カテゴリ:社会分析( 107 )

オンリーワン思想の差異論的限界

 世界に自分は自分1人しかいなく、取替えのきかない尊い存在であるという思想がある。これをオンリーワン思想という。アンチ競争社会の対抗思想として強い力をもつ。社会のアイデンティティゲーム=競争によって獲得した自己概念は、この唯一の自分という実存からすると、とるに足らなく、相対的なものである。この思想によって競争社会の負者のレッテルから自己を無害化できる。
 「私は東大卒である」という自己概念を所有する学歴社会の勝者から「お前は高卒だ」という差別的言明を受けても、このオンリーワン思想によって駆除できるわけである。オンリーワン思想は、多くの不登校系・ひきこもり系の若者の思想的支えになってきた。それ自体、悪い思想ではないばかりか、哲学的に言うと、実存主義や他者論の系譜にも位置する。

 しかし、オンリーワン思想が、ニヒリズムをもたらすことはあまりよく知られていない。オンリーワン思想を採用したのはいいが、さてそれから先はどうしたらいいのかわからず、何をしても同じだから何をしても意味が無いと考える不登校系・ひきこもり系の若者も出てきた。
 オンリーワン思想がニヒリズムに陥るのは、原理的に大きな落とし穴があるためである。オンリーワン思想の準拠するコードは、(自/他)であるが、これは非対称的区別であるため、自己はいつまでたっても、定義されず、明確に定立できない。つまり、他者の否定が自己であり、自己の否定が他者であるという明確な定義が成立たない。なぜなら、他者は無数存在するために、ある他者の否定が自己だけではなく、別の無数の他者も含むことになり、自己は定義されないからである。また、自己の否定は、無数にあるどの他者も含み、具体的な唯一の他者を完全に定義したことにならない。このように(自/他)の境界は不安定・無限定である。他者一般なるものは実在せず、具体的に実在するのは、個々の無数にいる唯一の他者たちだけであるからである。
 そこで、自己は、自己の定義=アイデンティティを明確化するために、他者一般なるものをつくりだし、自己を明確化し、意味を獲得していく。他者一般との比較によって獲得した自己とは、対称的区別に基づく自己概念のことである。社会的自我である。人々が社会的自我を欲しがるわけがここにある。自己定立のためには、社会的自我が必要なのである。

 オンリーワン思想が自己を定義できずニヒリズムに陥る原理的説明は上記のとおりであるが、実践のレベルではオンリーワン思想もニヒリズムに陥ることを防ぐことができる。そればかりか、そういう関係性は恋愛や家族関係や友達関係には必要である。
 自己の意識の中だけで思想として「世界に唯一の自分」と観念するだけでなく、自由意思をもつ誰か1人の他者と実際に関わり、コミュニケーションをとることで、自己は明確化できる。唯一の他者と関わることで自己との差異・境界を実感でき、自己は安定性を獲得できる。
 否定されるべきは、観念的なオンリーワン思想である。観念的なオンリーワン思想に安住するかぎり、人はニヒリズムに陥るのである。競争社会からの解放思想としてのオンリーワン思想は実践されないと意味はないのである。
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by merca | 2007-04-08 10:29 | 社会分析

香山リカ批判

 香山リカが「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」という新書を出し、スピリチュアルブームを批判している。しかし、彼女が批判するに際して使用している区別は、単なる近代社会前期の理性的啓蒙の域を出ない。

 彼女の議論においては、結論として(真/偽)という理性的啓蒙あるいは科学の区別コードでのみ、スピリチュアルや宗教を断罪している。理性的啓蒙とは、対象と認識の一致という思考方法である。スピリチュアルや宗教に対して、そのようなコードだけで評価するのは、いかにも近代社会前期的な思考である。
 
 柄谷行人が提唱した超越論的仮象という考えがある。これは、自由、平等、人権、個人などの概念は近代社会の虚構であるが、人々が共存していくためには必要な物語だという議論である。もし仮に香山リカがスピリチュリズムを非難するのなら、同時に近代的虚構としての自由、平等、人権等も否定しなければならないことになる。なぜならば、これらも認識と対象の一致という思考からは証明できない虚構になるからである。柄谷行人は、所詮、近代的観念である自由と平等に裏打ちされた個人=主体は近代の物語であると見抜いたわけであるが、されどそれは(有用/無用)という区別に基づいた機能主義的な観点から、必要だとするわけである。このような思考を社会学的啓蒙という。

 自由、平等、人権、個人が一つの物語であるのと同様に、スピリチュアルや宗教も、一種の物語である。スピリチュアリズムは成熟社会に適合的な物語である。また、宗教団体がセルフヘルプグループとしての機能をもつという視点は、臨床心理学をかじった者ならば、よくわかるはずである。社会学的には、個人がバラパラになった成熟社会では、大きな物語を提供する既存の集団型の新興宗教よりも、個人を対象としたかけがいのない個別の物語を提供するスピリチュアルカウンセラーのほうが適合的に機能するのである。さらに言うと、心理カウンセラーよりも、物語構築能力が高いので、相談者に対する治療能力は高い。
 
 前にも書いたが、科学的因果律の限界を提示する世界の根源的偶然性は、宗教が提供する物語(神話)によって処理されるということである。世界の根源的偶然性の処理は、対象と認識の一致によって(真/偽)を確定する理性的啓蒙=科学からは処理不可能なのである。神社や仏閣にお参りすること、占いを頼ること、これら全ては、世界の根源的偶然性に対する適合的な人々の営みである。神仏を理性的啓蒙の立場から観察するほど野暮なことはない。香山リカは、その野暮なことをしているのである。人々が生きるために必要かそうでないかという観点から判断し、適切に機能していれば、それでよいのである。そのような大人の立場が社会学的啓蒙と呼ばれる立場である。西洋では神を信じる人がほとんどであるが、神について(真/偽)という区別に準拠する理性的啓蒙=科学から観察すると、反証不可能な虚構になる。同じく、心理学理論も厳密に言うと、(真/偽)という区別に準拠する理性的啓蒙=科学から観察すると、虚構にしかすぎない。社会学に言わせれば、心理カウンセラーもスピリチュアルカウンセラーも機能的に等価なのである。

 
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by merca | 2007-02-19 03:27 | 社会分析

郷土愛と愛国心の区別

 見田社会学における社会の四類型論を使用すれば、今議論がよくなされている郷土愛と国家主義のねじれた関係を解決することができる。

 郷土愛は、共同体によって生み出される。一方、近代国家は、連合体としての体裁を整えている。社会の四類型論から理念的に説明すると、共同体と連合体は、そもそも全く異なり、対極にあることになる。共同体は、親密な人格的関係を基礎におき、意思以前の自然発生的な社会圏である。連合体は、非人格的関係に基礎をおき、人工的につくられた行政・法システムであり、意思によって自覚的に関わる組織体である。連合体としての国家組織があることで、他者からの不当な人権侵害行為を防ぐことができるのである。社会学的には、共同体たる郷土と連合体たる国家は全く性質が異なる社会圏なのであり、郷土愛と愛国心はやはり違うのである。

 しかし、しばしば郷土を守るために愛国が必要だという論調をよく聞く。これはどういうことなのか?これを解くためには、社会の四類型論が連続性に準拠している理論であることを見ていく必要がある。実は、社会の四類型論は、非連続的二分法ではなく、連続的二分法に基づいているのである。(連続性/非連続)のうち、連続性をマークして構築された理論である。つまり、ある一つの社会圏は、共同体的要素、交響体的要素、集列体的要素、連合体的要素の全てを連続的に含んでいるということである。どの要素が強いかによって、区別されるだけである。例えば、学校を例に取ると、学校は法的には組織であり、ゲゼルシャフト=連合体であるが、内実は親密な友達からなる仲間集団が存在しており、ゲマインシャフト=共同体でもある。また、競争が存在しているという点で、集列体的要素も含まれている。また、クラブ活動などで、交響体的な要素も発揮できる。観察者がどの区別に準拠するかによって、別様に立ち現れる。
 
 このように、現実の一つの社会圏は、複雑な様相を示しており、どの区別を用いて観察するかによって、様々な姿に見える。観察する側がいかなる区別を用いて一つの社会を観察するかで社会はいかようにも、そのようなものとして創発されることになる。
 
 日本における国民社会=全体社会を観察対象とし、共同体的観点から観察すると、家族愛や郷土愛なるものが見えてくるのである。また逆に連合体的観点から観察すると、人権国家的様相が見えてくるのである。集列体的観点から観察すると、経済国家としての様相が見えてくるのである。交響体的観点からすると、福祉国家としての様相が見えてくるのである。
 郷土愛が国家主義に利用されるのは、全体社会の同一性を媒介にして、郷土愛と国家がつながっているからである。ただ、そのつながりは、システム間の意味的・機能的なつながりではなく、観察者の主観の中で無分別につながれているにすぎない。全体社会という容器の中に、色々なものが雑多に混在しており、国家主義者という観察者がたまたまその中にある国家と郷土愛の二つを取り出し、自己の使用目的に応じてつながっていると言っているだけなのである。システム論で言う教育システムと労働システムが機能的につながっているという構造的カップリングのレベルではない。
 しかし、一度、この二つがつながっているという言説がコミュニケートされるやいなや、多くの人々の愛国心の動機形成として郷土愛が利用され、それが機能的に連関しはじめ、社会的事実として本当になってしまうおそれは大きい。これを防ぐには、(戦争/平和)という区別で観察し直すことを勧めたい。
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by merca | 2007-01-28 12:15 | 社会分析

ブロガーが世論をつくる時代

 最近の一連の厳罰化・監視化の刑事政策は、一つの凶悪犯罪の発生を契機に、マスコミによる被害者感情の報道、弁護士、学者、評論家などのコメントによって社会問題化され、治安悪化神話として世間に広まり、人々の体感治安の悪化をもたらし、その結果、政治家が国会で法案をだし、政策ができあがるという順番で推移した。 
 しかし、芹沢氏と浜井氏は、実際には、犯罪は凶悪化・増加していないのに、このように体感治安が悪化したのは、主にマスコミの報道の仕方、犯罪の語られ方に問題が有ると指摘し、科学的根拠のない治安悪化神話に基づく政府の一連の刑事政策を鋭く批判した。この指摘は科学的に正しい。

 上記・芹沢氏と浜井氏の言説は、書物ばかりではなく、治安悪化神話批判を支持するブロガーたちによって、ネットであまたの感想が書かれ、すでに「治安悪化」と入力し、グーグル検索をすると、上位のほとんどに両氏の治安悪化神話批判の記事がでてきている。それを受けて、新聞記者たちは慌てふためいたのか、両氏を支持する記事を書き出した。次の段階は、多くの人々が治安悪化は嘘だと気付き、治安悪化神話が消え去り、体感治安がよくなり、政府が動き厳罰化・監視化の刑事政策が変わるかどうかということである。もしここまで成功すれば、これは一つの新しい社会運動の形態と言っても差し支えないと考えられる。行政を動かすまでに至ったことになるからである。

 この新しい社会運動がどのように名づけられるのか非常に関心があるが、評論ブロガーの役割も大きいと感じた。ネットの登場により、ジャーナリストでなくても、アクセス権(多数の人々に情報を流すメディアにアクセスする権利)を簡単にもつことができ、世論をつくることが可能になったのである。誰もが誰もに対して、意見を発することができるのである。グーグル検索上位はすごい影響力がある。治安悪化について知りたい人たちのほとんどが、ネット検索すると、まずは治安悪化神話批判の記事に目が触れるからである。議論の創発という意味では、この時点ですでに勝利している。新聞記事にのるよりも影響力は大きいと考えられる。
 
 
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by merca | 2007-01-21 23:04 | 社会分析

社会的排除

  近代社会は、機能分化の社会だとルーマンは分析した。つまり、教育・福祉・法律・政治・経済・医療・宗教などの各システムが、自律化し、他に還元できず、対等に立ち並ぶことを意味する。前近代社会では、家族(親族)集団が教育・労働生産・福祉など多機能を担当していた。パーソンズも指摘するように、近代社会になると、家族の機能は、子供の養育・大人の感情安定化・性的欲求の充足だけになり、極めて純粋化している。後期近代社会では、家族はそれすらも他の組織に委ねつつある。
 
 一般に、一つの社会的セクションに、別の機能が混ざり込まないことが、機能分化の眼目であった。これが近代化の方向だとすると、現状はどうだろうか?
 
 実は、法システムである刑事政策というセクションが多機能化の危機に晒されている。 犯罪の原因は、個人の自由意思や規範意識の問題だけではなく、個人を取り巻く社会環境に原因があるという認識に基づき、福祉・教育・就労支援などの援助をするようになってきている。つまり、犯罪者・非行少年は、福祉・教育・雇用機会から社会的に排除されており、それが犯罪の要因となっており、かつまた更生の妨げになっているというわけである。
 司法福祉という分野があるが、このような分野があること自体、法システムが福祉システムの機能を抱えてしまっていることを意味している。また、刑務所の福祉施設化は、よく新聞でも指摘されるようになった。浜井浩一さんが指摘するように、厳罰化によって、高齢者・障害者などの社会的弱者が微罪で収容され、刑務所の福祉施設化を招いたわけである。このことは、雇用機会や医療や福祉から社会的に排除されたことが犯罪の要因であるという因果図式を証明しているとも解釈できる。

 確かに、心理学・社会学・教育学・社会福祉学の専門的知識に基づき、厳密に犯罪・非行を分析すると、犯罪要因は複数発見され、多様化することになる。この多様化の分だけ、刑事政策担当機関は、多機能にならなざるを得ないことになる。

 人間科学による犯罪要因論が、法システムに複数の他のシステムの機能を抱え込ます科学的根拠を提供する。しかし、そうなると、法システムが、福祉システムや教育システムや雇用システムの欠陥を尻拭いすることとなり、他のシステムの欠陥を隠蔽することにならないかと危惧される。福祉システムや教育システムや雇用システムから社会的排除を受けている社会的弱者が法システムにひっかかってやっと援助を受けることができるというのは、やはりおかしいと思われる。福祉システムや教育システムや雇用システムの欠陥を改善し、法システムに依存しないようすにするのが、本来の在り方だと考えられる。

 これは中間集団が弱体化していることと相関している。労働組合・宗教団体・政治組織(共産党)など、家族と国家の間にある組織を中間集団と呼んでいるが、昭和時代までは、これらの集団が社会的ネットワークとなり、弱者が社会的に排除されることを防いでいた。国家のサービスと個人をつなげる役目をしていた。例えば、生活保護の段取りをしてくれた。しかし、成熟社会に入ると、個人がバラバラになり、組織化されていないために、生活に窮しても、相談相手もおらず、国家のサービスを受けるノウハウさえ知らない。フリーターやニートは、バラバラであり、社会的に排除されている。現状では、法システムにひっかかること(犯罪)でしか、国家のサービスを受けることができないという異常な事態を招くおそれがある。
 そういう意味では、新中間集団として、NPOの力が試されるのである。
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by merca | 2007-01-19 06:26 | 社会分析

(右翼/左翼)という思想システムコード

浅羽通明の「右翼と左翼」という新書を読んだ。

 (右翼/左翼)という言葉はよく使われている。自己をどちらかの立場に置き、人の意見をそのような区別で分類する人もネットにはよくいる。浅羽氏の著作「右翼と左翼」では、(右翼/左翼)という二元コードによる観察によって、思想や政治的立場がコミュニケートされてきた経緯が丁寧に記述されており、区別による観察の典型を見た。
 
 浅羽氏は、そもそも近代的価値観である自由と平等を追求する左翼の反動として、右翼が登場してきたとし、フランス革命にその起源を求める。以来、(右翼/左翼)という区別が諸思想を観察するコードとして使用されてきた。言わば思想システムのコードである。
 
 興味深かったのは、状況に応じて、区別の再参入によって、その都度、(右翼/左翼)の意味内容が微妙に異なってきたということである。区別の再参入とは、区別された片方の項に、同じ区別を代入する操作のことを言う。(右翼/左翼)の場合、基本的に自由と平等を追求する左翼の方向に進むのだが、左翼の中に(右翼/左翼)の区別をつくり、さらにまたその左翼の中に(右翼/左翼)の区別をつくるという運動を繰返しているのである。ただし、再参入する際に、別の区別=基準によって区別される。例えば、(平和主義/軍国主義)というのは、もともと(右翼/左翼)という区別とは次元を異にするが、戦後日本では、平和主義が左翼、軍国主義が右翼に対応していた。「ある特定の状況」によって、一つの区別が(右翼/左翼)の中に入り込み、再参入を可能にしているのである。

 さらに、右翼も左翼も依存の思想であるという浅羽氏の指摘はするどい。左翼は、自由や平等のない社会構造を否定することに依存しており、右翼は、左翼の反動として生じ、左翼に依存しているというのである。右翼の反動形成である。

 まとめると、再参入と反動形成によって、(右翼/左翼)の区別が生き残り、様々な思想や立場を分別してきた。

 重要なことは、(右翼/左翼)という思想の運動は、弁証法の動きではないということである。一見すると、正反合の弁証法と似ているが、(右翼/左翼)をコードとする思想システムは、弁証法とは異なる動きをしている。弁証法の場合、反対の項どうしを統一するジンテーゼなるものがあらわれるが、右翼と左翼を止揚したジンテーゼはない。(中道という言葉があるが、これは右翼と左翼を止揚した新しい立場ではない。)社会は、自由・平等の方向に進み、左翼が自己分割して新たな(右翼/左翼)の区別を生産するという運動になっているからである。ちょうど、弁証法とは逆の流れになっているのである。また、自己言及のパラドックスでもない。

 社会=コミュニケーションの総体は、綺麗な弁証法の法則ではなく、雑多な再参入と反動形成による二元コードの再構築によって、つくられていくものであるのかもしれない。 
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by merca | 2007-01-14 03:33 | 社会分析

不安社会の根底にあるもの


  犯罪不安社会・教育不安社会・政治不安社会など、多くの不安社会論が立ち上がり始めた。しかし、これらの不安社会論は、全て根拠のない不安を扱っており、根拠のない不安によって行政が動くことを批判している。無根拠な不安がつくられる社会過程を分析している。基本的には、人々が抱く不安がその社会的実態と乖離しているという矛盾点を指摘するという方法をとる。例えば、社会学者の内藤氏らの「ニートっていうな」では、ニートというカテゴリーの若者が統計的に増えていないという矛盾点を指摘し、ニート問題が社会の集合的ヒステリーであることを明らかにした。さらに、芹沢氏の「犯罪不安社会」では、犯罪統計の専門家の協力を経て、犯罪実態と不安意識の乖離を実証し、犯罪不安がつくられたものであることを明らかにした。
 「子供が危ない」「若者が怖い」「学校がおかしい」などの言説をテーマにした評論やテレビ報道は、全て虚構の上に築かれた不安を前提としているというわけである。

 不安社会論者が、不安がつくられる過程で重要視するのは、学者、マスコミ、政治家、市民活動家の役割である。それらの相互作用によって、一つの不安がつくられるというわけである。

 ところが、実は、一つ抜け落ちている点がある。それは、不安を抱く当の人々が置かれている社会環境である。いくらマスコミが煽ったところで、人々のほうに不安を抱く社会的素地がなければ不安は発生しないのである。不安を抱きやすい社会的素地とは何か?これからは、これが課題になるのである。

 ここで、宮台真司の成熟社会論が一つの解釈を与えてくれる。それは、不透明な社会や過剰流動化社会という観察である。不透明な社会とは、共同体が解体し、人々がバラバラになって、個人の心や行為の動機が不透明となることを意味する。若者が何を考えているのか分かりにくい、他人が何を考えているのか分からないという感覚であり、見知らぬ他者に対する不安となってあらわれる。また、社会の過剰流動性によって、自己の仕事や対人関係が転々と変り、安定的な居場所を喪失し、自己や未来に対する不安がつくりだされる。
 つまるところ、共同体の崩壊が不安社会のベースにはあるということである。
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by merca | 2007-01-03 15:01 | 社会分析