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情報学ブログさんへ(若干の回答)

情報学ブログさんが取り上げた私のブログに関するエントリーに論評を加えておきたい。
  「社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠」
 タイトルの書き方は、私のエントリーの書き方と似ている。相対主義がそんなに怖いかと思うが、このくらい大袈裟に書かないと、読者の気をひかない。エンターティメントとして観察すると、こういう表題を見ても、私は感情的にならない。さらに、ニセ科学批判者たちの批判を受けて慣れているからである。この点、ニセ科学批判者に感謝、感謝・・・!! 誠に、てーげーな状態なのである。

○ 情報学ブログさんもやはり相対主義である。
 情報学ブログにおいては、絶対的に正しい真理や道徳の基準は存在しないと考え、それをベースにして、原理主義を回避し、目的に応じて、異なる相対的視点を用いて議論されている。構造構成主義と同じく、絶対的に正しい真理や善悪は存在しないということを根本仮説として立てていることから、基本的に相対主義であると言える。つまり、相対主義を否定しては、情報学さんの考えは成立たなくなる。相対主義を原理として利用している。むしろ、そのような徹底した相対主義に立っているからこそ、原理主義に陥らず、臨機応変に対応することができる。私のように、相対主義者と宣言されたほうがすっきりとするのではと思う。
  参考
 私は、ニセ科学批判者の問題を、単なるニセ科学の被害のレベルではなく、ニセ科学批判者のもつ世界観及びそれに基づく自我の統合の在り方の問題として観察している。同じく情報学ブログさんの認識構造についても、同じようなレベルで観察させてもらっている。メタな視点なので、当人が自覚しているレベルと自ずと異なるかもしれない。当然のごとく、私の思想についても、他者の観察にさらされる他はないのである。目的が異なるからといって無視するかどうかで、議論は変わってくる。

○現代社会のあり方はどうなっているのか?
 相対主義が社会に既に蔓延しており、今更相対主義を唱えても意味がないという主張であるが、逆であると認識している。相対主義が蔓延しているのは一部のインテリ階層や日本の若者であり、全世界に行き渡っていると思えない。前期近代社会の段階の社会もあり、科学や民主主義が絶対的なものであると信奉している方も多い。近代化思想の絶対化である。非西洋は、もともと神仏習合など多神教的世界観=相対主義的感覚をもっており、後から来た近代化のせいで西洋の原理主義的思考が混入されてしまったというべきである。
 現代社会を日本の国民社会と捉えるのか、ルーマンのように世界社会として捉えるのかで異なると考えられ、成熟社会化している国民社会はまだ世界には少なく、原理主義的な思考はかなり多くある。また、欧米、西洋、イスラムは一神教の文化が根付いており、原理主義的文化を払拭するのは困難である。相対主義が行き渡っている階層に関しても、相対主義やニヒリズムに耐える力こそ必要であるのに、安易に科学主義などに陥っている。

○ニセ科学批判者にメタな視点はない。
 多くのニセ科学批判者は、宗教、占い、オカルトなどニセ科学でない領域まで批判する。菊池氏にこそその本質が伺える。菊池氏は、江原氏のスピリチュアルを批判している。科学的事実のみが正しいという科学原理主義の発想をとらないと、このような領域侵犯は起こらない。また他者を強く批判し、他人のブログに侵入してくるなど、絶対的な自信がないとできないことである。ニセ科学批判を布教するコミュニケーション形式から判断して、科学原理主義者である。菊池氏には、メタな視点はないと考える。多くのニセ科学批判者は、相対主義を毛嫌いしており、自らのうちに相対主義を取り込み、生かそうとする態度が認められない。

 基本的に情報ブログさんの観察もありうるので、否定はしませんが、私の他に相対性原理主義者がいるかどうか教えてもらいたいです。いなければ、数少ない立場として希少価値があるので、当分、この立場を利用させていただくことも視野に入れています。

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by merca | 2010-09-05 12:17 | 他ブログコメント | Comments(9)

ニセ科学批判は科学ではない?

他ブログの私のコメントです。ニセ科学批判者を科学主義者として観察するよりも、道徳主義者として観察してみた方が面白いと思いました。

http://blog.livedoor.jp/eastcorridor/archives/51149848.html#comments

 ニセ科学批判者は、事実判断のレベル=科学としてニセ科学批判をしているというよりも、自分たちの道徳観による価値判断によってニセ科学批判をしていることに気づきました。本来、自然科学は社会科学同様に事実判断のみに関わり、道徳の問題=価値判断は括弧に入れておき、公平性や中立性を保つものですが、ニセ科学批判はそうではないということです。前から科学的・客観的であるはずなのに主観的な価値判断による感情的表現が混入しているのが不思議だと思っていましたが、自分たちの道徳的価値観を他者に伝えることが目的だったというわけですね。主観的・感情的な表現が入ると、科学としての客観性を損なう発言になると、eastcorridorさんは危惧されていたわけです。主観的感情を表明して批判する菊池氏らニセ科学批判者は科学者としてではなく、道徳家や思想家としてニセ科学批判をしているということです。そうなると、「ニセ科学批判は科学ではない。」「ニセ科学批判者は道徳主義者」をもっと多くの人たちに理解してもらうことが必要ですね。科学者の仮面を被った道徳主義者という視点は非常に新鮮です。

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by merca | 2009-01-15 23:14 | 他ブログコメント | Comments(1)

宮台氏を弁護


他ブログでのコメントです。
 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070626/1182863059
真理観の相違

 いつも言いますが、真理観に差異があります。これを自覚しておかないと、議論がかみ合いません。安原さんたちは、対象と認識の一致という自然科学的真理に立脚しています。つまり、社会を自然のように必然として観察する立場です。

 宮台社会学のようなシステム論的視点では(私も究極のラディカル・システム論者ですが)、社会という対象を必然の相ではなく、複数の自由意思どうしの関係で創発されたものとして偶然の相で観察します。人間の相互作用によって社会はつくられたものであり、偶然の産物であるという感覚です。偶然に対しては因果法則ではなく、解釈としての物語が有効になります。社会理論も社会に対する一つの物語にしかすぎません。というよりか、物語としての機能を持ちます。物語は演じられることで、本当になり、創発されます。そのように割り切ることで、対象と認識の一致という真理観に基づく科学主義者と折り合いをつけます。二つの真理観は、同等の価値をもちます。

 社会は自然のように天から与えられたものではなく、社会は人間がつくったものですから、認識するという類のものではなく、参加して演じてつくるというほうが適切ですね。これは開き直り出はなく、一つの分別・区別です。もちろん、社会を実体視する社会理論や社会思想もありますが・・・。

 私は、ブログではメタ理論を書いていますが、実際のところ、社会学における質的調査を重視する臨床社会学あるいは社会病理学の立場に立っています。

 後藤さんや安原さんたちにしても、統計だけでなく、例えばホームレスや累犯障害者と直接話して面接調査し、その内面的な意味世界を記述し、理論化していく作業をなされたのか疑問をもっています。統計的現実は学者によってつくられた二次構成物であり、むしろ直に調査対象と接して生の現実を観察されることをお勧めしたいですね。原爆を例に出すのも変ですが、統計だけではキノコ雲の上だけ見てその下の悲惨な現実を見ない立場です。死者の数という統計だけでは原爆の真実は伝わりません。

 初期の宮台真司は、援助交際少女を対象としたインタビュー調査・質的調査を重ねた上で、議論していたようですね。それが説得力があったのだと思います。

 理論社会学の本を読むと、確かに具体的事実にどう当てはまるのか、一体、何のことを指しているのかわからない場面によく出くわします。ベックに限らず、ルーマン等はその典型かもしれませんが、ヘーゲルの法哲学を読むのと同じ感覚で読んでいます。伝統的な西洋哲学の知識なしに、理論社会学を読むのは困難かと思われます。ドイツ観念論の基礎を勉強してからのほうがいいかもしれません。

 欧米の社会学者だけが進んでおり正しいという先入観を捨て、もっと日本人の社会学者も勉強したいですね。そういう意味では、マクロ論理においては、富永健一の社会学だげが、唯一、概念の精緻さからして、科学として扱える可能性があると思っています。(科学だけが正しいと思っていませんが) もちろん、あまりにも質実剛健で地味なので、目立ちませんが、宮台社会学に比べると、はるかに歴史的な事実に根付いています。ポストモダンの論客はあまり目にとめていないようですがね。

 おっしゃるとおり、統計調査と質的調査は、本来、相互補完的なものですね。特に、統計調査の違和感、例えば擬似相関関係は、質的調査によって見破ることができる可能性があります。

 今、擬似科学批判者や後藤氏など、事実志向の論客が増えています。そこで,それに関連して興味あるのは、ブルデューです。彼は、統計調査を駆使して、社会を分析します。抽象的な理論社会学やポストモダン論を床屋談義として否定する後藤氏や安原さんたちの思想的潮流が、ブルデューをどう評価するのか興味あります。ブルデューに依拠したネット論客の登場を期待しています。


  参考
 例えば、援助交際の分析は、警察官や家裁調査官や保護観察官などが頻繁にその類の非行少女と接しており、膨大な量的・質的データをもっている。研究の仕事の関係上、上記のような非行専門家たちに尋ねたところ、宮台の説は違和感なく受け入れられた。後藤氏が援助交際少女と面接して調査せずに、統計だけを絶対視して、宮台氏をやみくもに批判するのは、臨床的な実証性にかけているのである。
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by merca | 2008-01-22 09:09 | 他ブログコメント | Comments(1)

いじめの構造

 「いじめの構造」という本を買いました。
 スクールカーストといじめを結合させたいじめ論です。
 当ブログにコメントをいただいた教育評論家の森口朗さんの著作であり、さっそく森口さんのブログにコメントしました。
 http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20070530#c1182556211

 詳しい書評については、また書きたいと思います。個人的には、いじめ集団論に合理的選択理論を適用したのが画期的だと思います。合理的選択理論の社会学者・太郎丸氏ですら、それはしていないように思えます。社会学者たちにとっては、先を越されたと言っても過言ではないでしょう。臨床社会学者にも見てほしいです。
 また、内藤朝雄氏が森口氏にどのようなコメントを出すか非常に興味深いです。
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by merca | 2007-06-23 09:26 | 他ブログコメント | Comments(0)

ブログ予告

 放浪の社会学コメント屋・論宅です。
  また、安原さんのところで、コメントさせてもらいました。
 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10035317539.html
 少し社会学者・鈴木謙介氏の「ウェプ社会の思想」を精読せずに、コメントしたので、安原さんに迷惑をかけました。ということで、鈴木氏の同著の評論はしっかりとしていこうと思います。
 あと、「宮台による癒し」をテーマにし、柄谷行人との比較をしたいと思います。

 今後の研究テーマとしては、実証的に道徳規範意識といじめ・非行犯罪との関連性がないことを証明しいたいです。社会学や心理学や教育学を専攻する大学生・院生で、そのような調査をしたことがある人は、調査結果を教えて下さい。

        読者の皆様 よろしく御願いします。
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by merca | 2007-06-03 14:20 | 他ブログコメント | Comments(0)

道徳的責任といじめ

 また、他ブログにコメントしました。法哲学のシステム論者のバベルさんのブログです。
http://ameblo.jp/tower-of-babel/entry-10028392579.html
 道徳がいじめの原因
 はじめまして 放浪のブログ・コメント屋・論宅と申します。  
 責任感覚つまり道徳規範を内面化することが、即いじめの防止につながるとは思えません。
 むしろ道徳こそがいじめの原因である場合もあります。というよりも、臨床社会学的には、いじめは一種の道徳的行為です。いじめは個を超えて創発された集団現象=相互作用システムです。仲間集団の役割行為として遂行されます。仲間集団にとっては、いじめることは集団を維持するための道徳的行為です。集団にとって気に食わない者を差別したり、いじめることは仲間から賞賛されます。逆にいじめなかったら自分が非難されます。また、全体社会のレベルでは、道徳を内面化した善良な市民ほど、国家の方針に従い、敵を差別・排除します。現代社会でも、社会学者・芹沢一也氏が指摘するように、道徳的観点から犯罪者いじめ(排斥)が行われています。責任感覚つまり道徳規範の内面化によって、いじめはよけいにはびこるおそれがあります。
 
 社会学者・内藤朝雄のいう中間集団全体主義に蝕まれた社会では、個々人がいくら善良であっても、いじめや差別という社会病理現象は集団・組織内で生じます。ちょうど、普段は善良な日本市民が、戦前、国家が全体主義化したとたん、朝鮮人を差別・迫害したように・・・。
 
 そういう意味からも、いじめを個々人の内面的な道徳による責任論や心の次元で解決しようとしても無駄です。全てが善人からなる社会でも、社会の在り方が中間集団全体主義であるのなら、いじめは生じるであろうし、善良(道徳的)であればあるほど、差別をすることになるでしよう。「いじめをやめよう」というスローガンを心の教育や道徳教育として子供に伝えるだけでは意味がありません。
 1人1人の心が変われば、社会も変わるという綺麗ごと=方法論は、嘘です。社会は個人の心に還元されませんから。
 道徳コードに準拠した責任論も、かえって、いじめを再生産しないか心配です。むしろ集団で生じる道徳という暴力をどのように飼いならすのかが課題です。いじめの本質は、集団現象たる道徳による暴力です。
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by merca | 2007-05-15 21:09 | 他ブログコメント | Comments(3)

貧困問題はつくられる。

 最近、他のブログにコメントするのを怠っていましたが、他ブログにコメントしました。(相対的)貧困や(相対的)幸福感そのものが構築されたものであるという前提のもとにコメントしました。(つくられたもの/つくられざるもの)という区別で貧困を観察すると、相対的貧困は他者との比較によって構成されたものであり、絶対的貧困は生命維持に関わる構成されざるものとなります。新進気鋭の社会学者・堀之内進之介氏が宮台氏らと「幸福論」という新刊を出しましたが、幸福も同じです。社会学者自身がいかに幸福という社会的構成物をつくるのか関心があります。ちなみに、絶対幸福というのは宗教が想定する超越論的なものです。この書物については、非常に興味有りますので、随時、評論していきたいです。

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10030005939.html#c10046708713
放浪のコメント屋・論宅です。安原さん 久しぶりです。後藤さんのコメントに関心があります。
 貧困や幸福感の問題ですが、やはり比較の問題を抜きにしては語れないと思います。幸福感や満足感は常に誰かとの比較でつくられます。多くの場合、自分達よりも上の社会階層が比較の対象となります。つまり、階層格差を前提として、相対的に貧困を感じ、不満足感から幸福でないと感じます。現実にあるのは、相対的貧困・相対的幸福感であり、階層格差を前提としています。逆にいうと、マスコミが格差社会論をリアルなものとして宣伝し、人々がそれが本当だとまともに受けとめると、貧困感を増長させ、幸福感も低下します。
 プチ貧困というのは、相対的な貧困のレベルをさすのではと思います。生命維持に関わる絶対的貧困との区別が今後の課題だと思われます。後藤さんのコメントに付け加えると、貧困も相対的である限り、つくられたリアリズムだと思います。
 安原さんが問題にしているのは、ホームレスに見られる餓死などの絶対的貧困のことではないでしょうか?
 追伸
 上記の議論と関係しますが、新進気鋭の社会学者・堀之内進之介氏が宮台氏らと「幸福論」という新刊を出しました。過剰流動性がもたらす不安を前提として幸福について議論していますが、床屋談義ならぬ居酒屋談義になっていないか論評したいです。
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by merca | 2007-04-15 12:17 | 他ブログコメント | Comments(0)

弱者保護という道徳

また、他ブログでコメントしました。

http://yosoikitrablog.blog.shinobi.jp/Entry/29/#comments

はじめまして ブログコメント屋の論宅と申します。興味深く読ませていただきました。
 
 弱者は守るべきであるという思考形態=道徳観念(強者/弱者という区別)に基づく解放運動が、差別を再生産するという社会的逆説に興味あります。

 この図式は、女性問題だけではなく、障害者問題、子供の人権問題、老人問題、犯罪者問題など、様々な社会問題に応用可能か分析したいです。
 差別解放運動の根拠を(強者/弱者)という区別ではなく、(当事者の利益/非当事者の利益)という区別(利害闘争)に求めたほうがいいのかもしれません。

 ただ、当事者の利益に解放運動の根拠を置くと、当事者のエゴイズムだと思われ、非当事者=多数の人々を味方につけることができなくなります。そこで、当事者を味方につけるために、道徳が利用されます。それが弱者は守るべきという道徳です。この道徳は、左翼も右翼も共有しているため、かなり強力であり、モラルパニックを起こす力をもってます。今回の厚労相の発言に世間が道徳的に憤慨するのは、一種のモラルパニックだと思います。
 
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by merca | 2007-02-11 10:47 | 他ブログコメント | Comments(0)

規範主義パラダイム

論宅のコメントです。
 治安悪化が道徳の崩壊に基づくという前提を相対化しました。
 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10023779008.html
 
実は、治安悪化と道徳を結合させる思考形態は、社会学でも一般的でした。
 社会秩序を保っているのは、究極的には、人々が共有している共通の価値規範であるという理論です。これは、規範主義パラダイムと呼ばれており、パーソンズ社会学にその典型を見て取ることができます。道徳=価値規範=良心などによって、全ての社会現象を説明しようとします。犯罪も、貧困とか社会階層や生活環境に原因を求めるのではなく、規範意識の問題に還元しようとします。
 最近の社会学では、人々が共有する価値・規範によって社会秩序が保たれているとする規範主義パラダイムは、否定されています。
 何ら共有の価値・規範がなくても社会は回るとする説が出てきました。ルーマンの社会システム論がそれです。また、宮台の権力の予期理論もその系譜に属します。
 道徳オヤジにも、全ての社会問題を価値規範(善/悪)から観察しようとする傾向が認められます。社会学者・北田暁大によると、(善/悪)コードは、形式的には、状況=社会的文脈を超越して、どんな問題や現象でも観察できる特殊なコードであると分析されています。床屋談義のコードですね。善悪・好嫌・損得などの価値コードの一般的特徴です。
 「道徳の崩壊→社会秩序崩壊・治安悪化」という過った現状認識に基づき、価値コードで観察しているところが滑稽ですね。
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by merca | 2007-01-20 07:14 | 他ブログコメント | Comments(0)

社会問題はつくられる

犯罪不安社会論を提唱する芹沢一也氏。その強力な編集者・安原さんのブログで、いつものようにコメントしました。
 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10022908805.html


   放浪の社会学コメント屋・論宅のコメント

         社会問題はつくられる
 論宅です。
 社会構築主義の観点からは、社会問題は、社会問題として出来上がった時点で、すでに特定のイデオロギーや目的や利害が刷り込まれてしまっています。社会問題化することそのものが、クレーム申し立てを行った団体や当事者の利害や思想から観察して構成されたものであるからです。
 一度、出来上がった社会問題が暴走しないためには、社会問題化した視点そのものを相対化し、別の観察点から再構成・脱構築していく必要があるでしょう。その際、様々な学者や政治家が社会問題を自己の立場や目的から観察・解釈し、自説を正当化するための道具とします。しかし、利用の力学は、当初から社会問題化した視点に取り込まれていた視点を相対化する役目も担っています。
 そういう意味では、芹沢氏の犯罪不安社会論や教育社会学者の本田さんのニート分析も、社会科学のコードである(科学的真実/虚構)という視点=区別に準拠した治安悪化問題やニート問題の再構成・脱構築の営みの一つであると言えます。
 社会問題を利用するのは政治家や官僚のよくやることですが、様々な観点から社会問題を相対化し、人々に示すのが学者の役目です。
 ただ、一般の人々は社会科学者と同じ区別に基づいて社会問題を受容するわけではありません。生活上の利害に準じ、自分たちの不安を投射して社会問題を受容します。真実がどうであれ、少しでも自己の生活の不安を減らしたいという意識や目的があり、それにマスコミがのっかているような気がします。
 ちなみに、昨日の毎日新聞の体感治安悪化問題の記事では、人々が不安を感じているという観点から統計的なデータの解釈をしています。統計が先にあるのではなく、先に不安から出発して治安悪化問題を構成しているように思えました。
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by merca | 2007-01-10 22:13 | 他ブログコメント | Comments(3)