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手段にすぎない自然科学

 (自然)科学は、手段にしかすぎず、目的を提供してくれるものではない。そのような脈略から、科学よりも、科学をどんな目的で使用するのか、そちらのほうが大切であると、科学者自身が警告を発していた時期があった。
 
端的な例で言うと、冷戦時代には、核開発という科学技術を戦争目的で使用することの危険性がとりざたされてきた。科学は、利用者の目的によって、人々のためになったり、また人々を苦しめたりする。初期の科学批判は、このようにしてなされてきた。つまり、科学の発達が人間を必ずしも幸福にするものではなく、科学を利用する適切な目的や意味を追求するほうが大切だという反省が出てきた。

 手段ではなく、目的を追求する学問を哲学という。存在=「世界はいかにしてあるのか」は科学に任すとしても、価値=「いかに生きるべきか」という問題は、手段の学としての科学では追求できないのである。

普通、このようにして、科学は人間の幸福(利益)のための手段であるとして、相対化されてきた。目的としての価値の問題は間違であるとかないとかという次元ではなく、人々が適切であり、何が善であるかと考えるという社会的リアリティ=合意や共有の問題であり、自然法則を扱う自然科学が入り込む余地はない。哲学のほかにも、しいて言えば、社会科学のみがこれを扱うのである。特に、社会学が有効なのである。
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by merca | 2007-03-25 19:23 | 理論 | Comments(0)

二つのリアリティ(真理観)

 真理観には、大きく分けて二つある。物理的リアリティと社会的リアリティである。
 物理的リアリティとは、対象と認識の一致に基づく真理観である。例えば、AとBという物体があり、「AはBよりも大きい」という認識は、認識主体が対象との関わりだけで判断できる。対象を見るだけで自己判断できる。他人に聞く必要はない。もう一つ例をだすと、目の前に有る米粒の数は、数えればわかる。これも対象との関わりだけで判断できる。このように、認識主体が対象との関わりだけで正しさを得ることができる真理を物理的リアリティと言う。
 一方、社会的リアリティとは、他者の認識との合致や合意に基づく真理観である。例えば、政治的意見や道徳の問題は、直接正しさを判定することができないので、議論等を通して人々に受けいれられたりして、正しさを獲得していく。例えば、平和主義が正しいと思う人が多くいれば、それは正しくなる。対象との関係性から正しさを得ることはできず、人々との合意形成によって真理だと思われる。一つの認識は多くの人々に共有されることで、正しさを獲得するという真理観である。ある道徳が正しいとされるのは、その社会で多くの人がその道徳を共有しているからである。

 一応、物理的リアリティは自然科学に、社会的リアリティは社会科学に対応していると考えられる。これらは相互に独立的であり、一方に還元されることはない。例えば、「AがBよりも大きい」という物理的リアリティに基づく自然科学的真理は、社会や文化が異なっても同じである。アメリカ人が見ても、インド人が見ても、AがBよりも大きいと判断するであろう。これは、社会や文化を越えた正しさ=普遍的真理だと考えられる。決して、社会や文化によって真理が異なるというイデオロギー論や文化相対主義には還元されない。自然科学が近代社会のイデオロギーだというのは、確かに社会的リアリティの次元では正しいが、対象と認識が一致しているという事実内容の次元とは直接関係ない。この点、よく混同されている。自然科学的真理の正しさは、合意や多数決で決まらない。あくまでも対象との関係性で決まる。自然科学を近代社会のイデオロギーだから真理ではないと言ったところで、正しさを否定したことにならない。
 また、社会的リアリティは、物理的リアリティと関係ない。政治的意見や道徳の正しさは、人倫関係を超越した自然法則から導きだせるものではない。人倫関係の内部から導きだせるものである。早期から社会学はそのことに気づき、道徳を分析対象にし、実証的に研究してきた。

 科学というものを物理的リアリティに準拠して考える論者が、疑似科学として社会学を批判するのである。しかし、社会的リアリティに準拠した真理観が存在することがわかっていないのである。
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by merca | 2007-03-21 00:55 | 理論 | Comments(0)

疑似科学批判論者への疑問

 科学という近代社会のイデオロギーにこびるわけではないが、実は、社会学は、自然科学よりも科学的である。社会学は科学の王である。ある一つの現象を例にとろう。
 
 例えば、客が訪ねてきて、お茶を勧めたところ、手で茶わんを持ち上げ、お茶を飲んだとする。茶わんが持ち上がった現象の原因については、いくつもの説明ができる。
 物理学者は、引力よりも強い力が手にあり、それによって茶わんという物体が持ち上がったと説明するであろう。手という物体が茶わんという物体を押し上げたことが、茶わんが空間移動した原因であるというわけである。また、生物学者は、脳内の神経反応が筋肉を動かし、茶わんを持ち上げたと説明するであろう。しかし、自然科学的説明の他にも、次のような説明が成立つ。

 客にかけた「お茶でもどうぞ」という言葉が原因で、客はお茶を飲まないと失礼にあたると判断し、お茶を飲むために茶わんを持ち上げ、茶わんが移動した。この場合、この現象が起った原因は、言葉の意味を受けた客の目的意思である。つまり、原因結果という図式は、目的ー手段という図式に変換されて説明される。客は失礼に思われては困ると思って、その手段として、茶わんを持ち上げてお茶を飲んだ。社会学的には、この現象は行為やコミュニケーションと呼ばれる社会現象である。社会学は、人間の行動を原因と結果ではなく、目的ー手段(プラス規範の場合もある)で解釈し、行為として説明するのである。ウェーバーは、これを理解社会学と呼び、立派な科学とした。

 このように、茶わんが空間移動した現象の原因は、物理学や生物学だけではなく、社会学からでも説明がつく。それでは、どの原因が本当の原因なのか? どれも原因と言えるであろう。どれを欠いても、茶わんが空間移動した現象は成立たないからである。その意味で、どの学問からの説明も科学的真理である。社会学的説明も物理学的説明や生物学的説明も、同等の真理性をもつことになる。

 それに、理解社会学の説明は、現象を起した対象に直接聞くことができる。人間の行為だからその行為者たる人間に尋ねることができる。この点、他の科学よりも有利である。他の科学は外からの観察にしかすぎず、本当にそれが原因かと対象に尋ねることはできない。行為を対象とする社会学は、行為がどんな目的で選択されたか当の行為者に聞くことで、行為の原因を確定できる。これは、ある意味、まさしく対象と認識の完全一致であり、もっとも科学的であるのである。科学の本質が対象と認識の一致にあるのなら、自然科学以上に、社会学こそが完全な科学である。先の例で言うと、ある調査者が客に「相手に失礼だと思ってお茶を飲んだのですね」と聞いたら、「まさしくそうです。よく私の気持ちをわかっている。」と答えるであろう。

 また、日本社会においては、お茶を勧められた客がお茶を飲むという現象は、反復性、法則性もあるだろう。同じような場面をつくると、大方、別の人でもお茶を飲むであろう。つまり、行動の予測ができるのである。さらに、もし客がお茶を飲まなかったとしても、その理由を聞くことで、そのようなことがなぜ起ったのか説明できる。例えば、客に聞くと、「お茶を勧められて飲まなかったのは、お茶が熱そうに見えたから後から飲もうと思った」と答えたりするわけである。例外が起った時の説明もできるわけであり、またこれも至極科学的である。

 究極的にいうと、物理学や自然科学のほうがむしろ不確かである。外からしか観察できないわけであるから、複雑な現象になると、隠されていた別の原因や要因が後からよく発見されたりする。しかし、行為を対象とする社会学には、調査対象が虚偽を申告しないかぎり、それは起こり得ない。

 外的観察しかできない自然科学よりも、内的観察ができる社会学や人間科学のほうが、対象と認識の一致という点において、より科学的である。

 疑似科学として社会学を非難する論客たちがいるが、きちんとした手続を踏んだ社会学ほど科学的な学問はないのである。

 あとになるが、本当は、数学こそが最大の疑似科学であることを明かしたい。

参考・・・議論反射ブログ
 http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8010.html
 
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by merca | 2007-03-14 00:04 | 理論 | Comments(3)

価値観強制としての教育

 
 若者達の間に、人に価値観を押し付けてはいけないという規範が流布している。この規範を若者が絶対化するために、教育そのものが成立たないと悲鳴をあげる大人たちがいる。なぜならば、教育の目的は、社会に適応できる人間をつくるために、子供に価値を伝達することであるからだ。教育の本質は、価値観の押し付けである。プロ教師の会という教育思想集団がこの現実にもっとも自覚的である。彼等の思想は、教育を子供の社会化(社会的価値の内面化)として捉える古典的社会学理論(規範主義パラダイム)に準拠している。

 教育社会学の古典的な思考枠組みからは、殺人禁止道徳=価値観(命は尊い)についても、最初から子供が所有しているわけではなく、後天的に教育によって植え付けられると考えられる。従って、この立場からは、殺人禁止道徳を所有していない人間は教育の失敗として捉えられる。

 少年による猟奇的殺人が起きた時には、まずは教育の失敗として考えられ、マスコミの報道を通して、事件を起した当人だけではなく、世間の全ての子供に十分に教育が行き渡ってないと憶断され、教育パニックなるものが起り、教育者によって命の大切さを押しつける道徳教育が施されるわけである。殺人を肯定する子供が出るということは、教育者からしたら、価値伝達(人間として生きるための価値の伝達)の失敗であり、教育の敗北を意味する。

 ところが、先にいかなる価値観も押し付けてはならぬという価値規範を内面化してしまっている若者達は、価値観の押し付けである教育そのものを拒否するため、殺人禁止の価値観も押し付けることができないのである。ここでジレンマが起きてくる。個人主義の絶対的原理である価値観強制禁止道徳と、人権主義の根本原理である殺人禁止道徳の対立である。どちらを優先させるべきかである。言い換えれば、これは相対主義と絶対主義のどちらを選択するかと同じである。

 この問題を解決するには、価値観の種類を分類する必要がある。価値観は、善/悪、損/得、好/嫌、恥/名誉の四つに分類される。まずは、好/嫌は人の好みの問題であり、押し付けるべきものではない。損/得や恥/名誉も、同じである。周りから見て他人が損をしていたり、恥をかいているのを見て、助言ぐらいはできるが、考え方や行為を強制することはできない。自己選択の世界である。
 さて、善/悪はどうだろうか? 善/悪とは、他者との関係性における規範である。関係性とは、自分の行為が他者に影響を与えるという事態をさす。自己は、他者の幸不幸に影響を与える責任を負うことになる。結論からすると、善悪の価値観だけは他の価値とは異なり、他人に押し付けることが許される価値観である。要するに、他人との関係で生じてくるものであるからである。

 実は、価値観強制禁止道徳それ自体が、善悪の次元の価値観であり、これを他人に主張することで、すでに自己の価値観を押し付けているのである。そのことに若者は気づいていない。他人から価値観を押し付けてきた時に、いかなる価値観も押し付けてはいけないという理由で拒否したら、それは押し付けてきた他人に対する価値観の押し付けになるのである。自己言及のパラドックスと構造は同じである。言い換えれば、価値観強制禁止道徳は、価値観を押し付けてくる他者からの価値観を受け入れても拒否しても、矛盾が生じ、成立しないのである。

 現実社会に価値観強制禁止道徳を生かすためには、価値観の分類という新しい区別から観察する必要がある。要するに、個人だけにかかわる損/得、好/嫌、恥/名誉の価値観に関しては押し付けてはいけないという原理を適用し、他者との責任関係に関わる善悪の価値観に関してだけは適用外とするわけである。そうすることで、価値観強制禁止道徳はうまく機能する。だから、人権思想に基づく殺人禁止道徳は、善悪の次元の価値観なので、価値観強制禁止道徳の適用外であり、押し付けてもいいわけである。

 善悪の価値観は、他の次元の価値観と異なり、形式的には、はなから他者に押し付けてもいいという定義が含まれているのである。社会学的にいうと、個人の趣味や利害だけに関わる価値観だったら、最初から道徳とは言わないのである。なのに、他者との関係性のレベルの価値観と個人のレベルの価値観を混同して、やたら価値観強制禁止道徳を主張しまくる自己防衛的自我をもつ若者たちが多いのである。

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by merca | 2007-03-11 11:11 | 理論 | Comments(0)

無為の共同体と空の思想

 ナンシーの「無為の共同体」によせて

 自己利益や承認欲求のためではなく、存在そのものとして、人は他者と共に存在することを必要とする。人は他者がなければ、自己の死すら全うできない。基本的に、生死には、他者が絡む。生は、親という他者を必要とする。死は、他者から見取られたことで、はじめて死としてみんなに認知され、伝えられる。生死という人にとっての根本的真実=宿命は、他者と共にしかあり得ない。人は人と生死を分有する。人は、「共存在」である。

 しかし、かような共存在という在り方あるいは「無為の共同体」は、俗にいう共同体とは異なる。ここがナンシーの哲学の要諦である。人は、「複数にして単数の存在」である。これは、唯一の存在が複数共に存在しているということを指す。共にあるが、全体性としての同一性の部分として統合されているわけではなく、またバラバラに切り離されて存在しているわけでもない。前者は俗にいう共同体であり、後者は俗にいう個人主義である。すなわち、「無為の共同体」は、同一性と差異性のどちらにも還元できない世界観であり、共にあるということこそが根源であるという哲学である。言わば、(共同体/個)という区別を無効にする哲学である。
 
 龍樹は、中論において、「存在は、自から生じず、他から生じず、またその両方からも生じず、またそれら全てによらずしては生じない」という四句分別という論法を使っている。自己原因、他者原因、相互原因の全てを否定するとともに、それら全てが必要だとする思考である。ナンシーの「複数にして単数の存在」という矛盾的表現と通じる部分がある。というよりか、龍樹の四句分別は、ナンシーの言い表わそうとしている世界をより正確に表現していると思うのである。ナンシーにおいても、自他のそれぞれは孤立的に実体化されないし、自他の関係性も実体化されない。同じく、龍樹は空の思想によって、いかなる存在の実体化も否定した。その論理について言えば、龍樹のほうが洗練されている。

 ともあれ、唯一者が複数共に存在するというナンシーの哲学は、人権主義よりも根源的な思想であり、また物語論も超越しているのである。また、レヴィナスの他者論(他者の実体化)の欠点も克服している。
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by merca | 2007-03-09 01:59 | 理論 | Comments(0)

普遍道徳としての人権思想は可能か?

 人権思想に人類普遍の道徳としての資格があるか論じたい。そもそも道徳とは、人と人の関係性におけるあるべき規範である。道徳は、人間どうしの関係性の範囲によって規定される。だから、共同体の道徳は、その共同体の成員の中でしか正当性を持ち得ない。しかし、人権思想の関係性の範囲は、全ての人間であり、特定の国家や共同体を越えている。全ての人間どうしの関係性を範囲とする。範囲においては、人権思想は、普遍道徳としての資格はある。民族主義や伝統主義などの関係性の範囲が限定された道徳は、人権思想によって相対化されてしまう。
 人権思想に匹敵する関係性の範囲をもつ思想が他にいくつかある。例えば、レヴィナスの他者論など、全ての人間を対象とする哲学は、全て道徳化ないしは倫理化できる。
しかし、原理上、人権思想の関係性の範囲は、自由と平等をもつ個人からなる近代社会の成員だけである。人権思想でいう人間とは、近代社会の取替可能なユニットなのである。まずは、近代社会に登録されていないといけない。近代社会以外の人間を含めるためには、他者論を応用するしかない。(取替可能=個人/取替不可能=実存)というコードで区別すると、人権思想は取替可能、他者論は取替不可能に対応することになる。他者論のほうが射程が広いのである。

 また、人権思想のコードは、(人間/動物)である。人権思想を相対化できるのは、(生命/非生命)というコードに基づく思想である。例えば、仏教思想である。人間だけではなく、生命あるものに対して尊重し、憐れみをかける思想であり、人権思想よりも射程が広い。
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by merca | 2007-03-04 00:55 | 理論 | Comments(0)

関係主義という理想主義

   内藤朝雄著「いじめと現代社会」論評3

 内藤氏は、自由、平等・人権が人間をバラバラにするという全体主義者の誤ったレトリックを暴露している。全体主義者のレトリックは、昔からある個人主義に対する古典的な批判である。つまり個人主義は、人間の連帯を解体し、バラバラにするという批判である。このような批判の前提には、現実に人間は人間関係の中でつくられ、人間関係の中で生きる意味や幸福を実現する存在であるという関係主義がある。人間にとって必要な人間関係を否定する個人主義は、けしからんというわけである。しかし、個の権利を主張することがそのまま全ての関係性を否定すると考えてしまうのは、おかしい。共存社会で否定される関係性は、強制的な関係性のみである。強制的な関係性とは、人間に同質性を全面的に押し付ける共同体的関係性である。そのような関係性は排除されるが、関係性そのものを否定するではなく、むしろ自己選択によって多様な関係性を築くチャンスが多く獲得できる社会がいいという。内藤氏は、それを「きずなユニット」と呼んでいるようである。
 内藤氏のいう共存社会は、個人の意思に反して関係性や共同性が強制されることがなく、自他の意思の合意の上で自由に多様な関係性や共同性をにつくりあげることができる社会なのである。

 人は人の中で人となり、人が人を必要とするというのは、確かに真理である。しかし、同時に、いじめや虐待のように人が人の中で人格を剥奪され、非人間化され、人は人にとって狼となるのも真理である。短絡的な関係主義者や共同体主義者は、人間関係のプラス面しか見ていない理想主義者である。このような短絡的な理想主義者が、個人主義や人権思想を否定しても、説得力に欠くのである。人権主義者を理想主義として非難する伝統主義者がいるが、実は、人権主義者のほうが人間のマイナス面を観察した現実主義者なのである。関係性が人間にとってマイナスに転化した時には、いつでもその関係性から離脱できる社会の仕組みをつくる必要があるのである。そのための社会全体の仕組みが人権思想に基づく日本国憲法である。

 
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by merca | 2007-03-03 09:03 | 理論 | Comments(0)