<   2006年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

社会調査法批判

 社会調査法の技法(統計)に基づき、社会を測定し、様々な社会論が横行している。社会調査によるデータのない社会理論は観念論として退けられる傾向にある。
 しかし、よく考えて見たまえ。社会調査法によって社会を測定するという発想そのものが、おかしい。社会という対象があらかじめ実体として存在し、それを統計的手法によって測定しているということであるが、この考えは過っている。
 というのは、実際は逆だからである。実は、社会学者は、人々の意識や所得などを指標として調査し、項目間の相関関係を見い出し、事後的に社会という対象を構成するからである。社会は、社会調査を媒介として、事後構成されたもの、つくられたものなのである。社会という対象があり、それを測定し、認識するというのではないのである。社会調査法は社会を写し取るのではなく、逆に社会を構成するための方法なのである。

 統計的手法に基づいて様々な社会論が溢れているが、これらは全て学者によって構成された社会であり、実体としては存在しないのである。しかし、それらを本当に社会を写し取ったものとして錯覚している者たちが、その社会観に準拠する区別でコミュニケーションする時、システムとして創発され、それが本当に実在してしまうおそれがあるのである。例えば、(上流/下流)という区別にこだわり、人々がコミュニケート(例えば消費行為)しだしら、それがシステムとして創発され、実在してしまうのである。

 ともあれ、社会調査法は、社会を測定する技法ではなく、社会を構成する技法なのである。
[PR]
by merca | 2006-05-26 21:13 | 理論

社会はつくられる

 社会学は、社会を対象とする学問である。しかし、その社会たるものは目に見えず、実体のあるものではない。社会という存在がまずあって、それを対象として認識・分析するわけではない。この点、よく誤解されている。

 社会学の対象である社会は、つくられたものである。社会は人々のコミュニケーションによってその都度発生するものであり、コミュニケーションが途絶えると消滅するのである。それは、ちょうど、曲のようなものである。一つの曲は演奏された時のみ実在し、演奏が終わると実在しなくなる。我々は、社会という曲を奏でているのである。
 
 してみれば、社会学理論とは、楽譜にすぎない。社会学者は、人々が奏でる曲を構造として楽譜に写し取ったり、また楽譜をつくって作曲したりする。しかし、実在するのは、その都度、コミュニケーションによって創発された社会のみである。従って、社会は確固とした対象として最初から実体をもって存在するものではない。

 社会を実体視することから、様々な疎外が起る。マルクス主義は生産関係を実体視し、国家主義は国民国家を実体視し、パーソンズ社会学は価値規範を実体視する。社会に束縛されているという感覚は、社会を実体視する思考に由来している。このようなドクサから人々を解放せねばならない。

 
[PR]
by merca | 2006-05-26 20:29

社会構築主義批判

 社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 このような社会構築主義の公理は,共同主観によって社会共同体は維持されるというという現象学的社会学や,また人々の意味付与過程から社会現実がつくられるというシンボリック相互作用論の発想とも,通ずる部分がある。要するに,社会構築主義は,社会は複数の人々によるコミュニケーションを通じての主観的な意味付け作用から構成されるという原理を基礎においている。
 ところが,このような人々の内面的な意味付けのレベル,つまり共同主観的意味から社会はできあがっているわけでない。例えば,平等思想をもつ共産主義者が集まっても,平等な共同体が出来上がるとは限らない。平等主義を唱える共産主義者たちが集まり,かえって差別的な共同体が出来上がる例にはこと欠かない。また,ドイツのように,自由と民主主義を求める大衆がファシズムを生み出した歴史上の事実は見逃させない。人々の主観的意味が,集合的レベルになると,全く逆の意味になるというパラドックスこそ,社会の創発特性のなせる業である。100人の善人が集まっても,単純に善なる社会が生まれるとは限らないのである。
 このパラドックスは,社会構築主義から決して解明されない。つまり,人々の共有する主観的意味が外在化して社会が出来上がるという理論は,システム論的には,端的に間違っている。もしそれが正しければ,自由と平等という思想をもった人々がコミュニケーションをし合えば,自然に民主主義的社会が出来上がるはずである。実際には,そうはならない。正確に言うのなら,人々によるコミュニケーションの意味付けとは直接関係なく,社会はつくられる。社会は社会自体の要素(コミュニケーション)をオートポイエーシス的に自己産出していく。人々によるコミュニケーションの意味付け,これをハーバーマスは生活世界と呼び,社会システムと区別した。言わば生活世界の意味と,社会システムの意味は別次元なのである。例えば,1つのコミュニケーションについて,複数のレベルから意味付けすることが可能である。ある人が他の人に贈与税を支払った上で多額の金を与えたとする。この場合,当事者である2人が互いの友情を確かめ合うコミュニケーションと意味付与しあっても,社会システム論的には,経済システムの要素となる。さらに,例えば,売春は,当事者どうしにとっては相互利益のある有意味なコミュニケーションであっても,法システムの意味付けからは非合法的であり,社会秩序を破壊するものとして処理される。当事者の意味付け=観察と,社会システムの意味付け=観察は,このように異なる。また,社会システムによるコミュニケーションの意味付け=観察は,極めて社会の維持に関わる機能主義的なものであることが分かる。そこで,共同主観的意味と対比して,機能主義的意味とでも呼んでおきたい。
 システム論的には,共同主観的意味=(複数の)意識システムと機能主義的意味=社会システムは,それぞれ異なる区別でコミュニケーションを観察しているわけである。異なった区別で観察するこの落差が,つまるところ,先ほどのパラドックスを説明してくれることになると思われる。
ともあれ,人々による相互の主観的意味付与活動から社会が構成されるという社会構築主義の理論は,システム論的には,間違いである。社会は独自の区別で人々のコミュニケーションを観察し,自己の要素としているのである。社会を構成するのは,社会それ自体であり,人々による相互の主観的意味付与活動ではないのである。社会は、人々の相互作用から生ずるのではなく, 自らを自己構成(自己組織化)するシステムなのである。
 社会構築主義と社会システム論を同一視することはできない。生活世界と社会システムを区別することが必要である。
[PR]
by merca | 2006-05-26 16:40 | 理論

創発の妙理

  ラディカル・システム論

 100人の善人が集まっても、善なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の悪人が集まっても、悪なる社会が生まれるとは限らない。
 100人の善人が集まっても、悪なる社会が生まれることがある。
 100人の悪人が集まっても、善なる社会が生まれることがある。
 
 歴史は語る。民主主義者の集まりが、全体主義を生み出したように・・・。
 創発という妙理が社会の起源である。第ニの自然としての社会空間を創発せよ!
[PR]
by merca | 2006-05-26 16:07 | 理論