。人は、目的のために因果図式を手段として利用し、行為するからである。
 社会現象を因果図式で観察しようとする統計的手法は、限定的に慎重に扱わないと、社会の本質を捉え損うことになる。

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by merca | 2009-10-25 12:29 | 理論

規則の分類


 規則における法則と規範の区別をしておきたい。この区別は(違反可能性/違反不可能性)に準拠している。
 
 法則とは、それに反することが不可能な規則である。例えば、自然科学が追求する因果法則がこれに該当する。質量保存の法則や万有引力の法則などの物理法則は、そもそも逸脱することはできない。従って、法則に反する現象や行為は存在し得ず、守らせるための賞罰は存在しない。法則は、世界の必然な部分にかかわる規則であり、物理学が扱う領域である。

 規範とは、それに反することが可能な規則である。例えば、法律や道徳である。法律に違反する行為を犯罪と呼ぶが、犯罪者には罰則が科せられる。規範に合致する者は賞賛され、反する者は罰せられる。また、道徳的行為をすると他者から褒められ、反道徳的行為をすると他者から非難される。さらに道徳観念を内面化している人間は、道徳律に合致する行為をすると自己評価があがり、反する行為をすると自己評価が下がるという自己賞罰作用が心に生ずる。規範は、世界の偶然な部分にかかわる規則であり、社会学が扱う領域である。

 ここで問題なのは、数学の規則、論理規則、文法である。
 数学の演算規則は、果たして逸脱可能なのだろうか? 計算間違いがあるように、間違うことは思考レベルでは可能であるが、実験レベルでは不可能である。5+4=9が正解であるが、幼い子供は計算を間違うかもしれない。しかし、5個の玉と4個の玉を混ぜて数えるという実験をすれば、必ず9個になる。また、計算は思考実験の一種であるが計算機を使用することで正解を導きだせる。数学の規則の世界は、思考と現実が合致する必然世界である。人間は、物理的な外部世界を頭脳に内面化することで自然に適応するわけであり、数学は人間が内面化した物理世界の観察に基づいている。
 論理規則も数学と同じであり、思考レベルでは間違うこともできるが、実験では逸脱不可能である。論理に反する外部現象はあり得ない。数学の規則も論理規則も法則であり、逸脱はあり得ないものであり、従って賞罰もない。
 文法は、間違うことが可能であるが、特に賞罰はない。文法は文化によって異なるので社会現象であり、世界の偶然の部分にかかわるが、無意識のうちに習得するので、賞罰を必要としない規則だと考えられる。
 
 社会学の対象である規範という規則は、逸脱可能であり、賞罰によって維持されていることから、自然科学の対象とする世界の必然な部分=物理現象とは根本的に異なるのである。対象の性質が異なるためにその記述方法も自然科学と異なることになる。
 社会を必然だと見なす科学的マルクス主義は、カテゴリーの混同に基づくニセ科学と言えるのである。社会に実体はないとする究極の社会学からは、社会が必然だと思えるのは、物象化現象にしかすぎず、各種文化装置によって社会の必然性が維持されているだけにすぎないのである。
 ちなみに、特定の社会観を必然性の相で捉え一元論的に絶対化する思考回路は、社会病理現象をもたらす。全共闘運動や秋葉原無差別殺人事件がそれである。

  参考
 生物学のホメオタシスは、むしろ法則ではなく規則である。体温が36度でなければならないという規則は病気になると逸脱するからである。しかし、それを維持しようとする生命体のはたちらきが起こり、36度に戻るのである。規則を維持する装置を必要とするので、これは物理学とは異なり、世界の偶然性の部分に対応する学問ということになる。
 
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by merca | 2009-08-23 11:11 | 理論

厳罰化に科学的根拠はいらない。


 厳罰化の犯罪抑止効果の科学的根拠を吟味する行動科学の理論として、心理学の強化理論と社会学の合理的選択理論について述べたが、二つの理論の原理的差異について述べておきたい。

 人間の行動を分析・予測する理論としてどちらの理論が相応しいのかという点にもかかわってくる。
 強化理論においては、スキナーのネズミの箱のように動物実験に基礎をおいている側面が強く、理性的選択による行動ではなく、習慣的な学習的行動として人間の行動を捉える。
 プラスの刺激としての報酬を与えると、その行動は頻繁に発生し、強化され、マイナスの刺激としての罰則を与えると、その行動は減少するというわけである。この強化理論の行動法則は、動物のみならず、人間にも適用できるというわけであり、幼児の躾などにも応用できるのである。罰則によってマイナスの刺激を与えると、それだけその行動は避けるというわけである。
 しかし、学習するためには、一度、その行動を起こし、マイナスの刺激を受けておく必要がある。体験しないと学習できないという欠点がある。
 強化理論は、体験的な学習理論であり、体験学習をしていない領域の行動については、適用できないのである。さらに、一度、学習すれば、刺激反応的に行動するわけであり、理性的選択が介在する余地はない。強化理論は、社会学でいう習慣的行為のカテゴリーに入る。
 強化理論からすると、厳罰化は刑罰を受けたことのない人間には通用せず、あまり効果がないことになる。また、罰則を何回も受けている人間は罰則に対する耐性ができており、効果は持続しないと考えられる。
 結論として、行動心理学からは、厳罰化による犯罪抑止効果はあまり期待できないことになる。

 一方、合理的選択理論における人間行動は、頭の中の合理的計算によって作動する行為である。つまり、体験しているかどうかとは直接関係なく、損得勘定によって行動が決定される。刑罰を体験してなくても、その経済的損失や精神的苦痛を想像し、予期することで、合理的計算の中に組み入れることは可能なのである。
 厳罰化し、違法行為によって損をするのであれば、違法行為を選択することが少なくなることは簡単に理論的帰結として導出できる。合理的選択理論をもう少し精緻にすると、社会学者宮台氏の「権力の予期理論」のように、予期と選好の構造の掛け合わせで分析されることになる。
 合理的選択理論からすると、合理的に行動する全ての人間に対して厳罰化は、一様に犯罪抑止効果をもつことになる。

 強化理論は習慣を人間の行動原理として解釈し、合理的選択理論は理性を人間の行動原理として解釈している。言い換えれば、前者は快苦を価値とし、後者は損得を価値とする行動原理である。

 しかし、強化理論も合理的選択理論も見落としている側面がある。それは、人間は快苦や損得だけで行動しているのではなく、善悪によって行動しているという側面である。
 むしろ他人の物を盗まないのは、快苦や損得ではなく、人として恥ずかしく他人に迷惑をかける悪い行いだからである。法規範に違反する犯罪は悪であるという道徳意識によって、多くの人は行動しているのが常ではないかと思われる。人間は道徳原理によって動くという行動分析が強化理論や合理的選択理論には徹底的に欠けている。
 厳罰化は、社会の道徳感情のあらわれであり、その違法行為がどの程度道徳的に悪いことであるかを人々に通知する制度である。ある種の犯罪が厳罰化された場合、その犯罪は道徳的により悪い行為であるとみなされるようになり、道徳原理で動く人々はそのような行為を避けるようになる。つまり、人々の道徳心を刺激することで、厳罰化の効果は期待できるのである。
 多くの議論を見るに、厳罰化が人々の道徳感情を刺激することで、犯罪抑止効果をもつという視点が欠落しているように思われる。
 厳罰化の背景には、犯罪被害者の声があるとよく言われる。ある種の犯罪とその実態が社会に知れ渡り、深刻な被害を人に与えている道徳的に悪い行為であると評価されると、厳罰化は道徳的評価としては正当なものとして、人々に受け入れられるのである。
 
 厳罰化は人々の道徳的評価の世界の話であり、科学的根拠のあるなしで分析しようとすることは野暮なことである。道徳の世界までにも科学的根拠を求めようとするのは、正しく科学絶対主義者の発想である。厳罰化には科学的根拠は必要ないのである。社会学的に言うと、厳罰化を科学的根拠で正当化することは、道徳の根拠を科学に求めようとするカテゴリーの誤謬になってしまうのである。
  
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by merca | 2009-08-02 09:23 | 理論

自己意識の輪廻転生論


 自己意識は、睡眠(夢を見ている状態を除く)や気絶した時には存在しないが、覚醒すると立ち現れる。自己意識は、作動と停止を繰り返している。脳神経システムに自己意識を作動させる条件が整うことで、自己意識は立ち上がる。睡眠や気絶している間は、この世=現象世界にその人の自己意識は存在しないことになる。一種の死である。ところが、覚醒すると、その人の自己意識は生じ、この世に立ち現れる。これは一種の生である。かくして、脳を含む肉体という物質的基盤を条件として、自己意識の輪廻転生が成り立つ。
 このように解釈すると、ある限られた条件であるが、自己意識=心の輪廻転生は、普通に考えて正しいことになる。むしろ、科学と矛盾しない。
 
 自己意識の輪廻転生論からすると、もっと重要なことは、心身二元論は正しい結論になることである。つまり、心=自己意識をもたない脳の状態が存在することを認めることになり、自己意識と脳は別物となるからである。睡眠中の脳は、心がない脳であり、心と分離しているのである。別の言い方をすると、睡眠中や気絶状態の時には、心が脳に宿っていないことになる。システム論的には、脳神経システムが意識システムを作動させる条件を整えていない状態が心の死であり、意識システムを作動させている状態が心の生である。
 また、意識システムを作動する条件を人工的に整えることが可能なら、人は心の輪廻を操作することができる。実際、寝る前に目覚まし時計をかけるのは、それである。

 さらに、自己意識の輪廻転生論を認めると、自己意識は連続してないことになり、ベルグソンの純粋持続や所業無常の原理に反し、自己意識は不連続であるという結論になってしまう。睡眠時の意識の停止をもって、意識の連続性を否定することができるのだろうか?
  自己意識は連続していないが、脳神経システムは作動し続けており、睡眠時も心の無意識の部分は作動し続けていると考える立場もありうる。あるいは、生命システムが連続的に作動していることが、脳神経システムの作動と自己意識の輪廻転生そのものの条件であると考えられる。

 睡眠する前と後の意識が自己の連続する意識として同一であるという感覚が存在するためには、記憶の蓄積だけではなく、変化するものの中に変化しない同一性を想定することが必要となる。(記憶は自己意識の同一性を知るための手段であっても、自己意識の同一性そのものではない。)
 究極的には生命体システムの連続的同一性が自己意識の同一性を支えていると解釈できる。簡単に言えば、同じ命ということが自己意識の連続的同一性を支えている。

 脳神経システムを含む生命システムが、(自/他)という区別コードで自己言及した時に、自己意識が発生するのである。生命体システムが別の区別コードで自己言及した時には、自己意識は滅却するのである。


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by merca | 2009-05-08 10:39 | 理論

受動意識仮説とメタ認知的ホムンクルス論

 ロボット工学者の前野隆司の受動意識仮説と脳科学者の茂木健一郎のメタ認知的ホムンクルス論は、ともに脳と心の関係を解明しようとする意欲的な理論である。この二つの仮説を簡単に紹介し、その難点を指摘しておきたい。
 
 まず、受動意識仮説とは、簡単に言うと、知情意、記憶と学習などそれぞれの部門を担当する無意識の脳神経細胞の諸活動のネットワークを受動的に受けとるはたらきが自己意識だとする説である。つまり、自己意識は無意識における脳の各部署の活動を支配するのではなく、各部署の活動の結果だけを観察しているにすぎないとするわけである。従って、いかなる意味においても、自己意識に決定権はない。脳神経細胞の諸活動の相互作用から生じた結果のみを把握するだけであり、自己意識による自由意思と呼ばれるものは、錯覚だと言う訳である。
 リベットの実験にあるように、自己意識の意思決定の前に、すでに脳を含む身体は動いているという。自由意思が先にあって身体が動くと思うのは脳が自己意識のためにつくりだした錯覚であるという。これは、自己意識に能動性を求めない説である。
 さらに、前野氏は、この説に基づいて、自己意識=心のあるロボットをつくることが可能だと考える。自己意識は無個性な機能であり、個性はむしろ脳を構成する脳神経細胞に求められることになる。

 次に、茂木健一郎のメタ認知的ホムンクルス論では、受動意識仮説と反対の立場をとる。心=自己意識は、脳内の各神経細胞の活動を見渡す機能があり、擬似的主体と擬似的客体に自己分裂させ、脳全体の変化を内部観察するというわけである。外界からの刺激を受けて変化する身体を脳が感じ取り、自己意識が認識主体と認識対象という区別を自己の中に能動的に生じさせるという主体的な役割を負う。「我思う故に我あり」というデカルトの自己意識論に近い。
 クオリアが私のクオリアとして体験されるためには、私の同一性を担保する不変更としての自己意識を必要とするわけである。茂木氏の議論は、哲学の世界でも繰り返されてきたように思える。

 両者はともに脳の神経細胞のネットワークから自己意識が発生すると考えるが、その根本的差異は自己意識を能動的存在と捉えるか受動的存在と捉えるかである。茂木氏は自己意識を能動的に捉え、前野氏は受動的に捉えている。
 
 ここで、オートポイエーシス・システム論からの解釈を行いたい。オートポイエーシス・システム論では、自己意識としての心は、意識システムのことをさす。意識システムは脳神経システムとは区別され、互いに閉じている。また、意識システムは、社会システムとも区別され、互いに閉じている。意識システムは、脳神経システムと社会システムの二つのシステムのはたらきを必要としながら、自律したシステムとして記述される。意識システムの生成は、脳神経システムと同じくらい、社会システムを必要とする。自己意識が他者とのコミュニケーションから発生するという社会科学の定説は、意識システムが社会システムを必要とすることを意味している。
 このように一つのシステムが他のシステムのはたらきを必要とすることを構造的カップリングという。脳神経システムの要素は、個々の脳神経細胞であるが、意識システムの要素は、何々は何々である、という個々の思考内容である。思考内容は、社会システムが配給する種々の言語によって可能になることは言うまでもない。脳神経システムだけからは、意識システムの誕生は説明できない理由は、ここにある。
 オートポイエーシス・システム論からすると、全てのシステムは能動的であり、全てのシステムに対して閉じており、自律している。前野氏の受動意識仮説は、自己意識の自律性を認めない点において、システム論と反することになる。
 茂木氏のメタ認知的ホムンクルス論も、脳神経システムの全体を観察するという点においてシステム論と反する。意識システムは、閉じており、他のシステムである脳神経システムを全体的に観察することはできない。互いに影響を与え合うことは可能であるが、他のシステムを鳥瞰し、支配する立場に立つことはできない。
 
 システム論の特徴は、物質的実体ではなく、そのはたらきに着目してシステムを定義することである。従って、いかなるシステムも基本的には物質的根拠に依存せず、ただ要素のはたらきにのみ依存している。脳神経システムや生命体システムも、その要素である細胞が常に新陳代謝しており、究極的に物質的実体に根拠をもつわけでない。システムの同一性の根拠は、特定の物質にあるのではなく、要素と要素の関係の独自性にある。モナド論と似ているのである。

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by merca | 2009-03-22 22:53 | 理論

(自然/文化)という区別の相対化

 (自然/文化)という区別に、あらゆる論者が準拠し、科学論やニセ科学批判を行っている。言わんとすることは、自然現象と文化現象は異なる世界であり、互いに閉じているということである。例えば、法律や道徳は文化現象であり自然現象を根拠にしてはならず、逆に万有引力の法則や熱量の法則などの物理法則は文化現象を根拠にしてはならないということである。
 水伝が道徳という文化現象の根拠を自然現象に求めるというカテゴリーミスとして批判されるのは、ニセ科学批判たちが(自然/文化)というメタ区別に準拠しているからできる批判である。 
 
 (自然/文化)という区別コードは、肉体と精神、脳と心などの二元コードとも対応している。
ニセ科学批判者も共有するこの区別を脳科学議論に適用すると、自然現象である脳に心の根拠を求めてはならないことになり、脳科学の脳という自然現象が心を生み出したという説は否定されることになる。基本的に脳とは無関係に心は存在することになる。これは、心身二元論である。
 脳科学は、心という人間現象=文化現象を自然現象に求めることで、水伝と同じカテゴリーミスを犯していることになる。脳科学と水伝は同じカテゴリーミスを犯しており、ニセ科学批判の脈絡からは、脳科学のいう脳が心をつくりだすという説はニセ科学となる。
 
 さらにここが重要なところであるが、(自然/文化)という区別は真理観とも対応している。自然現象は真理の対応説の世界であり、文化現象は真理の合意説(共有説)の世界である。真理の対応説とは、対象と認識が一致した命題を真理とする説である。真理の合意説とは、人々が共通にそれが正しいと合意を得たり、共有していたりする考えが真理であるという説である。自然=対応説、文化=合意説となる。
 反社会学講義のパオロ・マッツァリーノ氏や俗流若者論批判者の後藤氏らのように、統計的事実を絶対化して社会を語る論客が増えているが、彼らは全て真理の対応説に準拠している。統計的事実とは、対象を測定するという正しく真理の対応説に準拠しているからである。文化現象や社会現象を自然現象に用いられる真理観で観察するのは、厳密な意味では、カテゴリーミスとなる。
 例えば、民主主義社会や人権と言っても、それは対象として外部に実在するのではなく、人々が合意・共有して正しいと思っている理念にしかすぎない。しいていえば、多くの人がその物語を演じることで仮に現象化するものである。対象は不安定であり、砂上の楼閣のごとくであり、統計で図ることのできるような実体的な対象ではない。社会学者の内藤朝雄氏なども指摘していたと記憶しているが、人権は、人々が共存するための必要的な虚構物語である。柄谷行人も同じようなことを倫理の問題として論じている。
 いずれにしても、人間がつくりだす社会現象や文化現象を真理の対応説に準拠した自然科学的手法で分析することは、水伝が犯しているカテゴリーミスと同一である。

 ところで、(自然/文化)という区別もこれまた絶対的な区別ではなく、別の区別から相対化できるものだと考えると(脱パラドックス化が可能だとすると)、また少し話は違ってくると思われる。今、(自然/文化)という区別自体に疑問を投げかけているネット論客は見当たらない。
 しかし、実は社会構成主義的には、(自然/文化)という区別も社会がつくりだした一つの区別にすぎないと考える。(自然/文化)という区別に準拠しない論者には、私が述べてきた説は通用しない。 多くの科学者やニセ科学批判者は(自然/文化)という区別を遵守しているようであるが、社会現象や文化現象に真理の対応説を適用しようとする統計的事実を絶対化する論者たちは、(自然/文化)というメタ区別に無頓着なのか、あるいは別の区別から相対化=脱パラドックス化しているのか知りたいところである。

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by merca | 2009-03-07 11:20 | 理論

物と心の止揚としての言語=社会

 社会学的にいうと、脳と心、物理的世界と精神(心的)世界をつなぐものは、言語である。言語は、名称や文字のレベルにおいては音声や図形という物理的対象として物理的世界に属しながらも、概念や意味内容のレベルにおいては精神世界に属している。
 脳という物理的実体と心という精神的はたらきの結合は哲学的にも難題であり続けたわけであり、物理的世界と精神的世界をどのように関係づけるかは、多くの脳科学者や哲学者を悩まし続け来た。
 しかるに、言語現象においては、物理的世界と精神的世界が見事に結合されており、社会的に機能している。物理的世界と精神的世界の溝は、言語現象において解明されると考えられる。言語現象とは、端的に言うと、社会現象であり、社会学の対象となる。言語は一人の人間が発明したものではなく、人々の相互作用から自然発生した社会的なるものである。社会的世界は、物理的世界と精神的世界を媒介するのである。
 
 個々の人間にとっては、言語を習得すること、つまり社会を内面化することで、人間精神=心が発生し、物理的世界と精神的世界という区別が後から生ずるのである。その逆ではない。物理的世界と精神世界は最初から区別されているのではなく、後から生じた分別にしかすぎない。物理的世界が精神的世界を生み出したとする脳科学=唯物論も、精神的世界が物理的世界を生み出したとする唯心論も間違いであり、社会的世界が物理的世界と精神的世界の区別を生み出したと考えるほうが説明しやすい。
「はじめに言葉ありき」という聖書の真理は、あながち間違いとは言えないのである。仏教でも、言葉による分別(命名作用)から世界は生ずるとよく言われる、さらに、システム論的にも、言葉の本質である区別が世界の始源と考えられる。
 とりあえず、「はじめに社会ありき」を社会学の妙理として定式化したい。

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by merca | 2009-02-28 19:15 | 理論

言語の恣意性と物象化現象

 言語は、名称と概念からなる。そして、名称と概念の結合に必然性がないことを指して、「言語の恣意性」と呼ばれることは有名である。つまり、ある発音や図形(名称ないしは文字)という物理的対象に対して、何を意味するかは、人々の約束事にしかすぎないという説である。
 
 実は、「言語の恣意性」の原理は、貨幣の原理である物象化現象と本質は同じである。物象化現象とは、対象の中にあたかも価値や意味が宿るように錯覚する社会的機制のことをいう。国家という社会的なるものが存在すると思うことで、紙切れという物理的対象に交換価値が宿り、商品を手に入れることができるのである。紙切れと価値の間には、物理的な意味での必然的な関係はない。紙切れの成分をいくら分析したところで、交換価値の根拠を発見することはできない。
 まさしく、言語もこれと同じであり、発音や図形という物理的対象の中に概念の意味を見つけ出そうとしても、発見することはできない。しかし、人々が貨幣の中に価値が宿ると錯覚するのと同じく、名称や文字に特定の概念=意味内容が宿ると思い込むわけであり、「言語の恣意性」は隠蔽されることになるのである。
 
 ちなみに、恣意性は個人的な恣意性ではないことを確認しておく必要がある。私的言語があり得ないのと同様であり、言語は人々に伝わることでその機能を全うするわけであり、名称と特定の概念の結合は人々に共有されていることを前提とする。つまり、言語の恣意性は、言語の社会性を意味する。別の言い方をすれば、社会は自然=物理的世界から区別されている自律世界であることを意味する。システム論でいうと、意味システムと物理システムは、互いに閉じているということである。

 物象化現象に即して考えると、植物や水に心があるというのも、物理的には正しくないが、社会的には正しいこともあり得る。日本社会では一万円札が商品と交換できることを馬鹿にする人がいないのと同様に、植物や水に心があるという命題も、それが信じられている社会共同体では社会的に正しいことになる。このように、自然の摂理を超えた正しさを創造することができる社会の妙理は深淵なのである。そして、人間は、社会世界の住民であり、人間の幸不幸も自然の摂理ではなく、社会の妙理のなかで決定されるのである。社会学は社会の妙理を観察する学問である。 

   関連エントリー
  物象化現象の記述

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by merca | 2009-02-28 18:16 | 理論

メタ認知的ホムンクルス論の落とし穴


 メタ認知的ホムンクルス論と同型の思想は多く見いだされる。つまり、認識主体と対象の区別は一つの存在から生じた仮構であるという思想は多くある。
 独我論、西田哲学、現象学、唯識論、システム論、構造構成主義などは、全てこの考え方に立脚している。
 独我論では、世界には自己しか存在せず、自己が認識しているもの=対象は全て自己がつくりだした妄想であると捉えられている。
 西田哲学では、自他不二の純粋経験から自他の区別が後から生ずると考える。
現象学では、意識の外の存在があるかないかをアポケーし、全てを意識内の現象として捉え、認識主体と対象は意識内のノエシスーノエマ構造に還元する。
 この発想を引き継いだ構造構成主義では、基本的に外部存在の実在性がなくても、科学的認識は成立すると考える。
 仏教の唯識論では、認識の外には実在はなく、自他の分別は八識という根本意識がつくりのだしたものだと捉える。
 システム論では、システムと環境の区別は、システム内部の疑似区別だと考えられる。システムは基本的に自己観察=自己言及しかできない。自他の区別や認識主体と対象の区別は、意識システムが自己を観察するためにつくりだしたコードにしかすぎない。
 
 さらに言うならば、これらの思想は、基本構造は宇宙生命論型の思想と同一である。宇宙生命論とは、一つの宇宙生命(あるいは神=絶対者=自然)が実在し、自他の区別、主客の区別は、そこから生じた現象世界における相対的なものにしかすぎず、全ての存在は宇宙生命を媒介にしてつながっているという思想である。インド哲学や新興宗教の教義にもよく見受けられる。現代では、トランスパーソナル心理学がこの宇宙生命論にあてはまる。

 一つの存在の自己分割として自他の区別あるいは認識主体と対象の区別が生ずるという思想は意外に多く、脳科学における唯脳論は、メタ認知的ホムンクルス論に限らず、この手の思想と同型である。唯脳論においては、自己が認識している対象は実在物ではなく、全て脳がつくりだした幻想だと考えるからである。

 ただし、一者の自己分割の原因を外部存在や他者や物それ自体に求めるか求めないかで、この手の思想も分かれてくる。論理的には、自己分割の原因は結局外部に求めざるを得ないと思われる。そいうい意味では、システム論は、世界そのもの=世界の無限の複雑性という本当の外部世界を想定しており、宇宙生命論型の思想とは異なると考えられる。メタ認知的ホムンクルス論は、全く外部存在を否定しているわけではないと思うが、外部存在との関係性を理論として取り込んでいない。 
 いずれにしろ、意識内に現象化してこない外部存在を想定するかしないかで、変わってくる。脳科学者が脳の外には世界は存在しないと考えるのか、それとも物それ自体のような外部を自己の理論に組み込んでいるのか微妙なところである。外部存在を完全に否定した場合、神秘思想に至る傾向にある。

 認識論においては、認識主体と対象の区別は意識内現象であることは否定できないと思われ、現象学や唯脳論に軍配があがるが、しかし、一つ説明できないことがある。意識の受動性の問題である。
 対象は私が意識内で構成した幻想であるにもかかわらず、私の期待を裏切ることがあるからである。例えば、魅力的な女性が目の前にいて、交際してくれと言っても、断られることはある。つまり、魅力的な女性は自己がつくりだした幻想であるにもかかわらず自己のコントロールがきかない。また、自分の意思とは別に勝手に認識対象は立ち現れては消えてゆく。これは体験的事実である。風景は意識内現象かもしれないが、自分の意思と関係なく、勝手に現象化してくる。クオリアも私の意思とは関係なく、与えられる。つまり、意識は受動的である。この受動性の感覚、自己の思い通りにならないという感覚が、外部世界が存在するというリアリティの根拠となっている。認識の原因は、私の方にあるのではなく、対象の方にあるだと思うのも、この意識の受動性の感覚からくる。意識の受動性の感覚が、自己以外の何かが自己の外にあるということの存在証明となる。「我思う故に我あり」ではなく、「我感じる故に他者あり」である。
 しかし、懐疑主義者は、意識の受動性も自我意識が作り出した幻想であると考えるかもしれない。しかし、そうなると一切が幻想であることなり、(幻想/現実)の区別はかえって寂滅し、一切が現実であると言っても、一切が幻想だと言っても、同義になってしまう。同じく、一切が脳内現象だと言ってしまうと、脳と脳以外のものの区別はなくなり、わざわざ脳だと言う必要がなくなる。唯心論も唯物論も、全てが心だ、全てが物だと言った瞬間、区別を失い、同義になる。あるものを定立するためには、それ以外のものとの区別が必要なのである。

 込み入った哲学論議は久しぶりであるが、脳科学が唯脳論に走らないためには、意識の受動性を根拠に、自己の理論の中に本当の外部や他者をどのように組み込むかが必要だと感じたわけである。茂木氏のメタ認知的ホムンクルス論も、他者や外部を導入しない限り、一つ間違えると、自他不二の宇宙生命論型の思想になり、トランスパーソナル心理学と同じになるのである。
 だが、決して意識に現象化しない他者の痕跡を理論化することは非常に難しい。意識に現象化した途端に、外部は外部でなくなり、他者は他者でなくなるというのは、他者論の哲学者レヴィナスが指摘するとおりであるからである。

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by merca | 2009-02-11 22:18 | 理論