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創発論的社会観

 国家,法律,市場,企業組織,家族,そして全体社会,これら社会的なるものは,全て目に見えないものであり,物理的存在のように,実体的に捉えることができないものである。近年,社会調査法の技術進歩によって,社会を測定できるという考えが隆盛を極めているが,果たしてそもそも社会なるものを確固とした認識対象として定立できるか疑問である。実際のところ,社会調査法の測定対象である社会は,それ自体,事後的に研究者によって構成されたものである。例えば,国民の所得や意識調査などを実施し,日本社会の階層構造を分析しようとする。この場合,はなから日本社会という実体的対象が存在するのではなく,逆に調査そのものによって,日本社会なるものが事後的に構成されるのである。測定対象がはじめから存在するのではなく,各種指標に対する測定行為そのものが社会を構成するのである。要するに,人々の所得や意識を媒介として,社会なるものが事後的に構成されるわけである。社会なる実体が最初に存在し,それを直接測定するのではない。先に,社会なるものが実体的に存在し,それを測定し記述したと思わせるのなら,それはまやかしである。統計的手法によって,下流社会論などの格差社会論が盛んに人々にリアリティがあるように受け止められているが,それは全て認識論的顛倒である。格差社会も社会調査に基づき構成されたものしにかすぎないのに,人々は単純に日本社会を測定したものと勘違いしているのである。
 
 このように,社会的なるものは,構成する以外にない,つくられた存在なのである。このような立場は一般に社会構築主義と呼ばれている。社会学が学問足り得るためには,その対象である社会というものを確定しなければならないが,その対象たる社会は,自然科学のような物理的実体はなく,上述のように研究者によって事後構成されるものなのである。社会をつくられたものとして定立する社会構築主義の対極をなすのが,「存在が意識を規定する」という立場をとるマルクス主義やマンハイムの知識社会学(存在拘束性)である。個々の意識を離れて社会なる実体(あるいは社会関係)が存在するという立場である。要するにイデオロギー論である。社会構築主義からすると,イデオロギー論は間違いである。社会そのものを実体視しているからである。社会そのものは人々によって構成されたものにしかすぎないのであり,そのようなコミュニケーション過程から超越した確固とした社会は存在しない。また,ある意味,国家主義も社会構築主義の対極にある。というのは,国家主義は国家を個々の意識に先立って実体的前提とするからである。国家主義は,国家が国家主義者によって構成されたものであることを隠蔽し,太古の昔から存在するものとして定立しようとするからである。国家は,実体ではなく,構成された想像の共同体なのである。マルクス主義や国家主義は,構成されたものを実体視する意味において,神話と何ら変わらないのである。このような社会を実体視する考えを存在論的社会観と呼びたい。
 
 ここで,社会構築主義にも種類があることを述べたい。認識論に依拠する社会構築主義と,創発論に依拠する社会構築主義である。認識論に依拠する社会構築主義は,対象の認識内容が構成されるという考え方である。あくまでも対象は認識に先立って存在するが、認識内容が構成されるという立場である。それに対して,創発論的社会構築主義は,認識内容でなく,対象そのものがはなから構成されるとする立場である。構成されるという言い方ではニュアンスが掴みにくいので,つくられる,あるいは創発されると表現したらわかりやすいと思われる。簡単に言うと,対象そのものを生み出すわけである。そもそも、認識と対象という区別に準拠してはいないのである。
 
 さらに、創発論的社会構築主義においては、あるものをつくりだすわけだから,そのつくりだされたものは、認識内容=観念ではなく,かりそめにも実在するものとしか表現できないのであり、逆説的ではあるが、観念論とは対極をなすことになるのである。認識論的思考は認識に先立って存在する実体的対象=ものそれ自体を前提とするが,創発論は,いかなる実体的存在も前提としない。つくられるものが最初から存在することはないからである。しかし,つくられたら,その実在性を獲得する。もちろん,壊れたら実在性はその時点で消滅する。
 
 ともあれ、創発論的社会観に準拠すると、実は、社会を認識するという営みは、そのまま社会をつくることなのである。
 
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by merca | 2006-12-31 22:53 | 理論

脱社会的存在

 宮台社会学が社会学の徒に与えた影響は大きい。しかし、宮台氏の社会解釈が適切だったかどうは、検討しなればならない。
 神戸のサカキバラ事件以降、「人を殺せるのはえらい」という殺人者崇拝の思想が一部の少年達に流布し、実際に人を殺してみたかったという理由で事件を起す犯罪が数件ほど起り、マスメディアで報道された。サカキバラに共感できる少年達も少なからずいるという報道もよくなされていたのは記憶に残るところであり、子供がおかしいなどとテレビの特集番組が多く流され、人々の社会不安を煽った。そして、殺人をしてみたいからやったという犯罪動機では、人々は満足できず、様々な精神科医や教育学者がこぞって、少年の犯罪動機を透明化するために解釈しだした。また、哲学者や倫理学者が「なぜ人を殺してはいけないのか」というような殺人禁止の道徳的根拠を若者達に合理的に説明するための書物を書きだした。これに輪をかけたのは、テレビでの若者討論番組であった。平気で、殺人をしてもいいというインテリ学生も現れたりし、殺人を否定する論理的根拠がないことを主張したりした。おかげで、若者全体が、無気味な殺人鬼としてのレッテルを張られだした。
 とりわけ、若者に対する宮台真司の解釈は、明解であったし、分かりやすく、多くの社会学や哲学の徒に受容された。それが脱社会的存在という定義だった。脱社会的存在とは、コミュニケーション=社会に失望し、コミュニケーションの外で、自尊心を調達する一部の若者達のことを指す。コミュニケーションの外とは、社会の外であり、道徳や法律の外でもあり、殺人も非難されない空間である。少年の猟奇犯罪は、この脱社会的という枠組みで解釈されるようになり、映画のテーマなどにもなりはじめた。さらに、宮台氏は、このような脱社会的存在が生ずる社会変動も問題視した。成熟社会に入って共同体が空洞化し、他者からの承認は、個々のコミュニケーション能力に委ねられ、自己責任過多となり、その苦労に耐え切れず、コミュニケーションから降りる若者たちも現れ出したというわけである。その一部がひきこもりとなり、別の一部が脱社会的存在である。確かに、スクールカーストが学校の成績という基準とは関係なく形成され、ある意味、その基準がコミュニケーション能力と関係していることから、それはうかがい知れる。

 「人を殺せるのはえらい」という考えが若者達に流布したというのは一部認められると思うが、本当に脱社会的態度から、それを採用したかどうかは疑わしい。では、どのような若者達が「人を殺せるのはえらい」という思想を採用したがるのか?
 
 そのような若者が現状の自己が置かれているコミュニケーションに不満を抱いていることは間違いないと思う。ここまでは、宮台氏が正しい。しかし、ここからが解釈が異なる。
 
 私の解釈・分析はこうだ。まず、スクールカースト下層でいじめにあったり、仲間集団や友達ができず、コミュニケーションから疎外されており、自己イメージが低い若者たちがいる。そのような若者たちのほんの一部が、自己の弱さや自信の無さに向き合わないで済むために、自己防衛として、他人よりも卓越している自分をつくろうとし、「人を殺せる自分はえらい」という物語にすがっているだけなのである。動機は、他人との比較に基づいており、脱社会的であるどころか、他者への当てつけであるという点において極めて社会内存在である。
 殺人崇拝物語あるいは殺人鬼英雄化物語は、ルサンチマンをもつ弱者の自己防衛装置なのである。平たく言えは、弱い自分を取り繕うために物語にすがって強く見せようとしているだけである。これはスターに憧れ、自己を同一化する若者の心理と変わらない。コミュニケーション弱者が生き方のモデルを殺人者にしか見い出させないことが問題かもしれないが、臨床心理学的には本当に陳腐な動機なのである。プロの臨床心理士が面接すれば誰でも見抜ける動機である。また、処方箋も簡単に見い出すことができるのである。脱社会的存在や人格障害も持ち出す必要はない。
 
 ちなみに、卓越化の物語として脱社会的存在というタームが、どの程度、コミュニケートされていき、若者達の自己概念として採用されていったかは、自分を「脱社会的存在」だと自称している若者のブログを見つければよいが、ニートと違って、あまり見かけない。もっとも世間に「脱社会的存在」だと自称した時点で、脱社会的存在ではなくなるというパラドックスがあるが・・・。 
 
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by merca | 2006-12-31 14:09 | 理論

いじめについて


 いじめ問題の背後には、スクールカースト問題が潜んでいます。スクールカーストとは、自然発生する学校内身分です。スクールカーストの下層の生徒は、いじめにあいやすくなります。
 おおまかにいうと、話が面白い、運動能力、外見的魅力という基準によって身分差が生じます。一度、スクールカーストの下層のレッテルをはられると、その生徒がいじめを受けても当然だと言う認識が生徒間におこります。臨床社会学的には、スクールカーストはいじめ正当化・合理化の機能を担っています。
 ひきこもりの若者は、スクールカーストの犠牲者です。つまり、学校でスクールカーストの下層として位置付けられ、友達ができず、人間関係におけるトラウマ体験となり、予後の社会参加ができなくなります。言い換えれば、スクールカーストがひきこもりをつくります。
 スクールカースト現象は、学校だけにとどまらず、職場の対人関係でも起りますので、職場のモラルハラスメントにもつながります。
 いじめを解決するには、その前提条件たるスクールカーストを解体する政策が必要です。政府は、教育政策のために教育再生会議を組織したようですが、スクールカーストに敏感な学者がいません。スクールカーストについては教育社会学者の本田由紀さんは敏感ですが、今回、メンバーではないようです。残念です。ヤンキー先生がメンバーのようですが、スクールカーストについて知っているかどうかは定かではありません。
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by merca | 2006-12-30 10:47

ニートと自立

とあるひきこもり支援団体のホームページの掲示板において、コメントしました。支援団体に質問したAさんに対してのコメントです。コメントに対してコメントするという作法もコメント屋の重要な役割です。経済的自立のみが自立てあり、それのみがひきこもり支援団体の究極的目的だとするAさんの意見に対する批判として、書込みました。
    (コメント内容)
Aさんの自立の定義は、経済的自立=(労働力になる/労働力にならない)という区別に準拠しています。しかし、別の区別に準拠して自立を定義しても別にかまいません。精神的自立=(自己決定できる/自己決定できない)、身体的自立=(家事ができる/家事ができない)、法的自立=(市民権がある/市民権がない)、性的自立(恋愛ができる/恋愛ができない)などです。
 
 どの区別に基づく自立を選択するかは、個々人の自由であり、自己が必要とする自立を支援してくれる支援団体を選択することになります。
 確かに国家が強制する自立は、Aさんの期待する経済的自立ですが、成熟社会では価値観が多様化しているので、経済的自立だけを押し付けることはできません。むしろ1つの自立にとらわれると、別の自立ができなくなることがあります。例えば、いい企業に就職するためにガリ勉となって、いい大学に行き、一流企業に就職したものの、性的自立や身体的自立が疎かになり、心身症になり、退職に追い込まれるというケースもよく見かけます。メンタルヘルス問題ですね。大学時代に自己決定能力を養わず精神的自立ができなかった人にも多いです。
 
 むしろ労働問題として一面的にニート・ひきこもり問題を捉えててしまうことで、背後に隠れている問題を隠蔽するばかりでなく、かえって先の例のように個々人の経済的自立も阻害するということもあります。
 基本的には、自己が他者と共生して折り合いをつけ、それなりに生きていくために何が必要なのか考え、それを支援するメニューを提示してくれる団体を自己選択してはと思います。
 経済的自立という一元的価値観にとらわれ、いきなり民間企業で働けという方法ほど怖いものはありません。色々なタイプの自立をミックスさせ、徐々にスタートしていくほうが効果的です。あせりは禁物です。
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by merca | 2006-12-30 10:36

成熟社会という物語

後期近代産業社会論=成熟社会論=ポストモダン論は、全て何らかの区別に基づいた物語にしかすぎず、どこにも実体はなく、床屋談義以上のものでないのである。
 しかし、この床屋談義ほど怖いものはない。
 なぜなら、床屋談義も多くの人々が支持・共有し、それにまつわるコミュニケーションをすることで、リアルなものとして生成するからである。物語に先行して存在する社会という実体はないが、あたかもあるがごどく創発されるのである。
 まずは、(存在論的社会観/創発論的社会観)の区別を述べなくてはなるまい。

 また、コメント屋としてコメントしました。
 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10022033872.html
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by merca | 2006-12-24 16:28 | 理論