カテゴリ:ニセ科学批判批判( 60 )

仲正昌樹によるソーカル教批判の甘さ

 哲学者・仲正昌樹氏がニセ科学批判者たちのことをソーカル教と呼んで批判しているが、変な議論になっている。

  「ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち」
   http://meigetu.net/?p=3065
 
 仲正昌樹氏は、ニセ科学批判者たちの価値観とネットコミュニケーションの傾向を全く理解していないために、かなり勘違いをしている。というようりか、ニセ科学批判という巨大なネットジャンルが存在することを知らないと思われる。そのために議論に深入りしてしまっている。
 宮台氏、大澤氏、東氏ならニセ科学批判者たちを無視して流すところを真剣に議論しようとしている。この時点で、仲正氏はネット議論で負けである。ニセ科学批判者たちの怖さを知らない。これまで、何人もの相対主義の学者が潰されている事実を知らないのである。
 
 仲正氏は、ポストモダン論者が自然科学理論を借用するのは比喩としてだけであり、本質的な部分とは関係ないと考え、ソーカルのポストモダン論者への批判は、的を得ていないと断言している。
 そして、案の上、ポストモダン論者における自然科学理論の借用は比喩としての利用であり、本質的でないとする仲正氏のソーカル批判に対して、ソーカルを信奉するニセ科学批判者たちが噛み付いてきたのである。
 
 社会学を学んだ私からすれば、ソーカルの根本的間違いはそんなところにあるのではなく、単に思想と科学の区別ができなかったところにある。思想は、対象と認識が一致する知識を目指しているわけではなく、人々に流布し、自我統合と社会統合を機能を果たせばよいのである。思想は物語でもよいのである。ニーチェの哲学はまさしくそれである。一方、近代社会においては、科学は、対象と認識が一致する実証的知識を提供する役割を担っており、(真/偽)のコードに準拠している。近代社会で唯一信頼されうる知識体系である。
 
 ソーカルは、思想と科学を同レベルのコードで認識していたのである。社会システム論的にいうと、社会的機能の混同である。ポストモダン思想はあくまでも思想であり、科学ではないので、真偽で区別する必要はない。思想と科学の混同こそがソーカルへの正しい批判である。また、哲学も世界の観察道具であって、科学のように具体的対象に対する知識そのものではない。ソーカルには、観察道具と事実的知識の混同も見受けられる。
 ソーカルを批判するのなら、科学と思想の機能の混同、科学と哲学の機能の混同、つまり社会的カテゴリーの混同を指摘した方が効果的である。

 ともあれ、哲学者・仲正氏は、正規の学者たちが太刀打ちできないほどに集積された知識体系たるニセ科学批判という現象がネットにおいて自然発生し、一部のニセ科学批判者においては既存のアカデミックな学システムに属する学者から学術的知識についての真偽の決定権を剥奪するほどの知的能力を所有していることをわかっていない。
 ここで、仲正氏に告ぐ。今から勉強したまえ。私のブログにあるニセ科学批判の分析記事を閲覧したまえ。早く学習しないと、大変なことになるぞよ。
             同じ相対主義者としての忠告
                        論宅より

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by merca | 2015-08-28 21:40 | ニセ科学批判批判

生命体の根源的偶然性を解釈する数学神話=確率論

 複数の要素が組み合わさり、要素に還元できない一つの性質を生み出す現象を創発という。そして、創発された性質のことを創発特性という。創発特性として現象を捉えると、要素は取り替えがきくことになる。例えば、生命体を一つの創発システムとして捉えると、細胞は新陳代謝しており、常に取り替えられており、一つの細胞を入れ替えても、生命体は死滅しない。
 また、臓器移植が可能なのは、生命体が要素に還元されないシステムだからである。一般に、この取り替え可能な要素の働きのことを機能的代替項目という。同じ働きをするのなら、別の同じ働きをするもので置き換えることができるという発想である。
 例えば、義足や義歯などの人工物であっても、同じ働きをするのなら、足や歯の代用物として生命体システムを支えることになる。ある意味、要素の取り替え可能性は、創発特性が実在する根拠となるのである。これは、社会システムでも同じであり、同一の機能を果たす行為やコミュニケーションがあれば、取り替え可能である。例えば、組織体システムでは、社長が変わっても組織は存続するわけである。取り替え不可能なのは、要素でなく、創発特性たる全体性だけである。取り替え不可能な全体性があるからこそ、取り替え可能な要素があることになる。
 
 一つの創発特性は、確かに個々の要素には還元されないが、複数の要素が担う機能=役割の相互関係によって、維持されていることがわかる。その意味からすると、単純に考えると、創発特性という結果は、一応、複数の要素の働きから合成された多原因から発生したと記述できる。
 しかし、生命体が単なる複数の要素から合成された複合物であると捉えるであれば、実在するのは個々の要素であるという要素還元主義の亜種にしかすぎなくなり、複数の要素を確定すれば、必然的にその複合物という結果を類推できることになる。このような要素還元主義的な自然科学的思考は、物理学の世界では妥当かもしれないが、生物学や社会学の世界の説明原理としては不十分であるばかりか誤謬となる。
 そもそも複数の要素を原因として見なすことは妥当かという疑問も出てくる。要素に還元されない全体が、自らを維持するために、要素を選択しているという図式も成り立ちうるからである。つまり、因果関係を逆転し、結果こそが原因をつくりだすというふうに読み込む必要がある。端的に言うと、目的ー手段図式による解釈である。目的ー手段図式に従えば、結果は目的であり、原因は手段である。物理世界の因果関係を利用して、特定の結果を得るために、手段を選択するわけである。
例えば、生命体は外部から栄養を摂取し、自らを維持しているわけであるが、この現象を記述する際に、因果論的な記述ではなく、目的ー手段図式による解釈も可能である。
 因果論的な記述=要素還元論的記述をすると、外部から摂取した栄養が原因で生命体システムが維持されるという結果をもたらすというふうになる。
 片や目的=手段図式による記述=創発論的記述をすると、生命体が自らを維持する目的が根本原因となり、自らを動かして、外部から栄養を摂取して体を維持したという結果をもたらしたことになる。
 後者の記述のほうが、生命現象を捉える上で、説明能力が高いのは一目瞭然である。
 また、例えば、環境の変化によって、栄養を補給できない時には、栄養を摂取する代わりに冬眠のように一時的にエネルギー代謝を控え身体活動を休止するという選択肢によって、生命体維持の手段とする場合がある。生命体維持という目的を遂行するために、栄養摂取と機能的等価な別の選択肢を採用することもあるのである。
 つまり、生命体システムにおいては、一つの結果をもたらすのに、一つの原因が対応するわけではない。進化論は、自己選択性を前提としている。栄養摂取の手段として肉食と草食は機能的等価であるが、肉食を選択するか草食を選択するかは、種の進化にとって、必然的ではない。そもそも、物理世界から生命体が発生したのは、必然ではない。
 
 生物学では、物理学と違って、因果関係の特定は、容易ではないばかりか、選択性原理が働いており、そもそも不確定である。つまり、極論かもしれないが、ある状況において、目的のために、どの手段を選択するかは、個々の生命体の任意ではないかと考えられるわけである。人間の自由意志とは次元が異なるが、生命体は機械ではなく、自己選択性をもっているのである。同じ状況におかれても、同じ手段をとるとは限らず、厳密な因果関係が成り立たないというわけである。
 
 生物体が、そもそも自然界の複数ある機能的等価な因果法則から一つを選択・利用し、自らの目的を遂行する存在であるのなら、物理学のような単純な因果関係に基づいた分析は却下される。
 そして、人間という生物体に関する病理学としての医学には、要素還元論的な自然科学的手法は成り立たない。
病気とは、生命体の機能障害である。その機能を補う別の要素の働きによって代替できるのなら、治癒するのである。生命体という存在を要素還元論的因果図式で模写しようとする科学的手法は、間違いである。生命体という存在はシステム論的な目的-手段図式で模写することで、認識と対象が一致した記述になるのである。
 
 真理の対応説の観点からしても、生物学や医学の分野においては、単純な因果律を使用する科学的認識は誤謬である。要素に還元されない全体性が現象の原因となっているのが真実なのに、要素が原因と勘違いしているからである。そもそも生物学やその病理学としての医学においては、生命体に自己選択性があるために、厳密な意味での科学(自然科学を模範とする科学観)は、成り立たないのである。全ての個体に効く薬は存在しないのである。薬を効くように利用するかしないかは、個体の自己選択性にかかっているからである。薬の効用は、多くが効いたという確率の問題にしかすぎないのである。確率は科学の手段であるが、科学そのものではない。エビデンス主義は科学主義ではなく、確率論絶対主義である。
 
 ちなみに、生命体機械論を唱えるのではなく、生命体の自己選択性に生命体の生命体たる所以を求めるのなら、そこに新たな神学=生命学が成り立ち、医学上の奇跡と言われるものの説明領域となるであろう。医学ではメカニズムが不明な現象は多いが、それらは全て生命体の自己選択性という神学の領域によって処理・説明されることになるであろう。メカニズムはあったとしても、究極的にはそのメカニズム以外の機能的等価なメカニズムを選択することも、生命体にとっては可能なのであり、究極的に神学的領域を排除することは不可能である。これを生命体の根源的偶然性(自己選択性)と呼ぼう。この生命体の根源的偶然性にもっとも敏感であったのは、ブラックジャックの作者・手塚治虫医師なのである。
 
 生命体の根源的偶然性の領域は、因果律を標榜する科学主義の適用外であり、神話の領域である。そして、実は、エビデンスに基づく確率主義こそが生命体の根源的偶然性の記述方法の一つなのである。なぜなら、多くの個体の自己選択の数をカウントしたのが確率であるからである。世界が本当に必然ならば、確率はいらない。偶然だから確率になるのである。メカニズム不明である生命体の根源的偶然性の領域が、エビデンス主義=確率論という数学神話によって解釈されているのである。ちなみに、生命体の根源的偶然性の領域は、確率論ではなく、別の神話によって説明することも可能である。聖書の創造論もダーウィンの進化論も機能的等価な神話である。どの神話を採用するかは、社会の合意によって決定されるだけである。

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by merca | 2013-06-15 10:51 | ニセ科学批判批判

スピリチュアルペインによるうつ症状に薬は効かない。

 スピリチュアルペインという痛みが存在し、それを治癒するための学会までもある。医師日野原重明氏が理事長をする日本スピリチュアルケア学会である。
 スピリチュアルペインとは、身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛ではなく、それらを超えた霊的苦痛のことを意味する。具体的には、不治の病や死期を迎えつつある時に感じる、自己の存在価値の消失に伴う苦痛のことである。また、愛する人の死に際する遺族の喪失感もスピリチュアルペインに含まれる。殺人事件の被害者遺族を襲う苦痛は、精神的苦痛ではなく、スピリチュアルペインである。
 スピリチュアルケアの第一人者である村田氏によれば、スピリチュアルペインは、カウンセリングや薬では治癒せず、傾聴等による気づきによって治癒するという。
 スピリチュアルペインは、うつ病の際にも、発現することがある。うつ病患者は、生きる意味がわからない、自分には価値がないという思いに苛まれ、苦痛を感じる。うつ病患者のこのようなスピリチュアルペインは薬やカウンセリングでは治癒しないのに、精神科医は投薬治療で治そうとする。自己肯定感の喪失によってうつ症状が出ている人に対して、投薬治療をし、薬漬けにする医師は最悪である。
 
 スピリチュアルペインによる苦痛は、薬やカウンセリングのような科学的処方箋ではなく、傾聴することや宗教や哲学による気づきによって治癒されると考えられている。私見であるが、音楽等の芸術を通しても、気づきにつながれば、治癒するかもしれない。例えば、パッヘルベルのカノンを聞くとスピリチュアルペインが和らぐのである。手塚治虫の火の鳥で治癒する人もいるかもしれない。魂に響く芸術もスピリチュアルペンインの一つの処方箋となる。
 
 スピリチュアルペインの正体について、システム論社会学から分析すると、生物体システム、心理システム、社会システムのどれにも還元されないシステムを想定するしかない。社会学では、唯一、パーソンズの想定したテリックシステムがそれに該当すると考えられる。ライプニッツのモナド論、スピノザの無限、仏教の事事無碍法界の思想、レヴィナスの他者論なども魂の次元の論理である。
 
 ともあれ、脳の機能障害に還元できない苦痛によるうつ症状を脳の機能障害と勘違いし、投薬治療する精神科医ほど罪な存在はない。スピリチュアルペインによるうつ症状は、抗うつ剤よりも、哲学、宗教、あるいは神曲であるパッヘルベルのカノンのほうが効くのである。
 スピリチュアルペインは、科学の対象ではなく、形而上学の対象であり、医学等の科学的処方箋は通用しないのである。医者たちは、医学の外で苦しむ者を医学で救おうとする愚者となっていないか自問する必要がある。かのブラックジャックにもこのテーマはよくでてくる。
 
 さて、魂の次元の痛みを対象とするスピリチュアルケア学会は、トンデモやカルトだろうか? おそらく、ニセ科学批判者は、トンデモやカルトと見なさないだろう。なぜなら、新興宗教ではなく、排他性のない既存宗教の信頼できる人たちが唱えているから、そうは見なさないだろう。同じことでも新興宗教が主催しているとトンデモやカルトと見なすのがニセ科学批判クラスタの選定基準だからである。
 
 ともあれ、魂の痛みを心身の痛みと勘違いし、痛みの原因を脳の機能障害と断定する医者こそニセ科学の人となるのである。全国自死遺族連絡会の調査で自殺者の7割が精神科を受診していたという事実もあるが、自殺願望や希死念虜というスピリチュアルペインを脳機能の障害と勘違いし、投薬治療を行った精神科医の罪は大きいと言わざるを得ない。時代は、医者自らが非科学であるスピリチュアルケアを重視する方向に進みつつある。

  参考記事
  鬱病の苦悩
  http://mercamun.exblog.jp/8140415/
 
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by merca | 2013-04-21 21:58 | ニセ科学批判批判

内海医師の精神医学批判への批判は、ニセ科学批判批判となる!!

 私は、先のエントリーで、内海医師の精神医学批判がニセ科学批判であると認定した。その理由は、以下のとおりである。

 理由
 内海医師のいう精神医学(薬物治療)はニセ科学の定義に合致している。そして、内海医師はそのような精神医学に対して批判を行っている。それ故、内海医師による精神医学批判はニセ科学批判である。

 私が採用するニセ科学の定義は、第一世代のニセ科学批判者たちが作成した定義に基づいている。
 「ニセ科学批判まとめ%作成中」
 http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/14.html
 同サイトの定義によると、

条件その1 
「科学でないもの」のうち、反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学)に該当する。内海氏の指摘に従えば、精神医学における薬物療法の根拠であるセロトニン仮説は、すでに否定された仮説である。

条件その2
「科学を装っているもの」にも該当する。次のうちに一つでも該当すればよいという。

1 情報の発信者が科学だと誤解させる意図を持っているもの。
 
 通常、近代医学は科学であるが、近代医学の1部門として精神医学が存在することになっている。大学に精神医学という学問が科学として存在している。
 薬物療法の根拠であるセロトニン仮説が間違った科学であるにもかかわらず、多くの医者がそれが科学的に正しいと宣伝している。医者自身が間違った科学だと思わずに科学と思って誤解し、その誤解に基づいて患者に指示する。社会ぐるみの誤解であり、「精神医学は科学である」というのは迷信と機能的等価である。

2 通常の理解力と常識をもってしても科学であると誤解しうるもの。
 
 医学を知らない一般人は、当然のごとく、精神科医の治療が科学的根拠に基づいていると信じているわけであり、だからこそ精神状況に変調を感じたら精神科医を訪ねる。

3 実際に誤解した人が無視できない数存在すること。
 精神病患者の数だけおり、その数は膨大である。

 このように「ニセ科学批判まとめ%作成中」というニセ科学批判者たちのバイブルに従うと、精神医学の薬物治療は、条件1と条件2に該当し、ニセ科学ということになる。セロトニン仮説に基づいて投薬治療を患者にすすめることは、間違った科学であることがわかった後も「間違いではない(可能性がある)」と強弁していることになり、ニセ科学となる。

 しかし、このように内海氏の精神医学批判がニセ科学批判に該当するにも関わらず、どうやらニセ科学批判クラスタにとっては、ニセ科学批判として見なすことに反対であることが明確になった。私が考えるに、それは以下のような理由によると考えられる。

1 ニセ科学批判認定権の独占化

 社会コミュニケーション論的には、今回の精神医学批判=ニセ学批判であるという発見が、ニセ科学批判批判者である私こと論宅を介して発せられたことにより、先入観を持つニセ科学批判クラスタたちが拒絶反応を起こし、同調しなかった。
 もしこれがニセ科学批判顧問の菊池氏やニセ科学批判クラスタのリーダーのNATROM氏から発せられたのであれば、すぐさまニセ科学批判として認定され、幅広く流布し、ホメオパシーどころではなくなり、内海氏の精神医学批判活動の追い風となったであろう。
 社会心理学におけるコミュニケーションの二段の流れ説からすると、オピニオンリーダーの解釈評価に左右されることになるわけである。つまり、何がニセ科学であり、何がニセ科学批判であるかという認定権は、ニセ科学批判クラスタのオピニオンリーダーたちに握られているのである。その意味で、様々な論者が自由にニセ科学批判をする権利はなく、ニセ科学批判の自らの思想的可能性を狭めている。
 ちなみに、あまり知られていないが、実は、私もニセ科学批判をしたことがある。バクスター効果、人工意識に対するニセ科学批判である。

2 ニセ科学批判はいつも正しくなければならないという固定観念。

 科学が間違うことがあるのと同様に、ニセ科学批判も間違うことがある。間違ったニセ科学批判もニセ科学批判である。(内容/形式)という区別に準拠していうと、非科学であるにもかかわらず、科学を装うものを批判するという形式的定義に合致すれば、ニセ科学批判となる。仮に内容的に内海氏の精神医学批判が間違っていも、形式上、ニセ科学批判となる。
 はなからニセ科学批判は内容的に無誤謬であるべきであるという必要はない。民主的に、議論の上、結論を出せばいい訳である。ニセ科学批判クラスタたちが、はなから自己のニセ科学批判は正しくなければならないという固定観念があるために、自分たちが間違っていると思うニセ科学批判を排除してしまっている。内容が間違いであろうがなかろうが、形式的・手続き的にはニセ科学批判であれば、内容はあとの問題なのである。
 ニセ科学批判が絶対主義だと批判を受けるのは、このような理由にもある。正しくなくても、ニセ科学批判に分類されるものをニセ科学批判として組み込む包容力にかけているのである。

3 ニセ科学批判クラスタのニセ科学批判の目的は、既存の科学的権威による秩序維持であるため。

放射能被害についてニセ科学批判クラスタは、放射能安全を強調する側=原子力安全神話側にたっている。つまり、真摯な科学を捨てて、既存の社会秩序が壊れてパニックにならない方向を応援する傾向にある。既存の社会秩序維持のために必要な学説を防御しようとしている。早川教授は、次のようなエントリーでその本質を射抜いている。
 ニセ科学批判運動の真の目的
 http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-508.html
 同じく、既存の薬物治療を中心とする精神医学の科学性が否定されると、これまでの精神医学の科学的権威が崩壊し、精神医療の世界の秩序が乱れ、パニックを起こすおそれがある。そのような反体制的な精神医学批判をニセ科学批判として認めることはできないわけである。だから、これまで否定しても社会的影響のほとんどないカルト傾向のあるトンデモ学説がニセ科学批判のターゲットになってきたのである。内海医師のように巨大な科学的権威に反抗する勇気はない。
 
 結論をいうと、ニセ科学批判クラスタは、内海氏の精神医学批判を批判することで、ニセ科学批判批判をしていることになるである。ニセ科学批判者はニセ科学批判批判者に変貌することがわかった。
 形式に準拠する私のようなニセ科学批判批判者とは異なったかたちで、内容に準拠してニセ科学批判批判をしているのである。自らがニセ科学批判批判者となっていることに、ニセ科学批判クラスタは気づいていないのである。

追加
 平成25年2月10日現在で「ニセ科学批判」というワードをグーグル検索したら、社会学玄論がトップに出てきた。すでに、ニセ科学批判に最初に興味をもった人たちは私のブログをまず閲覧することになる。皮肉なことであるが、これで新しいタイプのニセ科学批判の流派が誕生するかもしれない。

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by merca | 2013-02-09 11:25 | ニセ科学批判批判

精神医学はニセ科学か? 内海医師のニセ科学批判。

  ニセ科学とは、科学でないのに科学を装うことで、人を騙す学説や商品のことをいう。さらに、そのような学説や商品をニセ科学として摘発し、クレーム申し立てをすることをニセ科学批判と呼ぶ。ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などがニセ科学批判の対象とされ、ニセ科学批判運動が盛んにネット上を中心に行われてきた。そして、対抗レトリックとしてニセ科学批判批判も形成され、ネット議論を盛り上げてきた。
 ニセ科学批判はしばしば「水からの伝言」のような非科学と簡単に分かる対象を標的にばかりしているという批判を受けてきていたが、今回、それを覆すようなニセ科学批判が現れた。それが、医師内海聡氏による精神医学(特に薬物療法)に対するニセ科学批判である。同氏の著作「精神科医は今日も、やりたい放題」における精神医学に対する批判は、ニセ科学批判という言葉は使用していないものの、内容はニセ科学批判そのものだと言っても過言ではない。同氏は、精神医学を非科学と断定し、患者を薬漬けにして騙していると喝破している。もしかりに同氏のニセ科学批判が正しければ、大変なことになる。多くの精神病患者が科学の名のもとに騙され、迫害されて続けてきていたことになるからである。これは、ホメオパシーどころの被害の問題をはるかに越えおり、社会ぐるみの詐欺行為ということになる。同氏はこのような医学会を震撼させる爆弾を投げたわけであるが、なのにあまり流行っていないという現状がある。それに、ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などを批判してきたこれまでのニセ科学批判クラスタたちが、内海聡氏の精神医学に対するニセ科学批判に同調する兆しが全く見られない。重要なニセ科学批判であるにもかかわらず関心を示さないのはどうしたことかと思う次第である。非科学と一目瞭然であるホメオパシー医療は叩くが、精神医学は権威と伝統があるので怖くて叩かないということであろうか? ニセ科学批判に好意的な精神科医香山リカは、内海氏のニセ科学批判をどう思っているか知りたいくらいである。

 内海氏のニセ科学批判の要点は、精神の症状に対して科学的に精神疾患の原因が解明されていないにもかかわらず、脳内の異常として決めつけ、科学的に効果が実証されていない危険な薬物で治療しようとするところにある。例えば、うつ病の原因とされてきたセロトニン説は、実証されておらず、科学的事実ではないという。また、精神科医が異なると、同一の患者にも異なった診断名が下されることがあり、科学的ではなく、主観的判断によって病名がつけられているという。主観的判断で適当に病名をつけられ、それに見合った薬物の服薬を指示され、結局、製薬会社の利益になっているというわけである。さらに、家族と医者が組んで性格が偏った扱いにくい子供を閉鎖病棟に隔離する手段として、精神医学が利用されているという。また、明確な科学的根拠がないのに、多動性障害やアスペルガー症候群というレッテルを貼り、精神薬を投与し、その衝動性をコントロールし、社会適応させることはよくある。学校教育においても、多動性障害やアスペルガー症候群のレッテルを貼り、不適応児童を教育の現場から医学の現場の領域に排除していることもある。さらに、刑事政策においても、心神喪失者等医療観察法という制度があり、精神疾患のある犯罪者を刑事司法の領域から医療の領域に排除している。
 メンタルヘルスについても、うつ病は心の風邪というスローガンでうつ病患者を増やし、心療内科への敷居を低くし、投薬治療の機会が増え、製薬会社が儲かっているという。新型うつ病という病名を開発し、煩しい職場の対人関係から逃避するための疾病利得を簡単に得ることができるようになった。生活保護の受給理由として、うつ病のために稼働不可能とするのもよくある。
 
 内海氏の精神医学に対する批判は、単なるニセ科学批判にとどまらず、社会批判も射程に入れている。社会学的にいうと、精神医学は、社会の様々な分野において、一定の機能を有しており、今やその診断なしには社会は回らないほど多くの役割をになっている。このように社会の仕組みに深く食い込んでいるのは、精神医学が科学であるという前提があるからである。占いで大殺界だから休職したいというのは通らないが、精神科医にうつ病の診断をもらって休職するのは正当化される。究極的に、占いも精神医学も非科学として同一なのにである。精神医学が科学であると社会から認定されているからこそ、これらの社会的機能を発揮し、現代社会は回っている。もし科学でないことが事実であり、それが人口に膾炙すれば、社会はパニックに陥るであろう。原子力安全神話と同じ理屈である。
 精神医学が科学を装うことで、社会は回る側面はあるものの、精神薬大量処方問題などによって個人の人権が侵害されている問題は無視できない。うつになって医者にかかり、薬漬けになって調子が悪い人をよく見かけるのである。うつ病と自称する方のブログは溢れており、大量服薬の記述などをよく見かける。精神薬大量処方問題の被害者が声をあげているらしい。
 
 社会が既存の領域で処理できないノイズを全て精神医学の領域に委ねてしまっていないだろうか? 唯物論者が心霊現象や超能力などの超常現象を精神疾患として処理しようとするのと同様に、不適応児童、触法障害者、メンタルヘルス、生活保護の怠者などの社会的ノイズを全て精神医学に委ね、処理しているわけである。精神医学を純粋な科学として回復させるためには、社会の要望による精神医学の多機能化現象を食い止め、本来の姿に戻すべきかもしれない。
 その意味で。脳の異常に精神疾患の根拠を求める薬物療法ではなく、カウンセリング中心のフロイト学派の精神医学の復活を望むのである。現在、純粋にフロイトの精神療法に忠実な精神科医は日本にも少なく、異端視され、薬物治療派から排除されていると思われる。心の病を個人の意味世界及び環境世界の病として捉え返すことが必要なのである。
 
 次のような事例を考えてみよう。 
 会社が倒産し借金して失業した時に、気分が落ち込みうつ状況になった。心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。例えば、こんなケースなら、弁護士に相談して破産宣告をしたり、占い師に今は辛いが必ず将来は復活すると予言してもらったり、カウンセラーに話して気持ちをうけとめてもらったり、宗教に入信し価値観を変えるなどし、元気になって治るのではないかなと思う。極端な話し、宝くじがあたって一億円が入ってきたら、薬を飲まなくても、この人の落ち込み状態は治るのである。これは、意味世界の喪失に起因する気分の落ち込みなので、脳とは関係ないのである。
 また、職場の上司にいじめられてうつ状態になって会社を休み、死にたいと思い、心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。よくあるケースであるが、これについても、この職場の上司がいない職場を確保するか、もっとよい別の仕事に転職できれば、薬を飲まなくてもよいである。パワーハラスメントで上司を法的に訴えて慰謝料を請求したり、職業安定所の相談員に適職を紹介してもらえれば、治るのである。環境を変えるだけで、薬はいらない。これは社会環境の問題であり、脳の障害の問題ではないのである。
 要するに、これらの事例のように外的ストレスが原因で精神に異常を来している場合、免疫学的には原因となるストレス要因を除去することが解決となり、精神薬はなんら解決の策とはならないのである。すなわち、精神医学ではなく、法律学、社会学、心理学、経済学、場合によっては占いや宗教によって治る問題なのであり、それを精神疾患として扱うのはナンセンスであり、問題のすり替えにしかすぎない。
 このようなケースで精神科や心療内科を受診し、自己に精神疾患があると思い込み、薬物治療を受け続け、医者と製薬会社が儲かっているというわけである。
 また、怠け者やひきこもりが、精神科からうつ病や適応障害として認定されることで不就労の理由が正当化され、生活保護となって国家予算に負担をかけていないだろうか? 社会的に孤立化したメンヘル系の若者やホームレスに多いケースである。しかし、もし精神医学がニセ科学であると社会の多数が思い出したら、このような不正はまかり通らないことになるだろう。精神疾患による生活保護よりも就労支援による就職のほうが明らかに正しいのである。内海氏のニセ科学批判は、既存の精神科医だけではなく、さぼりのニセ弱者にとっても脅威なのである。
 私流に結論を言うと、多くのうつ病は、社会病理学や臨床社会学によって治るのである。臨床社会学士なる職種があれば、社会資源をコーディネイトして、社会学的処方箋を出すことができると思われるので、意味世界と生活環境の改善で治る落ち込みに関しては、任せてほしいくらいである。

 最後に、ニセ科学批判クラスタが内海氏のニセ科学批判に同調してこない理由がわからない。ニセ科学批判者のリーダーであるNATROM氏は医者であるが、精神医学をニセ科学と思わないのだろうか? 内海氏の精神医学批判は、内容が厳密に正しいかどうかは精神医学肯定派との論争を見てから判断すべきだと思うが、はじめて学会の権威に対抗した勇気あるニセ科学批判である言えよう。

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by merca | 2013-02-03 11:14 | ニセ科学批判批判

科学と疑似科学の境界線は恣意的である。

 ニセ科学批判クラスタのサブリーダーである、なとろむ氏が早川教授と議論しているのを見つけた。しきりに、なとろむ氏は、ニセ科学批判批判者である私の議論を薄っぺらいと批判している。
  http://togetter.com/li/69786
  http://togetter.com/li/77766
 しかし、ニセ科学批判の本質が科学主義を利用した通俗道徳主義であるという私の分析は、いまや多くのニセ科学批判批判者たちが共有している認識であり、社会学的にも正しいと考えられる。社会運動論的には、菊池派のニセ科学批判は科学主義と通俗道徳という二重構造をもつことで、議論に負けない正論となっており、その正論にのっかりたがるネット論客たちが菊池氏のもとに参集し、現在のニセ科学批判クラスタが生成した。正論に安住してネット議論できるニセ科学批判という思想は、ネット議論好きの人たちが寄生するネット思想として急速に流布していき、彼らの自尊心の拠り所となった。ここまでの分析は、普通の社会学者なら誰でもわかる部分である。
 そしてさらに「ニセ科学批判」とか「ニセ科学批判批判」という言葉が多くのブロガーにコミュニケートされ、これらの言葉に多くの意味が付与されるようになり、ニセ科学批判議論は一つの確立したジャンルを形成してきた。このような思想伝達のコミュニケーション過程を分析するのが社会学の役目である。ニセ科学批判者たちが自分たちと反発する論者と議論することにより、第三者=世間の観察に晒され、好むと好まざるに関係なく、ニセ科学批判の一定の社会的なイメージが構築されていくわけである。私はニセ科学批判について自己のブログで言明することで、このような社会的過程を促進させたと思っている。
 多くの人たちにコミュニケートされて出来上がったニセ科学批判という言葉にまつわる意味や価値を受容できない者はニセ科学批判から卒業していった。それがTAKESAN氏である。同氏は、ニセ科学批判がコミュニケートされる社会過程が自分たちの意図せざる方向に暴走する恐ろしさを嗅ぎ取り、ニセ科学批判という言葉から距離をとったと思われる。
 また、ちなみにニセ科学批判クラスタが平川氏のSTSに噛み付く現象も興味深い。STSにはニセ科学批判クラスタたちを脅かす要素が隠されていると見ている。

 さて、なとろむ氏は科学と疑似科学の境界線について以下のように疑問を呈している。
   http://twitpic.com/3egpj3
 ここでは、グレーゾーン論の例として、白と黒の明度のスペクトラムが取り上げられている。結論からというと、限定付きで線引きは可能である。まず、任意の二つの明度の比較は可能だと考えられる。異なる明度Aと別の異なる明度Bを比較し、どらちが黒に近いか比較することができ、その中間点に線引きすれば分けることができる。比較できるということは、比較するための判断基準があるからである。それは光の反射量である。光の反射量という連続性尺度が隠蔽されているのである。科学と疑似科学が連続的であっとしても、比較する判断基準が必ず隠されているのであり、任意の二つの点を比較することで区別可能となる。
 さらに、実は、ニセ科学批判者が採用するグレーゾーン論は、より科学的かどうかを比較する判断基準そのものが論者によって異なり、曖昧であるという事実を隠蔽する手段である。逆にいうと、曖昧な量的な思考で科学と疑似科学を分けているだけであり、はなから質的な二分法で分けるという発想を理由なく排除している。ニセ科学批判者は、科学であるかどうかの問題について、量の問題として捉え、質の問題として捉えることを避けているのである。例えば、どこまでが明るくてどこまでが暗いのか、どこまでが寒くてどこまでが暑いのかという量の問題は、それを判断する主観に委ねられる。同じく、科学であるかどうかを量の問題として捉えると、どこまでが科学でどこまでが科学でないかは、それを判断する主観に委ねられる。科学を量の問題として捉える限り、科学と疑似科学の境界線は、ニセ科学批判者の主観すなわち恣意性に委ねられることになるのである。そして、自分たちの恣意的な判断を客観に見せかけて、非難対象にレッテルを貼るのがニセ科学批判者の常套手口である。
 そもそも、ある現象に対して、観察道具として連続性尺度を採用するか、質的二分法を採用するかは、観察者の全くの恣意的な事柄である。ニセ科学批判者は、科学という知識に対して、連続性尺度を適用する必然性があるかのように装っているわけである。連続性尺度の場合、任意の点を基準にして、白黒の区別をつけることになる。つまり、任意の基準点は、判断者の恣意性や価値観に委ねられることになる。ニセ科学批判者による科学と疑似科学の区別は、恣意性や価値判断が混入しているので要注意である。恣意性に科学という名前を使うことで正当性があるように見せかけているのである。
 ニセ科学批判者は、科学とは何にかという本質的問題から逃避し、非難対象にニセ科学のレッテルを貼ることで我こそは正当科学だと自己満足しているのである。

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by merca | 2012-02-25 09:58 | ニセ科学批判批判

科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾

 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判

ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か?

 現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の本質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基本的に科学社会学の書である。
 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。
 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。
 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴があるという参入資格を得たメンバーたちによって、科学界が形成されており、観測と実験で得られた研究の成果は、科学界の他の科学者たちに検証、討議された後、合意を得て、はじめて対象と認識が一致した知識と公認され、科学的知識ができあがる。この社会的手続きなしには、客観的な科学的知識だとは言えない。そして、重要なのは、観測と実験の方法については科学界における特定の規則があり、その規則に従っていることが求められる。単純に実験における対象の反応結果が審判を下すのではなく、実験で得られた知識は、他の科学者による検証・討議による合意を得ないと駄目なのである。
 科学的知識とは、実験と観測で得られ、かつ科学界で検証・討議され合意を得た知識なのである。ブルデューは言っていないが、私見から言うと、それプラス国家=官僚が認めたことで、人々は科学的知識として安心して受容することになる。
 このような科学的知識の社会的構築過程を考えると、科学的リテラシーとか科学の民主化などは、ほとんど期待できない。まずは、数学の素養がないと科学的議論には参加できない。数学ができない文系人間は、科学的討論の外におかれることになる。非専門家が討議できるのは、科学的知識の社会における有用性くらいになる。

 視点は変わるが、先述のようにブルデューは、科学的知識が社会的に構築されたものであるという考えをとるものの、科学的知識の内容には社会的要因が入り込む余地がないと考える。ここが最大のポイントである。
 実は、対象と認識の一致=物理的リアリティを保証する装置として、科学界は機能していると言っているのである。科学社会学の祖であるマートンは、科学者集団によって科学的知識はつくられると言って入るが、その内容の真理性は括弧に入れており、不問にする。これは、ちょうど、宗教社会学者が研究対象である特定の宗教の教義内容の真理性や道徳的価値を問わないのと同じである。ちなみに、内容に対する真偽や善悪を問わないこの姿勢こそが社会学者に共通する価値中立の態度である。
 科学社会学の中には、エジンバラ学派のデヴィット・ブルアのように、科学的知識の内容が社会の影響を受けると考える流れもある。これは、科学的知識を相対化する極端な相対主義の立場をとることになる。ニセ科学批判者が一番嫌がるタイプの科学社会学である。科学的知識は社会によって異なるというテーゼは、科学の普遍性を卑しめることになる。このような相対主義ともブルデューは一線を画する。
 社会的条件が科学的知識の構築に影響を与えることにブルデューは、一面では否定しており、別の面では肯定しているようである。まず、ブルデューは、社会的条件が科学的知識の内容に影響を与えることはないと確信する。その理由は、科学界が存在するからである。科学界が専門的に定めた実験と観測の規則に従って得られた研究成果を携える各の学者たちが、一つの真理のポストを巡って討議し争うことで、社会に左右されない正しい知識が確定できると考えている。一つの知識は、実験と討議という二重の審判にかけられて真偽が決定されるわけである。
 このような社会的過程が、むしろ社会的条件が知識に影響を与えることを排除して、社会とは無縁な正しい物質に関する知識を得ることを可能にするというわけである。言い換えれば、科学界は、科学的知識における社会的影響排除機能があるのである。
 そして、科学界の機能が科学を進歩させてきたのである。しかし、この機能は、科学界が参入者の資格制限など閉鎖性をもつことで、担保されることは言うまでもない。
 ブルデューは、科学界の機能のおかけで、社会構築主義者の極端な知識相対主義と、物理的な真理の構築には他者の意見は必要ないとする素朴実在論という二つの極端な立場の対立を止揚することができると考えている。
 科学的知識は、社会(間主観的関係=科学界の検証・討議・合意)を必要とするが、そのことでかえって物理的リアリティを担保できるというわけである。個人ではなく、社会が物理的にも正しい科学的真理をつくりだすということである。つまり、社会を離れた科学的知識は存在しないものの、その内容それ自体は物理的に正しいのである。一番重要な点なので、何度ども強調するが、近代科学においては、知識獲得方法及び真理認定過程は社会的(共同主観的)であるが、知識内容それ自体は社会に左右されない真理として定立されるのである。

 ブルデューの議論からすると、平川氏のように、科学は誰のものかと叫び、科学的専門性の民主化を啓発し、万人に科学を解放すると、科学的知識の内容それ自体に社会の影響を持ち込むことになり、科学的知識の真理性を脅かすことになる。その意味で、平川氏のプランには、慎重さが必要である。
 科学の民主化・大衆化の事例としては、やはりニセ科学批判があげられる。ニセ科学批判は、素人による科学的知識の真偽の判定を伴っており、実験や観測もせず科学界の合意も得ていない自分の意見を述べて、言わばニセ科学コミュニケーションをしている。ニセ科学批判の祖である菊池氏も、専門外である医学まで口出ししている。
 科学的討論においては、その資格がある者のみが参加可能であり、科学界内部における限定された民主主義であることを弁えるべきである。 閉鎖性・自律性をもつ科学界への信頼を寄せるブルデューの議論からは、科学の民主化・大衆化は科学そのものを否定することになるのである。
 ブルデューの科学観については、ルーマンの「社会の科学」を読むことによって、さらに検討していくことにしたい。

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by merca | 2011-12-25 11:32 | ニセ科学批判批判

ホリスティックな思考は、全て非科学か?

 ホーリズムとは、要素に還元されない全体が要素を決定するという論理である。ホリスティックなどという言葉でもよく使用されており、自然治癒力を重視するホリスティック医療等というものも存在し、ホメオパシーの正当性を根拠付けている場合も見受けられる。
 ちなみに、ホーリズムに基礎をおく知識体系は、ニセ科学批判者に嫌われており、非科学として断罪されるケースが多い。例えば、脳科学者の茂木健一郎のクオリア論も、ニセ科学批判クラスターから叩かれた。クオリア論におけるクオリアは、要素に分解できない全体的感覚であり、要素還元主義からは説明がつかず、一種のホーリズムな知識体系である。また、複雑系や宇宙論もホーリズムと関連してくると、ニセ科学批判者の批判対象となる。トランスパーソナル心理学やニューエイジの東洋思想も、実証性を重んじるニセ科学批判者の批判の的になるのである。
 要するに、目に見えない怪しい全体なるものが存在し、その全体が部分に作用するという理屈は、ニセ科学批判者にとっては、ニセ科学と見なされる。
 例えば、人間は精神と肉体の二元論で説明することはできず、心身を統一する全体としての生命体として存在し、従って生命力があがれば、肉体面の病気も治るという考えは、ニセ科学批判者に否定されることになる。なぜなら、生命(魂)という全体的存在は、目に見えず、科学的に観測されないからである。自然科学的に直接認識できるのは、分子と分子の関係からなる細胞、さらにその細胞同士の関係にしかすぎず、生命体という全体は存在しないからである。自然科学からしたら、ホリスティックな生命全体は虚構であるというわけである。
 また、部分から説明がつかない全体の存在を認めてしまうと、永遠の生命の存在を容認することにもなりかねず、科学主義者は嫌がるわけである。
 実は、ホリスティックな存在は、直観的にしか捉えることができない。ホリスティックな認識は、全て直観的認識であり、自然科学的認識ではない。物の全体性を捉える能力は、最初から生得的に一部本能として人間に備わっているのである。我々は、多少間違うことはあるにしても、科学を学ばずに対象を生物か無生物かに直観的に区別することができる。(ちみなに自然科学は細胞から出来ていると生物だと判断する) さらに、人間は自然科学を学ばなくても、対象を触ることで液体と固体を区別することができる。また、一定の社会環境で、人間として育つと、音の羅列を音楽として認識し、色の羅列を絵画として認識することができる。
 このような全体性を捉えることができる直感的認識は、自然科学的認識より劣っており、偽であると断言することはできない。問題は、ホリスティックな全体性と思えるものは、単なる主観的な人間の認識枠組みなのか、それとも客観的な外部対象の属性なのかということである。この点は、検討の余地があり、一番本質的な課題である。
 それはさておくとしても、物事をホリスティックに捉えることは、有用であることには疑問の余地はない。我々人間はあらゆる物事を一つの全体として捉え、意味付与し、カテゴライズして外界の複雑性を縮減し、世界に適応しているからである。
 自然科学的立場を絶対化し、ホリスティックな思考を全てニセ科学として断罪し、嘘であると排除するのは、よくないのである。

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by merca | 2011-02-20 23:59 | ニセ科学批判批判

因果関係確定とニセ科学批判者の二枚舌

 因果関係とは、AがあればBが生ずるという関係である。例えば、火があれば、煙が生ずるなどである。因果関係には、三世界論に対応して、以下の種類がある。
 
(物理的因果関係)
対象は、物質世界における因果関係。
観察方法は、外から五感を通して認識し、個物を一般化した相で捉え、帰納的に発見する。
記述方法は、必然の法則として記述する。同じ属性をもつ全ての物質に当てはまる。
例 エネルギー保存の法則、熱量の法則、万有引力の法則など、物理法則。
 
(心理的因果関係)
対象は、精神世界(意味世界)における因果関係。
観察方法は、分析対象そのものに質問して認識し、個別的な因果関係を構成する。
記述方法は、動機として記述する。個別のケースのみに当てはまる。ただし、類似の事例には類似の因果関係が蓋然的に認められることがあり、それを臨床知と呼ぶ。
例 精神分析学のヒステリー分析。

(社会的因果関係)
対象は、社会世界(意味システム)における因果関係。
観察方法は、コミュニケーションを観察して認識し、集合的な因果関係を構成する。
記述方法は、規則や規範として記述する。特定の共同体のみに当てはまる。
例 文法、売買行為(店で金を払うと、商品が手に入る)、違法行為(盗むと、逮捕される)等。
 
 これらの三つの世界は、相互影響(構造的カップリング)=相互条件にあるが、原理的に互いに閉じており、システムとしては自律している。従って、相互に関係はあるが直接的にコントロールできるまでの関係性(一対一対応)はない。
 例えば、物体に浮かび上がれと念じたところで、浮遊することはない。(心理的要因が物質的要因をコントロールできない。) また、気温があがったからといっても、喜ぶ人もおれば残念がる人もいる。(物理的要因が心理的要因をコントロールできない。) さらに、一人の受験生が受験競争なんてなくなれと思っても、行動しなければ(コミュニケーション過程にあがってこなければ)、社会の仕組みは変わらない。(心理的要因が社会的要因をコントロールできない。)
 このような三世界における「相互コントロール不可能の原則」は、宇宙の根源的秩序である。ちなみに、この原則を破った世界観は、松本人志監督の「しんぼる」で描かれている。この原則が破れた世界ほど怖いカオスはない。

 さて、それぞれの世界における因果関係は、観察方法が異なる。
 物理現象においては、外から物体を観察することになる。ある現象の後にある現象が生ずることが繰り返されることで、因果関係を発見していこうとする。実験と呼ばれる方法である。しかし、ある現象に含まれるどの要因が本当の原因かわかるまで、疑似相関を排除するために、要因に統制を加えて精度を高めていくことになる。観測と実験が自然科学における因果確定の方法である。

 では、心理現象においては、因果関係の確定はどのようになされるのであろうか? 自然科学のように外から観察していても、心理内容は記述できないことは言うまでもない。表情や行動だけからの観察は類推の域をでない。そこで、分析対象そのものに質問して聞くことになる。
 例えば、カウンセラーが悩んでいる学生に質問し、「辛い気持ちになっている原因は、不登校で親から怒られているからです。」と答えたとする。「親から怒られる」ことが原因で辛い気持ちという結果をもたらしているという因果関係を確定できるわけである。しかし、あくまでも個別的因果関係を確定していることに注意しておこう。親から怒られると辛いという心理的次元における因果関係は全ての学生に当てはまるとは限らないからである。また、辛いという気持ちを起こす原因は親から怒られることだけではなく、いくらでも存在するのである。これは、個別のケースに関する現在における特定の因果関係の確定である。
 精神分析に基づく心理療法は、カウンセリングを通じて、因果関係をこのように個別的に特定していく。さらに、本人が気づかなかった(抑圧・隠蔽されていた)因果関係を気づくようにもっていくことになる。分析対象自身が因果関係を知っているというわけである。因果関係確定の根拠は、外からの観察ではなく、本人自身にあるということである。これを非科学的と言って切り捨てることはできない。そればかりか、内からの観察なので疑似相関に悩まされる自然科学よりも完璧な因果関係の確定となる。因果関係の確定に関しては、外側からしか観測できず不確かな自然科学よりも精神分析学のほうが完璧なのである。この点、全く気づかれていない。
 
 次に、社会現象については、人々のコミュニケーションを観察することになる。心理現象は、観察対象が個人の内面であったが、社会学の場合は、人々の行為となる。コンビニでお金を出して商品を買うという社会現象は、心理過程とは異なる次元である。例えば、一人の男がコンビ二で弁当を買ったとしても、その男がなぜ弁当を買うのかという動機(心理的次元)を店員が理解していなくても、お金を支払うだけで、店員は行為の意味を理解し、弁当を男に手渡すであろう。コミュニケーションにおいては、相互の内面的動機を提示しなくても、成立するわけである。
 また、同じ国民社会内では、どこのコンビ二に行っても、お金を支払うだけ弁当を買えるのである。金を払うという行為が原因となり、商品が手に入るという結果が成立しており、一つの因果関係が成立っているのである。
 さらに、この因果関係は規則・規範として維持されていることで、逸脱現象は起こらない。金を支払わずに商品を手に入れようとすると、万引きや強盗で逮捕され、処罰されるのである。逸脱現象に社会的制裁が伴うことで、社会的因果法則は保たれているのである。賞罰があることで社会的因果関係は維持されているのである。
 重要な点は、社会的因果関係は、社会学者自身が社会生活を送り、コミュニケーションをすることで観察・発見することができるものであり、自然科学のように、統計や実験はいらないことである。 平たく言えば、それなりに社会生活を送っていれば、わかることである。しかし、社会理論を使用して社会生活におけるコミュニケーションを観察・記述することができなければ、社会学とは言えない。社会理論という観察道具のない人の観察は、ただの居酒屋談義である。
 理論社会学の基礎を修めていない統計屋は、社会学者ではない。新聞社の世論調査そのものは社会学ではない。パオロ氏の反社会学講座は全く理論社会学の観点からの考察が抜けており、社会学的手法とはほど遠いのである。何度も述べているところであるが、人々のコミュニケーション過程にあがってこない客観的統計は、いくら正しくても社会を構成することはできず、社会的事実の資格はないということである。客観的統計=社会的事実と思い込んでいるパオロ氏の反社会学講座は、全くそのことを理解していない未熟な思考なのである。(真理のコミュニケーション説)

 因果関係の確定は、分析対象を内面から知ることができる心理学や社会学のほうが明確である。それに比べて自然科学は物質に聞くとこができず、外からしか観察することができないわけであり、実験を繰り返し、疑似相関を排除していく手続きが必要であり、因果関係の確定はいつも不明瞭なのである。「科学は全て仮説だから」という弁解が多いのはこのためである。偽薬効果は科学的仮説の段階であって確定した科学的事実ではない。
 自然科学中心主義のニセ科学批判者は、仮説に逃げることで自説の絶対化から免れつつも、仮説なのに他者を批判して自説を絶対化する二枚舌が特徴である。

 ニセ科学批判者は、科学を絶対化しているというニセ科学批判批判者や多くの常識人からの助言を真摯に受け取らず、仮説だから絶対的に正しいとは思っていないと弁解し、科学を理解していないと反論するわけであるが、その一方でその仮説でもって他説を全否定することで、自己が正しいと絶対化しているのである。この二枚舌のからくりは、科学の本質とも関係してくるのでニセ科学批判者の誤りだけに帰責できないかもしれないが、この課題をどう処理するのか見守っていきたい。

 さらに、ニセ科学批判者による科学と通俗道徳の使い分けにも注意しておう。この点についてはまたの機会に論じたい。

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by merca | 2011-02-06 11:54 | ニセ科学批判批判