カテゴリ:社会分析( 107 )

厳罰化の社会的正当性


 治安悪化神話論者たちは、統計的事実によると犯罪は減少しているのに、過剰なマスコミ報道や犯罪被害者支援団体等の活動によって、人々の体感治安が悪化し、厳罰化世論が形成され、厳罰化政策がなされ、刑務所の収容過剰が起こったという仮説を唱える。
 
 治安悪化神話論者たちは、この社会現象をモラルパニックや厳罰化ポピリュリズムと呼び、一種の社会病理現象として観察している。
 この仮説の前提には、国民は犯罪が減っているという統計的事実を知れば体感治安も悪化せずに厳罰化に向かわなかったという理屈が隠されている。つまり、事実を認識すれば、治安状況について正しい評価を下し、厳罰化には至らなかったというわけである。

 しかし、この仮説には、次のような異論もあり得る。国民は犯罪に対する本当の事実を知ったからこそ厳罰化に向かったのだという考えである。つまり、これまで国民は加害者の犯罪事実と動機に関する情報しか与えらておらず、犯罪被害の本当のあり方=被害事実が隠蔽されたてきたが、犯罪被害者支援団体等やマスコミ報道によって、犯罪被害の実態が国民に知らされるようになり、犯罪にまつわる本当の事実を知ったからこそ厳罰化の世論が形成されたという認識である。
 今まで、国民は犯罪被害は裁判所が決める犯罪事実の範囲であると勘違いしてきた。一つの犯罪の被害は、法的な犯罪事実の範囲にとどまらず、犯罪被害者の家族の生活全般に及ぶことが知らされなかった。犯罪は、犯罪事実だけではなく、被害事実を知ることによって、正当な評価を下すことができるのである。一つの犯罪を正しく認識し評価するためには、その犯罪が与えた被害を見積もる必要がある。
 国民は、馬鹿ではなかったのである。犯罪に対する犯罪事実と被害事実を知ることができるようになり、犯罪に対する厳しい道徳評価を下すようになったのである。治安悪化意識も、国民が犯罪被害の実態を知ったからであるとすると、おかしなことではない。
 社会学的には、これが厳罰化の社会的正体であり、極めて社会的には正常な流れである。以前は犯罪被害者の声が国民に届かず、被害事実が隠蔽され続けてき、正当な道徳的評価を下す機会が閉ざされていたのである。今やマスコミ報道や犯罪被害者支援団体等の活動によって犯罪現象に対する無知のベールが剥がされ、国民が正当な道徳的評価を犯罪者に対して表明できるようになったわけである。

 治安悪化神話論者たちは、体感治安悪化や厳罰化を国民の事実に対する無知(犯罪統計にかかる)に基づくものだと見なしているが、事態は全く逆であり、マスコミによって犯罪被害が報道されることで犯罪現象を総合的に認識できるようになり、道徳的に厳しい評価をしだしただけなのである。
 厳罰化現象は社会的に健全である。人に多くの被害を与えたものにはそれだけ厳しい罰を与えるのは、道徳的にも正常である。
 治安悪化神話論者たちは、国民を馬鹿にしすぎている。彼らが考えるよりも、国民は賢い。治安悪化神話論者たちが国民に抱く物語=妄想を押し付けないで欲しいものである。 
 
 裁判員制度になって益々犯罪現象に対する加害者と被害者の双方の無知のベールが剥がされ、犯罪の事案に応じた正当な道徳的評価が犯罪者に対して下されるようになるのである。

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by merca | 2009-08-09 10:53 | 社会分析 | Comments(4)

厳罰化・裁判員制度による反人権主義的正義の実現


 罪刑法定主義に基づき、犯罪行為に対する罰則である刑罰を重く規定することを厳罰化という。人々は、厳罰化されると、法を犯すことに対するリスクが大きくなるために、犯罪を選択をするのを思いとどまり、犯罪抑止効果があると言われることがある。そこには、人間は利得を増やし、リスクを少なくするために合理的に選択して行動するという考えが隠されている。
 「厳罰化は犯罪抑止効果がある。」という命題は、基本的には社会学の合理的選択理論に基づいており、理論的根拠はある。これは経済学における経済行動原理と同一である。厳罰化は合理的選択理論の刑事政策への実践的応用である。
 このように人間科学の理論が刑事政策に応用されるわけであるが、その実証的根拠についてはどうだろうか?
 
 罰則を強化することで、人間の行動に影響を与えるという社会心理学的な小さな実験は可能だと思われるし、行われている。日常場面では、勉強をしなければお小遣いを減らすとか、そういう親もいる。
 また、心理学に強化理論や報酬理論というものがある。賞罰によって人間の行動は左右されるという理論である。純粋に強化理論を受け止めると、厳罰化を支持する理論のように見えるが、実際は、心理学では、罰の効果は短期的であり、罰よりも報酬によって人間は動機付けられるという結果を導きだしている。
 社会学の合理的選択理論は厳罰化を根拠づける理論ではあるが、現代の心理学における強化理論や報酬理論は罰則の効果はさほどないと考えている。
 ここで、一つの対立が起こる。社会学と心理学の理論のどちらが正しく、国家の刑事政策としてはどちらを科学的事実として採用するのが妥当かである。

 さて、厳罰化は、犯罪抑止効果とは直接関係なく、論ずるべきだという立場もある。つまり、厳罰化の役割は、人々の応報感情・道徳感情を満たすことであり、そちらの方が本質であるという考えである。犯罪者に対して多くの国民は怒り=公憤を感じるものであるが、その怒りを消化するには、犯罪者に刑罰で制裁を与える必要がある。社会のルールを逸脱したものに対して、国家が制裁を加えることで、人々は社会的公正と正義が保たれていると実感するのである。
 もし仮に犯罪者に何のお咎めもない社会であったとしたら、まじめに生活している多くの人々は、不公平で正義と秩序のない不安な社会だと思い、社会的混乱が生じてしまうだろう。厳罰化することは、人々の応報感情と道徳感情を満たし、体感治安を高める社会的機能があるのである。
 その意味において、大衆主義が厳罰化をもたらすのは、社会学的には当たり前のことなのである。厳罰化は、大衆の不満感情を統制する社会的装置だからである。
 
 裁判員制度も全く同じような機能を持つ。国民に犯罪者を裁かせ、その時代の社会の道徳観を反映させて罰則を決めさせることで、人々の道徳感情を満たすことが可能となる。
 時代によって社会の道徳観は変わってくるので、法律で定めているだけでは不十分なのである。裁判員制度は、極めて文化相対主義的な思想に基づいているのである。同じ犯罪でも、時代が変われば、死刑になることもあるし、ならないこともあるというわけである。社会の価値変動を人権に優先させる反人権主義なのである。全ての社会に共通な絶対主義的な道徳基準はないものであるという相対主義がその本質である。
 とはいえ、統計的サンプリングという科学的手法によって国民を代表すると考えられる裁判員による民主的議論=対話的理性によって裁かれているので、正当であるという感覚を国民に抱かせることになる。本来は裁判員制度は相対主義であるにもかかわらず、真理性と正当性の仮面を被ることができるのである。ここでも、科学(統計主義的サンプリング理論)と民主主義(自由な討論)が、相対主義を隠蔽化する社会的作法として用いられている。
 「裁判員制度が厳罰化をもたらす。」という命題が社会科学的に正しいかどうかは別としても、国民を代表する人たちの手によって裁かれるのだから文句は言えないということで、国民の犯罪に対する道徳感情を満たす機能はあると考えられる。

 厳罰化を犯罪抑止効果に準拠して観察するのではなく、社会的正義の実現に準拠して観察する必要があるのである。 

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by merca | 2009-07-26 10:05 | 社会分析 | Comments(0)

社会学の宿命

 いまだかつて社会についての事実が社会を動かしたことはない。歴史を見ればわかる。
 思想や宗教という物語が社会を動かしてきた。ルターの宗教思想や社会契約思想やマルクス主義は、科学的な実証的根拠に基づく事実ではなく、物語にしかすぎないが、そのような物語が社会を動かし、変えてきた。自由と平等という物語が市民革命をもたらし、近代社会の扉を開いた。
 思想家は、実証的根拠なしに、「世の中はかくある」「世の中はかくあるべし」と社会を語り、物語を流布し、人々の間でコミュニケートされていく。この過程が社会を構成する。
 科学的根拠や実証的根拠がないとかという観点から、社会にまつわる物語を生産する社会思想家の口を止めることはできない。多くの人々が願望する物語は受け入れられ、社会的影響力をもつことになる。
 
 今や宮台社会学は、社会学の枠組みを越え、社会思想の域に達している。社会学が単なる学問ではなく、人々から社会思想として観察されてしまうという宿命をもつことを彼はよく心得ている。また、日本社会学の大御所である富永健一が大著「思想としての社会学」を出した。
 そうなのである。社会理論は、常に思想として人々から観察されてしまう宿命にあるのである。この自覚がなしに社会科学は成立たない。俗流若者論批判者である後藤氏などは、社会学の専門的教育を受けていないためか、このことを理解せず、実証性を欠くという視点からのみ宮台社会学を批判している。

 学問ではなく、思想として観察した時、宮台社会学は、マルクス主義以上の魅力があるのである。単なる学問は人々の自我意識を支えないが、思想となれば自我意識を支え、社会を変える機能を持ち出す。
 我々が社会思想に求めるのは、対象と認識が一致した知識=事実ではなく、己の自我意識を支える世界観を提供し、社会をつくりかえる機能を有する力なのである。
  
 宮台氏の「日本の難点」が売れているのは、それが学問的に正しいということではなく、社会思想としての完成度が高いからなのである。 社会学が学問ではなく社会思想として観察される宿命にあることを自覚しながら、社会学の道を歩んでいる社会学者こそが本当の社会学者である。
 
 当ブログのテーマである「社会学を社会学する」であるが、社会学を社会思想として観察することを意味している。

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by merca | 2009-06-28 22:50 | 社会分析 | Comments(0)

ポストモダン社会は、メタ道徳社会!!

 社会学は近代化を扱う学問であるが、ポストモダン社会とはどんな特徴をもつ社会なのか、宮台真司の著「日本の難点」を手がかりにそれを論じたい。
 
 ポストモダン社会について、様々な特徴を宮台真司は述べている。
 まず、ポストモダン社会とは多くの人が社会の底が抜けていることを知っている社会であるという。つまり、万民に共通な絶対的な真理や善悪の基準は存在し得ず、それらは恣意的に選択され構成された物語にしかすぎないということを、社会の多くの人々が自覚している社会である。
 ちなみに、このような相対主義から、殺人を肯定し、自己の殺人の動機を合理化する脱社会性馬鹿も時折散見される。絶対的真理や善悪の基準がないからと言ってニヒリズム殺人に走るという感覚は、成熟したポストモダン社会と全く無縁であり、かえって近代前期の古典的ニヒリズムの域をでない。
 そうではなく、ポストモダン社会では、底が抜けていると自覚しつつも、底があるかのように振る舞うことが不可欠であるという意識が人々に共有されてくる。このような意識を再帰性という。宮台氏はこれを「普遍主義の不可能性と不可避性」と表現している。
 つまり、全ての前提には絶対的・究極的な根拠はないが、それを意識化した上で、あえて物事を選択し、善悪と真理の物語を構築することが必要であるという意識である。
 全ての前提は恣意的に選択されたものであるから、これからも選択していく他ないという意識である。ただし、選択・構築された物語に底=根拠があるかのように擬制する手段も必要となる。そのツールが科学と民主主義である。
 絶対的な真理の根拠はないが、科学的手続きを得た知識は、一応、信じるに値する知識=真理の烙印を押され、人々が採用する。
 絶対的な正義であるという根拠はないが、民主主義的手続きを得た意見は、一応、受け入れるに値する正当性の烙印を押され、人々が採用する。
 科学と民主主義は、底が抜けた知識や道徳の世界に底があるかのように半ば期待を抱かさせる社会的装置なのである。この擬制装置が機能しないと、ポストモダン社会は回らない。宮台氏は、「民主主義の不可避性と不可能性」という文句でこれを的確に表現している。これは科学についても言えることで、「科学の不可避性と不可能性」が認められる。
 
 絶対的な基準がないから、何でもありの無秩序なニヒリズムに行きつくのではなく、恣意的に選択された前提を自覚・利用し、次の選択の材料としつつ、新たな選択をし続けることで回るのがポストモダン社会である。選択することそのものが道徳化された社会であり、選択しないことも一つの選択として処理される社会である。その意味において、実は、ポストモダン社会の隠されたメタ道徳規範は、自己選択性なのである。
 
 一部のニセ科学批判者のように、ポストモダン社会をニヒリズムや相対主義と勘違いして論じる論客もいるが、ポストモダン社会は自己選択性=自由意思を尊重する極めて洗練されたメタ道徳社会なのである。もう少し平たく言えば、ポストモダン社会は、全ては究極的には無意味だけれども、そのことにとどまらず、相対的な意味をつくるべきだという道徳命題を提唱しているのである。この道徳は、ニヒリズムも一つの選択として自己に取り込む強靭な思想であり、ニーチェの積極的ニヒリズムの論理的誤謬も克服している。

 ポストモダン社会のメタコードは、(選択可能/選択不可能)である。

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by merca | 2009-06-28 11:40 | 社会分析 | Comments(0)

コントの三段階の法則

 社会学を学んだ者なら、社会学の創始者コントの三段階の法則を知っているはずである。社会が進化するにつれて、人間の精神の歴史は、三つの段階をたどるという有名な古典社会学の理論であり、近代化論の先駆である。
 三段階とは、神話的段階、形而上学的段階、実証主義的段階の三つである。神話的段階は、現象の原因を神などの想像上の存在のはたらきとして解釈する思考形態をいう。原始社会や古代社会ではよく見受けられる思考形態であり、神話や宗教が幅をきかせていた。世界の説明原理は神話や宗教ということになる。
 形而上学的段階とは、現象の原因を論理的で抽象的な原理によって説明しようとする思考形態である。哲学がこれにあたる。中世社会では、スピノザやライプニッツの形而上学は有名である。世界の説明原理が抽象的な哲学理論ということになる。
 実証的段階とは、現象の原因を観察と実験による実証的な事実に求めようとする思考形態である。これは正しく、近代社会における科学のことをさす。世界の説明原理が科学理論ということになる。なお、実証的な学問は、単純な対象から複雑な対象へと向かっていき、数学、天文学、物理学、化学、生物学を経て、もっとも複雑な対象である社会を扱う学問である社会学で完結すると言う。つまり、社会学が実証的精神の最終目標となるのである。

 教科書的なことを書いたが、コント社会学の発想それ自体は今でも使える。確かに人間社会の歴史は、三段階の法則に従って進化してきたと観察できるからである。近代社会では、宗教的思考や抽象的な哲学的思考は周辺に追いやられ、実証性を重んじる科学的思考形態が知識の主役となっている。天災を物理現象としてではなく神の怒りとして解釈するのは、神話的段階の社会では、違和感がなかったことであろうが、近代社会では迷信となる。水に心があり、人間の言葉を理解するという思想も、神話的思考からすると、整合性はあるが、近代社会においてはマイナーな思考形態になると考えられる。

 しかし、コントの三段階の法則は、現実の現代社会と多少ズレており、そうでない部分もある。
 というのも、近代社会に入っても、宗教も哲学もなくなりはせず、中心ではないが、分業社会でそれなりに重要な機能を担っているからである。
 哲学は思想や道徳というかたちで、人々に社会規範や価値基準を提供し、宗教は誕生・結婚・葬儀などで人間の生死の意味付けを扱う。宗教と哲学は消滅せず、むしろその機能が純粋化されたとも言えるのである。三段階の思考形態は、近代社会になっても、全て人間にとって必要なものなのである。実証的な思考形態である科学のみが、全ての機能を代替することはできない。
 一つの思考形態だけを絶対化せず、この三つの思考形態を目的と場に応じて使い分けるのが、後期近代産業社会=成熟社会に適合的な生き方なのである。

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by merca | 2009-01-24 23:56 | 社会分析 | Comments(3)

治安の社会的構築

 当ブログのコメントからの引用
 多くの人は自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化しているらしいと考える傾向にあるようなのです(久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』(公人社)、K.F.Ferraro、Fear of Crime(State University of New York Press)など参照)。

 普通、治安は、犯罪発生率で測定される。犯罪発生率が高いほど、犯罪に合う確率が高いことになるからである。しかし、犯罪に合う危険性は、人によって異なる。防犯意識が高い人間は、日頃から犯罪被害に合わぬように心掛けており、犯罪には合いにくくなる。警察は、防犯教育の一貫として、振込み詐欺や戸締まりについて防犯教育をする。防犯教育が行き届いている人や地域社会は、犯罪に合いにくい。一方、無防備な人や地域社会では犯罪に合いやすくなる。
 このように考えると、防犯意識が高く、犯罪被害に合わない人や防犯活動が盛んな地域社会の住民にとっては、身の回りには犯罪がないが、治安の欲求水準が高くなり、社会全体として治安は悪化しているとの意識を持ちやすくなるではないかと考えられる。
 つまり、これまで犯罪被害に合わなかった人は、それなりに防犯意識が高たいために、体感治安について、自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化していると答えると考えられる。
 翻って考えると、体感治安が悪いという意識は、防犯意識の高さを測定していることになるかもしれない。
 しかし、この仮説が成立つためには、被害者学の知見を必要とする。例えば、犯罪被害にあった人と一度も犯罪被害にあったことのない人の間に、防犯意識や防犯態度において、差異があるか検証する必要もある。
 
 もっとも、重要なことは、防犯行為をしなくなったら、犯罪に合いやすくなるということである。防犯行為が犯罪防止につながるという単純な因果関係を無視して、治安悪化神話批判をしても意味がないことは確かである。それは、ちょうど、警察がいなくなり、刑務所がなくなると、どうなるのかそれを想像してみるとわかる。たちまち、犯罪被害に合う人が続出するだろう。
 要するに、治安悪化神話批判は、「治安は維持されるもの」すなわち刑事政策や防犯活動によって、社会的につくられたものであるという根本的認識を欠いた議論なのである。2002年から現在に至って、犯罪発生率が低下しているのは、警察官の増員と警察や地方自治体による防犯キャンペーンの成果によって、仮に治安は維持されるているからである。従って、警察や防犯活動に批判の鉾先をむける治安悪化神話批判論者は、根本的に間違っているのである。

 治安は、教育、福祉、経済、マスコミによってつくられるのではなく、機能主義社会学の観点からは、第一義的には国家の刑事政策システムによって、自己言及的につくられるのである。

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by merca | 2008-11-02 20:32 | 社会分析 | Comments(0)

治安悪化は本当である。


 浜井浩一が治安悪化していないと断言しているのは統計上、正しいとは言えないことを実証したい。
 
 戦後からの犯罪統計の犯罪発生率をよくよく分析すると、一般刑法犯の犯罪発生率は、1948年がピークで1999.91である。その後、減っていき、1973年に1091.21となり、最低になる。しかし、それ以降上昇し、2002年に2238.47となってピークとなる。そらから、突然下がりだし、2007年に1605.39となる。要するに、戦後間もなくは犯罪発生率は高く、治安が悪化しており、高度経済成長期を迎えて終わる頃には、戦後最低となり、バブル期やバブル崩壊後に発生率はあがりだし、治安が悪化し、2002年以降に突然下がりだす。強盗、強制わいせつ、傷害に特にこの傾向が認められる。窃盗、詐欺、横領、恐喝もほぼ同じような曲線を描く。ただし、殺人、強姦、放火は横ばいより減少気味である。いずれにしろ、戦後間もなくから1973年ころまでは発生率は低下し、治安はよくなっていたが、その後、発生率は上がりだし、治安が悪化し、2002年にピークを迎える。
 ここで、2002年以降に発生率が下がったのは、治安悪化を受けて国家が刑事政策として警察官を1万人増員し、職務質問が増えたことと関係していると考えられる。要するに、治安悪化は人為的に警察のおかげで抑制され続けているというのが妥当な見方だと思われる。放っておいたら、悪化していたのである。
 結論からすると、犯罪発生率に準拠して観察すると、治安は悪化し続けており、国家の刑事政策的介入が必要であるというのが、社会診断としては妥当である。
 反社会学講座も浜井浩一も芹沢一也の議論も、全体的事実からすると、事実ではなく、事実のある一部を選択化して構成された物語である。言わば治安悪化神話社会神話である。治安悪化神話社会神話に基づいて国家が刑事政策の手を緩めると、たちまち実害が国民に及ぶと考えられる。このことに気づかずに、治安悪化神話社会論を妄信して社会を論ずるブロガーは多い。
 
  参考
 ウィキペディアの日本の犯罪と治安
 各種データを参照されたい。


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by merca | 2008-10-04 13:33 | 社会分析 | Comments(1)

無差別殺人事件と善悪の基準

 あるニュース番組で、最近起きた通り魔無差別殺人事件の犯人がテレビ局に手紙を送っているというのがあった。その中で、善悪の絶対的基準は存在しないので、殺人をしてもかまわないという内容の文面があった。
 これは、犯罪社会学的には、相対主義・懐疑主義を利用した殺人の合理化である。論理的に殺人が悪いという道徳の正しさを証明することは不可能である。このことは、哲学の歴史を見れば、わかる。ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが善悪の基準は存在しなく、絶対的真理や絶対的善はないと豪語したのは周知のとおりである。
「殺人は悪である」という命題は、科学的には証明できず、近代で自己こそ真理であると豪語する科学主義者もお手上げである。科学は、存在と価値を峻別し、価値判断の問題は扱わないという。殺人防止について、科学は無力である。

 道徳は、内面化してこそ道徳として機能する。例えば、盗みをしたら、自己イメージが下がり、罪悪感を感じる人間は、きちんと道徳を内面化している。しかし、無差別殺人事件の犯人は、殺人をしても、自己イメージがさがるどころか、逆にあがっているわけである。
 通り魔無差別殺人事件の犯人たちは、果たして殺人が悪であるという道徳を内面化していなかったのだろうか? 多くの保守的論者は、内面化していないと捉え、道徳の危機を叫ぶ。しかし、実は内面化しているように思えてならない。内面化しているからこそ、合理化・正当化をするのだと。彼等は、「殺人は悪いことである。」という命題が正しいと証明されることを恐れているのである。もし証明されると、罪悪感に襲われ、瞬時に彼等の自我は崩壊するだろう。真なる許しは、その後に聖者たちによって告げられるだろう。
 「殺人は悪いことである。」という命題を認めつつも、自己の行為を合理化するために、「派遣会社が悪い」とか「善悪の絶対的基準は存在しない」とかという屁理屈をもって自己の罪悪感を無効化・中和化しようとするのである。これは、陳腐な犯罪者の使う常套手段である。

 合理化・正当化を徹底的に封じろ!! これが通り魔無差別殺人に対する処方箋である。
 
 ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが発した無責任な言説が、通り魔無差別殺人を起す地獄使者たちの犯罪動機を強化するように機能し、人の命が奪われるのである。ニーチェの罪は深い。また、統計的事実に基づくワーキングプア論や貧困論を唱える論者たちの言説も、この悪魔達の行為の合理化・正当化のために利用されているのである。
 殺人を合理化・正当化するための物語として機能する宗教思想、哲学思想、社会理論、科学理論には要注意である。自己防衛のために彼等は自己の物語を絶対化しようとする。
    殺人を合理化・正当化する物語を相対化せよ!!

  参考・・・「火の鳥 鳳凰編」の我王
       「ブッダ」のアンヒンサー
       「ブラックジャック」のドクター・キリコ
         これを読むべし

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by merca | 2008-09-15 10:26 | 社会分析 | Comments(0)

社会の創発

 利己主義という悪が善(利他)を生み出すことがある。悪が善を生み出すというのは、理論的には矛盾しているが、社会の創発の妙理からはありうる現象である。

 ある国が飢饉になって餓えた人たちが発生した。この国に、愛のない利己主義者の役人がいたとする。この役人のもとに、餓えた国民が援助を求めてきたとする。この役人は、規則に従って、一人の国民に対して、決められた量の食料しか与えなかった。従って、餓え過ぎた国民が泣いて余分に懇願しても、役人は規則を破らず、機械的に仕事をこなし、情など一切かけなかった。国の規則を破ると役人は罰せられるので、自己防衛=自己利益のために規則を守った。その結果、食料は満遍なく配給され、一人も飢え死せずに済んだ。もろちん、疫病や内乱があれば、結果は異なり、究極的には社会の創発は偶然である。(善の動機から善なる社会が生ずることを妨げるわけではない。)

 役人の動機は利己主義=悪であるが、役人の行為は社会全体レベルでは善を生み出している。道徳コードから観察すると、個の論理が悪であっても、全体の論理では善になる。同種のパラドックスはいくらでも見出せる。逆に、役人が情のある善人であり、全体性を予期せず、泣いて懇願する餓えた人に対して規定より多くの食料を与えて、そのために餓死者が多くでたとすると、この場合、役人の行為は全体レベルでは悪を生み出したことになる。
 さらにもう一ついうと、先の例で、役人は、全体性=社会を予期して行為するが、実は、この全体性=社会は物語であり、実体などない。ただし、行為することで、結果的に全体性は実在するようになる。つまり、社会という全体性なるものは、行為=実演することでのみ創発=起動されるものである。
 例では、役人と餓えた人のコミュニケーションの集積が、福祉社会を創発したことになる。しかし、一度、役人が異なった行為をとると、瞬時に福祉社会は消滅する。社会はつくられ、維持されることでのみ、仮に実在するのであり、本来、刹那滅的なのである。
 この点、非常によく誤解されており、社会がはなから固定的に実在すると錯覚している論者も多くおり、特定の区別を絶対視し、格差社会、学歴社会、資本主義社会などが不動の存在としてあると思い込んでいる。ちなみに、社会を不動の存在と観察する社会観を存在論的社会観あるいは社会宿命論という。
 ビートルズのイマジンではないが、全世界の人々が国境があると思って行動するから国民社会が作動するだけであり、もし全世界の人々が国境などないと思って行動すると、瞬時に国民社会は消滅する。

 ここでは、個の論理と全体の論理が異なることもあること、さらに行為あるいはコミュニケーションが作動して、はじめて社会という全体性が起動するという点を押さえておきたい。

  参考
 社会契約論や社会的選択論の欠点は、行為システムにおける役割行為の具体的内容を捨象していることである。一方、パーソンズの社会体系論では、個人の利己的欲求は社会的役割を通して満たされ、社会全体の秩序維持という善に貢献しているという観察がなされている。ロールズの正義論やセンの社会的選択理論は、個々の社会システムの役割内容を捨象しており、創発の妙理の極地まで到達できていない。経済学者や政治学者や法学者の社会理論は、創発の妙理を無視しており、社会理論としては不完全なのである。 
  

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by merca | 2008-08-02 10:42 | 社会分析 | Comments(0)

センの思想とハイパーメリトクラシー論

 ホームレス・貧困問題の権威である湯浅誠氏は、アマルティア・センの思想を基礎においているようである。同氏の「溜め」というキーワードは、センの潜在能力と機能的に等価である。
 さて、ここではセンの思想を評論したい。まずは、気にかかったのが、貧困は民主主義が十分に浸透していない結果であるというセンの分析である。センが民主主義を普遍的価値として宣揚しているのは有名である。センのいう民主主義は、自由な対話を重視しており、ハーバーマスのいうコミュニケーション的理性に似ているのである。
 しかし、ここで注意しないといけないのは、民主主義の適用範囲である。民主主義は、政治システムの一つであり、他の社会的領域への適用には慎重でなければならない。社会は、民主主義のみでは運営されていない。例えば、企業組織は、上下関係によって統制されており、民主主義では運営されていない。また、家族も学校も、愛情や校則で運営されており、民主主義では運営されていない。社会学の立場からすると、企業組織、学校、家族を全て民主主義で運営すると、社会は崩壊するであろう。そういう意味で、民主主義は普遍的ではない。民主主義は政治システムにおいてのみ適合的な統治形態であり、他のシステムには有効とは限らない。センは、政治システム優先主義者なのである。政治システムが他の全てのシステムを従属させているという社会観に準拠していると考えられる。マルクス主義のように経済システムに準拠して貧困を観察しないところが面白い。
 
 社会学におけるポストモダン論=機能分化論では、全てのシステムは対等になったと考える。成熟社会たる日本社会の貧困は、センの枠組みでは解釈できない。日本社会は、民主主義国家であるにもかかわらず、ホームレスやワーキングプアがいるからである。日本の場合、貧困の原因は、民主主義ではなく、教育システムにあると考えられる。そういう意味では、教育社会学者・本田由紀によるハイパーメリトクラシー論のみが成熟社会たる日本社会の貧困を分析する枠組みとしては有効ではないだろうか?

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by merca | 2008-07-27 10:49 | 社会分析 | Comments(0)