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科学の公準

 あらゆる文献の科学の定義や基準を調査したところ、大凡、科学については次のような特徴があると思われます。自分なりに整理すると、次のような基準を満たすものが科学であると。

 科学の公準について
 1 仮説が反証可能な命題から構成されている。(反証主義)
 2 反証は統計的検定でなされる。(確率論)
 3 誰が何度実験しても同じ結果をだす(再現性ないしは信頼性)
 4 測定対象を適切に測定している(妥当性)
 5 科学的知識は、因果図式で表現される。(因果法則)
 6 現象を予測できる。(予見性)
 7 現象をコントロールできる。(操作性)
 8 実在するものを観察対象とする。(実在性)
 9 論理法則(形式論理学)に矛盾しない。(論理性) 
  
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by merca | 2007-08-30 10:00 | 理論 | Comments(0)

(名称/概念)

「科学とは何であるか?」というそもそも論は、科学の概念内実たるものを議論の対象とするが、レッテルを貼る貼らないというのは、科学という名称がどのように科学者、技術者、大衆にコミュニケートされているのかという話である。

 科学という名称=レッテルに対して、それぞれの立場から色々な概念が投射されている。科学という名称はコミュニケートされていくが、科学の概念は時代によっても異なるし、学派によっても異なっているようである。科学という名称がもつ機能と、科学の内実概念は区別しておいたほうがよさそうだ。イデオロギー論で科学を批判の対象とする場合、科学という名称のもつ社会的効果についてである。
 科学という名前だけで、人々が思考停止し妄信する社会現象を批判の対象としている。いわゆる科学的知識の絶対化である。ニセ科学が、科学という名称のもつ社会的魔力を利用し、意識するしないに関わらず、人々を騙すのなら、確かに詐欺行為に近い。
 
 科学の内実概念を知れば、多様な科学観があり、科学も間違うことがあるというリスク感覚も養うことが可能となる。システム論でいう信頼は、イデオロギー論とは異なり、科学は信頼性があるが、信頼はリスク(裏切られることがある)を伴うものであるという偶然性の感覚に支えられている。信頼はリスクとワンセットの概念である。システム合理性の観点からは、個々の科学的知識に対して正しいか検証するコストは省くが、イデオロギーのような妄信ではなく、リスクを伴う信頼という態度で関わることになる。
 ニセ科学批判は、科学という名称のもつ社会的魔力(イデオロギー効果)を剥脱するという機能を有している。我々は、個々の科学的知識と言われるものに対してニセ科学かもしれないというリスクをもって接する必要がある。ニセ科学批判はリスクを見積もってくれる機能がある。ただ、ニセ科学批判を信頼する際も、それが間違うことがあるというリスク感覚を忘れてはならない。
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by merca | 2007-08-30 08:59 | 社会分析 | Comments(0)

自然科学の前提

 世界を(必然/偶然)というコードで観察すると、(自然)科学は必然をマークして創発された学システムである。 
 自然科学は、一つの信仰を前提としている。それは、世界は必然であるという信仰である。自然科学は、現象を因果図式にあてはめて観察し、普遍的な因果法則を発見することを目的としている。人間がどう思おうが、水は100度を越えると気体となり、蒸発する。この因果法則は、社会共同体を越えて変わることのない必然の法則である。自然科学が発見した必然の因果法則に基づく技術や商品には、ニセ科学という診断は下されないと考えられる。
 さて、世界を(必然/偶然)というコードで観察すると、社会(科)学は偶然をマークして創発された学システムである。
社会学(特に社会システム論)は、世界が偶然であるという信仰を前提としている。社会はコミュニケーションを要素としており、コミュニケーションは二重の偶有性(ダブルコンテンデェンシー)に基づいている。パーソンズ社会学やルーマン社会学では、このような偶然性を前提として理論構築されている。ダブルコンテンデェンシーとは、自他がどのような行為を選択するかは究極的に偶然であるということである。その偶然性を逓減し、コミュニケーションのコストを減らすためにメディア(貨幣等)が使用される。そういう難しい専門用語を使わなくても、自他が自由意思で選択して行為しており、自由意思同士のせめぎ合いとして、現実の社会があると考えてもらえばと思う。偶然性をいかに人間や社会が処理しているのか、そのような観点から記述され、理論構築される。
 また、人の心=精神に自由意思を認めるのなら、精神分析学や心理学も偶然を前提としていることになる。解釈という方法で、心を記述していくことになる。

 ちなみに、社会学的に、宗教や神話がどのような機能があるか説明したい。ある人間が伝染病にかかり、障害が残ったとする。この場合、科学的に説明すると、ウィルスが体内に入り、感染し、障害をもたらしたというかたちで、因果説明がなされる。これは科学的に正しい。どんな社会に属する人間も、そのウィルスにかかると、そのような羽目になると考えられる。しかし、人はそれだけでは納得しない。なぜ自分だけがたまたまそのウィルスにかかり、他の人はかからなかったのとか不満を抱く。その出来事を偶然の不幸として捉える。生まれながらなぜ自分だけこのような障害をもって生まれたのかと悩む人もいるが、偶然としか言えない。たまたまその人にそのような因果関係が起るような事態が生じたことは偶然なのであるが、人は科学的因果関係それ自体が自分だけに起った原因を求める。これは、科学的因果関係それ自体に因果関係を適用するという自己言及のパラドックスを意味する。(原因/結果)という区別に(原因/結果)を自己適用していることになる。
 そこで、偶然の不幸に解釈を与えるのが宗教や神話つまり物語の役目である。言い変えれば、偶然の不幸は、科学ではなく、宗教や神話という物語によって処理される。これをマックス・ウェーバーは、苦難の神義論と呼んだのは有名である。例えば、生まれつき、障害があるのは、神の与えた試練や前世の悪行のせいであるとか解釈される。もちろん、説明や解釈の仕方は、個々の宗教によって異なる。

 自然科学が対処できるのは、世界の必然である部分だけである。世界の偶然である部分は社会科学や人間学が扱うことになる。両者の統合、信念対立の解消は、弁証法哲学や構成構造主義などの哲学によって扱われることになると考えられる。 
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by merca | 2007-08-30 01:03 | 理論 | Comments(0)

ニセ科学流行は社会病理現象か?

少し違う切り口を提起してみたいと思います。

 ニセ科学流行は社会病理現象か?
 もちろん、ニセ科学が流行っているという前提で話を進めます。社会病理学の対象になるかどうかということですが、社会病理学の対象として扱うためには、それを社会病理かどうか判定する基準が必要になります。法律学的には、ニセ科学は犯罪化できるのかという問題とも絡んできます。
 一般に、社会病理現象とは、差別問題、ジェンダー問題、虐待問題、犯罪、非行、不登校、ホームレス問題、DV問題、いじめ問題、モラルパニック等があげられ、その対象となっています。あの有名な内藤氏や本田女史も社会病理学会にいるようです。個人的には、生粋の社会構築主義者の中河氏が好きです。

 社会病理とそうでない区別は、これまた疑似科学とそうでない科学を分別するよりももっと曖昧で、グレーゾーンどころではないです。(笑)

 個人的には、一応、人間が生きていく上で生活障害をもたらす社会現象を社会病理であると考えています。それが社会の制度、社会意識、伝統、知識体系の在り方、共有する価値規範等、何にあるかは多様ですので、原因を一義的に定義するのは困難だと思います。

 社会病理の基準そのものが特定の社会によって作られたものであるという自己言及的構造をもってます。従って、社会学は自己言及理論になる他ないわけです。社会学を社会学するという私のブログの趣旨はここにあります。一つの学問が自己を対象できるかどうかは大きな問題です。この問題に一番敏感な学者をあげるとしたら、ルーマン研究家の社会学者・三谷氏です。自然科学は、人倫社会を離れた自然という不動の存在にその脱出回路があるから、自己言及的構造をもたなくて済みます。ただし、疑似科学批判は、実践論としてではなく、科学哲学論としては、科学自身の自己認識(自己言及)という側面はあると思います。

 ニセ科学が被害というかたちで現実に人々に生活障害をもたらしているのなら、社会病理として観察できるとは思います。 
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by merca | 2007-08-26 11:36 | 社会分析 | Comments(4)

血液型性格判断

 血液型性格判断は、はなから私は科学だとは認識してなかった。占いの類いであると思っていた。わざわざ、ニセ科学のレッテルを張るまでもないと思っていた。
 しかし、何の科学的根拠もなしに血液型性格判断をニセ科学と判断するのも、逆に非科学的態度であるかもしれない。

 ポパーの反証可能性からすると、一応、血液型性格判断は、反証可能な命題で構成されているので、おそらく誰かが反証したということか?
というよりか、例えば「A型は几帳面」という命題に対して、1人でもそうでないA型の人がおれば、反証されたことになる。血液型性格判断は正しい科学的真理でない。しかし、ポパーの説からすると、誤りであっても反証できるという手続きにのっかかるので、間違いではあるけれども、科学的命題であることになっしまう。それはさておき、自然科学の場合、「全ての何々は何々である」という全称命題のみが真理として認定されている。一つでも例外があり、その例外が生じた理由が科学的に説明不可能なら真理でないとして却下される。
 
 血液型性格判断は、「A型は几帳面」「B型は個性が強い」「O型は社交的」「AB型は天才肌」というような命題であると思うが、このような命題がすぐに思い浮かんだ。それほどまでに人口にかいしゃしてしまっている。このことの意味は社会的リアリティの面からは大きい。血液型性格判断から自他を判断する人たちが多くいると、本当にそのようになってしまうおそれがある。例えば、血液型性格判断を信じる多数の人々からA型の人が几帳面だと言われると、本当に几帳面になる。自己概念は他者評価によって形成されるからである。他者からの評価を自己概念として内面化してしまうわけである。その自己概念が役割規範化し、他者の期待に外れないように本当に几帳面な行動をとり、社会的現実となる。(予言の自己成就)
 
 場合によったら、血液型性格判断の命題群は、ほとんどの人々が血液型性格判断を信じている社会において、社会統計調査をし、血液型別に性格をたずねてみたら、統計的に有為な差がでて、社会科学的に真実であるという結論になる可能性もある。(もちろん、自然科学的基準では、1人でもそうでないケースがあれば却下されるが。)
 ジェンダーの場合もそうであり、十分に近代化されていない社会で、「男性よりも女性のほうがか弱い」という社会意識調査を実施すれば、統計的に有為な差が出て、「男性よりも女性のほうがか弱い」が真理であるという結論になりかねない。
 このように社会的リアリティとしては真であるが、物理的リアリティとしては偽であるという事態も生ずることがある。(物理的リアリテとして真であるためには、血液型の遺伝子と性格の因果関係を実証する必要がある。)

 ニセ科学(物語)が社会的リアリティをつくるという現象は起こりうるが、その歯止めとして物理的リアリティに基づく思考も必要である。(社会的/物理的)という区別による観察でもって、社会的リアリティの暴走を食い止めることもできるのである。その際、科学が手続きに偏ると、物理的リアリティが結局は社会的リアリティに取り込まれることになってしまうわけである。
 手続きの正当性のみで判断すると、漢方医学は全てニセ科学になってしまうおそれがある。薬草Aが解熱効能があり、「生活の智恵」として伝統的に知られており、その効能が科学の手続きによって解明されないとダメであるというのならニセ科学になる。しかし、あとで科学的にもある成分が解熱に効くということが実証されたら、科学的知識となる。薬草Aが解熱剤になるという漢方医学の命題は科学的真理となる。科学的真理は、必ずしも手続きのみが保証するわけでない。科学的手続き以外で得た知識を排除する手続き絶対主義は、かえって物理的リアリティの源である自然を冒涜することになる。科学的手続きの基準が複数あるということ自体が、一つの基準だけでは、複雑な自然に対処できないことの現れである。

 ある一つの命題について、特定の科学的手続きに合致しないだけで、科学的に命題の内実を吟味・検証することになしに、排除するのならば、科学者集団のレッテル貼り=魔女狩り行為に下落してしまう。レイべリング作用とは、社会的に専門的権威が下す判断であり、社会的リアリティに基づく。私も、今回の議論において、疑似科学批判者がそのような立場でないことは理解している。
 グレーゾーンの命題はニセ科学のレッテルをすぐに貼らず、後の研究のためにグレーゾーンのまま残しておくことが自然に対する敬意となる。早急な二分法に基づき、グレーゾーンを排除してしまうことは、物理的リアリティの放棄となっしまう。

 ニセ科学診断については、白、灰色、黒に分け、連続的に対処するのが現実的かと思う。 
  
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by merca | 2007-08-25 10:07 | ニセ科学批判批判 | Comments(14)

構造構成主義の科学観

   私的には、構造構成主義の科学観も紹介したいです。
   http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/

  非常に難解な科学観ですが、こちらと議論交流があるのか知りたいです。
  池田清彦の構造主義科学論は有名です。
  西條氏のブログに私も別名(ラディカル構築主義者)でコメントしています。

   
  
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by merca | 2007-08-24 22:39 | 理論 | Comments(0)

社会的リアリティ

Baruさんへ

 とりあえず、社会構築主義関係の本をお勧めします。
  社会的リアリティとは、人々が真理と思える知識が、対象の内実と離れて、人々のコミュニケーション過程、あるいは議論による合意によってつくられるという社会的現象です。一例をあげると、ジェンダーがそれになります。「女性は男よりもか弱い」という信念(女らしさ)は、生物学的根拠(物理的リアリティ)に基づいているわけではありません。これは、ある社会によって流布している、明らかに社会によって作られた人々が共有する信念です。そのような信念が流布する社会では、女性も役割規範として女性らしさを演じることとなり、さらにその信念は社会的事実=リアリティとなってしまいます。(社会学者トマスの公理)
 また、集団力学のアッシュの実験でも明らかなように、客観的な事実(物理的リアリティ)とは離れて、人々の判断は他の人々の判断に影響されるということが観察されています。

 科学が手続きにだけに還元されてしまうと、科学者集団による討論で合意を得たものだけが科学になってしまいます。そうなると、法律と同じように、結局、科学は人間同士の話し合いで決めた約束事であり、それ以上のものではないと思われてしまいます。マートンの科学の基準にその危険性があります。逆に言うと、マートンは社会学の立場から、科学は所詮人間同士の合意によるものと捉えていることを表しているとも考えられます。また、科学的命題間の関係を貫く、形式論理学的な法則も、論理的一貫性があるものを納得するという人々の討議の手続きの前提を構成しています。
 
 私も、社会的リアリティ、つまり人々の討議による合意や約束事には完全に還元されない物理的リアリティに科学は基づいていると言いたいわけです。

 科学的真理は手続き(科学者集団が決めた方法論的約束事)だけではなく、自然という不動の存在との関係で決定されるという要素があることで、擬似科学批判は本当の意味で説得力をもつと考えられます。

 社会的リアリティは、社会学者の間では非常に初歩的な公理であり、そういう視点から科学も観察してしまうわけです。それが社会学者の役目です。

 
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by merca | 2007-08-24 20:37 | 理論 | Comments(7)

少し重要なポイント

 過去に私の書いたエントリーです。
 http://mercamun.exblog.jp/6629358/

 科学は手続きや方法にそのアイデンティティがあるという考えもある一方で、原初的には人々の主観や意識を越えた自然という動かざる存在に対するリアリティに基づいているとも言えるかもしれない。以下の天羽さんのコメントは、そのことを表現していると思われる。
「仮に「今の科学を絶対視」している人がいて、それをやめることにしたとしても、酸素と水素を混ぜて火を付けりゃ爆発するという自然現象には何の変化も無いでしょうね。」「思い通りにならない自然の、都合の悪い真実と向き合う心の準備が出来た人にしか、科学は受け入れられないんですよ。」
 
 私は、このような真理観を物理的リアリティと表現した。自然科学の起源である物理的リアリティは社会や文化を越え、イデオロギー論には還元されない。物理的リアリティは、(意識/存在)というコードに基づいている。ちなみに、社会を物理的リアリティで捉えればマルクス主義のような社会観になる。

 そういう意味からすると、(自然)科学のアイデンティティを手続きや方法だけで定義してしまうと、社会科学(社会学等)が準拠する社会的リアリティに足をすくわれる危険性がある。科学というものが人々の合意に還元されてしまうおそれである。疑似科学であるかどうかは、我々人間が決めることではなく、最終的には自然という動かざる存在が決めることかもしれない。
 科学と疑似科学のグレーゾーンがあるというのは、自然の複雑性のためかもしれない。まだ、この点はよくわからない。
 (議論がメタかもしれませんが、菊池先生のコメントからもヒントを得ました。)
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by merca | 2007-08-23 22:05 | 理論 | Comments(7)

疑似科学批判の基準

 コメントが増えてきて一つのエントリーではおさまり切れず、ブログが重くなって来ましたので、新たなエントリーを加えていくたかちをとります。

 菊池先生 コメントありがとうございます。
 私としてはやはり線引き問題に関心が在ります。
 
 線引きの基準として、反証主義だげなく、ベイズ主義など複数の理論があることはわかりました。さらに対象によって、違う基準で対応して疑似科学として批判するというのも確かに実践的ではありますね。そこで、疑似科学批判にも慎重派とそうでない区別はあるのでしょうか?

 天羽さんは疑似科学と呼ばれるものは、全ての基準からしてやはり疑似科学である場合が多いとしています。ある意味、一つの基準だけからは判断できないという慎重派であると思います。一つの基準を絶対化しない意味とも受け止められ、科学観の絶対化は免れています。菊池先生も基本的には、基準の複数性を認めていると思いますが、ある基準からは疑似科学であるが、別の基準からしたら疑似科学でない場合、どのように判断するのか知りたいです。
 例えば、反証可能な命題から構成されているが、ガードナーの奇妙な論理からすると、疑似科学であるとかです。
 複数の基準に優劣関係があり、例えばべイズ主義が一番であり、奇妙な論理は一番下であるとか・・・。
 おそらく、個々の疑似科学批判論者にとって、その優劣関係は異なると思いますが、全ての基準があてはまるような学説は疑似科学として認定されても仕方ないと確かに思います。しかし、一つしかあてはまらない学説に対しては慎重に取り扱って欲しいです。
 ちなみに、社会科学(特に社会調査法)の場合、妥当性と信頼性という二つの基準が尊重されます。自然科学の基準からしたら、かなり曖昧でゆるいものとしてうけとめられるかもしれません。
 個人的意見ですが、「社会学者マートンの科学の四つの規範」は、権威的な科学者集団のイデオロギーとして解釈されてしまう可能性が高く、やはりゆるいと思います。私は社会学を専攻するものですが、マートンよりも、内容的に定義した他の基準のほうが説得力があるように思えます。
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by merca | 2007-08-22 22:37 | 理論 | Comments(5)

自説撤回

  「疑似科学批判が流行る理由」というエントリーを撤回します。
  
 理由は、疑似科学批判者の全てがホパーのように方法論的絶対主義をとり、疑似科学主義者のように無条件に科学を賛美しているわけではないとわかったからです。中には、ある目的のために疑似科学批判を手段視されている方もおられるからです。

  以上により自説を撤回します。
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by merca | 2007-08-21 21:18 | Comments(15)