カテゴリ:社会分析( 107 )

後発的近代化論と世界社会論による愚民社会論(宮台・大塚対談)批判

 宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。
 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。
 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日本大震災の両方の被災者に対して、行政を頼りにする点において、愚民だと思っているようである。例えば、原子力発電所の津波による被害の可能性などは、震災前から共産党の赤旗などで流されていたわけであり、情報を収集をしなかった方が悪いという論調である。
 
 さて、果たして、このような近代化の失敗が全ての諸悪の根源であるという仮説は今更成り立つであろうか?そもそも近代化が失敗したと言えるのだろうか? またこれまで、宮台氏は、現代日本社会を成熟社会つまり後期近代社会として論じてきたが、日本社会がそもそも近代化した社会ではないのなら、宮台氏の成熟社会論は破綻することになる。
 
 結論からいうと、社会学の権威である富永健一の近代化論などの正統派社会学の立場からすると、現代日本社会は、近代化した社会であり、後期近代社会=成熟社会である。ただし、西洋諸国と異なり、後発的近代化というかたちで近代化が進んできた。社会学者富永健一によれば、欧米社会の近代化が、社会的近代化と文化的近代化から始まり、政治的近代化を経て経済的近代化へと進展したのと反対に、日本社会を含むアジア社会の近代化は、経済的近代化から始まり、政治的近代化を経て、社会的近代化と文化的近代化が進んだという。このことは、欧米社会と日本社会の歴史を少しでも紐といてみれば明らかである。西洋社会では対人関係のスタイルや思想などの分野から近代化から始まるわけであるが、日本や中国などの後発近代化社会では経済や政治という社会の構造(システム)から始まり、対人関係のスタイルや思想が近代化されるという順番となる。
 
 この分析からわかるように、日本社会では、宮台氏が指摘する「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」などという人々の心の習慣は最終段階で近代化されることになる。なので、社会変動論的には、後発的近代化社会においては、これは当たり前の現象なのであり、意識面における近代化の遅れの原因を日本人の文化的特性に帰属させるのは社会科学的には誤りである。
 宮台氏と大塚氏がこのような誤謬に陥るのは、西洋社会の近代化モデルにとらわれているからである。近代化には多様なかたちがあると認める後発的近代化論の立場からは、近代化を西洋モデルだけで判定しようとする両氏の愚民社会論は成り立たない。愚民社会論を唱える両氏は(西洋/非西洋)という区別に準拠し、西洋をマークし、その観点から日本社会を観察しているにすぎない。

 さらにいうと、もう一つの盲点がある。それは、小林よしのりと同様に、両者の議論が国民社会だけに準拠した議論になっている点である。両者の議論の対象はあくまでも、日本社会に限定されており、従って頻繁に天皇制や自治的共同体とか、あるいは三島由紀夫や柳田民俗学などの国民社会レベルの事柄が論じられている。しかし、近代化が進み、後期近代社会になると、コミュニケーションは世界規模になる。全体社会は国民社会ではなく、世界社会となる。震災時に世界からの援助やメッセージがあったのは無視できない事実である。また、一つの国民社会が滅亡しようとしても、多数の他国が必ず介入し、人々を支援したりする。
 意識しようがしまいが、今や世界の人々は国際社会=世界社会に支えられて生きている。経済(市場)、政治、法律、宗教、科学、スポーツ、恋愛など、一つの国民社会を越えて、コミュニケーションが創発されている。我々は国家が統治する国民社会の中に生きている前に、世界社会の中にいるのである。ルーマンやボルツが全体社会がもはや国民社会ではなく、世界社会であると喝破したごとくである。ポストモダン社会は世界社会が範囲となるのであり、国民社会ではない。ここでも、両者は(国民社会/世界社会)という区別に準拠し、国民社会維持という観点から愚民社会論を唱えているのである。

 このように愚民社会論が準拠する区別を相対化し、世界社会という別の観察地点から観察すると、全く日本人は愚民ではないことがわかるであろう。震災においては、世界から日本人の行動は賞賛されているのである。

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by merca | 2012-02-12 11:41 | 社会分析 | Comments(0)

「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ

 阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。
 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。
 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。
 
 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠する(システム/生活世界)という区別のうち、居場所というのは、生活世界に対応する。また、社会学者テンニースが準拠する(ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト)という区別のうち、居場所というのは、ゲマインシャフトに対応する。要するに、居場所は、肯定的である人格的、情緒的な人間関係が存在する場所ということになる。
 阿部氏は、居場所は個々の主観が居場所と感じる場所ということで客観的定義をすり抜けようとするが、それでは社会科学的には何も定義したことにならないのであり、私なりに定義すとる次のようになる。

 居場所とは、ある人間にとって、肯定的である人格的、情緒的なかかわりを提供する人間関係や集団である。

 阿部氏は、高齢フリーターなどの職場に生き辛さを感じる人たちに「ひとりの居場所」という処方箋を提示しているが、これは人と無関係な場所というわけではなく、周囲が本人に関わらない配慮をするという形態の対人関係であり、完全な独我状態ではない。バスや電車の中で、全くの他人に話しかけないように人々が配慮するのと同じである。互いに話しかけないという無関心という名の配慮で、バスや電車の中は心地よい瞬間的な居場所になるのである。

 社会に存在するあらゆる集団や対人関係には、その社会的役割とは別に、自然に生々しい人間関係が発生し、好き嫌い、包摂・排除が起る。人間が役割存在としてだけ生きていない証拠である。学校や職場において、インフォーマルな仲間集団が形成され、そこで承認されなければ、生き辛さを感じ、結果的に挫折・離脱することになる。
 国家が不登校児童対策や就労支援対策としてどんな制度システムを構築しても、個々人の居場所にならなければ、定着性がなく、うまくいかない。ミクロ社会学の知見が必要となる。あるいは、社会学者・内藤朝雄氏の中間集団全体主義論の観点が必要である。

 社会的包摂とは、単にホームレスやニート等を職に就かせることだけではない。彼らにとってその職場が居場所にならなければすぐに辞めてしまい、包摂の意味がなくなる。社会的包摂の真の意味は、排除された人たちに居場所を与えることである。

 全ての人がどこかに居場所を見つけることができるような社会こそが阿部氏の理想とする社会であろう。阿部氏が社会のどこにも居場所を見つけることができず、生き辛さを感じていた青春時代を送っていたことが類推される。
 
 社会学では、意識調査などの統計調査よりも、このような学者個人の主観的な体験が実は一番客観的であったりする。それは、はなから社会という化物がストレートに阿部氏の主観に宿っているからである。主観的であればあるほど客観的になるのである。最高の玄妙なる立場から言うと、客観=社会と主観=個人の区別がなくなるところに、社会における真理は開ける。大型の理論社会学はその類いの真理である。
 
 若者の意識が「自分探し」から「居場所探し」へシフトしていることを察知した阿部氏の社会学的洞察眼は高く評価したい。そして、今後、阿部氏の居場所思想が若者の生き辛さ論と相まって居場所探しブームを引き起こすことを期待したい。

  参考 
 阿部氏は、宗教について語っていない。宗教が全ての社会的領域から排除された者の受皿=居場所として機能することを見落としている。社会の中に居場所を見いださせない者は、世界の中に居場所を見いだすのである。神仏から無条件で肯定される宗教の世界は、社会の不十分性を補完するのである。以下が参考記事である。
 コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能
 http://mercamun.exblog.jp/14456650/

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by merca | 2011-10-30 18:46 | 社会分析 | Comments(2)

具体的批判対象を提示できない反社会学講座は空虚である。

 私は、反社会学講座が藁人形論法だと断じた。その理由は、具体的事例を出さないことにもある。
 つまり、パオロ氏が批判する個人的な偏見をへ理屈で理論化した社会学者については、反社会学講座では具体的批判対象たる実名が出てこない。
 結局、具体的批判対象としての実例を出せないということは、該当する社会学者が一人もこの世の中にいないことになり、社会学は個人的な偏見をへ理屈で理論化したものであるというパオロ氏の主張は全く成立たなくなる。また、数人の名前をだしたところで、そんな少ないサンプルで社会学者全てを代表させることは、統計学上、全く意味をもたず、非科学的である。
 
 さて、パオロ君に告ぐ!!
 一体、パオロ君のいうところの社会学者とは、誰かね? 例えば、有名な日本の社会学者には、土場学、太郎丸博、高坂健次、富永健一、浅野智彦、土井文博、そして社会学の巨人・宮台真司など多数いるが、誰のことかね。本当に全ての社会学者の著作を読んだのかね。
 実例を示せないというのなら、君の言説は嘘であり、非科学的である。それとも、実例を示すと、本格的に批判されるから怖いのかね。
 このように実例もないのに、反社会学講座を読んで説得力があると賞賛する読者は、非科学的でメディアリテラシーが全くないことになるのである。本当に自己を辱めることになるので、反社会学講座を賞賛することはやめよう。
 あるニセ科学批判者曰く、実例がない主張は空虚である。ここでも、私のライバルであるニセ科学批判者の論法がそのまま反社会学講座に当てはまるのである。

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by merca | 2011-04-02 19:37 | 社会分析 | Comments(5)

つくられる反中感情の脱構築

 他国・他社会の視点・視座から構成された事実を虚構と見なし、自国・自社会の視点・視座のみに準拠して構成された事実に基づいて、他国・他社会を価値判断し、敵国感情を抱くことは、社会病理現象の一つである。
 中国社会は意図的に反日感情を煽る教育をしているわけではなく、中国社会の視点から構成された侵略行為という事実に基づいて自国の歴史教科書をつくっているわけである。この場合、侵略かどうかを決定する権利は被害を受けた側にあり、その視点から事実が構成されることになる。
 例えば、いじめはいじめを受けた者がいじめと思うことでいじめとなるのと同じであり、中国が日本から侵略を受けたというのなら、中国人たちのその思いは真実であり、日本人には否定できない。
 これは、少しでも臨床心理学、犯罪被害者学、社会構成主義を習得したものであれば、手に取るようにわかる原理である。これをわからずに中国を非難するのは、浅学と言わざるを得ない。
 
 一つの出来事は、多様な視点・視座によって、多様な解釈が与えられ、複数の事実が構成され、その事実に対する価値判断として複数の物語が誕生することになる。
 小林よしのりが反中感情を煽っているが、彼は客観的事実に準拠していると思い込んでいる。しかし、その客観的事実たるものこそ曲者である。例えば、同じ食べ物を食べても、ある人はまずいと感じ、ある人は美味しいと感じたりする。同じ物理的対象なのに味覚が異なることになる。しかし、二人とも自身の味覚を事実であると思い込み、言い争い、対立が続くのはナンセンスである。味覚が個人ごとに異なるという感覚の相対性が現実であるということを知っている賢者・相対主義者のみが二人の対立を和解させる視点を提供できるのである。

 出来事は単一であるが、事実は複数存在し、事実に関する解釈も複数存在する。このような人々の認識における相対主義を嫌う科学主義者は多いが、このこと(認識の相対性)は人間の事実認識の本質的構造であり、相対主義が正しいわけであり、それが現実である。
 この現実から目を背け、事実は一つであるという固定観念から、絶対主義的な独断によって、他者批判に至るのが一番怖いのである。相手の視点・視座を理解することで、絶対性の呪縛から解放され、人は寛容になれる。寛容さを欠いた反日・反中感情は愚かである。

 中国人が非人道的であり、利己的であると多くの日本人が思い込んでいるが、これは部分の全体化という認知の歪みであり、日本社会がもつ集団認知の歪み=社会病理現象である。
 まず、中国人が非人道的で利己的であるという人たちに対しては、具体的に中国人を対象とした規範意識の調査をしてみたのかと問いたい。どのような実証的な社会調査を根拠にして、このような認識を構成したのか問いたい。
 共同体の外にある他者に対する利他的行為というのなら、中国人のほうが優れているかもしれない。敵国である日本人の残留孤児を自らが貧困であるにもかかわらず、育てた中国人養父母は極めて人道的・倫理的である。日本人残留孤児を育てた中国人養父母たちは、共同体内部への帰属意識=愛国心のみを強調する小林よしのりよりも、哲学的に見て倫理的である。
 ちなみに、同じように共同体の外部に利他的であった人物は日本人にもいる。自国の命令に違反してまでも、出国ビザを発行しナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝である。
 中国人であろうと、日本人であろうと、人類は、状況によっては、元来共同体を越えた倫理性を創発する可能性をもっているのである。この倫理性への可能性はイエスの「汝の敵を愛せ」、仏教の「一切衆生悉く仏性あり」という世界宗教の根底をなすものである。他者性の哲学者レヴィナスが追い求めた究極の倫理性である。
 北朝鮮問題も、北朝鮮人民が悪いと思っている日本人は少ないと思われる。独裁制国家というシステムの問題であることを賢い日本国民は理解している。
 
 マスコミや煽動家の煽りに騙されず、つくられた反中感情・反日感情に翻弄されず、敵国感情を捨てよう。ジョンレノンのイマジンを思い出そう。国境がないと全世界の人類が思えば、全ての国家は一瞬にして消滅するのである。社会は、国家であれ、企業であれ、人々のコミュニケーションによって創発された仮象=システムにしかすぎないのである。創発の妙理からしても、原理的にジョンレノンのイマジン思想は、正しい。
 中国人養父と残留孤児の関係、杉原千畝とユダヤ人の関係においては、すでに国家は存在せず、寂滅し、倫理コミュニケーションが創発されているのである。

 事実の相対主義=寛容と倫理の単一性こそが平和をもたらすのである。
 
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by merca | 2010-12-19 10:59 | 社会分析 | Comments(0)

「「正義」について論じます」書評 宮台対大澤!!

 宮台よりも観念的な社会学が存在する。それが大澤真幸の社会学である。大澤氏の著作はかなり読んできたが、あまり当ブログで取り上げることはなかった。大澤氏の第三者の審級論は、社会の根本原理を定式化したものとして名高い。
 また、大澤氏は、柄谷行人との親和性もあり、浅田彰、東浩紀などのポストモダンの論客たちと、最高度の文化的かつ知的な日本の思想界を形成してきたのである。
 そんな大澤氏が社会学の鉄人である宮台氏と対談し出版されたものが「「正義」について論じます」である。日本思想界における最高度の観念論的知性がぶつかりあう姿は興味をひいた。数ページ開くと、二人の顔のアップが突然出てくる。すでに、二人とも、学者ではなく、思想家の顔であった。
 大澤氏はいく分普通に見えたが、やはり宮台氏の顔はどこか違っていた。それは、単なる思想家ではなく、社会変革者の顔なのである。私は直感的・霊的にそれを察知できた。
 もうすでに、宮台思想は、ニーチェのごとき陳腐な西洋哲学を越えているのである。日本の学者や思想家は遅れていると思っている西洋かぶれした大学院生たちは多いが、実は、宮台氏に限っていうと、世界レベルの哲学的知性なのである。

 さて、本題の書評の内容に入りたい。三つの話題に絞りたい。三つの話題とは、私なりに整理すると、「正義の唯一性と善の多様性」「利他性への感染(ミメーシス)」「社会的包摂における中間集団の必要性」ということになる。

・「正義の唯一性と善の多様性」について
 正義の唯一性と善の多様性について議論されていた。これは、文化相対主義の問題である。正義とは、各々の文化共同体を越えて人類が従うべき一つの正義=道徳規範を意味する。一方、善とは、各々の文化共同体が所有する個別の道徳規範であり、現実的には共同体の数だけ多様である。
 この二つの区別の重要性が説かれ、さらに正義の唯一性という観念は現実には不可能であるが、必要不可欠であるという議論に収斂していくことになる。この議論は、共同体を越えた外部を思考することと同じであり、他者性の認識不可能性=超越性と哲学的には同義である。
 残念ながら、柄谷行人の名著「探求Ⅰ」「探求Ⅱ」において、この種の議論は結論が出ており、そちらを読むことをすすめたい。ちなみに、柄谷行人の言葉では、正義が倫理に対応し、善が道徳に対応することになる。
 
 宮台と大澤の対談では正義の結論はでなかったが、ここで、正義の唯一性と善の多様性の問題解決についての回答を言っておきたい。
 正義の唯一性は人類社会という無限世界を前提としており、超越的であり、具体的な内容としては認識できず、到達不可能であるが、超越的である故に、かえって善の多様性の前提を形成することになる。唯一の正義は、神のごとく、自身は具体的・個別的な姿を現さず、内容のレベルでは認識不可能であるが、具体的な善の多様性の前提を形成するというかたちで作用しているのである。
 このように正義の問題は、否定神学的弁証法のみが解決してくれることになる。これは、相対主義と絶対主義が対立的に依存関係にあるという論理と同じてある。わかりにくければ、ベタであるが、善の多様性も正義の唯一性の範囲内で許容されるとでも言っておきたい。これが回答である。

・「利他性への感染(ミメーシス)」について
 次に、利他性のある人物への感染についてテーマになっている。人は利己的な人物をモデルにするのではなく、利他性のある人物に魅力を感じ、その価値観に感染するようになるという。これは、宮台氏の考えであるが、非常に現実的である。確かに、そのように私も感じる。
 例えば、薬物依存やリストカットや虐待で悩む多くの若者を救ってきた夜回り先生という人は有名であり、多くの若者たちが夜回り先生という高度な利他性を所有する人格に感染し、自分も他者を助けたいと思うようになっている。
 さて、本当の利他性とは何かと考えていくと、共同体の外の他者への利他性ということになる。自己の所属する共同体に属する仲間のためだけではなく、自己の外にいる他者を救う者が一番感染性がある。大澤氏は聖書の「善きサマリア人の喩え」の例を引き、弱者への感染の可能性を述べていたが、本質は弱者への感染ではない。弱者という他者ではなく、共同体の外の他者を救った高度な利他性への感染こそが、この説話の本質なのである。
 共同体の内外に関係なく、他者を救う者こそが本当の利他性をもっており、そのような利他性に人は感染し、その感染の連鎖こそが、文化相対主義を越え、人類社会の正義の唯一性へとつながっているのである。このような思考回路を論理的に開いたのは、柄谷行人であるが、「利他性への感染」という事実に立脚して、正義の唯一性という到達不可能な倫理の存在の作用を例示した宮台の観察眼はやはり一流である。

・「社会的包摂における中間集団の必要性」について
 中間集団の重要性が議論されていた。中間集団の存在を無視したリベラリズムもコミュ二タリアリズムも、成立たないということが議論されていた。これは極めて社会学的な立場からの議論であり、個人と全体社会の二元論に基づく観念的な政治哲学と一線を画する。
 
 日本では、成熟社会に入り、家族・親族・企業・労働組合・新興宗教などの、全体社会(国民社会=国家と市場)と個人の間に存在する中間集団の凝集性が弱まり、その恩恵にあずかることが困難になってきたという。そのために、国民社会の代表機関である国家が個人をサポートしなければならないという発想が出て来た。中間集団から排除された個人を国家がサポートすべきというわけである。
 この考えの典型が、貧困は社会責任=国家責任とする湯浅氏の反貧困思想である。国家が排除された個人のセフティーネットを構築し、最低限の生活保障をしてやるというわけである。
 しかし、このような考え方は、すでにヨーロッパでは古いという。むしろ、国家と個人の間に存在する中間集団の自立性が焦点となっているらしい。つまり、自立的な中間集団が個人を包摂するというかたちで、社会的排除を防止することが大切であると考えられているのである。反貧困思想のように、国家のみが個人をサポートするという発想は極めて時代遅れでおかしいのである。これは、日本だけである。
 ともあれ、宮台氏も大澤氏も、社会学者であり、個人が相対的に中間集団に包摂されることが重要であると認識しているのである。個人責任でもなく、社会責任でもなく、家族責任や企業責任や学校責任など中間集団の責任という概念を流布すべきであるという結論となる。
 中間集団が責任をとるためには、中間集団の自立性・自律性が求められる。国家や市場に相対的にしか依存しない自立的な中間集団の存在が必要であり、社会的排除の解決策の本丸は中間集団にありとするのが、社会学の本流の考え方である。
 よく考えてみればわかるが、個人は様々な社会集団に関わりながら、欲望を充足するわけであり、全体社会と直結しているわけではない。従って、個人が所属する社会集団が個人の面倒を部分的に見ていくことが、古典的な国家のみによるセフティーネットよりも現実的なのである。
 
 社会学的には、国家は各々の中間集団を調整・支援し、各々の中間集団が個人を支援するというかたちがベストなのである。社会責任論を前提とした国家による個人のサポートを強化するという政策は、財政破綻をきたすだけであり、無意味である。
 国家と個人の二項関係こそが、現実的な個人の孤立化を意味しているのであり、中間集団の支援なしに生活保護を受けるのは孤立化をすすめることと機能的に等価である。国家と個人の二項関係に準拠した反貧困思想こそが孤立化の温床となってしまう逆説があるのである。
 中間集団=共同体の再帰的再構築と、中間集団の国家や市場からの相対的自立性によって、個人を包摂することが貧困問題・虐待問題などの解決策となるのである。国家から相対的に自立した中間集団による個人の社会的包摂こそが、孤立化による貧困問題を解決する社会学的処方箋なのである。

 全般的に、大澤氏の社会学思想というよりも、大澤氏が宮台思想を引き出したという対談の内容であると思った。
 
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by merca | 2010-12-04 11:37 | 社会分析 | Comments(0)

コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能

 成熟社会においては、経済的資本や文化的資本をいくら所有していても、人間は幸福になれない仕組みになっている。この社会では、社会関係資本(人脈・友人関係など)こそが決定的な幸福格差をつくる。社会関係資本の産出・使用には、コミュニケーション能力が必要となる。
 コミュニケーション能力とは、場の空気(状況)を読み、他者を理解し、正確に自身の意思を伝え、他者を動かすことで、コミュニケーションを連接させていく能力のことを指す。このような能力に長けたものが、いつでも頼ることができる人間関係を構築し、成熟社会の勝者となる。
 残念ながらコミュニケーション能力の差によって排除されることは社会責任にすることはできない。例えば、結婚できないことや恋人ができないことは、自己責任だと思われている。社会が悪いから俺は恋人ができないという言葉に共感する者はほとんどいないだろう。それと同じで、俺を雇ってくれないのは社会のせいだというのも、おかしいことがわかる。成熟社会では、恋愛・結婚と同じく、失業・就職も自己責任として処理される。共同体的呪縛から解放された成熟社会では、むき出しの個と個の関係が中心となり、あらゆる行為は社会的に自己選択・自己責任として処理される。

 また、コミュニケーション弱者は、様々な社会的排除の対象となる。コミュニケーション能力の欠如は、自己責任であり、セフティネットがなく、社会的に排除され続ける。

(職業社会からの排除)
 組織労働における対人関係に適応できずに、失業する。また、コミュニケーション能力を重視する企業から面接で落とされる。
(家族関係からの排除)
親を説得する話術がないために、良好な家族関係を保てず、家を追い出される。
(結婚・恋愛・性からの排除)
コミュニケーション能力が低いために、不器用で異性の気持ちを理解できず、恋愛ができず、見合いをしても断られ、結婚できない。自ずと、性的関係まで至らず、性欲もセックスで満たすことができない。
(学校社会からの排除)
コミュニケーション弱者は、スクールカーストの身分は下層となり、学校の学業に適応できても、友人関係やクラス内のグループに参加できず、孤立化する。いじめの標的となり、不登校となり、排除される。
(友人関係からの排除)
コミュニケーション能力が低いために会話に面白みがなく、友達ができない。
(自身からの排除)
 人は他者から褒められるなど、コミュニケーションを通して自己肯定感をえるものであるが、それがないために否定的な自己イメージしかもてず、自己肯定感が低い。

 上記のようなコミュニケーション能力のなさによる社会的領域からの排除がコミュニケーション弱者の経済的貧困・ホームレス化をもたらすわけであり、景気や経済的貧困によって社会的に排除されるわけではない。湯浅氏は、この部分の因果関係を見誤っている。

 しかし、どんなコミュニケーション弱者も唯一受容してくれるものがある。それが宗教である。宗教は、コミュニケーションができるかどうかで人を評価しないからである。これからは、コミュニケーション弱者を取り込む新興宗教が益々大きくなる可能性がある。
 宗教によって自身を肯定されたコミュニケーション弱者は、宗教に認められたことを足がかりに一気に積極的なコミュニケーションをとりだし、熱く人に布教するであろう。これは、よくあることである。
 もし宗教による受容が怪しくて嫌なら、ボランティアや福祉サークルへの参加によって、無宗教的に自己肯定感を高める処方箋もある。ボランティアや福祉の世界も、コミュニケーション能力によって人を評価せず、人権ということだけで受け入れてくれる仕組みになっているからである。ボランティや福祉は、コミュニケーション弱者がカルト新興宗教に吸収されないようにする防波堤として機能しているのである。

 システム論社会学の立場からすると、コミュニケーション弱者救済のシステムをつくりだすことが急務である。反貧困論やマルクス主義のような浅薄な社会責任論・社会原因論ではなく、社会システム論を前提とした高度に再帰性な自己選択論・自己責任論に立脚したシステム構築が必要なのである。社会科学を専攻する者ですら、古典的な社会観にとらわれており、この点を理解できる者は極めて少ないのである。

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by merca | 2010-11-23 11:16 | 社会分析 | Comments(0)

社会妄想=マルクス主義による犯罪行為

 社会心理学者エリクソンによれば、近代社会においては、ちょうど大学生くらいになると、自我同一性=アイデンティティを確立することが発達課題となるらしい。職業社会に出るためには、若者は自分が何であるかを確立することが求められるわけである。
 その際に自我を統合するツールとして、思想は機能する。自我観念は、それを取り巻く世界観とセットになっており、若者は一定の確立した世界観を提供する思想に飛びつくことになる。新興宗教が大学生を狙って勧誘するのはこのためである。
 宗教でなくても、社会思想や政治思想も、青年期の若者の自我同一性を支える世界観を提供する。このようなエリクソンの近代社会における自我の発達段階理論こそが、あの過激な全共闘学生運動の意味を説明してくれる。要するに、全共闘の学生たちは、自我を確立するために、マルクス主義という物語に飛びついたのである。さらに、それが反体制的思想であったがために、親=社会に対する反抗期としても機能したのである。しかし、不幸なことにマルクス主義は、近代社会=資本主義社会に適合的な思想でないために、多くの若者はそれに埋没するほど犯罪行為に至り、社会不適応に至った。過激化し、カルト化していったのである。
 
 全共闘学生運動は、革命のためと言いつつも、結局、社会学的に分析すると、自我の確立という若者の利己的な動機をもととする活動にしかすぎなかったのである。それはともかく、当時、マルクス理論が実証的根拠を欠く非科学的ものであることを気づいていた学生はほとんどいなかった。
 当時の日本社会は、資本家によって搾取されて貧困が日常化しているどころか、高度経済成長期に入り、豊かになっていた時期である。むしろ、学生運動の大学生は、学歴社会の勝者であり、貧困とは無縁な存在である。低所得層のブルーワーカーになったヤンキー系の若者たちからみたら豊かなのである。頭もいいはずなのに、経済や労働状況などに関する戦後からの社会統計に目を通さず、一気に観念的なマルクス主義思想が真実だと勘違いし、飛びついたのである。自身の家庭が資本家に搾取されて貧乏だったという実感体験からマルクス主義を支持した大学生などいなかったのである。社会統計による事実も無視し、体感的な貧困感覚にも根付かず、知的な若者が自己の自我同一性を統合してくれる絶対的真理を求めて、マルクス主義に走り、全共闘運動に走ったのである。
 
 若者たちは、社会統計的事実からも体感事実からも遊離した反科学的な思想=ウソであるマルクス主義に自我を託したのである。当時の学生の社会に対する妄想はすごい。教育問題、政治問題、家庭問題など全ての社会問題を資本主義社会の問題にしようとする認識の歪みが認められる。共産主義革命が起これば、全ての社会問題が解決されると考えていた。そして、全世界が共産主義革命が起こりつつあり、日本社会でも起こると考えていた。そして、有名大学の知的な若者が、強盗や暴力や殺人などの犯罪行為に手を染めていった。思想のために殺人を平気でするのである。
 命よりも大切なものがあると小林よしのりは言っているが、戦後は、皮肉なことに左翼思想によってそれが体現されているのである。人の命よりも、自己の自我を支える思想の方が若者にとっては大切に思えたのである。

 とにかく、マルクス主義は、極めて、実証性を欠く反社会科学的思考であり、妄想である。こんな根拠レスな社会妄想を打ち砕いてくれるエビデンス厨もいなかった。もし当時、俗流若者論批判者である後藤氏のような統計的事実主義者がいたら、面白かったことだろうに。連合赤軍の社会妄想を後藤氏なら見事に打ち砕くであろう。統計的にはマルクス主義は間違いということで、全共闘の学生たちの自我を一撃で粉砕したことであろう。「あんたら自分で社会調査して調べたのか?資本主義に原因があるという実証的証拠を見せてみなさい」というだけで、論破できるのである。
 もしそんな科学主義者たちがいたら、社会妄想から若者を解放し、連合赤軍の殺人行為も防げたかもしれない。マルクス主義というつまらぬ社会妄想のために、いじめを受けて死んでいった人たちは可哀想である。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に描写されているとおりである。一度、見てみたらわかると思う。思想のために人を十二人殺している。
 
 とにかく、全共闘の学生たちは、マルクス主義理論による認識が事実であると勘違いし、物語として相対化できなかったのである。自身の思想を事実として絶対化し、それに従わぬ者に暴力的制裁を加えたのである。当時は、前期近代社会であり、物語を物語として相対化し、自己選択していく器用さがなかったのである。ウソだとわかりつつも、あえて選択するという成熟社会の意識ではなく、マルクス主義が不変の絶対的真理であるという感覚で受容していたところに問題があるのである。当時の若者たちは、動かぬ社会という感覚をもっており、社会を実体視していたのである。彼らは、社会がその都度生ずる空なるものであるという妙理=創発論的社会観を知らなかったのである。

 今、反貧困運動も学生運動家を育成しつつある。社会が悪い、という思考形態は、マルクス主義と同型であり、少し注意しておく必要がある。なんでも社会問題にしてしまう思考形態は、すぐに共産主義と結合する傾向にある。反貧困運動に参加する若者たちに、貧困体感経験があるのなら、まだ健全であるが、知識の上での貧困しか認識していない一流大学の学生には、反貧困理論を思想として内面化して欲しくないものである。

 学生運動と機能的に等価なのが、ボランティア活動である。ボランティア活動は分野も色々とあるし、思想的強制はないので、安全である。ボランティア活動が発展することで、他者と関わり、自我を確立することが成熟社会には適合的な在り方なのである。

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by merca | 2010-11-14 21:30 | 社会分析 | Comments(0)

ホームレスは減っている! 貧困化社会論は統計的にはウソ。

 ホームレスが増えて社会が貧困化しているという貧困化社会論は、神話である。実は、統計上、ホームレスの数は減っている。7年前に比べてほぼ半減しているのである。
 社会実情データ図録 厚労省「ホームレスの実態に関する全国調査結果」
 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2970.html
 
 厚労省のデータによれば、2003年は25296人であったものが、2010年には13124人に減っているのである。これは正しく、貧困化社会論・格差社会論を反証するデータとなっている。
 ホームレスが減っているのにホームレス問題がなぜこんなに取り沙汰されるのだろうか? ホームレスが客観的に減少しているのなら、公設派遣村は本当に必要だったのだろうか? そのような疑問がわいてくる。
 実は、ホームレスは貧困の象徴であり、貧困化社会論を唱える人たちにとってはホームレス減少は都合の悪いデータなのである。
 また、近年、失業率はあがっているにもかかわらず、ホームレスは減っているのである。失業率とホームレスの相関関係は、統計上、全く関係ないことになる。統計から科学的に解釈するとそうなる。統計的事実からは、不景気で失業率があがると、職を失い、ホームレスになるという理屈は反証されるわけである。

 キッセの社会問題における社会構築主義理論で解釈すると、湯浅氏のような活動家たちによってホームレス問題が社会問題(社会責任)として取り上げられ、マスコミで報道され、ホームレスが増えているという印象を人々に与え、社会は貧困化していると、人々が思い込んでいるのである。ホームレス問題は疑似社会問題である。

 これは社会学でいうモラルパニックの一種である。ホームレス問題の報道が増えたことで人々が問題を社会責任として意識化してしまった結果、ホームレス問題が社会問題として構築されたのである。ネットで自己責任説を唱えてみたまえ、たちまちそれは間違っていると非難の嵐がくるだろう。
 湯浅氏の反貧困論の戦略に見事に社会ははまったのである。反貧困論の社会思想としての社会機能には感服する次第である。国策までに影響を与えている。今や自己責任論を唱える人は世間から叩かれるようになったのである。そして、生活保護率は上がっている。反貧困思想の煽りで厚生年金に加入していない老人が生活保護を受けやすくなり。高齢化に伴い生活保護世帯は増えている。
 ともかく、これほどまでに思想=物語が社会に影響を与えた例は近年ない。宮台氏と寺脇氏の成熟社会論という思想による「ゆとり教育」政策以来である。
 統計的事実ではなく、社会思想が社会をつくるという私のテーゼは、反貧困思想によって見事に実証されているのである。私が客観的事実に立脚してホームレスの自己責任説が正しいとか、ホームレスは減っており、社会は貧困化していないと言ったところで、その事実が社会を動かすことはないのである。
 
 それと重要なことをもう一つ。ホームレス化は自己責任であるというのは、次の事実からもわかる。男女という区別からホームレスを観察することで、ホームレス問題が相談力という対人スキルの問題であることが明確化してくる。ここはホームレス問題の盲点であり、みんなあまり気づいていない。
 ホームレスの男女比率は、2010年の統計によれば、男性が12253人、女性が384人、性別不明が487人らしい。ほぼ95%以上が男性であり、女性は数パーセントにしかすぎない。この差異はどこからくるのか?
 それは、女性のほうが人に頼るコミュニケーション能力が高いからである。女性は、離婚して、母子家庭になっても、ホームレスにはならないのである。両親の家庭を頼ったり、友人の援助を受けるための相談交渉能力があるのである。女性は男性よりも、悩みを人に相談する相談力があるので、援助を受ける機会が増えるのである。貧困になっても、相談する女性は生き残り、相談するスキルのない男性は不器用でホームレス化するのである。
 とにかく、ホームレスになる前に、プライドを捨てて相談しまくることが必要であり、これは自己責任の話である。女性はうまく人に相談することでホームレスにならないのに、男性はうまく相談することができず、ホームレスになる。自己責任として、男性ホームレスも人にうまく相談する対人スキルを学びなさいということである。

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by merca | 2010-11-07 21:21 | 社会分析 | Comments(8)

貧困の自己責任説蔓延というウソによって蔓延する反貧困思想

 「若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因」というエントリーは、反響が大きかった。しかし、そのほとんどの意見は、私に対する批判で、自己責任論否定であった。
   
http://b.hatena.ne.jp/entry/mercamun.exblog.jp/14320171/

 さて、湯浅氏によれば日本社会では貧困の自己責任説が蔓延っているというが、ネットでの反応を見る限り、自己責任説をとる者はほとんどいない。私くらいである。つまり、湯浅氏が主張する、日本社会に貧困の自己責任説が蔓延している、という仮説は事実ではないことが証明された。従って、自己責任説の蔓延がホームレス支援の妨げになっているという湯浅氏の主張は全くデタラメだということになる。
 日本社会で、ホームレスが自己責任であると思っている人間は、私を除いて誰もいないのではないかと思うほどである。つまり、多くの国民は、ホームレスは自己責任だと思っていないのである。
 皮肉なことに、多くのネット論客は「日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている」という虚構を信じることで、自己の価値基準からそれはいかんと思い、躍起になって貧困の社会責任説を支持する仕組みになっているのである。これが、私の自己責任論を道徳的に叩くネット論客の心理構造である。このことによって、日本国民がほとんどホームレスの自己責任説を支持していないという事実が隠蔽されることになる。
 
 反貧困運動は、虚構物語としての貧困の自己責任説蔓延説を仮想的敵として、運動の動機付けを調達しているのである。この社会運動上の巧妙なトリックに気づいている者は少なく、多くの浅学のネット論客は、貧困の自己責任説蔓延説を事実と勘違いし、自己責任説を叩くのである。

 日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている、という確かな事実はない。少なくとも、もし自己責任説を否定する多くのブコメの論客たちが日本国民の意見を代表しているというのなら、なおさらそうであろう。

 もし自己責任説が蔓延しているというのなら、自己責任説に賛同するブコメのコメントが欲しいものであるが、全くない。やはり貧困の自己責任説を唱える者はおらず、仮に唱えても私のように叩かれるわけであり、貧困の自己責任説を持つことは世間の集合的制裁にあうのである。自己責任説を唱えている人をネットで探すのは困難である。
 
 私見であるが、むしろホームレス支援団体のケースワーカーや福祉事務所職員たちの方が、本音においては自己責任説が実感として正しいと思っていると思う。日頃からホームレスと関わる福祉事務所職員や施設職員たちは、自己責任説が正しいと心の中で思っていても、世間や反貧困思想をもつ人たちに叩かれるので、口に出せないのが実情ではないだろうか?
 
 ちよっとした職場でのトラブル、飲酒やギャンブルなど、自分勝手な理由で仕事をやめ、自分勝手な理由から家族を頼らず、福祉事務所に金を出せと脅迫にくるホームレスに深く傷つけられた福祉職員たちが、蔓延している反貧困思想のせいで、大きな声で自分たちの本音を表明できない状況をつくっている。

 よかったら、自己責任説を支持しているブログを探してみはと思う。ほとんどないだろう。それは、自己責任説を唱えると叩かれるからである。これではネットは、大衆全体主義社会と同じである。ここでも、ニセ科学批判運動と構図は同じである。
 
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by merca | 2010-11-06 11:05 | 社会分析 | Comments(1)

耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析 | Comments(0)