カテゴリ:社会分析( 107 )

反貧困論は神話、若者の貧困は自己責任!!

 物語や価値判断ではなく、事実として社会を語ることが流行っている。事実として社会を語るための道具が統計である。統計的根拠こそが客観的であり、信じるに値する科学的根拠であるという思想から、事実に準拠した言説が流行っている。
 
 このような事実主義という思想から、治安悪化神話批判論者、反社会学講座、俗流若者論批判、ニセ科学批判という新しいタイプの社会思想の潮流が形成された。実は、その手法は、小林よしのりに遡ると考えられる。つまり、小林よしのりは、歴史的事実に準拠して、左翼や親米保守を批判してきたからである。保守論壇雑誌のサピオこそが、この手の手法を多用してきた。
 事実はかくあるべし、従ってマスコミや評論家や学者の言説は間違っているとして非難する方法である。
 
 その事実主義をあからさまに露呈した特集が組まれた。それが、今回サピオが企画した、マスコミの「虚構」世論の「暴走」、という特集である。この特集には案の定、俗流若者論批判者である後藤和智も寄稿している。
 
 この特集の中で唯一目を引く記事があった。それは、人事コンサルタント海老原氏による、実は正社員数は増えていた! 「若者に職はない」はウソばかり、という記事である。
 要するに、統計的データからは、非正規雇用者が増加したのは、大学生アルバイトや主婦パートが増加したからであるという。高学歴化社会による大学進学率の増加である。また、日本の貧困率は、高齢世帯の増加によって上昇しているだけであるという。
 
 結論が面白い。少し補足して言うと、若者には正社員の職がないのではなく、正社員の組織労働に伴う「競争原理や殺伐とした職場」「人間関係」から逃避しているので、フリーターという非正規雇用を選択するというのである。つまり、職場の対人関係に耐えながら正社員になってそれなりの給料をもらうことを避けて、自己責任で、フリーターという自由な身分を選択し、ワーキングプアになっているだけの話なのである。
 自業自得である。端的にいうと、上司に命令されて自己のプライドが否定されるのが怖くて、民間企業の自由のない拘束的な組織労働を嫌っているだけである。そういう一部の人間の職業選択を、社会が悪いという神話で覆い隠すのが、反貧困論である。
 
 ワーキングプアは、単なる自己選択による自己責任であることを実証した当論文は非常に価値があると言えよう。湯浅氏が提唱する貧困の社会責任説=反貧困論という左翼神話が、見事に保守論壇雑誌であるサピオによって実証的に覆されたのである。

 しかし、反貧困論という神話が、現代社会において、貧困者や若者の自我を支え、慰め、弱者救済の福祉政策の正当性の思想的根拠として機能することは、否定できない。反貧困論は、社会的事実ではないが、社会思想としては優れているのである。その世直し機能は優れているのである。

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by merca | 2010-03-07 18:52 | 社会分析

反社会学講座による読者コントロール

 反社会学講座による読者コントロールのトリックを暴きたい。

・自己の提示した統計の解釈イコール客観的的事実だと思わせ、常識・俗説を批判する。
しかし、社会調査法の専門家から見れば、粗雑で間違っている。自らは調査はせず、引用だけですましていることから明らかである。仮説を実証するためには、自らが定めた項目で調査する事項も出てくるがそれがない。
 最初に統計はこうだと主張し、最初の主張で常識・俗説を批判し、その流れから厳密な社会調査をせずに、自己の主張を通そうとする。最初が正しければ、後も正しいという人間心理における認知不協和の理論を巧みに使用した読者コントロールである。

・批判からの自己防衛のために、本当の社会学者からは批判されないという防波線をはる。批判してくるのは学者崩れであると主張する。
 このような予防線をはることにより、社会科学を研究する教授や大学院生が批判すると、自己の値打ちが下がると思わせ、本格的な学術的な批判を受けることから免れている。
 パオロ氏が自信を持って本当に正しいことを述べているのなら、このような卑屈な防破戦をはる必要はなく、議論することで真理に近づくという学問の道を閉ざす必要もない。やはり議論による批判を避けるという点において、はなから学問でない証拠であるし、学問的な真理を述べているわけではないことになる。

・常識・俗説を批判する意外性でひきつける。
 常識・俗説を批判することは痛快・意外であり、読者の関心を引くことになる。また、常識・俗説を批判するだけで、大勢に流されず、冷静に思考を重ねた結果であり、これは真理ではないかと人々は思ってしまうものである。特に、知的な人はこれにひっかかりやすい。俺は騙されないと思う知的な人間をひっかける高等戦術である。

・少し知的な人たちの大衆蔑視による知的優越感の充足
 社会学者を批判するとともに、同時に学説に騙されている大衆も蔑視するという構造がある。パオロ氏の言説に賛同することで、社会学者を侮蔑するとともに、大衆に対する知的優越感を得ることができるわけである。知的優越感の充足が読者の魅力となっている。お前ら大衆は学者に騙されているが、俺は真実を知っているという知的優越感が、反社会学講座の本質である。


 反社会学講座は、内容が正しく真実であるかどうかよりも、内容を正しく見せかけ、多くの読者を獲得することが目的なのである。要するに、読者コントロールによって引用した統計や資料を利用して自己の言説を社会科学的事実だと思い込ませるニセ社会科学なのである。本当に社会科学ならば批判に予防線をはるという卑屈な心理作戦はとらないのである。この点、ニセ科学批判されているが、批判にオープンな水伝よりもたちが悪いのである。
 
 ルーマン社会学からすると、学問のコードである(真/偽)で読者が観察してしまっているのである。本来、反社会学講座は、(真/偽)のコードで観察するのではなく、(面白い/面白くない)というエンターティメントとして観察すべきなのである。しかし、読者を(真/偽)のコードで観察させてしまう社会心理学的トリックを故意に使用することで、読者をコントロールしているのである。
 パオロ氏は、読者が(真/偽)のコードで反社会学講座を読んでいるということ自体を観察し、自身の知的優越感の充足を図っているものと考えられる。多くのブロガーよ!! あさましき自我の餌食になることなかれ!!

 結論
・反社会学講座を批判しない者は、反社会学講座の読者コントロールに洗脳されているのである。
・反社会学講座は、社会心理学者や広告心理学者からの攻撃に弱いと考えられる。しかし、このことを指摘した論客はあまりいない。


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by merca | 2010-01-11 12:12 | 社会分析

公設派遣村が貧困の自己責任論を実証する。

 湯浅氏の派遣村構想を受け、国家が公設派遣村を開設したが、やはりよい結果をだしているとは言いがたい。生活費、就職活動費、交通費にあてるべき援助金を飲酒やギャンブルや煙草に使用した人たちが出てきたり、援助金をもらうと約200人が一斉に行方不明になったりしたらしい。また、あるニュース番組で見たが、職安に行っても、就職を選り好みする人物もおり、順調に職を見つけて住込み就労できた人がほとんどいないという。
 確かに入所者の一部にはまじめな方もいると思うが、約200人が行方不明になったという事実は、到底、統計上無視はできず、それが免罪符になるわけではない。従って、もしまじめな一部の入所者へのインタビューでもって、自己責任説を回避しようとする学者やプロガーがいたら、詭弁にしかすぎないと釘をさしておきたい。

 社会学的にいうと、その根本原因は、ホームレス化の自己責任説に準拠したシステム設計をしなかったことにある。湯浅氏の抱く幻想である社会責任説に基づき、性善説的な援助をしたことに問題がある。貧困は社会や環境のせいであり、個人の自己責任でないというドグマにとらわれた結果、現実が見えなくなり、迷走してしまっているのである。
 私は、「貧固・犯罪の自己責任論は正しい」というエントリーで、自己責任論を排除する湯浅氏や湯浅氏を妄信する多くのブロガーたちを批判しておいたが、正しく今回の公設派遣村の失態はそれを科学的に実証するものとなった。
 いくら生活保護や就労対策で衣食住や就労を確保しても、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己責任に帰着する自己問題要因を解消しないと、これらの問題が再発し、再度、貧困に陥るのである。自己問題要因が貧困をつくったのであり、不況や失業はそのきっかけ要因や補助因にしかすぎない。
 自己問題要因解消の指導をせずに、甘えた支援だけをするのでは、税金の無駄遣いであり、国民の道徳的憤慨を誘発するであろう。
 
 もうそろそろ貧困の自己責任説が正しいという現実にブロガーたちは目をむけるべき時期なのである。湯浅氏の説に幻惑され、自己責任説が正しいと思っている大衆を侮蔑し、あざ笑うかのごとく批判してきた多くのブロガーたちは本当にみとっもないのである。
 常識的見解=俗説を批判している知識人を見ると、その意外性から何か正しいことを言っていると心理的錯覚を起こし、妄信するという病理現象はよくおこる。例えば、反社会学講座もその類いであり、常識・俗説批判による幻惑効果によって読者をひきつけているのである。常識批判効果を利用した言説には注意しなければならない。

 公設派遣村に若者が増えているようであるが、援助すべき対象かどうか疑わしいと思う。宿泊するところがないのが前提であるが、実は故郷に実家があったりするのではないか? 単に親と喧嘩したり親から借金をしたりするなど、親に迷惑をかけて家族のもとに帰れないだけの話であり、親に頭をさげれば税金を使わずとも家族のもとに寝泊まりできるのではないかと思う。頭をさげるという能力が欠如しているプライドの高い若者たちの自己責任であり、我々の国税で面倒をみる必要はないのである。いずれこの点についても、マスコミは敏感に察知するであろう。この記事を見ている記者は、そういう観点で取材してみると、真実を知るであろう。

  関連エントリー
貧固・犯罪の自己責任論は正しい
  


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by merca | 2010-01-11 09:04 | 社会分析

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根である。

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。それが、湯浅氏や浜井氏である。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、湯浅氏や浜井氏のように貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。ここが盲点となる。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 

  話をもとにもどすと、貧困と犯罪は(自己責任/社会責任)という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については(生産性をあげる/生産性をさげる)という区別で観察し、犯罪については(治安改善/治安悪化)という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考えられる。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 湯浅氏をはじめとする多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家も共に共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていないのである。
 
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われるのである。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。

 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。

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by merca | 2009-12-27 18:56 | 社会分析

貧固・犯罪の自己責任論は正しい。

 貧困・犯罪は、社会がつくりだしたものであり、個人の自己責任に帰着させるのは間違いであるという説が、湯浅氏や浜井氏によって吹聴され、多くのブロガーは科学的根拠もなく、それを安易に信じている。
 実は、貧困・犯罪の社会原因説が正しいためには、社会調査法の常識からは、以下の社会調査を科学的に実施する必要がある。
 アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己問題要因を併せ持つ、ホームレスや犯罪者になった人間が、ホームレスや犯罪者の中でどれだけいるかを調査し、それが主たる生活に窮する要因になっているかどうかを調査することである。
 上記のような調査は非常に困難だと思われるが、実はすでになされていると類推される。年間何千件とケースを処理する福祉ケースワーカーの調査や矯正保護の専門職員たちの分析調査があるはずである。現場の多くの社会福祉職員やワーカーや犯罪者処遇に関わる人たちからは、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などが原因で、職に就けず、ホームレスとなったり、犯罪に走るという声が聞かれる。
 逆に言うと、失業しても病気になっても、つまり生活に窮しても、ホームレスになったり犯罪をしない人たちもいるわけであるが、そういう人たちはこれらの自己問題要因を抱えていないということである。
 生活に窮しても、ホームレスや犯罪者になるかならないかは、自己問題要因を伴っているか伴わないかによる。
 厳密に言うと、貧困・失業・孤立はホームレス化や犯罪の真なる原因ではなく、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己問題要因が貧困・失業・孤立をつくりだすそもそもの原因となっているのである。 
 貧困・失業・孤立を防ぐために、生活保護・就労・コミュニティへの包摂を図ったところで、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如という個人にまつわる問題性を解消しないと、再度、生活破綻を来たし、貧困・失業・孤立の状態に自己を追い込み、ホームレス化あるいは犯罪化するのである。
 このように、貧困・失業・孤立とホームレス化・犯罪は、疑似相関関係である可能性があるにもかかわらず、科学的根拠なしに、あたかも主因であるかのごとく、実証的犯罪学者の浜井浩一氏等は唱えるのである。
 アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などがホームレス化や犯罪の真なる原因であるのならば、ホームレス化や犯罪は、社会の側に責任があるのではなく、自己責任に帰着することになり、ホームレス化と犯罪の自己責任説は科学的に正しいことになる。
 さらにまた、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などは、規範意識が強ければ自己予防や自己抑制できると考えられ、やはり規範意識の問題は犯罪学の中心的位置を占めるとも帰結できるのである。

補足説明
・湯浅氏は「溜め」による自己責任論批判を行うが、「溜め」という社会資本は上記の自己問題要因によって目減りするわけであり、目減りした原因は本人にあり、何ら自己責任を免れる免罪符にはならない。

・また、貧困・犯罪の外部要因の否定が単純に自己要因とならない。多くの人は外部要因を克服する力はあるからである。例えば、多くの人は、会社が倒産して失業してもすぐに仕事を見つけ、ホームレスにならないのである。職業を選り好みしたり、貯金を家賃にあてず飲酒やギャンブルにまわす人たちがホームレスになりやすいでのある。倒産失業だから社会が悪く、本人のせいでないという短絡的な思考をもつブロガーもいるのが残念である。自己問題要因を抱えているから、普通の人なら克服できる外部要因=困難も克服できないのである。

・アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などをどのように測定するのかということであるが、アルコール依存症やギャンブルや薬物依存についてはすでに研究し尽くされているので、その指標を用いることができる。女遊びについては浪費癖の項目に入れることができる。放浪癖は、その回数と頻度で図る。協調性の欠如は心理学の心理統計や性格テストでもよくみかけるので流用可能である。職業選択の選り好みについては、ニートの社会調査などでもよく見受けられる項目である。既存の社会科学的研究から拾いだすことができる概念であり、さほど測定は難しいとは言えない。社会調査法の解説書をみれば、上記の項目を質問することは、他の調査に比べ、まだたやすい方であることがわかる。

・アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如がおきても、もともと裕福な人間はホームレスにならないという議論もあるが、これは調査目的の混同に基づいた議論であり、自己責任論を実証することと無縁である。
 もともとの所得格差が社会的原因に基づくという先入観をもっている左翼的な人がそのように思考するにすぎない。社会調査においては、このような先入観をもってはならない。あくまでも、ホームレスになった者のうちで、自己責任のためにそうなった者がどのくらいいるのかというのが調査の目的になるからである。

・また、社会病理学で、病理性が指摘されるのは、飲酒やギャンブルでも、それが生活障害に至った時である。ホームレスや犯罪という社会生活上の大きな生活障害が起こることは病理的なものとして見なされることになる。生活保護受給者に対する福祉事務所の強制的な生活指導の一つになる。
 生活障害をもたらさない程度の飲酒やギャンブルは趣味の範囲となるのである。無論、生活障害という概念には、家族関係の崩壊や失職なども含まれており、ホームレスや犯罪をしなくても、生活障害が起きていれば、病理的であると言えるのである。

・アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如は、基本的には自己コントロールすることで解決される。規範意識に基づき、自らの問題を自覚させ、立ち直りたいという動機付けのもとに、各種心理療法を受けたり、自助グループにはいるなどして治療することで解決される。このことをせずに、単に衣食住や就労を提供するだけでは、同じ問題性が再発し、再度、ホームレスや犯罪に至るのである。
  
 以上、下のトラックバックをしてきた方は、どうも現場での質的調査の体験がなく、観念論に終始し、非常に現実から遊離された議論をしているので、釘を刺しておいた。(ちなみに、過去に私は研究のためにホームレスに何度も面接調査をしたことがあるのである。)

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by merca | 2009-12-27 09:43 | 社会分析

厳罰化による犯罪者保護

 刑罰は、治安維持のためにあるだけではなく、犯罪者の人権を保護するためにも必要である。犯罪に対する罰則は、国家による刑罰によって定められ、それ以外の制裁は不当だと見なされ、犯罪者が余分な人権侵害を受けずに済むことになる。
 犯罪者に対して、人々は、道徳的怒りから、非難・罵倒し、時には石を投げつける等、制裁を加えるおそれがある。また、企業が就職差別をしたり、福祉が生活保護を受けさせなかったりと、犯罪者差別を行い、社会的制裁を加えるおそれがある。さらに、被害者から無制限の報復を受けることも考えられる。
 
 刑罰制度は、そのような無制限の社会的制裁を禁止し、刑罰を終えたら、犯罪者でなくなり、基本的に一般人として扱うというシステムなのである。法治国家では、刑罰を終えた人間に対して犯罪者として制裁を加えることは、いかなる場合においても許されないし、たとえ受刑中でも私的制裁は許されない。
 刑罰やそれにともなう資格制限制度によって、犯罪を犯した人間が犯罪者である期間が定まり、刑期が満了すると、一般人として社会に甦ることになるのである。刑を終えた刑務所出所者に対して、「あいつは犯罪者だから気をつけろ」という発言は、実は人権侵害の差別発言なのである。

 厳罰化すればするほど、犯罪者は罪を償う時間が多くなり、その分、世間からの非公式の社会的非難や差別を受ける機会や理由はなくなるのである。厳罰化は、人々の道徳的暴力や社会的差別から犯罪者を保護する装置なのである。

 刑罰が犯罪者を保護するという機能を無視し、厳罰化イコール被害者の立場と思考するのは短絡的なのである。厳罰化することで利益を得るのは、むしろ犯罪者のほうなのである。

  補足説明
 厳罰化の意味は、自由刑の期間延長化だけでなく、罰金の増額、執行猶予期間の延長化なども含んでいる。つまり、自由刑以外の刑罰の厳罰化も意味している。例えば、執行猶予に社会奉仕命令を付ける等して厳罰化すれば、犯罪者が社会に貢献することで人々の非公式の社会的制裁を緩和する機能を持つことになる。刑罰による保護が自由刑=ムショに入ることだけと取り違える人がいるで釘を刺しておく。
 確かに、刑務所勤務体験のある犯罪学者・浜井浩一氏が指摘するように、ホームレス化した高齢犯罪者が自己の生存権(衣食住)を確保するために好んで刑務所に入るという事実は多く認められるようである。いわゆる、刑務所太郎である。実刑という刑罰は、福祉から差別的に排除されている累犯高齢受刑者を保護する機能はあると言えよう。犯罪者自身が刑罰が自己の利益になると認識して再犯して服役することはあるのである。
 
 ところで、刑罰を受け終えた後の社会的制裁とは、資格制限を除けば、全てインフォーマルなものであり、法システムの外にある。言わば、コミュニケーションシステムの次元において差別を受けることで、犯罪者は雇用システム、福祉システム、親族システム等の各種システムから差別・排除という制裁を受けるのである。例えば、結婚する際に犯罪者だとわかれば、相手の親が結婚を反対することがよくある。これは、親族システムからの差別・排除であり、一種の社会的制裁である。理論的に言うと、近代化により法と道徳が分化し、法はフォーマルな世界に属し、道徳はインフォーマルな世界に属するようになった。道徳的には悪であっても、法律に触れない限り、フォーマルな制裁はできないのである。システム論的には、法と道徳は互いに閉じているのである。
 従って、法と道徳が分化した近代社会では、このような非公式の社会的制裁に対して、法システムは無力である。非公式の社会的制裁はインフォーマルな私的領域の出来事として処理され、フォーマルな公的領域を扱う法の介入はできないからである。犯罪者を雇用しないこと、犯罪者と結婚しないこと、犯罪者と友達にならないことは、組織や個人の私的な自由であり、法的に介入できないからである。法システムに訴えることができないから困るのである。
 犯罪者の非公式の社会的制裁のメタコードは、善悪という道徳コードである。社会学者・北田暁大が指摘するように、道徳コードは、どのような種類のシステムに対しても関わることができる特殊なコードなのである。非公式の社会的制裁は、犯罪者を善悪で判断し、その人格を侮蔑することで、各種システムから差別・排除することになる。
 確かに、非公式の社会的制裁を受けても、善悪以外の別の区別でコミュニケーションを接続させ、非公式の社会的制裁を免れることも可能である。しかし、他者がどのような区別でコミュニケーションをしかけてくるかは他者の自由・偶然であり、いくら犯罪者自身が別の区別でコミュニケーションをしようとしても、無駄なのである。
 社会は究極的に実体なき、創発されたものであるが、みんなが同じ区別でコミュニケーションをしかけてきたら、本当になるのである。つまり、多くの人たち=みんなが善悪の区別に準拠して道徳コミュニケーションを犯罪者にしかけてくることで、犯罪者の人格に悪という性質が内在するかのように実体化してしまうのである。これを物象化という。貨幣に価値が宿るという原理と同じである。
 一人の人間が自由な意思に基づいて好きな区別を選択し、コミュニケーションをしても、多くの人間が共有する区別に圧迫されてしまうのである。それは、自分だけでなく、他者=みんながあってのコミュニケーションだからである。社会学の超人である宮台真司が権力の予期理論を念頭におき、社会学は「みんな」を考える学問であると豪語したことは正しいのである。「みんな」ほど怖いものはないのである。存在論的社会観の根源は、この「みんな」なのである!!
種明かしすると、いわゆる「社会」創発の究極のメタコードは、(みんな/みんなでない)というメタ区別である。
 
 多くの場合、個人の夢=幻想は、共同幻想に負けるのである。個人の夢=幻想を絶対化すると、狂人と化すのである。(実は、そういう立派な方もおられるのである。このエントリーの補足を書くきっかけとなったその方だけは例外であり、崇拝対象となるのである。偉大である。)

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by merca | 2009-11-08 15:13 | 社会分析

「2円で刑務所、5億で執行猶予」書評


 治安悪化神話批判者かつ刑罰信仰批判者の犯罪学者・浜井浩一氏が、新書で面白い本を出した。
 それが、このほど刊行された「2円で刑務所、5億で執行猶予」(光文社新書)である。
 端的に言うと、これはすでに治安悪化神話批判を越えて、司法官僚(裁判官・検察官)及びその思考形態である法学批判である。同氏の人間科学の立場から、法学を非科学的であると批判している。科学を盾にした検察官・裁判官・弁護士という司法エリートに対する技官(人間科学を専攻する官僚)の反乱であるだと思った。
 論理は一貫している。科学の立場から事実判断=科学的事実を重視し、法学の立場である価値判断の世界を嘘だとして批判するという方法である。この事実主義は、ニセ科学批判者や俗流若者論批判者と同一の思考形態をもつ。
 そこで、浜井氏の主張する二つのトピックを取り上げてみたい。

・心から悔い改めさせれば再犯は防げるのか?
キャンベル共同計画(犯罪者処遇の効果を実証的に検証する科学的プロジェクト)では、犯罪被害者の心情を理解することは犯罪者の再犯防止ではなく、再犯促進に向かう可能性があるという。浜井氏の解釈では、犯罪被害者の心情を知ることで犯罪者は自尊心を低下させ、社会適応が阻害されるというのである。
 人間科学によるこの結論は、道徳主義に準拠する法学的思考と真っ向から対立する。検察官や裁判官の道徳的思考からすると、裁判時に加害者は犯罪被害者の心情を理解し、その上で反省心や悔悟心をもつことが求められ、そのことで更生が期待され、量刑が軽くなると考える。ところが、人間科学の立場からは、被害者の心情を理解すること、相手の気持ちを考えること、これらが更生ではなく、再犯促進につながる可能性もあるというのである。
 司法官僚、国民、犯罪被害者は、犯罪者に対しては被害者の気持ちと痛みを理解し、罪悪感をもつべきだと考えるが、それが再犯につながるおそれが科学的事実としてあるのなら、どうすればよいのか迷ってしまうのである。
 人間科学の正しい知識を選択するのか、司法官僚たちの信仰を選択するのか、はたまた国民の価値判断に委ねるのか、それを突きつける議論である。
 道徳的に正しいことが非道徳的な結果を招くというパラドックスが見て取れる。

・刑罰信仰
 このトピックは本書の眼目である。浜井氏は、死刑の犯罪抑止効果を例に出して、刑罰の犯罪抑止効果を否定している。端的にいうと、刑罰の犯罪抑止効果は信仰にしかすぎず、非科学的であるというのである。要するに、刑罰には、治安を維持する効果はないというのである。法学の根幹である罪刑法定主義の否定を意味する。
 もし浜井氏のいうように、刑罰が治安維持に関して無効だというのなら、刑罰のない社会、警察のいない社会、刑務所のない社会を想像してみてはどうだろうか? 果たして安心して国民は暮らせるだろうか?
 浜井氏は、 刑罰の社会的機能の多くを捨象して議論しているため、刑罰無用論に聞こえてしまう。社会学的には、刑罰の社会的機能としては、犯罪抑止機能(一般予防、特別予防)の他にも、紛争処理機能(加害責任の所在を明確化する)、犯罪無効化機能(犯罪者の隔離収容)、応報感情の充足化機能(被害者による報復を禁じる)、社会正義の実現機能などがある。
 科学の立場からは刑罰の犯罪抑止効果は事実ではなく信仰にすぎないとしても、刑罰を廃止すると、やっかいなことになるのである。
 ただ、未成年には原則的に刑罰は適用されず、刑罰に代わるものとして保護処分が科せられる。保護観察と少年院である。未成年は刑罰のない世界に置かれている。しかし、少年にとっては、保護観察と少年院は刑罰と同じ意識で受けとめられているのである。悪いことをしたら少年院に行くという意識と、悪いことをしたら刑務所に入るというのは身柄拘束を伴う罰則としては同じである。保護処分の機能は、刑罰と同じであると考えられる。少年院に入りたくないからこれ以上悪いことをしないという非行少年はいるであろう。
 
 ともあれ、同著は、べき論としての司法の領域に科学が侵入している事例である。べき論たる道徳判断の司法の世界は、科学の対象外であり、科学的根拠で持って司法の正当性を判断することは本来カテゴリーの混同である。科学の対象外の領域について科学の立場からその正当性を判断しようとする浜井氏の犯罪学は、このままではニセ科学化するおそれがたかいのである。

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by merca | 2009-11-08 10:32 | 社会分析

スクールカーストは反学歴主義である。


 計量社会学者・吉川氏の指摘する学歴分断社会が統計的に実証された客観的事実だとしても、若者の価値意識は学歴重視から乖離している。それをもっとも顕著に表しているのは、学校内身分、すなわちスクールカーストである。全体社会の社会階層が学歴によって決定されるものであるにもかかわらず、スクールカーストでは学歴と直結する学力は重要視されない。
 スクールカーストでは、対人関係能力、運動能力、外見的魅力という基準によって身分差が生ずると言われ、学歴につながる学力はスクールカーストの基準ではない。学力が高くても、対人関係の苦手なガリ勉秀才は身分が低い。話が面白くスポーツができるヤンキーの方が、ガリ勉秀才よりも学校内身分は高いのである。しかし、全体社会の中では、ガリ勉秀才の大卒の親の方がヤンキーの中卒・高卒の親よりも、社会階層は上である。また、学校を卒業し、社会に出ると、大卒のガリ勉秀才がヤンキーよりも地位が上になるのである。
 スクールカーストにおいては、友人関係やスポーツやおしゃれが重要であり、学力を重視する学歴社会の価値観とは異なっているのである。スクールカーストを生きる若者は自己の人生を幸福にするのは学歴よりも友達であるという物語をもつことになるのである。

 スクールカーストの価値観を内面化した若者は、学歴を重要視せず、その結果、大学に進学しなくてもよいと考え、大学の進学率が押さえられるのである。さらにいうと、非大卒の親をもつ子が大学に進学しないということにスクールカーストは拍車をかけていると考えられるのである。
 若者の希望格差ではなく、スクールカーストへの過剰適応が大学進学への意欲を削いでいるのである。
 
 社会的現実として学歴社会であるにもかかわらず、当の学校社会における学校内身分では学歴と直結する学力が度外視されているという逆説によって、学歴社会が維持されていくという皮肉な社会現象のメカニズムの解明が急がれるのである。

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by merca | 2009-10-11 22:00 | 社会分析

学歴社会悪玉説という負け組の慰め神話

 (大卒/非大卒)という区別コードが社会階層の人員配分を決定するという観察をしている学者がいる。「学歴分断社会」の著者であり、計量社会学者の吉川氏である。吉川氏は、学歴は正規の格差発生装置だというのである。
 しかし、学歴は、終戦から高度経済成長期までは、世代間移動における格差是正装置として機能していたことを忘れてはならない。農村部から都市部へ人口移動が起こり、非高卒・非大卒の親の子が高卒・大卒という学歴を取得していき、社会階層の流動化が生じたことはよく知られている。
 学歴主義は、そもそも生まれと関係なく、個人の才能と努力で一流大学に入れば、高い社会的地位を獲得できるという機会の平等主義が本質である。親と同一の社会階層や職業から移動するための重要な社会装置なのである。学歴が既存の社会階層・社会階級を破壊したのである。
 ところが、吉川氏の説によると、高度経済成長期が終わり、成熟社会期に入ると、学歴が逆に格差発生装置として機能しているというのである。つまり、大卒の親の子が大卒となり、非大卒の親の子が非大卒となる傾向が認められ、格差が拡大し、学歴の世代間移動がなくなり、社会階層が固定化してきているというのである。そして、格差社会の正体は、(大卒/非大卒)という学歴格差であると指摘する。大卒であるかないかで、就職、結婚、年収、趣味、社交の範囲などが決定され、社会階層への所属も決定されることになるのである。吉川氏は、文化的再生産も起きていると考えているようである。また、非大卒の親の子が大学に進学する意欲が低いという点を指摘している。
 実は。この点は一番重要である。人数的には、少子化によって大学への進学は誰にでも開かれており、大卒となる方が社会的にメリットがあると考えると、非大卒の親の子が大学に行かない理由が非常に不可解である。高度経済成長期には、ハビトゥスなどおかまいなしに、親の学歴を越えた学歴を取得するのにあれだけ若者が躍起になったのにである。

 ここで一つの社会解釈を提唱しよう。
 それは、高度経済成長期では「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標が人々を動機付け、受験競争に駆り立ていき、現在の高学歴社会を実現したわけであるが、成熟社会に入ると、どうもこの文化目標にリアリティがなくなり、若者が共有しなくなり、大学進学の意欲が減退しているという解釈である。
 
 学歴社会は社会的現実という認識に立てば、「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標はリアリティがあるはずである。なのに非大卒の親をもつ若者には十分に内面化されておらず、大学進学率は上がらないのである。
 「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標に対して、厳しく批判を加えてきた社会的風潮が背景にある。端的に言うと、学歴社会=道徳的悪という価値観である。学歴社会悪玉説である。

 「学歴だけで人生は決まらない」と豪語し、学歴社会を厳しく批判することが正義であるかのような批評家や教育評論家たちが多くいる。また、漫画・小説・映画・テレビドラマなどでは、学歴社会批判の発言をよく聞き、友達関係や恋愛関係のほうが大切みたいな主張がよくなされてきた。報道番組では、いじめ・不登校の原因として受験戦争を批判する番組が取り上げられてきた。
 実は、これらの学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説の言説は、受験戦争から脱落した「負け組」の非大卒の親にとっては自己の人生を解釈する救済神話として機能しているのである。学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説という神話を非大卒の親と子が価値規範として内面化することで、「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標に魅力を感じることができず、大学進学への意欲が低くなるというわけである。
 
 さらに、学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説という嘘=慰め物語がよけいに学歴社会を温存させるという逆説を見て取れるのである。予言の自己成就と反対である予言の自己消滅という社会現象が起きているのである。

 もし吉川氏のいう学歴分断社会が社会的真理ならば、テレビドラマでよく否定される「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標を絶対化する教育ママのみが、嘘をばらまく教育評論家やマスコミの偽善性を見抜いている社会的賢者なのである。
 
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by merca | 2009-10-11 11:59 | 社会分析

ハビトゥスの機能する社会の終焉


 ブルデュー社会学は、社会宿命論の完成体である。社会を必然の相で観察するためには、ブルデューが開発したハビトゥスという社会学概念を使用する他ない。これは、規範や価値観とは異なる社会学の説明原理である。パーソンズやルーマンと全く異なる概念でもって、ブルデューは社会を観察する。
 ハビトゥスは、人々に身体感覚として埋め込まれた習慣である。行為は自由な自己選択によって決定されるのではなく、ハビトゥスによって方向付けられるのである。クラシック音楽を好むのは、上流の社会階層に育った人間に埋め込まれた性向だという。育ちによって好みが異なり、その結果、学校への適応力や職業の好みも異なってくるというのである。
 ハビトゥスが、一人の人間の学習態度、職業、結婚、趣味等を規定するというわけである。さらに、所属する社会階層や民族社会によって、ハビトゥスは異なる。言わば、ハビトゥスは文化的遺伝子である。また、社会的宿業とも言える。例えば、育ちによって親からヤンキーのハビトゥスを植え付けられた子はヤンキーとなり、育ちによって親からおたくの遺伝子を植え付けられた子はおたくとなる。確かに、ヤンキーの子がヤンキーになる社会的確率はかなり高いと言えるし、医者の子が医者になる確率も高いような気がする。
 家族から埋め込まれたハビトゥスによって人生は決定され、そのことで社会階級が文化的に再生産されるというのが、ブルデューの言わんとするところである。さらに、社会階級によって社会分業システムは維持され、社会秩序が保たれるわけである。
 なお、合理的選択理論からすると、ハビトゥスは、選好構造と約すこともできる。選好構造は行為を選択する前から与えられている個人の性質であり、さらに社会階級によって共通している。
 ハビトゥスは、規範のように違反しても罰則はないし、思想や価値観のように意識的なものではない。強いて言うと、好悪の感覚である。ブルデューは、価値規範から社会を説明するのではなく、無意識の身体化された感覚や習慣=ハビトゥスから社会を説明しようとした。

 しかし、これは日本社会に当てはまるだろうか?
  ポストモダン社会では、社会階級あるいは社会階層が消滅していくと言われている。文化的再生産という社会装置が消滅化していくのがポストモダン社会の定義である。偶然性の高い社会内移動が自由である流動的な社会の到来である。昔に比べ、親の社会階層に子供が規定されるという現象=文化的再生産は弱まってきているというデータもある。
 ブルデューのように社会を必然の相で観察する方法が通用しない社会になりつつあるのではと考えられる。武士の子は武士、百姓の子は百姓という時代には適合的であるが、ポストモダン社会では社会的宿業論は通用しなくなっている。
 ブルデュー社会学は、前期近代社会までは有効であるが、社会階層が希薄な社会の観察方法としては不適合である。皮肉なことに、ブルデューの得意とする統計的調査でもって、日本社会における社会階層の希薄化が実証されてきている。社会階層が消滅すればするほど、統計的な調査は、価値が薄れてくるのである。統計調査は社会が固定的で必然な場合のみ有効である。
 社会は必然性に支配されていた前期近代社会から、統計調査を無効化してしまう偶然性に支配されたポストモダン社会=成熟社会に変わったのである。この変化に一番敏感なのが、ルーマンや宮台学派なのである。今やハビトゥスの機能停止の社会となりつつあるのである。 

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by merca | 2009-10-05 22:17 | 社会分析