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多様性の受容

 堀内氏、宮台氏、鈴木氏の「幸福論」では、多様性の受容が重要な価値として提示される。過剰流動性にどう対応するのかという課題とともに、多様性をどう処理するのか、これも、成熟社会での大きなテーマとして扱われている。多様な価値観やライフスタイルの共存を認めるわけである。特に、エリートは、多様性を受容する忍耐力と感性が必要だというのである。多様な異なる価値観やライフスタイルに触れても、道徳的拒絶反応をせずに、自我が壊れない強さが必要であるということだと思われる。一方、西部邁や小林よしのりなどは、このような価値観の多様性が相対主義やニヒリズムをもたらし、人々の生きる意味を破壊する悪になると捉えているように思われる。
 
 後期近代社会における多様性の問題は、ヤングの「排除型社会」でも扱われている。都市社会にその典型を見る。都市には、多様なライフスタイルと価値観をもつ人々が溢れているわけであり、そのような多様性をどのように処理したらいいのか人々に突きつけてくる。結局、都市社会に適応するためには、類型的に対人接触を選択・排除し、対人距離をとり、親密になることを避けることになる。これは、アーバニズムと呼ばれる都会市民の適応類型である。重要な点は、多様性が他者に対する不安心を掻き立てるという指摘である。つまり、多様性が個人の存在論的不安をつくると指摘している。多様なものが溢れる社会では、不安心を抱くことは感情的警告装置=自己防衛機能であり、当たり前というわけである。
 過剰流動性とともに、多元主義、相対主義の中で、人は生きることができるのか、これも後期近代社会のテーマなのである。今のことろ、多様性を受容して処理する装置は、リベラリズムしかない。しかし、人々が共存できるために、このリベラリズムが多様性をどのように調教するのかはっきりとしいない。また、リベラリズムだけでは、存在論的不安は処理しきれないというのは確かである。その点、宮台氏は気づいており、エリート支配による社会工学の必要性を唱えているのかもしれない。しかし、宮台氏の方法だけが全てではない。
 まずは後期近代社会など本当にあるのかという前提そのものを疑っていきたい。創発論的社会観に基づけば、そのようなマクロな社会の実体はどこにもなく、あるのはその都度創発されるコミュニケーション・システムだけだからである。その都度創発されるコミュニケーション・システムが果たして意味地平として(後期近代社会/前期近代社会)というメタコードを前提としているかどうかは疑わしい。
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by merca | 2007-04-30 10:47 | 社会分析 | Comments(0)

真近代社会


 久々にシステム論ではなく、弁証法で近代社会を記述してみたい。
 
 前期近代社会は、包摂型社会であり、人々を同一化・包摂化していく運動として記述できる。これを包摂の弁証法と呼びたい。
 後期近代社会は、排除型社会であり、人々を差異化・排除化していく運動として記述できる。これを排除の弁証法と呼びたい。
 さらに、前期近代社会と後期近代社会の止揚として、同一化・包摂化と差異化・排除化を同時に行っていく運動として記述できる社会を想定できる。これを循環型社会と呼び、近代社会の構造的完成形態たる真近代社会と呼びたい。

 後期近代社会たるポストモダン社会は、そのうち終焉を告げると予言しておこう。
 
 真近代社会の登場によって、多様化や流動性は問題でなくなる。そもそも多様化は前期近代社会の同一化・包摂化の対立物であり、その反動として起った。大きな物語の凋落を意味する。また、流動性は、共同体的固定性の反動として起った。多様化や流動性は前期近代社会の価値観からの解放を意味する。しかし、今度は過剰な多様化と過剰な流動性からの解放を目指す運動が必要となる。もはや前期近代社会にはもどれない今、多様性と同一性、固定性と流動性の四つのファクターを止揚する社会が求められる。それが真近代社会である。

 真近代社会を貫通する同時的弁証法を提示しておきたい。
 その範囲は可能態としては世界すべてを含むが、その都度の現実態としてはやはり一定の境界線をもつ。何ものかを境界線の内に入れると同時に何ものかを外に出すことで、境界性は常に変動する。同一化と差異化、包摂化と排除化を同時に行うのである。
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by merca | 2007-04-22 23:09 | 理論 | Comments(0)

エリート論批判

 後期近代社会を排除型社会と位置付ける学者が出てきた。ジョック・ヤングである。後期近代社会論は色々とあるが、これは面白いと思った。
 
 ジョック・ヤングの「排除型社会」という書物が翻訳された。宮台一派が過剰流動性による感情的安心感の欠如を不安の根本原因として捉えるのとは少し違った視点がそこにはあった。もちろん、重なる部分も多い。
 
 さて、近代社会前期は包摂型社会であり、政治、教育、経済、法律の全ての分野において、人々を同化してきたという。大きな物語が文化的目標として機能していた時代である。ところが、消費社会化することで、価値観が多様化し、文化的目標が分散し、同化する目標を失うと、経済的不安や存在論的不安などから、排除を帰結するようになった。後期近代社会論としては、床屋談義に終始しがちなポストモダン社会論よりも、はるかにリアリティがある。
 例えば、日本社会でも、教育の分野において、エリート教育が叫ばれている。誰でも頑張ればできるという努力主義によって落ちこぼれを救いあげようとする教師も随分減ってきたと思うのである。落ちこぼれは切り捨てて、エリートの力を伸ばすることに教育政策を注ぎ込むほうが合理的だというわけである。また、刑事政策においては、犯罪者は社会復帰させるよりも厳罰化し隔離したほうがいいということになる。
 
 エリートがこの排除型社会をいかに舵取りしていくのか、そこに宮台氏の関心があるようである。しかし、エリート/非エリートの区別基準そのものがすでに排除型社会の産物であり、包摂型社会に後戻りすることはできないかもしれない。エリートはエリートであるかぎり、エリート階層の価値観しか体現できないおそれがある。昔は、学歴を身につけるか、商売で成功するなどして、下層階層からエリートに移動した人物が多くおり、官僚になったり政治家になった。排除型社会では、社会階層の移動がなくなる。包摂型社会では、エリートも非エリートも、同じ文化的目標をもつことができたが、希望格差社会論で指摘されているように、教育政策の変化のためか、子供達に文化的目標も平等に内面化されていない。

 さて、包摂型社会から排除型社会という社会変動論の解釈であるが、社会が飽和点に達したという議論も考えられる。社会が人々を同化・包摂する近代化の運動が飽和点に達した時、逆向きの運動として排除に動くというわけである。しかし、今後、排除ばかりしていては社会が回らなくなるので、包摂のほうに向かうことも考えられる。ちょうど、景気の変動と似ている。社会システムは、経済システムが不景気と景気を繰返すように、排除と包摂も繰返す。この振幅をコントロールするのが、社会工学を身に付けたエリートかどうかはわからないが・・・。
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by merca | 2007-04-22 13:15 | 社会分析 | Comments(1)

恣意性の克服

 宮台氏の恣意性についての考えに、システム論的思考の限界がみてとれる。恣意的に引かれた(我々/我々以外)という区別は常に動いており、それ自体変動的であり、固定的でない。システム論では、この点を捉え損なっている。
 
 世界宗教や世界帝国は、境界線の流動性を利用している。世界宗教や世界帝国においては、全ての人が可能的に我々であり、そのような外部を取り込む運動として存立している。万人が可能的帝国民あるいは可能的信者である。特に、世界宗教は人を選ばない。どのような貧民でも、受け入れる。そのようにして、世界宗教は社会=システムを越えてきた。これは一つの弁証法である。可能性レベルでは内外の区別がない普遍性(必然性)を保持し、現実性レベルでは内外の区別がある特殊性(偶然性あるいは恣意性)を保持する。普遍性と特殊性の弁証法である。このような作法によって、システム論で問題になっている事柄は乗り越えられる。ただし、対立物を外につくって取り込んでいく、ヘーゲルの段階的弁証法とは異なる。同時的弁証法である。

 (我々/我々以外)という境界が固定化していると捉えるシステム論においては、再参入によってシステムは存続しようとするが、弁証法は別の仕方で自己を維持しようとするわけである。

 
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by merca | 2007-04-22 07:28 | 理論 | Comments(0)

恣意性「幸福論」書評2

 次に恣意性について吟味したい。
 恣意性とは、(我々/我々以外)の境界線に必然性はなく、恣意的に境界線がひかれることである。
 例えば、人権思想についても、これはあてはまる。人権には選挙権も含まれるが、選挙権は子供や外国人には適用されない。人と言っても、子供や外国人は人権思想の適用外となる。この線引きに究極的な正当性の根拠は無く、哲学的には恣意的という他ない。民主主義や平等主義とて同様である。必ず適用範囲というものがある。絶対的な民主主義や平等主義はあり得ない。
 さらに重要なことは、人権主義者、民主主義者、平等主義者などの普遍思想を唱える者自身にとっても、この恣意性な自身の境界線は盲目的であるということである。他の観察点から観察してのみ、この境界線は透明化される。(我々/我々以外)という差別は、どんな平等主義者も拭えず、完全な平等主義は不可能であるどころか、平等主義も自身の地平としてかえって(我々/我々以外)という差別を前提としてのみ可能となる。従って、平等主義を唱える全ての解放活動もこのような差別を前提としてのみ可能である。殺人禁止という道徳規範も、(我々/我々以外)という差別に準拠していると言える。
 ちなみに、自身がよって立つ自身に見えざる地平は、大澤真幸の「行為の代数学」によれば、書かれざる囲いと呼ばれるものに相当する。
 「幸福論」では、この恣意的な境界線を一般大衆に開示してやるべきか、提示しないべきか議論されていた。ファシズムも民主主義も、(我々/我々以外)という恣意的な差別を前提としている点において、同一であり、本質的差異はない。格差社会論で言うと、格差社会の外に外国人労働者が置かれていることは盲点になっている。ニートやワーキングプアというが、それは全て日本人を意味する。もっと貧困な外国人労働者の問題は隠され、盲点になっている。つまり、三浦展などの安易な格差論においては、確実に南北問題的な格差は盲点となり、隠されている。(我々=日本人/我々以外)という恣意的な差別の上に、格差社会を批判する平等主義的言説が成立っていることを知ると、一般大衆がどう反応するのか興味深い。道徳的に混乱するのか知りたい。自己の道徳が一国に限られる相対的なものと知った時、人は、その道徳(この場合、平等主義)を本当に信奉できなくなるおそれがある。

 全ての言説は、恣意的な区別という意味地平の上に成立つ。どんな真理とてその例外はなく、全ては相対的である。例えば、自然科学は自然科学自身が前提とする恣意的な意味地平に盲目的である。社会科学や哲学からの観察によって、その盲点は暴かれるのである。恣意的区別に基づかない議論は、特定の形而上学を使用するしかない。
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by merca | 2007-04-21 11:21 | 理論 | Comments(1)

過剰流動性の定義

「幸福論」では、幸福の社会工学、恣意性、過剰流動性、感情的安定、エリートと非エリート、多様性の受容などの言葉が飛び交い、これらを巡って議論がなされている。
これらの前提をまずは疑ってみたい。

 鼎談は、過剰流動性という前提に立って議論している。過剰流動性とは端的に言うと交換可能性を本質とする社会システムのことを意味するようである。社会システムが人間生活の全てをおおい、生活世界を圧迫し、交換可能なシステムの中で、人々が感情的安定性を得ることができない不安を問題視している。
 労働社会では、派遣会社のシステムがこれを代表していると考えられる。短期間で職場を転々と変わる。その都度、新たな環境におかれ、安定的な生活を保てなくなる。そこから将来の不安が生じてくる。また、出会い系サイトのように、恋愛においても、恋人がコロコロと変わっていく。また、離婚率の上昇に伴い、母親が何度も離婚し、子供にとっては義理の父親がコロコロと変わるシングルマザー的家族も多くなっている。取替えのきかない安定的な居場所がなくなってくる。近所も単身者の転居が多く、隣人がコロコロと変わる。これは、故郷喪失と言替えてもいいかも知れない。故郷は取替え不可能な居場所であるからである。
 
 しかし、よく考えれば、 戦後昭和初期の農村から都市への人口移動も流動的だと言えば流動的である。昭和初期の都市化現象との差異は何なのか? この点、明らかにしておく必要がある。ちなみに、戦後昭和初期の農村部から移動してきた都市市民たちは、結婚してマイホーム家族をつくったり、企業の家族的経営や労働組合を居場所にしたり、創価学会などの新興宗教や共産党などの中間集団が人間的紐帯を与えたりした。流動性や孤独化にまつわる不安に対して、核家族や中間集団が利用された。
 近代社会後期の過剰流動性は、人口移動とは異なると考えられる。流動はしているが、質的なステップアップや進化があるわけではなく、一つの閉じられた空間で永遠回帰あるいは輪廻しているイメージに近い。むしろ質的には何も変化しておらず、進歩がない流動性である。戦後昭和初期では、働けば働くほど、豊かな生活を獲得できるという目標があり、進化することができた。ところが、近代社会後期の過剰流動性においては、努力しても、その輪廻の輪から解脱することはできない、働いても金が貯まらない。ワーキングプアがそれである。不安とは、その輪から抜け出たら、地獄しかないという不安だと思われる。上への移動はなく、下への移動のみあるということであり、さらに不安を掻き立てる。
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by merca | 2007-04-21 08:07 | 理論 | Comments(0)

「幸福論」書評1「やっぱ宮台!」

「幸福論」の書評である。

「幸福への設計」を巡って、堀内進之介・鈴木弘輝が宮台真司に挑むというようなかたちで、鼎談は進められている。この本の主役は、堀内進之介であると見た。この人物、以前からブログなどを拝見させてもらい、私も新進気鋭の社会学者として注目していたが、とうとう一般の読者の前に現れたかと思った。三谷武司氏に並ぶ新人・大物社会学者である。
 
 社会学おたくである私は、社会学ブログを放浪し、若手社会学者や院生のブログを常に観察しているが、堀内進之介氏と三谷武司氏は面白い。これから期待できると思われる。加えて言うのなら、北田暁大や太郎丸博も面白い。
 いずれにしても、あまたの社会学マニアは、社会学のスーパースターである宮台氏を倒す若手社会学者の登場を待ち望んでいるのである。しかし、読んでいるうちに「やっぱ宮台、そもそも宮台、されど宮台」にならぬように心したい。

 まずは、本の帯の三人の顔写真のなかでは宮台が勝っている。一番、旧世代なのに一番若く見える。これはどうしたことか? 「やっぱ宮台!」だと感じさせる先制パンチである。他の二人は地味なサラリーマンにしか見えない。おやじ二人に若い宮台氏が説教しているようにうつる。すでに宮台氏の勝ちだと思った。こういう部分は、枝葉末節なことだと思われるかもしれないが、実は重要なのである。一流の編集者ならすぐにわかることである。本は読まれるのではなく、まずは読者に見られるのである。
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by merca | 2007-04-17 00:30 | 社会分析 | Comments(0)

貧困問題はつくられる。

 最近、他のブログにコメントするのを怠っていましたが、他ブログにコメントしました。(相対的)貧困や(相対的)幸福感そのものが構築されたものであるという前提のもとにコメントしました。(つくられたもの/つくられざるもの)という区別で貧困を観察すると、相対的貧困は他者との比較によって構成されたものであり、絶対的貧困は生命維持に関わる構成されざるものとなります。新進気鋭の社会学者・堀之内進之介氏が宮台氏らと「幸福論」という新刊を出しましたが、幸福も同じです。社会学者自身がいかに幸福という社会的構成物をつくるのか関心があります。ちなみに、絶対幸福というのは宗教が想定する超越論的なものです。この書物については、非常に興味有りますので、随時、評論していきたいです。

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10030005939.html#c10046708713
放浪のコメント屋・論宅です。安原さん 久しぶりです。後藤さんのコメントに関心があります。
 貧困や幸福感の問題ですが、やはり比較の問題を抜きにしては語れないと思います。幸福感や満足感は常に誰かとの比較でつくられます。多くの場合、自分達よりも上の社会階層が比較の対象となります。つまり、階層格差を前提として、相対的に貧困を感じ、不満足感から幸福でないと感じます。現実にあるのは、相対的貧困・相対的幸福感であり、階層格差を前提としています。逆にいうと、マスコミが格差社会論をリアルなものとして宣伝し、人々がそれが本当だとまともに受けとめると、貧困感を増長させ、幸福感も低下します。
 プチ貧困というのは、相対的な貧困のレベルをさすのではと思います。生命維持に関わる絶対的貧困との区別が今後の課題だと思われます。後藤さんのコメントに付け加えると、貧困も相対的である限り、つくられたリアリズムだと思います。
 安原さんが問題にしているのは、ホームレスに見られる餓死などの絶対的貧困のことではないでしょうか?
 追伸
 上記の議論と関係しますが、新進気鋭の社会学者・堀之内進之介氏が宮台氏らと「幸福論」という新刊を出しました。過剰流動性がもたらす不安を前提として幸福について議論していますが、床屋談義ならぬ居酒屋談義になっていないか論評したいです。
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by merca | 2007-04-15 12:17 | 他ブログコメント | Comments(0)

スペンサー・ブラウンの根本的誤謬

 区別とは境界である。境界は、囲み込むことで囲み込まれた内部領域と囲み込まれていない外部領域に世界を分割する。一つの円を思い描いてもらいたい。境界によって世界は二分割される。それとそれ以外の二つに分ける。このようなやり方で、スペンサー・ブラウンは、現象世界の成立を説明しようとした。
 これがスペンサー・ブラウンの形式の法則と呼ばれるものである。オートポイエーシス・システム論、ルーマンの社会システム論、大澤真幸の第三者審級論は、すべてスペンサー・ブラウンの形式の法則を基礎にしている。システムと環境の区別も、囲み込みよる境界に基づいている。
 ところが、形式の法則は、欠陥がある。大澤真幸は一つの境界の究極的未決定性を他者論(他者の指し示しとの関係)によって克服しようとしたが、私はそれ以前の前提に問題があると見ている。
 形式の法則では、一つの存在は囲み込みによって自己同一性を得るわけだが、その境界は他の一つの存在と重なることはないと考えている。しかし、本当にそうだろうか? 実は、そうではないと直観した哲学もある。一つはライプニッツのモナド論、もう一つは華厳教の事事無礙法界の存在論である。どちらも、一つの存在が自己の外部にある無数にある他の存在を映し出す窓口や鏡のように捉えている。華厳教の喩えでは、一つの珠が世界にある無限の珠をその表面に写し出しているという例えがある。これは、他の存在の境界が一つの存在の境界に一部入り込んでいることを意味している。つまり、一部、境界が重なっている。スペンサー・ブラウンの形式の法則では、そのような事態は無視されている。

 もし一つの囲い込まれた存在が他の一つの囲い込まれた存在と境界を共有するという事態を認めたら、スペンサー・ブラウンの形式の法則は、一から崩れさり、それ故、それを基礎とするオートポイエーシス・システム論、ルーマンの社会システム論も成立たない。
 実は、囲み込み境界の分離原則こそが、スペンサー・ブラウンの形式の法則の生命線である。このことに敏感であるシステム論者はほとんどおらず、安易にシステム論を利用し、コミュニケーションを論じている。
 
 そこで、スペンサー・ブラウンの弱点である境界の分離原則を取り外し、別の演算方式を考案し、他者論、単独性、無為の共同体などの超越論的世界についても、適用可能な実存の法則を定式化したい。ちなみに、ライプニッツの微積分の考え方は、一部それに成功している。別の演算法則に基づいたシステム論をつくりたい。
 
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by merca | 2007-04-14 10:06 | 理論 | Comments(0)

システム論の欠点

 ルーマンのシステム論には一つの欠点がある。連続性あるいは連続的変化を扱うことができないことである。一切の存在は絶えまなく変化し続けているが、その変化は連続的である。空間移動も形状変化も意識の持続もそうである。流れる川のごとく一切は常に変化している。仏教では所業無常と呼ばれる真理である。
 もともとシステム論は区別の論理であり、連続性を許容しない。世界の連続性を区別によって裁断したとしても、裁断しきれず、かならず規定され得ない部分が残り、世界の未規定性は克服され得ない。

 絶えまなく運動する存在としてシステムを捉えなおす必要がある。実は、自己言及のパラドックスは運動する存在には起こり得ず、それ故、また再参入する必要もない。パラドックスは、事物を区別することから生じる。ゼノンのパラドックスがその事例である。連続的に変化する存在を区別して捉えることから生じるのである。

 運動する存在として事物を記述する哲学的概念は少ない。コミュニケーションも一つの流れである。社会も切れ目のない流れである。一切は流れである。

 流動型システム論を提唱したい。実際には、自他の境界(システムと環境の境界)は、絶えまなく連続的に流動しているのである。
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by merca | 2007-04-10 22:03 | 理論 | Comments(1)