<   2007年 09月 ( 31 )   > この月の画像一覧

質的調査と統計調査


 社会学の方法は、社会調査法と呼ばれる。しかし、社会調査法イコール統計調査と勘違いしている人もいる。実は、社会調査法には、参与観察者法やインタビュー法等の質的調査も含まれる。サンプル数は少ないが、先行研究を参考にして、典型的事例をとりあげて面接・聞取り調査をする。ラベリング論で有名なベッカーなども、この質的調査を行い、理論構築した。質的調査は、臨床の世界とも近い。調査対象に直接的にアプローチできる点が利点である。
 実は、アンケート用紙による統計調査を企画する場合、質問項目の設定などは、先行研究や質的調査の結果を参考にして作成される。

 情報源たる調査対象に直接的に関わり、内面を調査するのは、質的調査の役割である。その知見を一般化しうるかどうかを、母集団から抽出された標本集団に対して質問紙をつくって統計調査(計量調査)を実施して検証する。

 質的調査は、対象に直接的に接する一次的情報であるのに対して、統計調査は数学によって加工を施された二次的情報である。直接的なリアリティは質的調査によって暴かれるのであり、統計調査は知見の一般化を目指す手段となる。
 ちなみに、統計調査の擬似相関関係問題などは、質的調査の知見で暴露されることが多い。

 先行研究による統計資料だけから、一つの仮説を構築するような議論がネットでは見受けられるが、実際に調査対象に接することなしには、事実はわからないのである。調査対象から直接に面接調査することなしに、ひきこもり・ニート・いじめ・非行・貧困などを論じても、事実かどうかはわからない。当事者を調査しなければ本当のことはわからないのである。
 
[PR]
by merca | 2007-09-30 13:35 | 理論 | Comments(3)

ニセ社会学批判


  ニセ社会学批判
 
  ニセ社会学命題の典型・・・道徳仮説とポストモダン仮説
 
  「道徳意識が高まると、いじめも非行もなくなる」

 上記の命題は、社会学的には実証されていないし、色々と問題がある。従って、道徳仮説でもって、社会問題を論じる言説は、擬似社会学である。全ての社会問題を道徳の問題にすりかえるコメント屋がニュースなどで見られるが、「べき論」として認識しておく程度のものである。ちなみに、倫理学者が道徳仮説を発する場合は、定言的命令であり、事実論ではなく、べき論である。

 「現代社会は、価値観が多様化している。」

 これはポストモダン仮説というものであり、現代思想の哲学者が発する擬似社会学仮説の一つである。これについての社会統計調査はないので、本当に正しいかわからない。逆に、科学や民主主義は正しいという価値観は多くの人々に支持されており、多様化どころか、価値観は画一化している側面がある。

 「対人関係が希薄化している」「現代の若者は、利己主義、個人主義である。」などの言説もニセ社会学命題である。
[PR]
by merca | 2007-09-30 10:48 | 社会分析 | Comments(0)

反社会学講座批判

 反社会学を社会学してみたい。
 http://mazzan.at.infoseek.co.jp/

 反社会学が対象とする社会学的言説は、どちらかというと、社会学者による言説ではなく、精神科医や教育評論家などが発するテレビや新聞等における社会問題に対するコメントに多く認められる。本格的な社会学者による社会分析からすると、擬似社会学あるいはニセ社会学である。従って、反社会学は社会学批判ではなく、ニセ社会学批判であるべきである。

 実は、社会学者からも、世間に蔓延る社会学的言説を床屋談義や居酒屋談義として断罪する声もあがっている。社会学者・芹沢一也氏の「犯罪不安社会」がその代表である。実は、パオロ・マッツァリーノ氏が取り上げている犯罪発生件数と体感治安の相違も、社会学的に芹沢氏によってモラルパニックとして精緻に分析されている。パオロ・マッツァリーノ氏に社会学の知識が多少あれば、モラルパニックとして論じることが可能であったろうに。ちなみに、社会学系の学会の論文では、実証性を欠く床屋談義では通らない。
 
 確かに社会を論ずることは万人に開かれている。なぜなら、社会の中で生活しているからであり、社会に対して物を申すのは当然の権利であるからである。従って、社会を扱う専門家ではない精神科医や教育評論家が社会について論じても構わない。しかし、それが社会学であると勘違いされるのは困ったものである。擬似社会学あるいはニセ社会学というレベルものが認められる。また、社会問題を論じているから社会学的言説とは限らない。社会現象を人間の心理の問題に還元している言説は、社会学的言説とは異なり、それは心理学的言説である。
 
 社会を分析する専門家である社会学者が、社会問題に関する諸々の言説をニセ社会学として診断し、その被害を分析し、断罪する思想的潮流も出てくる可能性がある。
 似たような発想は、後藤氏の俗流若者論批判である。同氏は統計的根拠や事実に基づかない若者に関する非科学的言説をハンティングし、社会に与えるその被害を懸念している。擬似科学批判論者と共通の思想的潮流である。この思想的潮流について、ポストモダンの論客は疎すぎる!!
 
 しかし、本格的な社会学者の中から、ニセ社会学批判者はまだ登場していない。この点は、自然科学よりも遅れている。社会学を社会学する同ブログの趣旨からも、ニセ社会学批判は避けて通れないと考えられる。
  複雑な問題を抱えているので、整理してエントリーしたい。
 
[PR]
by merca | 2007-09-30 10:18 | 社会分析 | Comments(0)

物象化現象の記述

 自然科学は、対象と認識の一致という真理観に基づき、対象を分析することで、真理を獲得する。多数決の原理からは、自然科学の真理は導き出されない。このことについては、物理的リアリティと呼んでおいた。

 一方、貨幣、カリスマ、いじめなどの社会学が扱う対象に対しては、対象と認識の一致という真理観からは記述不可能である。というのは、対象をいくら分析したところで、対象の属性は見つからないからである。
 「貨幣には価値がある。」と言っても、貨幣そのものには微々たる使用価値(チリ紙程として使える程度)しか見当たらない。貨幣そのものに、価値が属性として宿っているのではなく、物品と交換できると信じている人々の主観の中に価値が生ずる根拠があるのである。直接的に貨幣という対象をいくら分析しても、価値は見い出すことはできない。紙幣に宿る価値は、人々によってつくられたものである。対象の属性を写しとるのことで正しい認識が生ずるという真理観=物理的リアリティでは、貨幣現象は記述できない。貨幣現象を分析するためには、人々の主観や交換行為を観察し記述することになる。
 カリスマについても、カリスマとなった人物を対象にいくら分析しても無駄である。カリスマは人々によってつくられたものであるからである。人々がカリスマと呼ぶからカリスマになるのである。
 いじめついても、いじめられっ子やいじめっ子の性格をいくら分析しても、いじめられる性格やいじめる性格を発見することはできないであろう。子供達の集団内コミュニケーションにおいて、いじめられっ子はレッテルを貼られ、つくられるものであるからである。いじめを記述するには、当事者の個々の性格や心理ではく、コミュニケーション過程を分析することになる。

 上記の例のように、あたかも、ある特定の対象にある属性があるかのように擬制されることを物象化という。「貨幣には価値がある」「ある人物にはカリスマ性がある」「いじめの原因は、いじめられっ子の性格にある。」ように見えるのは、全て物象化の仕業である。社会内存在である当事者たち=人々は、本当に貨幣には価値があり、本当にいじめられっ子には性格的原因があり、本当にカリスマには魅力があると思い込んでしまうのである。社会学的には、科学も例外ではなく、「科学は真理である」ように見えるのも、一種の物象化現象である。科学には些かの真理も宿っておらず、科学を真理だと思う人々の共有された主観(科学的手続き=科学の公準)の中に真理(社会的リアリティ)の社会学的根拠があるのである。本来、科学それ自体の中に真理があるのではなく、科学の対象たる自然の中に真理はあるのである。とにかく、このように、人々は、ある属性を対象の属性と勘違いするのである。自分達のコミュニケーション過程で生じた錯覚であるに気づかないのである。物理的リアリティの相で眺めてしまう。しかし、現実には、いくら対象を分析しても、対象の中に当の属性を見い出すことはできないのである。
 社会学は対象の内実を分析するのではなく、そのような属性を付与する人々のラべリング過程を観察し、記述するのである。犯罪、非行、貧困、ジェンダー、差別、社会階層、格差なども、実はその対象を分析しても、記述不可能である。つまり、対象と認識の一致という真理観からは観察不可能である。もし仮にそのように認識したとしても、それ自体が物象化現象である。例えば、「貧困が犯罪をつくる」という認識は、物象化的錯倒である。貧困にはいかなる犯罪性も宿っていないのである。
 ちなみに、科学的知識が真理であるという信仰は、科学的知識の内実に根拠がある場合(物理的リアリティ)と、人々がそう信じているという場合(社会的リアリティ)の二つの次元があり、これは分けて考える必要がある。
 
[PR]
by merca | 2007-09-27 23:34 | 社会分析 | Comments(0)

(共有/共演)

 仏教では、「 因縁によって一切は生ずる」という。
 科学では、水を火で熱すると気体化して蒸発するという自然現象が認められているが、実際には生じた時にしか、そのような自然現象は実在しない。生ずる前には、存在しているとも存在していないとも言えない。このような状態を空という。現象は、生じてはじめて実在するが、いずれは滅する。しかし、立ち現れたことには間違いはないので、現象化している状態を仮という。空=潜在態と仮=現象態の弁証法でもって、世界は観察される。(空/仮)という区別は、哲学上においては(可能態/現実態)に対応する。

 さて、社会学においても、この区別は重要である。人々が共通の観念や価値や規範をもっていたとしても、人々がそれを選択・使用して実演しなければ、社会は生じない。共同主観イコール社会ではない。
 つまり、(共有/共演)の区別である。例えば、お金を支払うことで欲しい物が手に入るという社会規則を知っていても、強盗は暴力で品物を手に入れようとする。強盗も貨幣が交換価値があることは知っているが、それを使用せず、欲しい商品を暴力で手に入れようとする。しかし、別の場面では、その強盗もお金で商品を買う場合もある。また、英語を学んだ日本人も、アメリカ人に対しては英語という言語ルールを使用するが、日本人には日本語という言語ルールを使用する。このように、人は自己が所有している観念・規範・価値を恣意的に使い分け、選択して行為する。

 社会は、人々の共同主観(共有する観念・価値・規範)から発生するのではなく、自由意思(偶然性)間の理解(解釈)・選択・共演(遂行)から創発されるのである。
 (共有/共演)の区別でいうと、社会を論じる際に、共有のみが強調されてきた。そうなると、人間は機械のように記述されてしまう。所謂、規範主義パラダイムに基づく社会学である。しかし、ゴフマン社会学やルーマン社会学では、共有ではなく、共演に重点が置かれている。 
  
[PR]
by merca | 2007-09-24 20:58 | 理論 | Comments(0)

方針

 
 同ブログでは、なるべく個人批判・人格批判は避けています。従って、批判は全て一般化してます。菊池さんや天羽さんから、ポパーのみでニセ科学を批判しているサイトの例示を要求された際にも、躊躇したのは、そのためです。一般化がメタ議論につながって来ますが、あえてそうしています。

 なお、個人や個人サイトを取り上げる際は、どらちかというと、肯定的に捉えている場合です。科学者の田崎さんや松井さんは、肯定的に取り上げています。

 個人批判・人格批判は、善悪という道徳的価値からなされます。しかし、絶対化された道徳規範を認めない社会学の立場から道徳批判は控えています。絶対的に正しい道徳を示せと言われても、示せませんので、そのようにしています。同様にして、絶対的に正しい真理を示せと言われてもできませんので、科学を絶対化しません。

 構造構成主義と同様に、相対主義・関係主義を方法論的前提として、理論を構築しています。
[PR]
by merca | 2007-09-22 10:18 | 理論 | Comments(0)

社会宿命論からの解脱

 社会が一つの実体として表象され、人々を拘束する時、人は社会を必然の宿命として受け取る。例えば、奴隷階級に生まれた者は一生自由がないとか、学歴社会においては低学歴の者は一生差別されるとか、そのような疎外意識をもつ場合がある。
 つい20年くらい前まで、「いい学校=いい会社=幸福」という文化的目標(価値観)が絶対視され、よい大学を卒業しないと、よい人生が送れないと、思われてきた。一つの物語が動かぬ必然の事実として人々に表象されてきた。これは、(存在/意識)というコードで社会を観察していることになる。マルクス主義のコードと同型である。社会が自然のように動かぬ実体として君臨し、人々を苦しめてきた。社会を物理的リアリティとして捉えると、かような疎外意識をもつことになる。
 現代においても、ひきこもり、ニート、薬系の若者、シャイマン(恋愛弱者)などが、自己を格差社会の敗者として認識し、社会的現実を不動の必然として捉え、疎外意識をもつ場合がある。

 社会を偶然として捉え、一時的に構成されたものとして捉える社会構成主義は、そのような社会的疎外感に束縛された若者を解放してきた。さらに、その都度、社会は生じては滅する刹那滅的存在だと捉える創発論的社会観=ラディカル構成主義に至っては、さらに自由感や創造性を与えてきた。

 社会に対して自然のように一つの事実しかないと思い込み、社会的なるものを物理的リアリティ(認識と対象の一致という真理観)で観察することで生ずる差別意識や疎外感は甚大である。我々は、一つの事実を絶対視・実体視する立場=社会宿命論に気をつける必要がある。
 
[PR]
by merca | 2007-09-21 22:02 | 理論 | Comments(0)

科学の道徳化現象

 倫理学は、現実の人間社会の道徳を対象としない。倫理学における道徳は、哲学者のつくりだした理想的観念である。それとは異なり、現実社会の道徳を実証的に研究するのは、社会学である。社会学は、社会調査法(質的調査、計量調査の二つがある)の技法によって、現に人々がどのような価値観や道徳観念に基づき、行動しているか分析する。マックス・ヴェーバーが名著「プロテスタンティズムと資本主義の倫理」で分析したように、実際に流布している道徳観念と社会現象の関連を分析する。
 倫理学者の提案した道徳観念で現実に人々が行動していると勘違いするとえらいことになる。まずは、現実社会においてどのような道徳が人々の行動を動機付けているか調査し、それが社会にとってどのような機能があるか分析する。現実社会で生き残ってきた自然な道徳観念は、それなりに意味があり、1人の倫理学者が人工的に開発した道徳観念よりも、様々な側面において、はるかに優れている場合もある。人類がどのような道徳を選択すべきかという倫理学のテーマも、現実の道徳を分析することなしには机上の空論になってしまう。少なくとも応用学・実践学としては失格である。
 さて、理念的には科学は確かに道徳ではないが、現代社会においては、現実的には科学が道徳として機能している現象は観察されうる。倫理学からは観察されないが、社会学からすると、これは十分ありうる現象である。
 道徳規範の社会学的特徴は、それに違反すると他者から非難され、それに合致すると賞賛されるということである。つまり、他者からの正負のサンクションを伴う。科学的に証明されないことを真理だと主張すると、集合的非難を浴びせされ、科学的に証明されたことを真理だと言うと、賞賛される。理念的には自然科学は道徳の世界と区別されるが、自然科学を道徳として観察することも可能である。「科学的に証明されないことを真理であるということは悪いことである」という道徳規範は流布していると思う。オカルト批判、スピリチュアル批判にその典型が認められる。ニセ科学批判にも該当すると考えられる。
 ニセ科学批判者は、科学がイデオロギーだと分かっていても、科学が道徳化してしまっていることまでは気づいていないような気がする。ニセ科学批判者を見ていると、猛烈な道徳感情を感じてしまうのは、そのためである。科学を知識として身につけるだけではなく、道徳として内面化しているのである。
[PR]
by merca | 2007-09-18 23:05 | 理論 | Comments(8)

数学は非科学か?

 数学の対象は、物体ではなく、実体がなく、観念を対象とする。従って、自然科学のように対象と認識の一致を実験で実証することができない。実験できないということは反証可能性もない。また、数学でいう虚数やゼロなどは自然界に存在しない。また、自然界には完全な三角形や円も存在しない。その意味で、数学は科学ではない。ちなみに、確率論や統計学も数学の一種である。(数学と同じことは、論理学にもあてはまる。)
 しかし、当の科学は、統計学など数学を利用している。科学自体が科学でないもの=数学を利用して自然を認識しようとする。数学は人間の思考様式なのであろうか? それとも、人間の思考とは別個の客観的な宇宙の真理なのか? ピタゴラスは、数学が客観的な宇宙の法則だと考えた。
 数学を人間の思考様式と捉えるか、自然法則として捉えるかで、数学の解釈は異なる。現代の科学から数学を抜き取ると、現代の科学そのものが破綻する。数学を使用しない科学があれば教えて欲しいくらいである。科学と数学の関係は実に奇妙である。もし数学が単なる人間だけがもつ思考様式にすぎず、科学でないのなら、科学は科学でないものを密かに取り込んでいることになる。
[PR]
by merca | 2007-09-17 23:09 | 理論 | Comments(0)

「社会学入門一歩前」書評

  社会学者・若林幹夫が「社会学入門一歩前」という本を出した。
  
 これは入門書かもしれないが、それ故、基礎的な社会学の知識を身に付けていないと、書けない書物である。
 社会学者の科学観について述べられているページがあった。概ね社会者たちは同氏と同じような科学観(イデオロギー論的観点)をもち、その観点から科学を観察する。
 
 「科学から魔術へ」という章が面白い。
   
 基本的に人々が科学を受け入れる理由は合理的な理由からであると説明される。大衆は科学を理解していないけれども信じるわけであるが、その理由はそうすることが合理的であるからであるという。つまり、思考のコストを削減し、信頼したほうが明らかに手間がかからず、生活上の目標を達成できるというわけである。
 例えば、掃除機を使用するのに掃除機の原理を分析してから掃除機を使用するのなら、何日たっても掃除ができないことになる。掃除機という科学技術を信頼したほうが、生活者にとっては合理的である。このことについては、私も当ブログで書いた。システム合理性である。機能分化した社会では、それぞれの専門家を信頼することで社会は順調に回るという社会原理である。科学者も専門家の一人である。
 ただ、ここがポイントであるが、専門外のことついては信頼されない。あの世のこと、葬式のことなどに関しては、僧侶などが信頼されることになる。もし科学者があの世は存在しないので葬式もする必要がないと、僧侶にくってかかると、社会は回らなくなる。システム合理性の観点からは、システム障害となる。

 同氏によれば、科学は宗教より無知であるという。
 
 科学者は、対象と認識の一致という真理観で観察しうる世界(物理世界)のみを扱うことができるわけであり、それ以外の世界については無知である。科学が処理不可能な世界のほうが多く、そのような世界は宗教やスピリチュアルで扱われる。そのような世界=精神世界あるいは物語世界に対象と認識の一致という科学的真理観を持ち込むのは間違いである。
 
 この問題も、当ブログで社会的リアリティと物理的リアリティの区別ということで、論じてきた問題である。水伝がこの区別を混同しているところに問題があると指摘したばかりである。社会学は、科学と宗教(スピリチュアル)の住み分けによる平和協定と共存共生を目指している。この平和協定を破るおそれがあるのが水伝ということになる。あるいは、逆向きの方向として科学者による無分別な文化破壊も同じである。


 参考・・・同書物では、科学の基準として反証主義と規約主義が取り上げられていたが、ベイズ主義のような複雑な科学の基準については立ち入ってなかった。社会学者も古典的科学哲学だけでなく、早くベイズ主義などを勉強しないと、科学を本格的に観察できないと感じた。
 
[PR]
by merca | 2007-09-17 10:58 | 社会分析 | Comments(0)