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道徳規範のレベル

 道徳規範には、(我々/我々以外)という志向対象範囲(道徳規範の通用範囲)がある。実は、その範囲は各種社会集団と重なっている。つまり、社会集団の数だけ道徳規範はあることになる。

 そこで、道徳規範を測定する場合、どの社会圏で通用する道徳なのか確定する必要がある。
 まずは、社会圏の種類として、宇宙全体=世界、人類社会、全体社会(国民社会)、組織、家族、仲間集団があげられ、それぞれに特有の道徳規範が存在する。ただし、道徳としての形式的機能は同じである。

 宇宙全体=世界・・・世界宗教
 人類社会・・・人権思想、自由と平等
 全体社会(国民社会)・・・憲法、公衆道徳、国民道徳
 組織・・・社内規則など
 家族・・・家族内役割
 仲間集団・・・状況=ノリ(場の雰囲気)

 それぞれのレベルは対立する場合もあり、どのレベルの道徳規範を測定するのか、そこが問題である。ポストモダン仮説は、どの集団の道徳規範が衰弱しているというのかそれがはっきりとしない。全体社会(国民社会)における公衆道徳に集点を当てている調査が多い。

 ちなみに、道徳と規範の相違は、内面と外面の区別に基づいている。規範は、行動レベルであり、道徳は心のレベルである。従って、規範は外面的制裁を伴い、道徳は内面的制裁を伴う。

 道徳主義者と言ったら右翼や保守のことをイメージする場合が多いが、お分かりのように左翼も道徳主義者である。左翼は、人権思想の道徳主義者である。左翼の仮説においては、人権意識という道徳が内面化すれば、いじめ・非行は防止できると考えられているわけである。右翼が国民道徳を全ての処方箋とするのと同じである。この点、よく混同されている。道徳の内容が異なるだけであり、社会学的には、どちらも十分に道徳主義者なのである。
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by merca | 2007-05-27 12:18 | 社会分析

社会的ドクサ論

 少しネットで検索すると、規範意識・道徳意識によって、いじめ・非行が防止できるという俗説が腐るほど流れている。この仮説は、教育学の世界では、定番となっているようである。これを道徳規範帰属仮説と呼びたい。
 また、同じくポストモダン社会あるいは成熟社会になって、価値観が多様化し、規範意識・道徳意識が希薄化してきたという言説も溢れている。これをポストモダン仮説と呼びたい。
 この二つの仮説が結合し、一つの社会的ドクサをつくる。つまり、「成熟社会=現代社会では、規範意識と道徳意識が衰弱していき、そのためにいじめや非行などの青少年問題が増加しているので、子供たちには教育によって規範意識と道徳意識を植え付ける必要がある。」という言説である。

 以上のような社会的ドクサの解体作業をする必要がある。社会学的に各種統計調査を参照し、道徳規範と問題行動の因果関係、相関関係を暴き、全てを道徳規範に帰着させる思考が非科学的であるという結論を導きたい。そのことで、教育パニックを防止したいと思う。

  読者の皆様へ
 道徳規範と問題行動を扱った調査があれば、そのHPやブログを教えて下さい。よろしく御願いします。
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by merca | 2007-05-27 11:44 | 社会分析

道徳意識・規範意識の測定

 道徳意識・規範意識は、本当に測定できるのであろうか? それを試みた論文がある。
 
 浅野智彦編「検証 若者の変貌」の第6章の浜島幸司の「若者の道徳意識は衰退したか」という論文である。
 「ニートっていうな!」の著者・後藤氏が若者バッシングとしてニート論批判を展開したのは有名であるが、社会学的には、上記の論文は後藤氏のニート論批判よりももっと意味は大きい。正規の社会調査法の手続きに従い、最近の若者は道徳意識・規範意識が希薄化しているという俗論を科学的に否定しているからである。
 
 教育会に蔓延る教育パニックの元凶である道徳オヤジ言説を駆除するだけではなく、実は、この論文が正しければ、宮台真司の成熟社会論や東浩紀の動物化論などのポストモダン社会論は、全て虚妄の床屋談義として斥けられることになるからである。実証的調査に基づく浜島幸司氏は、えらそうにポストモダン社会論を唱える思弁的論客の連中たちを破ったことになる。ポストモダン社会に入って価値観が多様化し、道徳意識・規範意識は希薄化してきているという仮説は、全て嘘になる。道徳意識の希薄化というポストモダン仮説の虚構を暴くことほど面白いことはない。

 浜島幸司氏は、時間厳守、行列への割込み禁止、ゴミのポイ捨て禁止、目上への敬語、投票、車内での化粧禁止、ボランティア参加の7つの項目で、道徳意識・規範意識を測定している。これらに共通するのは、これらを守ると人から賞賛され、逸脱すると、人から非難されるという点にある。ただし、少し甘い点は、これらを守ると自尊心がアップし、破ると自尊心が低下するということを質問していない点である。
 つまり、上記のルールを知識として採用して損得勘定で従っているだけなら、道徳とは言わないからである。ルールを自己の自我と結合させた時のみ、道徳と言える。だから、例えば、無関係な他人のゴミのポイ捨てを見たら、自分も腹が立つというレベルでないといけない。他人の反道徳行為を見たら、自己の自我が否定された気持ちになるということで、はじめて道徳として内面化したと言える。その行為が世間で非難されると言うことを知識として知っているだけでは道徳ではない。ニュースで極悪非道な殺人事件を見て、自分と無関係だけれども怒りを感じるというのは、殺人禁止の道徳を内面化している証拠である。

 ところで、私の見解は、こうである。道徳意識と規範意識が高ければ高いほど、ある種のマクロ社会環境(中間集団全体主義社会)におかれた閉鎖的対面的集団内ではいじめが発生しやすい。若者の道徳意識・規範意識が高いほど、いじめは発生しやすくなる。ただし、このことは、すでに社会学者・内藤朝雄氏が論証済みのことだと思う。道徳意識・規範意識がいじめに転化する仕組みを破壊することで、いじめは無害化される。

・集団の離脱・参入の自由選択化。
・多元的な集団所属(分属)の肯定。
・人権意識=普遍道徳による仲間集団道徳の相対化。(集団の閉鎖性の破壊)
 
 これらを可能にするマクロ社会環境が整うと、臨床社会学的には、いじめは無害化できると言える。
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by merca | 2007-05-26 10:50 | 社会分析

(学力/人間力)という二元コード

 教育評論家の森口朗 様への回答。
 
 嘆いておられるのは、二項対立区別になってしまったことですね。(学力/人間力)の二項対立図式になってしまい、学力の反対は人間力であり、人間力の反対は学力のようにコード化されてしまったということだと思います。人間力の中には、対人関係能力だけではなく、別の能力も含まれていてもいいはずです。根気強さ、あるいはスポーツや芸術ができる能力とかです。本来、人間力の中の一要素として学力を位置付けてもいいはずです。
 二項対立区別図式になってしまうのは、誰の立場からの観察であるかが影響しています。
 学力と人間力は、子供の立場から観察すると、勉強と友達と簡単に表現できると思います。子供にとっては、大きく言うと、学校は勉強をするところ、友達をつくるところとして意味付けられます。学校の授業は勉強のためにあるフォーマルな秩序です。それとは別に、子供達は同級生と友達になり、インフォーマルな仲間集団を形成します。いじめ・不登校は、このインフォーマルな集団の中で発生します。子供は学校で二つの関係を生きます。フォーマルな教師-生徒関係=勉強、インフォーマルな生徒-生徒関係=友達です。この二つの領域が学校の全てを覆っている状況では、二項対立的に区別意識を発生させます。勉強が苦手な子は、勉強はできないけど、友達が多くいるから俺のほうが上だとか思うわけです。また、友達がいない子は、遊んでばかりで勉強をしない連中は馬鹿だと思います。このような現実が、(学力/人間力)の二項対立図式の根底にあるメタコードであると見ました。
 
 まとめると、(学力/人間力)という区別は、(勉強/友達)というメタコードで、子供たちや学校文化を内面化した人たちから観察され、つまるところ、対立図式化されてしまい、学者や文部官僚の考えた人間力という概念は意味内容が別様にコミュニケートされてしまったということです。全ての概念は、受け取る側の区別によって、ずれて解釈され、変容を遂げます。
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by merca | 2007-05-22 08:43 | 社会分析

道徳的責任といじめ

 また、他ブログにコメントしました。法哲学のシステム論者のバベルさんのブログです。
http://ameblo.jp/tower-of-babel/entry-10028392579.html
 道徳がいじめの原因
 はじめまして 放浪のブログ・コメント屋・論宅と申します。  
 責任感覚つまり道徳規範を内面化することが、即いじめの防止につながるとは思えません。
 むしろ道徳こそがいじめの原因である場合もあります。というよりも、臨床社会学的には、いじめは一種の道徳的行為です。いじめは個を超えて創発された集団現象=相互作用システムです。仲間集団の役割行為として遂行されます。仲間集団にとっては、いじめることは集団を維持するための道徳的行為です。集団にとって気に食わない者を差別したり、いじめることは仲間から賞賛されます。逆にいじめなかったら自分が非難されます。また、全体社会のレベルでは、道徳を内面化した善良な市民ほど、国家の方針に従い、敵を差別・排除します。現代社会でも、社会学者・芹沢一也氏が指摘するように、道徳的観点から犯罪者いじめ(排斥)が行われています。責任感覚つまり道徳規範の内面化によって、いじめはよけいにはびこるおそれがあります。
 
 社会学者・内藤朝雄のいう中間集団全体主義に蝕まれた社会では、個々人がいくら善良であっても、いじめや差別という社会病理現象は集団・組織内で生じます。ちょうど、普段は善良な日本市民が、戦前、国家が全体主義化したとたん、朝鮮人を差別・迫害したように・・・。
 
 そういう意味からも、いじめを個々人の内面的な道徳による責任論や心の次元で解決しようとしても無駄です。全てが善人からなる社会でも、社会の在り方が中間集団全体主義であるのなら、いじめは生じるであろうし、善良(道徳的)であればあるほど、差別をすることになるでしよう。「いじめをやめよう」というスローガンを心の教育や道徳教育として子供に伝えるだけでは意味がありません。
 1人1人の心が変われば、社会も変わるという綺麗ごと=方法論は、嘘です。社会は個人の心に還元されませんから。
 道徳コードに準拠した責任論も、かえって、いじめを再生産しないか心配です。むしろ集団で生じる道徳という暴力をどのように飼いならすのかが課題です。いじめの本質は、集団現象たる道徳による暴力です。
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by merca | 2007-05-15 21:09 | 他ブログコメント

精神も物質も同じ

 世界論の立場からすれば、心も物質もシステムであり、外と内の区別をもつ。

 全てが心がつくりだした現象だとする意識一元論も、世界=心と等値した時点で、心は心と表現する必要はなくなる。なぜなら、一切は心がつくりだしたものならば、差異は寂滅するからである。
 全てが物質(あるいは脳神経)がつくりだした現象だとする物質一元論も、世界=物質と等値した時点で、物質は物質と表現する必要はなくなる。なぜなら、一切は物質がつくりだしたものならば、差異は寂滅するからである。

 その範囲が一切であるものは、世界そのものと等値されてしまい、外がなくなり、自己の意味境界を失い、寂滅する。心と物質の区別があるからこそ、互いを外として認識できる。心も物も、つまるところ存在の両側面である。
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by merca | 2007-05-13 10:04 | 理論

世界論

 世界とは、一切と一切の関係そのものである。従って、世界には、出ることも入ることもできない。決して、世界の外にいかなる存在もでることはできないのだ。内と外の区別なき、絶対無限、これが世界と呼ばれるものである。世界は、有限と無限の区別すらもたない無限集合である。

 一切の存在が世界に置かれている。世界に置かれることなしに、一切の存在は存在しえない。従って、世界の中では、一切の存在は生じることもなく、滅することもない。永遠不滅である。

 我々に見えている世界は、世界の一部でしかない。世界の全ては決して認識されえない、不可視である。なぜなら、その外に出ることは不可能だからである。世界の一部、一領域しか認識できない我々の意識は、有限である。ある存在が無に帰すとは、ある存在が世界の一領域から別の領域に移動し、我々の認識から消え去ったことをさして言う。ある存在が生じるとは、ある存在が世界の一領域から別の領域に移動し、我々の認識に立ちあらわれたことをさして言う。ある存在の生成消滅あるいは生死は、単なる世界内部での移動に他ならない。決して、世界から出たわけでない。

 我々は、認識することなしに、我々自身が存在していることを知っている。認識以前のこの知を、意識作用以外の仕方で、我々は獲得している。我々は自分が存在していることを決して認識できないが、存在していることを知っている。それは、存在することがそのまま知であるような知である。存在と知の絶対的一致は、我々が存在していることのうちにそのままある。全ての存在者が覚者であり、一切の支配者、主役、中心である。一切は悉く一切のままで一切に対して平等である。一切がそのままで唯我独尊である。

 人間にとって最初で最後の信仰とは、無限なる世界のうちに存在しているということを明確に自覚することに他ならない。この自覚が、一切の恐れをあるがままのものとして相対化し、無害なものとする。
 
 恐れる事勿れ、一切は一切のうちに一切を得え、一切が尊く、永遠不滅である。

            セントゴラス・ドン・ティオス
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by merca | 2007-05-07 21:49 | 理論

手塚治虫と夜回り先生

 もし亡き手塚治虫が夜回り先生と会ったら、手塚治虫は夜回り先生を漫画化したであろう。火鳥と同じものができるであろう。
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by merca | 2007-05-07 01:09

夜回り先生が見たもの。

 
 「夜回り先生のねがい」という本を読んだ。
 
 夜回り先生は、現代版のキリスト=身代わりのように思えて仕方ない。許しは訪れたようである。反対のもののなかにその反対を見て、許しに達した。貧しき者のなかにこそ神はあらわれる。汚れた大人の中に子供=神を見て、あれだけ憎んでいた大人を許すことができた夜回り先生は、はじめて真なる許しをおぼえた。人間の心の中には一切が含まれており、みんな平等である。それどころか全ては平等である。なぜなら、一つの存在がかけるだけでも宇宙は成立たないからである。
 一輪の花に仏あり、なぜなら一輪の花を見て救われるものがいるからである。
「一切衆生悉く仏性あり」とはこのことである。
 夜回り先生にとっては、子供が神仏であるのである。汚れた大人の中にそれを見たことは、蓮華の境地を見たことになる。

 
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by merca | 2007-05-07 00:18

夜回り先生と美輪明宏と宮台真司

  夜回り先生と美輪明宏と宮台真司
 
 希望にしかすぎないが、もしあったら、この三人の鼎談を見たい。おそらくすごいことになる。あったら怖いが、私はこのうえない至福にひたるであろう。なぜなら、この三人で世界の全てを語ることができるからである。思想と霊的直観にたけているものなら、この面白さが手に取るようにわかるであろう。おそらく、この日本で、この面白さがわる人間がいるとしたら、小林よしのりに違いない。 
 
 「幸福論」で宮台は発言していた。夜回り先生のようなタイプは、宮台を嫌うであろと・・・。この意味を解するものは賢者である。

 知、情、意の三徳がこの三者によって体現され、世界精神は、成就するからである。
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by merca | 2007-05-06 23:49 | 社会分析