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いじめ加害者は集団

 「いじめの構造」を読んだ。いじめの原因と責任は、区別されるべきだと主張されている。そのとおりだと思う。原因論は事実=認識に準拠し、責任論は価値(善悪)判断に準拠している。いじめられる側の存在もいじめの要因(必要条件)の一つであるが、善悪で判断すると、いじめた側が悪となる。いじめの原因と責任は区別され、処理される。

 ただし、原因論として、いじめの主体は集団であるという観察も追求すればと思った。社会病理現象に対して、法学的立場からは方法論的個人主義をとり、まずは個々人どうしの関係として原因を記述するが、社会学では方法論的全体主義を取るので、集団という根本原因からはじめて個々人の集団役割として現象を記述することになる。

 そこで、いじめの主体は誰かという問題を考えてみたい。これを確定するのは、いじめられている被害者=当事者から聞くのが早い。「Aたち、あいつら、クラスのみんな」と答える子も多いと思う。つまり、当事者は、いじめの主体を集団として観察しているのである。1人ではなく、集団という表象があるからいじめを怖く感じるのである。たとえ実際にいじめてきたのが1人であっても、その1人がクラスという集団を代表しているといじめられっ子にはうつるのである。また、傍観者=中立者は、多くの場合、被害者=当事者からはいじめ加担者としてうつるのである。また、いじめっ子自身がいじめ集団の物差で自己を位置付け自分いじめをして追い込んでいる場合がある。自分はいじめられて当然であり、価値のない人間だと思い込んでいる時がある。「自分を責めないで・・・」と相談カウンセラーが言う理由はここにある。いずれにしても、集団表象なのである。
 
 被害者=当事者の集団表象をまつまでもなく、いじめは集団現象であるが、いじめの責任主体として集団(相互作用システム)そのものが断罪されることはない。システム論社会学の見地からは、いじめの主体は集団であり、個々のいじめっ子=意識システムではない。この視点は、被害者=当事者の観察点と限り無く近い。
 しかし、法律(法システム)は集団そのものを責任主体と認めず、個々のいじめっ子を責任主体と考える。

 社会科学的にいじめを観察すると、いじめの原因論は、加害者と被害者の二者関係だけでなく、集団という第三の要素を必要とする。システム論的には、いじめの原因はいじめ集団(いじめシステム)そのものである。いじめ集団というシステムがいじめコミュニケーションを自己生産するのである。
 いじめシステムが準拠する二元コードを見抜き、いじめシステムを骨抜きにする方法を考えたい。今のところ、いじめシステムの二元コードは、スクールカーストの二元コードに価値コードが結合したものと考えているところである。
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by merca | 2007-06-24 09:27 | 社会分析 | Comments(4)

逆襲のシャア

 逆襲のシャアを見たのは、もう15年以上も前の話である。しりきれトンボの作品だと多くの若者が酷評したが、私はひどく感動した。
 右翼=地球連邦、左翼=ジオン公国として捉えれば、これは右翼と左翼の衝突である。地球=共同体の重力に縛られた地球連邦と、それに反発したジオン公国との戦いであるが、伝統と反伝統の対立を意味するものと考えられる。シャアは、アクシズ要塞をぶつけて地球を氷河期にして制裁を加えようとする。
 しかし、クライマックスシーンは、よかった。アクシズが地球に落ちようとするのを、地球連邦のみならず、敵であるジオン軍も自己の命を顧みず阻止しようとするのである。ジオン軍の兵士のこの行動をどう解釈するのか?

 本当は、右翼も左翼もないである。また、共同体主義もリべラリズムもない。そのような区別は人間がつくりあげた実体なき妄想である。 母なる地球から生まれた生命に差別はない。そのような視点に立てば、右翼や左翼という区別は人類にとって無意味である。生きとし生けるものは、三千大世界を分有するのである。

   社会的予言
 近い将来、右翼/左翼を無効化する社会的出来事がおこるであろう。世界が進歩する一つの契機になるであろう。それは太陽と月が一つになる時におこるであろう。
 
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by merca | 2007-06-23 10:27 | 社会分析 | Comments(0)

イマジンの平和思想

 平和主義という道徳は、音楽によって広まった。それがビートルズのイマジンである。戦争はなくならないのか?これは子供の戦争である「いじめ」にもあてはまる。
 
 想像してみよう いじめのない世界を
 そんなことを想像しているは僕ひとりでない・・・。

 想像することの先に、行為があれば、社会は創発される。なぜなら、社会や集団は実体がなく、その都度、コミュニケーションによって発生するものであるからである。これが創発論的社会観の極意である。 
    

 
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by merca | 2007-06-23 10:02 | 社会分析 | Comments(0)

いじめの構造

 「いじめの構造」という本を買いました。
 スクールカーストといじめを結合させたいじめ論です。
 当ブログにコメントをいただいた教育評論家の森口朗さんの著作であり、さっそく森口さんのブログにコメントしました。
 http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20070530#c1182556211

 詳しい書評については、また書きたいと思います。個人的には、いじめ集団論に合理的選択理論を適用したのが画期的だと思います。合理的選択理論の社会学者・太郎丸氏ですら、それはしていないように思えます。社会学者たちにとっては、先を越されたと言っても過言ではないでしょう。臨床社会学者にも見てほしいです。
 また、内藤朝雄氏が森口氏にどのようなコメントを出すか非常に興味深いです。
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by merca | 2007-06-23 09:26 | 他ブログコメント | Comments(0)

「日狂組の教室」書評

 「日狂組の教室」という本が出た。マンガ嫌韓流の手法をそのまま取り入れている。現代の若者の事実志向という傾向を察知し、歴史的事実でもって左翼主義者がもつイデオロギー神話を打ち砕くという話になっている。確かに面白い本である。嘘にとりつかれた大人たちが相対化され、共同幻想の物語が砕かれていく様は痛快である。

 二点ほど指摘したい。一つは、左翼イデオロギーであるマルクス主義や自虐史観は、エリートになれなかったうだつのあがらないホワイトカラーたちにとってはエリートに対する対抗思想として機能していたことである。本当のエリートになれなかったホワイトカラーが労働組合に入り、体制側を悪とし、自己を正当化するための道具としてマルクス主義は利用されてきたということである。校長や教育委員会の役員になれなかった中途半端でプライドが高い教師たちの慰めの道具であった。臨床社会学的には、日本における左翼イデオロギーは、非エリートのルサンチマンを集合的に昇華する一種の物語療法だったのである。もう少し言うと、体制側にとっても、競争に破れたホワイトカラーたちのルサンチマンを飼い馴らす装置としても機能していたと言える。左翼イデオロギーをとおしてのみ体制側に反抗できるというのは、体制側にとってはかえって管理しやすいのである。
 
 もう一点、こちらのほうが危ない。事実志向の価値観である。事実がわかればおのずと正義に導かれるという安易な思想が見て取れる。若者も左翼の大人も、事実が分かれば改心するという憶断的確信に支えられている。事実・真実を知ったら正義や幸福に導かれるという発想は、純粋まっすぐ君達の発想であり、真理を求めてオウム真理に入信した若者達とかわらない。理性的啓蒙に取り付かれた古い考えである。
 
 事実によって人は動き、正義や幸福に導かれるという思考は、社会科学的・行動科学的には誤りである。人は、事実・真実を行動原理とすることはあまりない。多くの人は欲望や習慣や道徳を原理として動く。事実のみが人を動かすという人間観察は未熟すぎる。そのような未熟な思考のものたちが宗教や左翼思想に騙されるのである。システム論者であるルーマンカルト達とは、そこが異なるのである。社会学的啓蒙に準拠する我々ルーマンカルトの連盟は、(真/偽)というコードを最上位にするかたよった態度はないのである。
 
 「日狂組の教室」の世界では、左翼も保守的若者も、事実によって人は動き、正義や幸福に導かれる、あるいは正義や幸福に導かれるべきだとする道徳的幻想=物語にとらわれていることに全く気づいていないのである。左翼や右翼の危険性よりも、こちらのほうが怖いのである。

 それと、忘れてはならないことがある。逆説的であるが、事実に絶対的価値を置く「日狂組の教室」や「マンガ嫌韓流」そのものが、マンガというフィクション=物語を通して事実を伝えようとしている点である。やはり物語を通してしか事実は伝わらないのである。論理を何万遍も唱えるよりも、一つの物語にのせて情報を語るほうが人には内面化しやすいのである。
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by merca | 2007-06-16 08:07 | 社会分析 | Comments(0)

統計調査信仰の脱構築

 統計調査そのものは真実ではない。実は、全ての統計調査は、非統計的かつ恣意的な境界線をメタコードにしている。このことはあまり知られておらず、統計データをそのまま社会的事実として鵜呑みにする人たちがいる。また、統計調査そのものに(統計的/非統計的)というコードを自己適用すると、たちまち自己言及のパラドックスに陥る。

 様々な機関が実施している、多数のいじめ実態調査を調べてみたが、大学生や単位制(通信制)高校生が調査対象外となっている。この線引きは一体何を意味するのか興味深い。思うに、大学生と単位制高校生においては、いじめはあまり起らないし、いじめは深刻化しない、という暗黙の仮説=物語が隠されているのではないかと考えられる。つまり、調査主体は、調査対象の選定に関して、暗黙の内に恣意的な境界線を引く。(調査対象/調査対象外)の区別は隠蔽されており、この区別自体は調査主体が所有する物語によって恣意的に線引きされている。それを可視化するためには、別の区別で観察する必要があった。(共同体的/非共同体的)という別の区別でいじめ実態調査を観察すると、調査から大学と単位制高校が排除されているという暗黙の境界線が可視化できた。区別による観察は、このように統計調査の恣意的前提も暴露することができるのである。
 他にも、格差社会の調査などで、調査対象から日本に住む外国人が排除されていることがある。その統計調査には、日本社会は日本国籍を有する納税者のみが支えているという恣意的な物語や価値観が隠されている。
 
とにかく、多くの場合、調査主体は、自己の統計調査がどのようなコードに基づいているのかについて盲目的である。別の区別に準拠する観察者によって指摘されてはじめてわかる。原理的にいかなる統計調査も、(調査対象/調査対象外)という区別をもっており、その区別の境界線は調査主体には盲目的であり、恣意的で主観的な物語によって設定されている。質問項目の選択やサンプリング集団のことを考えると、さらにその恣意性は免れない。

 社会は、統計調査によって測定されるが、学者の作成した統計調査の構造そのものは一つの解釈図式つまり無根拠な物語であることを忘れてはならない。統計調査という解釈図式=物語によってのみ、事実としての測定結果を得ることができるのである。事実は統計調査という物語によってつくられるのである。人は、事実そのものを手に入れることはできない。手に入れことができるのは、物語によって加工された情報のみである。というよりか、物語=解釈図式という道具を通してしか情報は入手できないのである。統計調査も道具にしかすぎないのである。道具を真実と取り違えてはならないのである。また、統計的データを処理する数学理論や論理法則も、情報を整理するための道具であり、それ自体は真実でも何でもない。
 
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by merca | 2007-06-15 22:56 | 理論 | Comments(2)

カノンコードの思想

 パッヘルベルのカノンは有名である。
 この曲は、多くの人々の癒しを与えている。ネットで検索するとわかるがカノンコードというコード進行があり、ヒット曲の多くがこのコードによって出来ているらしい。確かに、カノンコード認定曲は、どれをとっても素晴らしく聞こえる。少しいい曲だと思えば、カノンコードなのである。思想系の若者にもカノン好きが多い。
 町中を歩き、ふと流れて来たカノンやカノンコードの曲によって、癒され、励まされ、自殺を免れた人も多いと思う。癒しと励ましを同時にもたらすことのできる曲なのである。どうやら、パッヘルベルは、宇宙の法則や生命のコードを音楽で写しとったようである。
 また、私が驚いたのは、カノンは、色々なバージョンにアレンジできるし、そのコードを使用すれば、どんなジャンルの曲もよく聞こえるということである。私自身、色々なカノンコードの曲を集めている。ベートーベンの第9の4楽章で気に入った部分があるが、その部分はカノンコードが使用されているように思える。カノンはジャンルを越えるのである。
 自分が気に入った思想にも、カノンコードのような共通のメタコードがあるのか確かめたい。
 ちなみに、手塚治虫の宇宙生命思想(火の鳥)とカノンコードは、同じであると素朴に直感した。
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by merca | 2007-06-10 18:42 | 理論 | Comments(0)

道徳(区別と物語の結合体)

 区別による観察は、あらゆる現象の基盤を露にする。
 
 全体社会の国民道徳は、(国民/非国民)という区別に基づいている。従って、そこからは日本国籍のない外国人は排除される。だから、国民道徳を子供に押し付けることは、差別につながるおそれがある。
 小林よしのりが、人々が生きていく関係性の範囲を国民社会に設定して議論をしていることは興味深い。人は一つの国民社会の中で生き、そこで死んでいく・・・。だから、自己の所属する国民社会における道徳さえ考えれば良い。その道徳は基本的に天皇制という大きな物語=神話によって支えられる。そうすることで、道徳問題に帰着する全ての社会問題は解決する。このように思考するわけである。

 道徳は、物語=神話によって支えられる。「汝殺すことなかれ」という普遍道徳ですら、聖書の神話や仏教の業思想によって支えられている。物語の崩壊は、同時に道徳の崩壊をもたらす。

 国民道徳は、人権思想から観察すると、(国民/非国民)という区別に準拠していることがわかるが、世界宗教から人権思想を観察すると、(人間/人間でない)という区別に準拠していることが露になる。人権思想では、人間が絶対化され、人間でないものは排除される。動物・草木などの他の生命は排除される。

 人権思想も一つの道徳である。だから、物語を必要とする。人権思想の物語は市民革命である。フランス革命、アメリカ独立戦争などの市民革命こそが、人権思想を支える物語である。あるいは、ヘーゲルの法の哲学という神話も含まれるかも知れない。悲しいかな、日本人は人権思想を道徳として内面化しようとしても、市民革命というセットになった物語を共有しておらず、人権思想は道徳として内面化しにくい。

 区別による観察によって、道徳は全て自己の準拠する区別を露にし、相対化される。また、文化社会学的思考によって、道徳を支える物語=神話が発見される。全ての道徳は、区別と物語に基づく。区別は道徳の範囲を表示し、物語は道徳の強度を担保する。一つの道徳が伝えられるためには、物語を必要とする。物語なしには道徳は人から人へ伝わらない。だから、どんな宗教の聖典も一つの物語になっている。また、道徳は、人格を通して伝わる。人格と人格の信頼関係を通して伝わる。物語を語るものは、それなりの人格を要求される。道徳の物語を実践している者のみ道徳を語る資格がある。道徳教育ができる資格がある教師がいるだろうか? 道徳を教えるというおごりからは、道徳は教えられない。
 学校教育で道徳教育を科目とする動きがあるが、道徳というものを軽く見過ぎているのである。道徳とは、そんなに簡単なものではない。

 区別による観察を免れ、いかなる物語も必要としない倫理的な現象がある。それを他者愛という。実践つまり事実がそのまま物語をつくるような行為である。マザーテレサや夜回り先生に見られるような行為である。他者愛は区別を越える。なぜなら、他者はいかなる区別からもはみ出る超越性をもつからである。

 西洋社会の物語に支えられた人権思想という道徳に感動する日本人はいないが、多くの日本人は、マザーテレサや夜回り先生の話を聞くと感動するのである。社会共同体の区別を真に越えるものは他者愛だけなのである。 
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by merca | 2007-06-10 17:37 | 社会分析 | Comments(0)

単位制高校の社会的機能

 学校には、勉強をすることと、友達をつくることという二つの意味や機能がある。前者は、組織としてのゲゼルシャフト的な側面である。後者は、共同体としてのゲマインシャフト的側面である。生徒も教師も、(勉強/友達)という区別に準拠して、学校を観察し、コミュニケーションを創発している。それが学校という空間であった。

 しかし、友達関係に挫折した不登校児童はいじめの巣窟であるクラスを拒否し、授業についていけない非行少年も勉強をあきらめ授業を放棄したり妨害したりする。いずれも、学校という場に行く理由を喪失している。
 しかし、その受皿として機能しているものがある。単位制(通信制も含む)高校である。非行系も不登校系も混在して受け入れている単位制高校の社会的役割は大きい。
 
 いじめの処方箋として、閉鎖的な対面的小集団を発生させるクラス制をなくすという考えがある。この考えは、クラス制がなく、大学のように自己選択的に授業でることができる単位制高校で実現されており、いじめが発生しにくいシステムとなっている。実際、中学でいじめで不登校になっていたり、いじめで高校中退になった若者達が主体的に選択し、単位制高校に入学している。
 全日制高校と単位制高校でのいじめの発生率を正確に測定した社会調査はまだないが、「単位制高校 いじめ」でネット検索すると、いじめを受けていて単位制高校で救われたという体験談が多く見受けられ、質的データとしては、有効だと思われる。
 いじめが集団現象だとすると、単位制高校では、仲間集団が発生しにくく、原理的・論理的にもいじめが発生することはほとんどない。単位制高校でいじめが発生しないのなら、社会学者・内藤朝雄による社会学仮説(中間集団全体主義や共同体主義的学校運営がいじめの原因)が実証されたことになる。
 文科省は、単位制高校の存在が、いじめ防止の最大の処方箋だと気づいていないのだうか?
また、単位制高校はいじめ防止の処方箋になるばかりか、非行系の若者の学歴取得場所としても機能している。非行系の若者は、中卒後も、元中学同級生との交友を中心とするため、全日制高校に進学しても、新しい友達をつくらず、学校が面白く無くなってしまう。また、染髪や服装違反などの校則違反ですぐに高校教師と対立し、やめてしまう傾向にある。単位制高校は、染髪や服装などは自由であり、非行系の少年が教師と対立することは少ない。また、集団化できないので、授業妨害もおこらない。さらに、週に2、3日ほど登校すればいいので、拘束時間が短く、その分、元中学同級生と遊ぶことのできる時間もある。そんなわけで、非行系の少年も単位制高校なら適応できる。実際、非行で高校中退して単位制高校に行くという話はよく聞く。集団化しないので、非行系の若者も不登校系の若者をいじめたりしにくい。

 このように、単位制高校では、いじめや集団非行など、あらゆる集団現象から発生する学校内問題行動を抑止でき、学業成就という目的を達成できるのである。社会学的には、単位制高校は、学習の場として機能的に純化されたゲゼルシャフト組織なのである。学業の他にも、仲間づくりというゲマインシャフト機能が混在している未分化な既存の全日制高校とは異なるのである。

 一つの社会組織が複数の機能を担う時代は終わりであり、学校に学習機能と友達作り機能を担わすべきではないかもしれない。学習機能と友達作り機能を分離し、それぞれ違う社会的セクションが担当すべきだと思うのである。その意味で、一定の年齢からは、学校は単位制高校という形態にし純粋に学習機能に絞り、友達をつくる場は全く別に設けたほうがよさそうである。ちなみに、塾が学習機能を学校から奪ったせいで、学校がよけいに生徒にとって友達をつくる場になってしまったのかもしれない。
  
 単位制高校がいじめ防止の有効な処方箋であることを科学的に実証するためには、次の調査が必要です。

・全日制高校と単位制高校でのいじめの発生率を正確に測定した社会調査。
・単位制高校への入学理由に関する社会調査。

 上記の社会調査がもしあったら、教えて下さい。
 
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by merca | 2007-06-06 23:44 | 社会分析 | Comments(0)

社会学者・鈴木謙介

 社会学者・鈴木謙介。
 
 社会学の巨人・宮台の弟子の中で、唯一、時代に対する鋭い嗅覚を受け継いだ社会学者である。まず、風貌の点において、他の弟子を凌駕している。これは大きい。時代の感性を察知する能力は、宮台からこの男に受け継がれた。
 
 「ウェヴ社会の思想」について、私の意見を述べたい。
 私が注目したのは、「事実による連帯」という社会現象である。宮台の成熟社会論は、価値観の多様化・過剰流動性というテーゼを抱え、「まったり革命」を宣揚し、知的な一部の若者の支えとして登場して来た。宮台理論の内容が真理かどうかは別として、若者にとってはマルクス主義に変わる一つの大きな物語として機能していたのは確かだと思われる。「まったり革命」を信じた若者は、宮台に癒された。男子に多いが、宮台理論で救われたプライドの高い地方の若者は多くいる。プチ宮台たちの誕生である。10年前の若者には、宮台思想はフィットしていたが、後期近代仮説である「まったり革命」の挫折以降、若者に対する影響力は減少した。共同体なるものの必要性を論じる構えに変わって来た。転向する前に、柄谷行人と戦って欲しかった。
  
 さて、本題に入るが、物語=大きな社会理論=世界の解釈図式ではなく、小さな事実によって若者たちが連帯しだしたということが気になる。マンガ嫌韓流やゴーマニズム宣言では、若者達に事実を知らしめることで、左翼的言説の虚構性を暴き、自虐史観からの脱却を目指している。そして、若者を惹き付けることに成功している。統計や歴史的資料を見て、本当はそうだったのかとうなづき、積み重ねられた精緻な事実をもとにして連帯するのである。
 このような作法は、リベラルな立場にある人たちにも採用されている。治安悪化神話解体運動、俗流若者論批判、疑似科学批判論を唱える人たちも、その思考の系譜にあたる。宮台氏のロマン主義的な成熟社会論という大きな物語による連帯は、意味を求める若者には自我の支えとなり適合的であったが、事実を絶対化する若者達には通用しない。
 
 しかし、考えてみよう。物語なくしては、未来を語れないことを・・・。単なる事実だけからは何の価値も出てこない。事実を解釈して利用する物語が必要である。科学は事実を追求するが、科学的事実だけでは、生きる意味や価値を見つけだすことはできない。このことは前にも私は論じた。物語とは、価値である。未来を語れない人々は、動物と同じである。
 (事実/物語)は、(認識/価値)の区別に対応している。価値観が多様化したせいか、共有できる物語がなくなり、事実としての情報だけが氾濫している。このままでは、欲望のまま事実としての情報をやり取りするだけの動物になってしまう。情報を消費するアニマルである。認識は事実を生み出し、物語によって事実が解釈されることで価値が生み出される。
 人々が共同で社会をつくっていくという作業には、未来を語ることを可能にする物語が不可欠である。未来を語れない若者は、データ=事実に基づいた宿命をあるがままとして受け入れることになる。未来を変えようとする物語をもって欲しい。物語は成就すると、未来の事実となる。(事実/物語)を弁証法として捉えた時に、動物化を免れる。
 基本的に(事実/事実でない)という科学的事実絶対主義の若者が準拠するコードは、未来に対しては適用外である。なぜなら、過去に対しては(事実/事実でない)は成立するが、未来は今だ起っていないし、目的意思によってつくることができるからである。

 宮台は、成熟社会の物語としての「まったり革命」を提案し挫折したが、ガンダムの逆襲のシャアのごとく、今後、国家的共同体主義者として知的若者を先導していくであろう。その意味で、宮台はシャアである。少なくとも、宮台に共感した若者たちはシャアとしてイメージしたはずだ。
 
   社会学は大きな物語を生産できる唯一の社会科学である。

 
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by merca | 2007-06-03 18:27 | 社会分析 | Comments(5)