カテゴリ:社会分析( 107 )

市民社会(普遍性)と国民国家(特殊性)の止揚としての近代社会(全体社会)

 ルーマン研究家の社会学者佐藤俊樹氏が「意味とシステム」という著作において、行為、コミュニケーション、システム等について根本的に議論している。私も興味をもって拝読したが、むしろ面白かったのは、システム論にまつわる本質的探求の部分ではなく、国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察している部分である。つまり、国民国家と市民社会は単純な対立概念ではなく、国民国家の複数性と市民社会の単一性が相互に依存しているという洞察である。国民国家は、世界に複数存在することで、個人に国家所属についての選択意識を表象させ、国家に包摂され尽くされない外部としての独立意識をもたらすことになる。このような個としての意識が市民社会の意識をつくりだす。

 逆に、国家は社会契約論的観点から、国民が市民たりうることで、本来的に自由な個人たる市民たちが契約によって国家をつくったという近代社会の成立根拠の正当性を担保できる。つまり、自由な市民だった国民によってつくられた、あるいは全ての国民の合意によって国家が成立したという建国物語をもつことができる。社会契約論という必要的虚構が国家の成立の本質的根拠となるわけである。

 さらに、国民国家の外に個人が市民として存在することで、国家は国民に自己負担させることができ、個人の責任を全て国家が丸抱えせずにすむことになる。

 複数ある国民国家は、特殊性、共同性を意味し、単一の市民社会は、普遍性、世界性を意味することになる。個人は、国民として国家共同体に所属しつつも、世界市民として市民社会(世界社会)の中にいることになる。近代社会は、国民国家と市民社会という一見対立している二つのファクターを含みつつ、両者を止揚することで、成り立つことになる。

 

 このような近代社会の見方は、根底から、カントの理想とする世界共和国の思想を覆す社会理論と言えよう。平和共和国という普遍性に偏った一元的なカントの社会観は、弁証法的にはあり得ない。弁証法的には、普遍性(単一の市民社会)は、特殊性(複数の国民国家)を前提としてしか成り立たないからである。

 さらに、国民と市民の二重意識は、後期近代社会=成熟社会に生きる我々の感覚に非常にフィットし、リアリティを感じる。市民社会の普遍的価値としての人権思想=革新主義=左翼思想と、国民国家としての郷土主義=伝統主義=右翼思想が対立するように見えて、互いに前提とするという円環的弁証法が見てとれるのである。普遍性と特殊性の弁証法である。

 ただし、国民国家あるいは国民社会は、同一性のあるシステムとして観察できるが、市民社会は、同一性のあるシステムとしては観察できないし、定義上からも、共同性はなく、システムではないとも言える。

 ルーマン社会学の視点からして、システムではないものを社会と呼ぶことがそもそもできるのか少し疑問である。普遍性を本質とする市民社会あるいは世界社会には、本来、内と外の区別がなく、(システム/環境)の区別がないでのある。


 ところが、市民社会も、一つの区別に準拠していると見なすことは可能である。(普遍性=市民社会/特殊性=国民社会)という区別によって創発したシステムとして観察できる可能性がある。国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察する立場は、システムとして両者を捉えることも可能である。市民社会の環境は、国家社会であり、国家社会の環境は、市民社会であるという区別が立ち現れると、システムとして存在が可能となる。


 そういう意味では、近代社会は、普遍性たる市民社会システムと特殊性たる国民国家システムという二つのシステムを止揚した何者かである。その何者かが真なる全体社会だとしたら、ルーマンのいう世界社会の解釈と合致する。ありとあらゆるコミュニケーションの包括的総体が社会システムだとしたら、市民社会と国家社会を包括した近代社会そのものが、全体社会となる。実は、全体社会は、単一でも複数でもなく、そのどちらを離れても実在しないシステムとして観察するほかないのである。弁証法的観察のみが全体社会を捉えることができるのである。

 対立しているものが実は相互に前提とし合っているという弁証法的思考で、システム論を再解釈すると、以上のようになるのである。


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by merca | 2016-10-29 09:57 | 社会分析

あやかし(物の怪)としての社会病理概念

 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなど、これらの言葉は、学者や専門家が人々のコミュニケーションを観察してつくった社会病理概念である。つまり、当事者ではなく、第二次観察の結果、つくられた概念である。
 そして、今や、これらの負の行為を行った加害者は、無条件に社会から非難され、人格を全否定される傾向にあり、道徳的排除の対象となるのである。妻に暴力を奮ったら、DV夫としてレッテルを貼られ、子供に体罰をすると虐待親としてレッテルを貼られ、片思いでつきまとうとストーカーとしてレッテルを貼られ、部下に怒鳴るとパワハラ上司としてレッテルを貼られ、生徒に体罰をすると暴力教師としてレッテルを貼られる。
 すなわち、一度、そのような負のレッテルを貼られると、その人物の人格が絶対悪として構成され全否定されてまい、以後、どのような善い振る舞いをしても究極的に善い人間として見なされはしなくなる。被害者からは、更生はあり得ないと思われるのである。
 
 実は、DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント等のような社会病理概念は、大衆にとっては、(加害者/被害者)という二元コードに準拠し、さらにメタコードとして(善/悪)という道徳コードに準拠している。簡単に言うと、加害者と見なされると、全人格において絶対悪であると見なされることになる。
 やかっいなことに、このような負の全人格的レッテルのせいで、加害者と被害者の関係修復が困難となってしまうことがある。夫婦関係、親子関係、部下上司関係は、分離崩壊という選択肢しかなくなり、家族関係や人間関係を崩壊させるという病理現象を生み出している。
 社会構成主義の観点からすると、一度、加害者に対してそのような負の対人認識が出来上がると、被害者は、歪んだ認識で全ての加害者の行為を悪意として受け止め、コミュニケーションは悪化していくことになる。また、道徳的に悪と思われたくないために加害者も被害者に不適切な反発言動を行い、その反発言動を根拠として、DVや虐待等のコミュニケーションが再生産されていき、益々、社会病理行為はリアルになっていき、予言の自己成就をとげる。
 
 学者や臨床心理士が診断して社会病理概念を適用するのならまだしも、当事者が社会病理概念を恣意的に使用するようになってしまい、単なる夫婦喧嘩がDVとなり、単なる親子喧嘩や躾が虐待や体罰となり、単なる恋人への不満表明がストーカーになってしまっている。
 学者の二次観察によってつくれた社会病理概念は、あくまでも専門家の診断によるべきであるが、当事者が概念の取り扱いに注意することなく、その概念を乱用するために、道徳コードに準拠してしまうわけである。本来、社会病理概念には、その行為の加害者が悪であるという道徳的判断は含まれてないにもかかわらず、一度、当事者である大衆に流布するや否や、道徳コードと結合してしまうのである。そして、人間関係崩壊という二次病理現象を引き起こしているのである。

 本来、人間科学的には、社会病理概念の役割は、加害者がそのような社会病理的行為をしてしまうメカニズムを解明し、問題解決することであり、加害者に道徳的判断を下すことではない。にもかかわらず、社会病理概念は、人口に膾炙した時点で、(加害者/被害者)というコードを経由して、(善/悪)という道徳コードと結合し、自らを再生産するとともに、加害者の人格に対して道徳的排除を惹起させ、家族や人間関係の破壊という別の次元の病理現象を新たに生み出しているのである。
 システム論的には、学者による第二次観察である社会病理概念それ自体が大衆によって道徳コードに準拠して観察されたことになるわけである。所詮、学者や専門家の観察(=専門用語)も社会から超越した特別な観察ではなく、それ自体が一つの社会内観察にしかすぎず、大衆の道徳コードによる二次観察によって利用される宿命にあるのである。多くの場合、大衆は、人間科学の諸概念は道徳コードによって観察し、一方自然科学の諸概念は真偽のコードで観察するのである。このように学者がつくった専門概念を大衆が活用するのは、再帰的近代化した社会にとっては、避けられない現象であるが、社会学者は、その過程自体を明らかにし、問題提起する役割を負っているのである。要するに、科学的知識に対する大衆の二次観察によるコミュニケーションを分析することになる。
 
 そして、多くの場合、社会病理概念は道徳コードと結合した時に、息吹を得て、人々の情念に取り付く負のあやかし(物の怪)となるのを心得ておくべきである。無論、社会病理概念だけがあやかしとなるのではなく、思想もあやかしとなる。むしろ思想があやかしになることの方が多い。その代表がニーチェ思想やマルクス主義である。
 このあやかしが、喧嘩している夫婦や親子の情念に取り憑き、最悪の物語を作り出し、事態を悪化させ、家庭崩壊という不幸をもたらすことがある。DVとか虐待という専門用語に取り憑かれた関係を解除し、専門用語では決して一般化されない個別的な心の理をしっかりと受けとめる実力のある心理カウンセラーや福祉ケースワーカーの存在が求められるのである。学者や評論家のつくった言葉の副作用を知るべきである。
 
 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなどに含まれる道徳的判断をアポケーし、事実を事実として受け入れ、人の心の理を把握し、どのような道筋でその人に社会病理概念や思想が取り憑いたのか見極めるのが、真の臨床家である。

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by merca | 2016-08-10 09:15 | 社会分析

ムヒカ元大統領の幸福論が世界社会を変える

 今、日本でウルグアイ元大統領であるムヒカ氏の旋風が起っている。この方は、マザーテレサ級の偉人である。また、何となくワンピースに登場しそうなキャラクターでもある。ネット右翼や小林よしのりの反応を見てみたいものである。
 左翼や右翼という既成概念にとらわれ、そのような固定観念による視点でしかムヒカ氏を見ることができないとしたら、思想的に愚かである。人々の幸福に左翼も右翼もない。そこにあるのは、ただ経験に根付いた社会的真理のみである。
 
 ムヒカ氏の重い言葉に比べれば、社会学者・古市憲寿氏の幸福論がいかに軽く浅薄なものであるか実感させられた。雲泥の差である。人間としての本当の幸福は、古市氏が考えるような軽薄のものではない。「絶望の国の幸福な若者たち」において、単なる内閣府の社会調査統計によって、日本の若者は、絶望の国にあって、意外に幸福だという非常に浅薄な結論を導き出しているが、本当の不幸と幸福を知らない者の戯言にしか思えない。
 
 まずは、絶望の国? 何が絶望だと言いたい。本当の絶望を知らないから、安易に絶望だと言い放つことができるだけである。また幸福な若者たちと言い放つが、本当の幸福が何か知らない若者たちばかりである。不幸のどん底を知ってはじめて本当の幸福を知ることできる。
 そもそも絶望とは、不幸のどん底である。不幸のどん底にある社会とは、今のような日本社会には該当しない。いつ自分が死ぬかわからない戦時中の日本こそが絶望の国であったのである。戦後の日本社会を絶望の国というのはおこがましいに程がある。ムヒカ氏は、投獄され、拷問を受け、不幸のどん底から、本当の幸福を悟った。古市氏は、絶望という言葉を軽々しくよく使えたものだと思う。

 ムヒカ氏の幸福論からすると、本当に貧しく不幸な人とは、無制限な欲望をもち、いくらあっても満たされることがない人である。また本当に豊かで幸福な人とは、少しのことで満足できる人のことであるという。
 消費社会に踊られている日本人は、貧しく豊かではなく不幸だということになる。また、人間は一人では生きていけない存在であるという、ムヒカ氏の悟った真理からすると、日本社会で孤独化している若者や高齢者は不幸になる。孤独が最大の不幸という思想は、ムヒカ氏の長い投獄経験によるものである。
 
 ムヒカ氏は、人々が分かち合うことで、貧困はなくなると考えているようである。他者と分かち合うとは、単に物資を分かち合うだけでなく、愛を分かち合うことになる。分かち合うためには、人に対する愛が前提にないとできないからである。なぜ人は分かち合うのか、それは人の幸福を思うからである。
 かの歴史主義者・司馬遼太郎氏は、社会とは人々が分かち合うための仕組みである考えていたようであるが、ムヒカ氏は、その思想の体現者である。ヒトラー、毛沢東、スターリンのような独裁者とは対極の人物である。今世紀最大の哲人政治家である。
 
 さらに、ムヒカ氏は、マララと同じく、自分を虐待して来た人たちに対して恨みや憎しみをもつことは不毛であり、暴力革命ではなく、文化を変えることで、社会はよくなると信じている。ムヒカ氏は、愛する人とともに生活できることが最大の幸福であると信じている。
 世界社会となった今や、ムヒカ氏が理想とする博愛の社会は、平和を分かち合う世界社会においてはじめて達成される。個人のレベルだけでなく、世界の各国が平和を分かち合うことが求められている。日本国憲法における戦争放棄の思想は、来たるべき世界思想の先駆けとなるであろう。

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by merca | 2016-04-25 23:25 | 社会分析

国民性は、他国民につくられる。

 社会心理学では、アイデンティティは、他者との比較、集団への所属、他者からの評価によってつくられると考えられている。関係主義の公理からも、他者との差異関係がなければ、自己はない。
 このことは、国民社会レベルでも同じであり、一つの国民社会は、他の国民社会の存在を前提とする。一つの国民社会は、他の国民社会との区別によって成立する。
 同じく、国民性は、他国の国民性との比較、共通の文化圏や政治体制への所属、他国民からの評価によって構築される。
 例えば「日本人は礼儀正しい」という国民性は、他国民との比較や評価によって獲得されたアイデンティティであり、日本人がつくりあげたものではない。そして、日本人は国外において日本人らしく振る舞うことを要求される。また、社会科学的に国民性を調査する場合でも、基本的に他国との比較によって把握され、表現される。
 日本人の国民性は中国人の評価によって部分的につくられるし、中国人の国民性は日本人の評価によって部分的につくられる。韓国人、アメリカ人、フランス人、ロシア人・・・・全世界の国民も同様である。全ての国民社会の国民は、自身では国民性アイデンティティをつくることができず、他国に依存しているのである。
 言い換えれば、他国の存在を否定したり、他国との関係を断絶すると、他国と比較できなくなり、自らの国民性の否定につながるのである。
 
 奇妙なことであるが、国外においてこそ、日本人は日本人と見なされるのである。国外で「あなたは誰ですか」と聞かれたら、「私は日本人です。」と答えるであろう。国外においては、個としてよりも、日本国民として見なされてしまうのである。当然、敵国に行けば、個人の意思と関係なく、敵国民として非難・排除されるのである。
 反日教育で「日本人は悪い」と韓国人が思っていれば、善人の日本人が韓国に行ったとしても、日本人だから悪いと見なされるのである。罪のない個人がレッテルを貼られ、差別、排除、迫害がそこから生ずるわけである。ある人間を国民として観察するのか人類として観察するのか、その選択は、多くの場合、初対面の外国人であれば、国民として観察してくるであろう。
 つまり、他国民とコミュニケーションをとるためのメディアとして国民性はあるのである。国民性によって相手の反応を予期することで、複雑性を縮減し、コミュニケーションを可能にするのである。初対面の外国人であったとしても、その国の国民性がわかれば、コミュ二ケーションがとりやすくなるのである。そのように(自国民/他国民)という区別に準拠してなされるコミュニケーションは、国際社会システムを創発するのである。
 ちなみに国際社会システムは、世界社会とは区別される。国際社会システムのユニットは(諸)国民であるが、世界社会は人類がユニットだからである。つまり、全世界の異なる複数の国民社会から構成されるシステムこそが、国際社会なのである。また、国際社会システムの行政機関が国際連合である。
 
 ともあれ、国民の役割としての国民性は、国際社会において、他国民の期待によってつくられるのである。右翼は自国の歴史的伝統のみから国民性を導きだそうとしているが、他国民との差異と評価によって自国の国民性が形成されることに気づいていない。自国民が自国民は優れていると思っても、それは真なる国民性ではなく、単なる自己満足にしかすぎない。本当の国民性は、他国との関係で形成される対他規定性のものなのであるから。
 
 戦後の日本国民は、反戦主義の平和国家の国民として世界から期待されているのであり、その役割を遂行しなければならないのである。人類社会が進歩するために、世界からの期待として平和憲法が押し付けられたのは当然であり、戦争をしない国という役割を負わされてしまったのである。それが日本の宿命である。世界によってつくられた国民性である。
 日本国民は、戦後、「過去の戦争を反省する反戦主義の平和国家の国民」として役割期待を背負わされてきたのであり、この崇高な使命は、来たるべき世界(宇宙)社会の先駆けである。
 
 地球を外から眺める火の鳥(宇宙生命)は、日本国民たちを観察しながら、戦争を繰り返す人類がやっと自らの過ちに気づいたと思っているだろう。

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by merca | 2015-02-01 23:23 | 社会分析

右傾化への対抗思想としてのクリティカルシンキング。

 今、世界が荒れている。人類は、(歴史的)事実という言葉に惑わされているのである。
 
 多くの日本人たちが、中国が言うような南京大虐殺、韓国が主張するような従軍慰安婦問題は存在しないと思うようになり、謝罪する必要がないと考えるようになっている。
 
 小林よしのりの「戦争論」というトンデモ本からはじまる新世代の保守右翼思想は、多くの若者たちに流布し、在特会、某国のイージス、KAZUYAなどのネットを中心とする右翼思想家が登場しだした。
 そして、これらのネット右翼思想のおかげで、ネットでは南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張する日本人はほとんどみかけなくなってしまった。
 おそらく、仮に南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張するブロガーがいたら、ネット右翼たちから攻撃され、炎上するものと考えられるのである。言論が一元化している状況は異常とも言えるが、つまるところ、南京大虐殺や従軍慰安婦問題が虚構であり、中国と韓国の言いがかりとして、多くの日本人が受け取るようになって来たという証拠である。
 ネットで南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であるとの発言が溢れかえっていると、それを見た一般大衆はいとも簡単に南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であると思い込んでしまうのである。今や新聞よりもネット言説のほうが正しいと思われる傾向がある。
 
 というのは、一般大衆は、一人の新聞記者の記事よりも、多数の人が支持していることが正しいと信じるからである。
 社会心理学者アッシュの集団力学の実験でも明らかなように、人の判断は多数の人の判断に作用されるのである。また、社会学者トマスの公理「人々がそれをリアルだと信じれば、結果においてもリアルになる」がはたらいているのである。このような社会学や心理学という人間科学の知識から観察すると、ネット言説の多さが、社会的事実を作り出すということになる。
 
 しかし、純粋に物理的リアリティとしての事実だけに向かい合うことができる人たちが日本に唯一いる。ニセ科学批判者たちである。ニセ科学批判が準拠するクリティカルシンキングの立場から、南京大虐殺を分析したサイトがある。
  「目からウロコの南京大虐殺論争」
  http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm#mokuji
 
 同サイトの山本弘氏は、ニセ科学批判の源流であるト学会なる組織の開祖であり、科学的根拠のないトンデモ本を取り上げて批評、批判する活動をしている。いわゆるトンデモ本おたくである。
かなり昔になるが、戦争論に対してトンデモ本としてレッテルを貼り、論争を繰り広げている。そして、どうみても、科学的には山本氏のクリティカルシンキングのほうが正しく、小林よしのりは間違っている。中国のいうような30万人を虐殺したのは事実ではないが、数万人(少なくとも1万人)は殺害したことは事実であるという山本氏の結論は、妥当であり、正しいと思った。数万人殺害したのなら、十分、謝罪を要求する国際的に正当な理由となる。数万人の南京大虐殺は存在したのであり、その歴史的事実に向き合っていると思われていないので、よけいに中国の反日教育に拍車をかけているのである。数十人しか殺害していないとする虐殺まぽろし派の小林よしのりの戦争論は、物語にしかすぎない。その虚構を真実と勘違いして自己正当化してできあがったのが、ネット右翼である。
 私はニセ科学批判批判者であるが、山本弘氏のクリティカルシンキングによる分析は賞賛に値する。もし中国側と歴史的事実をすり合わすのなら、クリティカルシンキングによって慎重になされるべきである。
 
 一方、小林よしのりの戦争論は、歴史書ではなく、思想書として人々は受け取るべきであったのに、歴史的事実として受け取った未熟な人たちがネット右翼になり、KAZUYAなどの若手右翼思想家を生み出して来た。小林よしのりは、事実に準拠する歴史家ではなく、価値観に準拠する漫画思想家である。だから、自らの漫画思想書によって、日本国民としてのアイデンティティを提供し、多くの人たちの自我統合をもたらし、初期ネット右翼を生み出して来た。実は、人々に日本国民としてのアイデンティティを供給する点では、平和思想、反戦思想を団塊世代の人々に伝えた「はだしのゲン」と同じである。システム論社会学の観点からすると、内容は正反対であるが、「戦争論」と「はだしのゲン」は機能的に等価である。戦争論は、「はだしのゲン」にとって代わり、見事に多数の人々における日本国民としてのアイデンティティの書き換えに勝利したのである。

 ところで、「目からウロコの南京大虐殺論争」における山本氏の結論については、異論がある。これは、山本氏が深く社会学を勉強していないことからくる。山本氏は、日本が中国に謝罪するというのではなく、実際に中国人を殺した日本人が殺された中国人やその遺族に謝罪すべきだと結論付け、日本人全てが謝罪する必要はないと主張する。そして、一部の日本人の属性をあたかも日本人全体の属性と決めつける思考の誤謬(部分の全体化)を差別的認識として批判する。
 山本氏の考え、つまりクリティカルシンキングからは、日本国民は謝罪する必要はなく、殺人の当事者らが個人として謝罪すべきだとする結論となるが、それは科学的には正しい。
 しかし、これは国際的には通用しない論理である。殺人の当事者が個人として謝罪すべきで、関係ない他の日本国民は謝罪しなくていいという主張をすると、中国も韓国も怒るであろう。
 
 中国や韓国は、戦後生まれの戦争に関係のない世代であっても、日本国民なら謝罪しろと求めてくるであろう。というのは、虐殺が国家の軍隊組織の役割として遂行されているかぎり、国家の責任となり、同時に国家の責任とはそれを支持した国家に属する国民の責任となるからである。日本人は、個人責任はないが、日本国民の役割行為として反省・謝罪する必要があることになる。少なくとも自虐史観の国家観からはそうなる。一個人として、あるいは一人の人間として、謝罪するのではなく、日本国民として謝罪することになる。
 戦後日本においては、反戦平和思想と平和憲法を尊重し、侵略戦争を反省することが日本国民の役割義務となってきた。つまり、日本国民の国際的役割概念の中にアジア諸国への謝罪と反戦の誓い、平和憲法遵守が含まれていたわけであり、右翼が批判する自虐史観の左翼知識人たちは、反日・売国奴であるどころか、かえって国際社会における日本国民の役割義務を果たしていたことになるのである。ちなみに、この日本国民の国際的役割に意義申し立てをしたのが他ならぬ戦争論である。
 従って、実は、社会学的には、右翼よりも、戦後民主主義者のほうが義務として平和憲法の精神を遵守しており愛国的なのである。この点、全く誤解されているようである。
 
 話を戻すと、山本氏の結論は、確かに自然科学的には正しい結論であるが、役割存在という社会的次元についての認識がないめために、社会科学的には間違った結論となっているのである。
 もし国家がなければ国家の役割としての軍隊もなく、戦争もなく、虐殺は存在しないわけである。虐殺の主体、犯人は個人ではなく、国家共同体=社会という化物なのである。この化物が人々に役割義務を内面化させることで、戦争という殺人をもたらすのである。それを殺人した軍人たちが個人として謝罪することだけですませるのは筋違いである。
 部分の全体化は認識論的誤謬であるが、部分の中に全体が入り込み、社会的なるものが創発されると、この誤謬が正しくなるのである。

 とはいえ、ト学会開祖である山本氏やニセ科学批判者たちの批判的思考が、虚構に彩られた吉本隆明などの戦後民主主義にとってかわり、右傾化に抗して、日本の平和主義を支える思想になる可能性がある。
 右翼に負けた戦後民主主義者はだらしないが、クリティカルシンキングなら、小林よしのり、在特会、KAZUYAなどの右翼思想に対抗できると思う次第である。思想多様性のためにも必要である。

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by merca | 2015-01-24 11:19 | 社会分析

国家主義(右翼)も戦後民主主義(左翼)も同じ。

 今や日本社会は二分されている。二つの思想にである。国家主義と戦後民主主義の二つにである。国家主義とは、国家の目的のために個人が存在するという価値観に準拠しており、個人や家族の命よりも国家の存亡のほうが大切だとする思想である。戦前は、その思想を強制され、戦争に駆り出され、多くの人々が命を失い、自分の家族も失った。
 戦後民主主義とは、そのような軍国主義的な国家主義に対する反省のもとに、反戦主義・平和主義を中心に社会の民主化を唱える思想である。戦後民主主義を植え付けられることによって、日本人は日本を侵略した敵国アメリカを恨むことなく、復興を遂げてきた。 アメリカによって真の自由がもたらされたと思ったわけである。このような戦後民主主義の思想は、朝日新聞等のマスコミや左翼政党に受け継がれた。そして、自らは代案を示すことなく、闇雲に時の政治体制を批判することを役割としてきた。政治・国家を批判することで、社会はよくなると考えていた。
 しかし、戦後民主主義は、現実を直視しない理想主義のために、小林よしのりなどの事実主義を標榜する右翼思想家や保守政治家たちに批判され、今や衰退している。戦後民主主義者や護憲論者の主張は、事実認識があまく、論理的ではなく、頼りないイメージがある。基本的にマルクス主義的な左翼発想に準拠しているので、非科学的であり、そこが限界であったと言わざるを得ない。戦後民主主義を基礎付ける社会理論が左翼系のマルクス主義ではなく、全く別の社会学理論であれば、戦後右翼の事実主義者たちに太刀打ちできたであろう。戦後民主主義=左翼が敗北した理由は、マルクス主義しか理論がなかったからである。社会理論の貧困である。マルクス主義とは無縁の社会理論を取り入れる知的才能がなかったのである。

 さて、国家主義(右翼)と戦後民主主義(左翼)は、前提を共有しており、同一だと人々は気づいていない。この盲点は、社会システム論のみが指摘できる。何が同一かというと、両者はともに政治主義であるということである。つまり、政治のあり方が変われば、社会が全て変わるという発想である。政治が社会をよくするという考えは、政治以外の社会の分野での活動を見えなくしている。いうまでもなく、人々は政治の中だけでは生きていない。
 最高の理論社会学的立場からいうと、後期近代社会においては、法システム、政治システム、経済システム、宗教システム、教育システム、科学システム、芸術システムなど、社会のそれぞれの分野が自律的に機能分化し、上下関係がなくなる。完全な成熟社会では、原理的に、一つのシステムは他のシステムに還元されず、支配されず、対等である。
 しかるに、国家主義も戦後民主主義も、政治システムが他の全てのシステムを統制する力をもつと考えている。確かに、戦前の軍国主義社会や共産主義社会では、政治システムが教育システムを支配し、国民を洗脳することがよくおこる。ある意味、中国社会や韓国社会も、戦前の日本軍国主義社会と同型の政治優先社会てあり、政治システムが教育システムを利用し、反日教育によって国民を統合しようとしている。しかし、社会進化論的には、このように一つのシステムが他のシステムを従属・支配するという構造の社会は、遅れているのである。また、社会病理学的には、社会構造にまつわる社会病理現象である。
 このように政治システムが他のシステムを従属させる社会病理現象を政治システムの中心化現象と呼ぼう。戦争がおこる条件の一つして、政治システムの中心化現象がある。例えば、経済システムを優先させれば、国家間の戦争は怒りにくくなるだろう。ある意味、政治に無関心な人々が多くいる社会ほど、成熟しており、平和である。
 経済システムにおいては、他国の会社との貿易なしには考えられず、多国籍企業も増えている。国家間の戦争は経済活動の妨げになる。科学システムは、既に国家の壁を越え、人類共通の知的財産の累積をつくりだしている。科学的知識の真理性は、国家によって左右されない独立性をもっており、科学には国境はない。また、宗教にも国境はなく、世界宗教は全世界に伝播している。教育においても、学校制度によって、組織(ゲゼルシャフト)への適応と科学的真理の伝授が行われている。法律においても、人権思想をベースに国際化してきている。人権に反する行為をした国家は国際的に弾劾される。各国の法律は、自由と平等という一つの方向性に収斂しつつある。芸術の分野では、日本のアニメも中国や韓国、そして全世界に受容されている。ディズニーはアメリカだが、全世界を相手にしている。政治システム以外の分野では、国境や政治的成果は二の次であり、異なる目標によって動いているのである。政治システムの目標とは関係なく、他のシステムは稼働しているのである。

 政治によって社会を変えようとするいかなる目論みも時代遅れである。政治主義を標榜する限り、国家主義も戦後民主主義も同じであり、限界がある。政治の口出しできない領域を確保していき、政治(あるいは国家)システムの肥大化を押さえることが、他のシステムを健全化させ、世界平和につながるのである。

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by merca | 2014-02-11 10:31 | 社会分析

国家主義による俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論

 非常に単純なことであるが、社会学から冷静に分析すると、反日・嫌韓・反中は、全て国家主義が原因である。このような社会学的的真理が分かっていない連中が騒いでいるだけなのである。
 万民に対して、社会学的啓蒙を施すと、たちどころに、反日思想、嫌韓思想、反中思想の束縛から人々は解き放たれるであろう。

 (国民社会/世界社会)という区別に準拠して観察すると、反日思想、嫌韓思想、反中思想は、国民社会の次元におけるイデオロギーだということになる。
 韓国が国家として反日教育を行い、自国民を洗脳しているが、これは人々に対する国家主義の押し付けにしかすぎない。親日を選択する自由を国家が剥奪しているのである。端的に、国家による思想の自由の制限という人権侵害である。
 そもそも日本人全てが悪であるという思想を国家が植え付けているのがおかしい。社会調査によって、日本人に対する道徳観・倫理観を調べて統計的に分析したことがないのに、日本人全てが悪であるという虚構を主張しているのである。これは俗流若者論よりひどい。韓国による俗流日本人論である。
 一方、日本社会では、国家が韓国人や中国人が全て悪であるという思想を植え付けたりはしていないし、特定の国家に所属する人たちを貶める教育など、非人道的であり、行ったりしない。
 しかし、日本でも国家主義に基づいて、韓国人や中国人に道徳性・倫理性が欠如していると主張し、ヘイトスピーチをしている連中もいる。科学的根拠なしに、俗流韓国人論や俗流中国人論を発する人たちが多くいる。また、非科学的な反中・嫌韓の憎悪本がよく売れている。
 
 国家が悪いことをしたら、その国家に属する全ての国民も悪いという思考形態は、社会学的に誤謬である。社会共同体と個に根本的差異があるという社会学的真理がわかっていない。
 韓国社会と中国社会に蔓延る国家主義者たちが、反日思想を自らの国民に植え付けているのである。一方、日本でも国家主義に基づき、ネット右翼などが韓国人や中国人に対する差別発言をしているのである。実は、あまりにも韓国国家や中国国家による反日発言が多いために、日本人による親中や親韓の発言はほとんどネットでは見られなくなってしまった。さらに、反日発言が経済・宗教・教育・芸術・スポーツなどの分野での庶民間の交流の障害になっている。
さらに、韓国による従軍慰安婦問題提起は、人権主義の立場から主張しているように装っているが、実は人権主義ではなく、国家主義であり、本質はなんらネット右翼と変わらない。韓国が、真の人権主義国家であれば、国家による反日教育の押しつけをやめるべきであろう。日本はアメリカに原爆を投下されたが、反米教育はしていない。万民の基本的人権が尊重されているので、ある特定の国を卑しめるような教育はしない。しかし、差別発言をするネット右翼は国家主義に基づいてるために、他国民にヘイトスピーチし、人権侵害をする。 
 ちなみに、社会病理学的には、皮肉な事に、韓国・中国による反日発言や反日行動がネット右翼層をつくりあけだ根本原因であり、ネット右翼のアイデンティティはかえって韓国・中国の反日に依存しているのである。

  さて、社会システム論的にいうと、国家主義社会とは、国家(政治)システムが他のシステムを支配する構造の社会である。全てのシステムが対等に機能分化している成熟社会とはかけ離れており、遅れた社会である。庶民は果たして政治システムを優先させる社会=国家主義的社会を望んでいるのだろうか? 中国、韓国、日本も、庶民のレベルでは、国家に束縛されず、豊かに自由に生きていきたいと思ってるのではないか?
反日思想、嫌韓思想、反中思想も、全て国家主義が正体であり、科学的根拠のない俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論を生み出し、世界平和を乱し、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などの交流を阻害しているのである。

 人々は、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などにおいて世界社会の中で生きているのであり、国民社会の中だけでは生きていないのである。韓国も中国も日本のネット右翼も、国民社会を絶対化する価値観である国家主義に毒されているのである。
  私は、後藤和智のような狭い国民社会を範囲とした俗流若者論批判ではなく、世界社会に準拠した俗流日本人論批判、俗流韓国人論批判、俗流中国人論批判を展開する論客の登場期待しているのである。

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by merca | 2014-01-25 10:07 | 社会分析

若者論に科学的根拠はいらない。

 俗流若者論批判で有名な後藤和智が、とうとう「「あいつらは自分たちとは違う」という病」という書物をだし、自らの主張を整理した。同著は、これまでの若者論が基本的に科学的根拠のない思いつきにしかすぎず、世代アイデンティティとして活用されきたと主張し、科学的根拠のある若者層の実態把握を提唱する。
 私は、当ブログにおいて、あらゆる学説や論は、真実か虚構か、また科学的か非科学的かに関わらず、思想として受容される可能性があると指摘して来た。若者論が若者や若者を批判する大人の側の自我統合=アイデンティティの統合(あるいは獲得に)をもたらすことは、社会学からは当たり前のことである。例えば、宮台社会学、反貧困論、ニセ科学批判などが、学問ではなく、思想として観察できると繰り返し述べて来た。簡単に言えば、思想として機能するとは、自我統合や社会統合(集団生成や社会規範の補強)をもたらすことである。各時代の若者論が世間に流布し、受容されるということは、人々にアイデンティティを付与することなのである。
 
 例えば、俗流若者論で登場するフリーター、ニート、ひきこもり、ヤンキー、おたくなどの若者概念は、若者自身の自己概念に採用され、若者自身がその価値観を内面化し、それを演じ、その結果、特定の若者層を形成するに至っている。これらは、若者が選択する生き方の種類であり、ある意味、人生の指南として機能する。
 実は、科学的根拠のない若者論が作り出した適応類型概念は、若者に影響を与え、自らの概念を社会的事実として成就させているのである。日本社会では、若者の実態が先にあるのではなく、若者論が先にあり、実態はあとでできあがることになるのである。無論、若者に採用されなかった若者論は、真実になり得なかった虚構として退けられることになる。
 
 社会心理学では、アイデンティティは、他者からの評価、他者との比較、集団への所属で獲得されるものである。つまり、「あいつらは自分たちとは違う」という差異化の意識が必要となる。一つの世代層は、他の世代層との比較によってしかアイデンティティを得ることはできない仕組みになっている。若者論は、必然的に比較論になる。たとえ科学的に若者の実態を調査しても、比較することなしに、その実態に意味を付与することはできない。そして、何と比べるかによって、意味が異なってくる。これは、貧困論も同じ構造を持つ。若者世代は、他の世代と比較して、規範意識が希薄だとか、個人主義的だとか判断することが可能になる。
 つまり、同一の実態調査でも、比較対象が異なると、全く世代の特性は異なって記述されることになる。さらに、何を比較対象とするかは、恣意的であり、調査者の目的や価値基準に左右される。例えば、調査によって現在の若者の平均収入がわかったとしても、どの世代と比較するかによって、異なった評価となるのである。ロスジェネ世代は、自分たちの世代は貧乏だと思っているようだが、バブル世代との比較にしかすぎず、戦前の若者に比べれば、かなり裕福である。
 若者に対する科学的調査であっても、結局は、比較対象選択の恣意性によって、解釈が多様になってしまい、真実は一つではなくなるのである。調査者自身の解釈の相対性を考慮しないと、本当の意味での科学性は担保できない。
 
 また、もし仮に統計的調査によって、世代別の実態が科学的に把握できたとしても、かえってアイデンティティとして利用されるであろう。つまり、科学的根拠というお墨付きになるので、よけいに採用されやすくなるであろう。後藤氏は科学的根拠のある実態把握であればアイデンティティとして利用されないと思っているようであるが、それは全く逆である。科学的根拠があると思えば思うほど、真実味が増し、人々にアイデンティティとして利用されるであろう。ニセ科学が流行る理屈と同じである。
 科学的根拠のある若者実態調査をするにしても、調査目的を明らかにし、その目的によって比較対象が選定された理由を説明した上で、人々に公表しないと、俗流若者論よりもひどい結果になるのである。古市氏は、現在の若者は幸福であると豪語するが、比較対象の恣意性を説明していないところに欠点がある。

 後藤氏は、「世代論を今一度科学や政策のフィールドに下ろして論じなければならない。」と述べ、若者論における世代論の不毛からの脱却を短絡的に科学的根拠のある若者の実態把握に求めているが、それは根本的解決にならない。
 そうではなく、原理上は、比較対象を変更することが根本的解決になる。つまり、他の世代の若者と比較してデータを解釈するのではなく、他県の若者との比較、異なる社会階層に所属する若者との比較、学歴別の若者の比較、他国の若者との比較などにすれば、世代論から脱却できるのである。科学的根拠があっても、世代ごとのデータを集めて世代間の比較によって分析する限り、世代論からは脱却できないのである。

 究極の立場からすると、若者論が人々にアイデンティティを供給することが役割であるとしたら、若者論にわざわざ科学的根拠は要らない。さらに、事実とは無縁な「べき論=若者への役割期待」でもかまわない。統計調査で対象とするのは、若者一般である。
 してみれば、若者一般は、実在しない虚構であり、個別対象としては存在しない。概念としてのみ存在する。若者一般は、後から構成されたものである。統計調査が若者一般をつくるのであって、統計調査の前にあらかじめ若者一般が存在するわけではない。

 参考
 ブロ教師の会の諏訪哲二は、「オレ様化する子供たち」という俗流若者論を展開している。彼は全国の子供に意識調査をして統計的に分析し、子供たちが自己中心的になっていると判断しているわけではないのに、「子供が自己中心的になっている」という仮説を事実のごとく語っている。しかし、諏訪哲二の仮説は、規範主義社会学的な視点(規範に従うことで秩序が成立するという立場)から多数の子供たちを観察した結果であり、教師としての彼の臨床的知識に基づいている。世代の異なる多くの子供を見て来ているのである。
 統計のように間接的ではなく、このように対象に直接触れていることで知ることができる事実がある。医者も臨床的知識に基づいて診断することがある。このようなプロの臨床的知識は、科学的知識よりも確かであることが多い。

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by merca | 2013-12-01 23:57 | 社会分析

古市憲寿著「誰も戦争を教えてくれなかった」書評を通して

 最近、社会学専攻の院生・古市憲寿氏があらゆるメディアに登場し、発言している。古市氏の著作「絶望の国の幸福な若者たち」については、すでに私は過去のエントリーで、若者による俗流若者論であると位置づけ、批判的に評論している。
 私の予測とは裏腹に、古市氏は多くのメディアに取り上げれ、若者論、国家論、戦争論と幅広く、発言をし、現在に至っている。だが、社会学の鉄人である宮台氏ほど社会学理論そのものに準拠した観察をしているとは言いがたい。これは仕方ない。
 ここでは、古市氏の最近の著作「誰も戦争を教えてくれなかった」について評論を加えるとともに、戦争が起きたら自分は逃げるという古市氏の国家観がネット右翼から道徳的に批判されている現状について社会学の立場から多少擁護したい。
 
 さて、古市著「誰も戦争を教えてくれなかった」においては、各国の戦争博物館を見学することで、アメリカ、中国、韓国、ドイツなど各国における戦争の記憶の残し方に焦点が当てられ、各国との比較において、日本社会における戦争の記憶の残し方を批判的に論じるている。
 結局、日本は国民全体が共有できる戦争の物語を構築できなかったと結論付けているようである。最後には、もはや日本社会においては戦争体験は古くなり、平和体験が長く続きすぎているので、この際、平和ポケを肯定し、平和体験に基づいて思想や政治を作り出していくことを提唱する。
 言い換えれば、平和体験に基づく国家観こそがこれからの日本社会の国家観ということになる。そして、平和体験に基づくことで、かえって条件付きの戦争を肯定するという方向に議論を進めている。
 
 まず、話は方法論にそれるが、同書の面白いところは、各国の戦争観を調査するのに、意識調査や統計調査に準拠するのではなく、博物館を観察するという手法をとっているところである。これは、俗流若者論者の後藤和智が若者論を分析する際に、文献調査や統計調査を重んじるあまり、市町村などにある青少年会館等の若者育成のための施設を見学するという手法を疎かにしているのとは対照的である。
 国家がどのように戦争体験を残そうとしているのかは、統計調査をせずとも、確かにその象徴である戦争博物館を調査すれば一目瞭然にわかるわけである。つまり、社会調査法的に言うと、代表性のある事例を一つ調査するだけで全体を調査したのと等価であるというわけである。統計調査よりもコストがかからず、全体を推し量ることができるのである。社会学系のあらゆる大学でゼミ生がこのような事例調査やフィールドワークを行い、卒論を書いている。今後も、古市氏にとっては、施設見学は事実を認識するために得意とする手法となっていくかもしれない。
 さらに、自国の社会を分析するのに、他国と比較し、相対化するという手法をとっている。物事は、比較して初めて明確になることが多い。また、他国との差異・区別によって国民社会を分析する際に、複数の国と比較しているところがポイントである。後発的近代化論からすると、欧米だけを基準にして社会の進歩や成熟度を測るという考えは古いのであり、アジア諸国との比較も必要なのである。
 
 以上は古市氏の良い点であるが、一方でかなり抜けている点もあった。それは、日本社会には戦争体験に対する共通の物語がなく、残し方も中途半端であると見なしている点である。これは事実とは異なる。
 戦後の日本社会では、日教組を中心とする教師たちが、戦後民主主義教育というかたちで、軍国主義を悪とし、反戦主義、平和主義を子供に教育し、マスコミを中心に社会もそれを支持してきた。図書館に反戦教育の急先鋒として配置された「はだしのゲン」のテーマは正しくこれである。戦争は絶対だめという価値観は、左翼だけでなく、多くの戦争体験者からも発せされた。戦争絶対悪という価値観は、左翼でなくても、団塊の世代を中心に染み付いているのである。終戦記念日にNHKが戦争ドキュメンタリーを深夜に流し続け、戦争反対という価値観を国民に教育している。田原総一郎が言う通り、戦争を生理的に嫌うのが戦後日本社会の共有する価値観であった。
 日本社会が共有する絶対的反戦主義や絶対的平和主義は、最近、小林よしのりやネット右翼によって自虐史観として批判され、多少揺らいできているが、古市氏も絶対的反戦主義の相対化を試みようとし、戦争も場合によってはOKみたいな相対主義的な戦争観を若者に流布しようとしている。
 しかし、古市氏が考えるほど、日本人に植え付けられた絶対的反戦主義や絶対的平和主義は浅いものではない。なぜなら、それは田原総一郎が考えるように、理屈を越えて戦後の日本人の心に染み込んでいるからである。
 戦争体験者が戦争の悲惨さを語り、平和の大切さを唱えるというかたちの教育方法は価値伝達の手段としてはかなり有効であり、子供たちにこのような手法の教育が施されてきた。また、家庭でも祖父が戦争体験を語り、戦争は絶対にするなと言い聞かせることも多くある。社会学的には、道徳は物語=体験とセットになってはじめて効果的に内面化される。従って、戦後民主主義教育が日本人に植え付けた反戦主義・平和主義の価値観や思想は、そんなに簡単に変わるものではない。実は、戦後日本社会において、平和主義の内面化は、唯一成功した道徳教育である。
 そしてさらにいうならば、反戦主義・平和主義という価値観は、根本的に人権主義という普遍主義思想が根拠となっており、世界思想そのものであり、国際社会から認められている。戦争を放棄し崇高な世界思想に合致した価値観をもつ日本国は、倫理的に世界から否定されないことになる。このように反戦主義と平和主義はもともと人類普遍の価値と合致しているために、倫理的に否定することが困難であり、相対化し辛いのである。
 いくらネット右翼や小林よしのりが、反戦主義や平和主義を相対化したところで、人類社会は明らかに成熟した世界社会へと進化しつつあり、その普遍性・絶対性を論破することは困難である。
 一方、小林よしのりやネット右翼は、人類共通の絶対的価値規範は存在しないとする相対主義が本質であることを忘れてはならない。右翼は、基本的に、人類社会の普遍的価値はなく、それ故に、それぞれの社会ごとに異なる伝統に従うべきだとする保守的相対主義が本質てある。つまり、絶対的に正しい価値はないから、既存の伝統にすがるべきだとする思想である。人権思想に準拠した右翼は見たことがない。メタな視点からすると、左翼=絶対主義と右翼=相対主義の対立として描くことができる。
 
 要するに、若者の戦争観について(知識/価値)の区別に準拠して観察すると、戦後日本社会においては、必ずしも戦争の事実に対する知識は十分に伝達されていないかもしれないが、反戦主義や平和主義の価値観はきっちりと伝達されているのである。
 実際、「誰も戦争を教えてくれなかった」の巻末対談において、古市氏が若者の代表としてももいろクローバーZに対して戦争の知識について質問しているが、戦争の詳しい知識はないにもかかわらず、しっかりと戦争否定の価値観を内面化していることがわかる。若者にも、戦争に対する知識は伝達が不十分であるかもしれないが、価値伝達はなされているのである。
 つまり、戦争は悪であると誰もが教えてくれる社会であるが、戦争の歴史的経緯は詳しくは知らないというのが事実である。古市氏が知識伝達のみをもって戦争を教える教育だと勘違いしたことは非常に残念である。むしろ、社会学的には、知識伝達よりも、平和主義や反戦主義という価値伝達のほうが大切なのである。
また、歴史的知識習得は、社会階層によって異なる。古市氏のようにインテリ階層であれば、詳しい歴史的知識を知っているが、非インテリ層は詳しい歴史的知識をもっていないし、そのような知識がなくても生きていけるわけである。古市氏は自ら属している社会階層が若者の全体像であるというバイアスに気づいていない。
 
 ある番組で、古市氏が戦争が起ったら逃げるという発言をしたために、ネット右翼から批判されているが、社会学の基礎知識があれば、そう答えるのは原理的に間違いでない。社会システム論的にいうと、個人は国家システムの要素ではないからである。個人が国民として創発するコミュニケーションは国家システムの要素であるが、個人は国家の要素でなく、国家と分離可能である。
 このようなことは、社会学の基礎中の基礎である。個人は、究極的には(国民/非国民)のどちらも自己選択できる。
 ネット右翼等の国家主義者が古市氏の発言に戸惑うのは、社会の仕組みを扱う社会学を知らない無知からである。国家主義者が、古市氏を非道徳者として批判するのは、そもそも国家主義が個人は国家の部品であるべきだという思想に準拠しているからである。国家主義は、科学的真理ではなく、人間は国家の部品であるという虚構に準拠した思想なのである。国家主義が社会的真理であると唱える社会学者がいたとしたら、ニセ社会科学である。
 「人間は国家の部品である」という思想を本当だと信じ込むか、あるいはあえて演じることを是とする合意があった時のみ、国家全体主義的社会は創発されることになる。多くの人間が「人間は国家の部品である」という思想を共有・共演しなくなると、瞬時に消滅するはかないものである。
 ちなみに、人類の歴史においては近代国民国家の誕生は新しく、日本国民が誕生したのは明治以降の話である。それまでは、庶民にとっては、村落社会が全体社会(欲望充足に必要な範囲)であり、日本列島全域が全体社会ではなかった。これも社会学の基礎知識である。社会科学的知識の欠如こそがネット右翼の問題点であり、若者に社会学原理を必須科目として教えると、国家主義者はいなくなるだろう。
 ともあれ、古市氏は、社会学を学んだために国家主義者からバッシングされているのである。

 最後に、戦争が殺人を伴わなくなってくるという古市氏の仮説は、あまりにも安易である。全ての戦争の先に核戦争があるという認識が全くできていない。アメリカが躍起になって核拡散を防止しようとするのは、核戦争をおそれてのためである。戦争イコール核戦争による全人類の絶滅というイメージこそが正しいのである。

 田原総一郎に認められたそうだが、これからが古市氏の試練だと思う。今後、右翼(国家主義)と左翼(戦後民主主義)の相互から批判されるおそれもあり、かつまた後藤和智氏が批判する実証性のない東浩紀のごときポストモダンおたくになることも避けないとならないからである。
 私としては、社会的事実を観察する社会学理論が古市氏においては未熟なために混乱が起きているようなので、早く自らが準拠する社会学理論を確立し、その立場を明示するべきだと思う次第である。

  追伸
 「誰も戦争を教えてくれなかった」のなら、戦争に行ってみたら分かるよ。戦場カメラマンみたいに戦場に行ったらどうかね。外から眺めても真実はわからないかもしれない。それでどんな思いを持つかが大切だ。兵士や戦争に巻き込まれている人の気持ちがわかるかも。

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by merca | 2013-11-04 00:31 | 社会分析

「国が滅んでも家族は滅ばず」映画「少年H」によせて

 国家や国民社会が滅んでも家族は残る。映画「少年H」を見てそう思った。私流に解釈すると、これは、国家がなす家族への虐待を乗り越えていく話である。家族の勝利である。国家が勝手に戦争したために、多くの家族の生活が貧困化するなか、主人公の家族も苦しめられるが、しのいで生きていく話である。
 国家の脆さと、家族の強さが対照的であった。また、勝手な戦争で家族の命を奪った国家主義という化物=社会病理を退治するのが、社会学の役目だと痛感した。
 国家を守るために戦争をすることが家族を守ることにはつながらない。国家を守ることと、家族を守ることはイコールでない。国家と家族には、根源的な差異がある。この差異を無視して、家族を守るために戦争をすることは愚かである。
 
 また、社会科学の立場からすると、「国家を守ることは、家族を守ることである。」という仮説は明らかに論理の飛躍がある誤謬である。この誤謬命題を強制されていたのが、戦前の軍国主義社会の国民たちである。
 しかし、敗戦によって、「国家が滅んでも家族は残る」という真理に目覚めた日本人たちは、あっさりと民主主義や普遍的な人権主義を採用し、国家主義を捨て去った。敗戦という絶対的事実の前に、国家が国民を守るという思想が嘘であり、また客観的に見ると、むしろ国家の戦争によって多くの家族の命が失われたことがわかったのである。
 
 してみれば、家族の自律性は、国家の存在を遥かに凌駕する。日本社会でも、朝鮮、中国、ブラジル、ベトナムなど、他国から来た家族が少なからず生活している。彼らは、強固な家族関係や親族関係を維持し、生活している。世界中に国を失った難民は溢れかえっているが、他の社会で、家族で助け合い、生きている。移民が可能なのは、国民社会と家族が分離可能だからである。そして、移民した後は、移民先の社会構造の組み込まれていく。どんな荒れ地でも、強い家族の絆さえあれば、国境を越えて家族は生きていく。
 
 家族システムのコードは(愛する/愛しない)である。愛とは、見返りを期待せずに与えることをいう。経済のような交換原理ではなく、一方的に与えることで完結する関係である。これを相互関係と区別して、非対称的関係という。
 例えば、当たり前のことであるが、障害をもった子が生まれて来ても、親は見返りなしに衣食住を与え続け、子供の幸福に喜びを感じる。子供に将来支えてもらおうとなんか思はない。もし相互的関係が家族の原理なら、障害をもった子を捨てる親もいるだろう。しかし、家族の原理が愛である限り、そうはならない。決して見捨てず、与え続ける。一方的な非対称な関係が家族の本質だからである。 家族関係は利他的で非対称的関係であり、人間が家族で生まれ育つかぎり、限定的な範囲での性善説が正しい。無論、一部の家族においては、それが崩れており、子を虐待する親もいるが・・・。
 
 戦前、国家が天皇を中心とする家族的国家観を植え付けようとした理由は、正に個々の家族の自律性を奪い取とり、「国家を守ることは、家族を守ることである。」を信じ込ませ、人々をコントロールすることにあった。
 しかし、どのような手段であろうと、原理的に家族の自律性を剥奪することはできない。そのような社会はいずれ滅ぶ。国親思想のように国が家族となるような国家観はやめるべきである。
 
 現在、小林よしのりや維新の会など国家主義が流行っているが、国家主義は、家族や個人よりも国家や民族社会を優先させることに思想的根幹がある。しかし、それは、人間が本来的に取り替えのきかない「個別的な家族」で生育するという社会学的真理に反する虚構なのである。
 国家の崩壊は家族の崩壊を招かないが、家族の崩壊は、社会の機能を低下させ、いずれ国家の崩壊を招く。人類社会は、国家主義から普遍的家族主義や普遍的個人主義へと進化していく。これからは、国民社会から世界社会へと思考を切り替える必要があるのである。家族は、国民社会ではなく、世界社会の単位なのである。

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by merca | 2013-08-18 22:39 | 社会分析