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素朴なモダニストたち

 西洋社会の近代化がなぜ全世界に広まったのか? 大きなテーマである。
本来、社会学は近代化をテーマとした学問である。そこが、文化人類学とは異なる。
近代社会で自明とされているものの発生根拠を問う学問である。従って、近代的なるものを疑い、相対化して分析することになる。

 近代で自明とされているもの。つまり、近代化の特徴として、次のものがある。
 法律の分野・・・人権思想
 政治の分野・・・民主主義
 経済の分野・・・資本主義
 学問の分野・・・科学主義
 教育の分野・・・学校主義
 生活のスタイルの分野・・・個人主義
  
 これら近代的なのものを社会学は分析する。それが社会学の本道であり、歴史であった。さらに、近代的なものに同一の構造を見い出し、相対化しようとしたのが、ポストモダン思想家たちだった。近代を絶対視しない点において、社会学とポストモダン思想は親和性があった。
 近代社会の知識の分野で、幅を効かせているのが科学である。科学技術によって産業革命が起こったのも周知の事実である。科学無しに近代を語ることはできない。
 ニセ科学批判をする人たちは、素朴なモダニストという印象を受ける。科学と民主主義を素朴に自明視している。「今のところ科学だけが信用することのできる知識である。今のところ民主主義だげが有効な統治手段である。」という言説は、絶対化を避けているようであるが、全く逆である。この思考パターンこそが近代の罠なのである。多くの社会学者やポストモダン思想家は、それらの発言を聞くと、単純に近代社会に踊らされているなと思うであろう。後藤氏も近代の知である統計主義的な科学主義に準拠しているかぎり、近代を出ることはできないのであり、宮台社会学の真髄も理解できないのである。 
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by merca | 2008-01-26 09:40 | 理論 | Comments(1)

宮台氏を弁護


他ブログでのコメントです。
 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070626/1182863059
真理観の相違

 いつも言いますが、真理観に差異があります。これを自覚しておかないと、議論がかみ合いません。安原さんたちは、対象と認識の一致という自然科学的真理に立脚しています。つまり、社会を自然のように必然として観察する立場です。

 宮台社会学のようなシステム論的視点では(私も究極のラディカル・システム論者ですが)、社会という対象を必然の相ではなく、複数の自由意思どうしの関係で創発されたものとして偶然の相で観察します。人間の相互作用によって社会はつくられたものであり、偶然の産物であるという感覚です。偶然に対しては因果法則ではなく、解釈としての物語が有効になります。社会理論も社会に対する一つの物語にしかすぎません。というよりか、物語としての機能を持ちます。物語は演じられることで、本当になり、創発されます。そのように割り切ることで、対象と認識の一致という真理観に基づく科学主義者と折り合いをつけます。二つの真理観は、同等の価値をもちます。

 社会は自然のように天から与えられたものではなく、社会は人間がつくったものですから、認識するという類のものではなく、参加して演じてつくるというほうが適切ですね。これは開き直り出はなく、一つの分別・区別です。もちろん、社会を実体視する社会理論や社会思想もありますが・・・。

 私は、ブログではメタ理論を書いていますが、実際のところ、社会学における質的調査を重視する臨床社会学あるいは社会病理学の立場に立っています。

 後藤さんや安原さんたちにしても、統計だけでなく、例えばホームレスや累犯障害者と直接話して面接調査し、その内面的な意味世界を記述し、理論化していく作業をなされたのか疑問をもっています。統計的現実は学者によってつくられた二次構成物であり、むしろ直に調査対象と接して生の現実を観察されることをお勧めしたいですね。原爆を例に出すのも変ですが、統計だけではキノコ雲の上だけ見てその下の悲惨な現実を見ない立場です。死者の数という統計だけでは原爆の真実は伝わりません。

 初期の宮台真司は、援助交際少女を対象としたインタビュー調査・質的調査を重ねた上で、議論していたようですね。それが説得力があったのだと思います。

 理論社会学の本を読むと、確かに具体的事実にどう当てはまるのか、一体、何のことを指しているのかわからない場面によく出くわします。ベックに限らず、ルーマン等はその典型かもしれませんが、ヘーゲルの法哲学を読むのと同じ感覚で読んでいます。伝統的な西洋哲学の知識なしに、理論社会学を読むのは困難かと思われます。ドイツ観念論の基礎を勉強してからのほうがいいかもしれません。

 欧米の社会学者だけが進んでおり正しいという先入観を捨て、もっと日本人の社会学者も勉強したいですね。そういう意味では、マクロ論理においては、富永健一の社会学だげが、唯一、概念の精緻さからして、科学として扱える可能性があると思っています。(科学だけが正しいと思っていませんが) もちろん、あまりにも質実剛健で地味なので、目立ちませんが、宮台社会学に比べると、はるかに歴史的な事実に根付いています。ポストモダンの論客はあまり目にとめていないようですがね。

 おっしゃるとおり、統計調査と質的調査は、本来、相互補完的なものですね。特に、統計調査の違和感、例えば擬似相関関係は、質的調査によって見破ることができる可能性があります。

 今、擬似科学批判者や後藤氏など、事実志向の論客が増えています。そこで,それに関連して興味あるのは、ブルデューです。彼は、統計調査を駆使して、社会を分析します。抽象的な理論社会学やポストモダン論を床屋談義として否定する後藤氏や安原さんたちの思想的潮流が、ブルデューをどう評価するのか興味あります。ブルデューに依拠したネット論客の登場を期待しています。


  参考
 例えば、援助交際の分析は、警察官や家裁調査官や保護観察官などが頻繁にその類の非行少女と接しており、膨大な量的・質的データをもっている。研究の仕事の関係上、上記のような非行専門家たちに尋ねたところ、宮台の説は違和感なく受け入れられた。後藤氏が援助交際少女と面接して調査せずに、統計だけを絶対視して、宮台氏をやみくもに批判するのは、臨床的な実証性にかけているのである。
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by merca | 2008-01-22 09:09 | 他ブログコメント | Comments(1)

反証主義=絶対主義


 反証主義だけに基づくニセ科学批判・疑似科学批判はお粗末であり、複数の基準に基づくニセ科学批判・疑似科学批判は優れている。しかし、複数の公準があっても、やはり反証主義は科学の公準から欠かせない必要条件ではないかと思う。なぜなら、反証主義こそが科学という知のシステムの形式的構造をもっともよくあらわしているからである。

 反証主義は、到達不可能な仮想の到達点=絶対的真理を前提に組み立てられた知の運動である。個々の命題は常に相対的であり、いつでも反証される可能性をもつ。それは到達不可能である仮想された絶対的真理という観念を前提としている。かえって科学という知は到達不可能な仮想された絶対的真理という観念無しに成立たない。絶対的真理には永久に到達しないが、永久に到達しないが故に、永久に科学という知は検証・反証され、進化していく。これは、哲学的には、否定神学的な弁証法の一種である。科学という知のシステムは、このような絶対と相対の弁証法として運動しているのである。そして、その弁証法を支える隠された基準は、実験、つまり自然からのレスポンスである。反証は、実験によって可能になるからである。人智を越えた不動の自然という観念が、科学という弁証法を作動させるファルコマンなのである。

 このように、科学という知のシステムは、相対主義の隠れ蓑をきた絶対主義なのである。

 
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by merca | 2008-01-20 10:41 | 理論 | Comments(1)

後藤和智の宮台批判への疑問

 これは本当に一番興味あるテーマである。
 
 新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜: (宮台真司への)絶望から始めよう——「現代の理論」発刊に寄せて
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2008/01/post_fe9b.html

 後藤氏がとうとう正式に宮台真司を批判した。宮台真司の成熟社会論を前提としたこれまでの若者論について、ニセ社会科学として批判している。その根拠は一点である。実証性がないという点である。
 後藤氏が考える社会科学の公準の中には、実証性が含まれていると考えられる。それも、厳密な統計主義に根拠付けられた実証性である。統計主義的実証主義である。そういう立場から、宮台氏の若者に対するインタビュー調査=質的調査を否定している。
 
 しかし、多くの社会調査法の教科書を見ればわかるが、質的事例調査の意義についてもきちんと述べてある。後藤氏は、統計調査のほうが質的事例調査よりも、優れているという安易な前提に立っている。質的事例調査は、社会学のあらゆる分野で有効に使われている。特に、臨床社会学では、質的事例調査がメインである。決して、宮台氏が社会学的に見ておかしなことをやっているわけではない。質的事例調査は、統計調査よりも社会をより適切に記述することができる場合がある。洞察力に優れた社会学者なら、質的事例調査のほうが端的に社会の実相を観察・記述できる。もちろん、鈍い社会学者が質的事例調査をしたらひどいものになるが・・・。そういう意味で、質的事例調査は、あたりはずれが大きい。典型性・代表性のある事例を的確に調査すれば、わざわざ統計調査で検証する手間も省ける。

 さらに、これが大切であるが、自然科学と違って社会科学は、観察主観の側の恣意性よりも、むしろ観察対象に恣意性がある。要するに、観察対象は人間やその関係であり、状況や気分次第で調査に対しても恣意的に反応するかもしれない。自然物にはそのような恣意性はなく固定化された規則的なレスポンス=実験結果がある。自由意思をもつ人間となると、恣意性を免れない。統計調査で表面的なところを調査しても、質問の意味を取り違えたり、表面的で本当のところがわからない場合が多い。また、疑似相関関係が隠れていたりする。
 質的事例調査においては、調査者の視点から質問して切り込めるので、調査対象の恣意性は統制しやすい。直接コミュニケーションをとることで、相手が質問を本当に理解しているか確認できるし、状況に応じて調査対象が答える言葉の真意を確認することができるのである。実際に、事例調査は、調査対象と直接接触してえた第一次情報なので、臨床的な実証的知識そのものである。要するに、一般化していいのかどうかが問題になるだけであり、実証性とは直接関係ない。

 なお、後藤氏の社会科学の公準(統計主義的実証主義)からすると、ニセ科学批判の前提である「○○は科学的事実であると社会的に誤解されている。」という命題も統計調査によって実証されていないといけないことになる。でないと、ニセ科学批判者は実証的根拠がないことを言っていることになる。後藤氏は、統計主義に基づいて、ニセ科学批判者の発言を実証性がないと判断しているであろうか? 興味深い点である。
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by merca | 2008-01-20 00:39 | 理論 | Comments(1)

(勝ち/負け)、(敵/味方)


 色々と想像し、私の説や動機に自分たちの願望を投射しているようであるが、無駄なことである。私は、 議論の(勝ち/負け)や(敵/味方)というコードにはなんら準拠していないからである。もともと何が真実であるかについて無欲である故に、いたずらに他者の願望を呼びこむことが多い。私が興味があるのは、他者がどのような区別に準拠して発言しているか観察することだけである。
 いずれにせよ、そのような投射行為によって、逆に今騒いでいる論客の皆さんが準拠している欲望や区別を観察できることになるので、うれしいことである。ネット上には、もはや騒いでいる皆さんによってつくられた私の像しか存在しないのである。そもそも、一切の物に実体はない。全てはつくられたものである。私の説すらも区別することによって刹那に生じたものにしかすぎない。つくられたものに真も偽もなく、すでに寂滅している。

  むしろ暴かれたのは、私の周りで騒いでいる人たちの道徳感情とその強度である。本当に熱い感情が読み取れる。なぜかというと、自らの道徳的関心でもって他者を観察しているからである。真なる識者は、ほどよくそれ自体を観察していることであろう。

  追伸
 トラックバックの質問には一部答えようと考えたが、答える前に、内輪ですでに答えをだしているのである。答えは、これすべて、自己のうちにあるのである。
 私も含めてニセ科学批判批判をする人たちは、よく見れば孤立化しバラバラなような気がする。互いに連携することはなく、それぞれが自己に準拠して述べている場合が多い。私は、津村さんや室井さんとも、ほとんど連携したことがない。どんな人かあまり知らない。
 一方、ニセ科学批判の人たちは集団化する傾向にある。集団化するということは、一つの思想的潮流になる可能性もあり、特に悪いことではない。(ローマの寛容の実践、他説を取り入れるのもその実践の一つ)
  (敵/味方)というコードに準拠し、誰か敵がいることでまとまっている。おおよそ集団の境界線は外からしか観察できないので、自分たちが思想的に集団化していることに盲目であると思われる。
 
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by merca | 2008-01-17 18:51 | 理論 | Comments(12)

科学の絶対性とは何か?


 科学は、相対的な知識であると同時に、絶対的な方法的規準である。この二重性を認識する哲学的センスがないと、すべての議論はわかりにくくなる。

 科学の歴史において、科学的真理として当初はフロギストン説が採用され、後に酸素説が採用されて、現在に至っている。しかし、フロギストン説を唱えた学者も科学的方法に準じていたわけであり、科学も間違うことがある相対的知識である。従って、科学者のうちでは、科学は絶対主義だとはみなされていない。こう主張されたいのだと思う。

 しかし、よくよく考えてみると、ある科学的知識の真偽を判定するのは、宗教や民主主義ではなく、当の科学的規準(科学者)であるので、結局、原理的に科学は自己準拠していることになる。科学は、自らの過ちを自己判断する閉鎖システムなのである。他に依存せずに閉じているという意味では、絶対的なのである。
  正しい知識が更新されていくというだけで、相対主義というわけでない。科学的手順に従った適切で説明能力の高い別の学説が現れると、従前の学説を破棄して新しい学説に忠実に従わなければならないという絶対性・規範性をもつことになる。矛盾した学説の同時的真理性は認めらていない。常に真理のスペースは一つであるという理念によって発展・進化している。(形式的唯一性)。まさしく、真理という唯一の席を巡って様々な学説が闘争し,世代交代して知識が更新されていくという変動的な相対性こそが科学の絶対性の本質なのである。この唯一性を巡っての競争こそが科学者を研究へと動機付けるわけである。このように、真理は一つという観念がないと、科学は発展はなかったと思われる。菊池さんや天羽さんなどの個々の科学者が主観的に科学を絶対視していないと思うのと、科学にもともと内在する論理とは次元を異にするのである。
 
 科学は、近代的知識の特徴をよく備えており、民主主義や資本主義も同様な構造をもつ。浅田彰の「構造と力」で、近代特有のこのからくりが解明されている。資本の論理と科学の論理が同じ形式的構造をもつことは、ポストモダンの思想家などがよく指摘するところである。
 
 ただ、私も上記のようなポストモダンの科学観だけでは、科学は完全に捉えきれないと思っている。科学は、自然という人間の恣意性の外部との関係には開かれていると思っている。むしろそちらを尊重したい。

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by merca | 2008-01-14 14:39 | ニセ科学批判批判 | Comments(1)

科学観への疑問

   天羽さんのエントリーについて分析
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7398

 「物理的リアリティ(対象と認識の一致)の世界では、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという前提において、はじめて装おうことが意味をもつと考えられる。」(論宅)
 この部分は間違っている。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という前提は不要で、そのかわりに「科学とはどのようなものかという専門家の間での共通認識がある」が「その共通認識の全てが必ずしも通常人にまで共有されていない」という前提があればよい。(天羽)」
 
 天羽さんの定義では、自然科学が単に科学者という社会集団によってつくられたものにしかすぎなくなる。共通認識だけに還元されると、文化=社会的リアリティのみに準拠してしまい、自然科学のメリットがなくなる。
 人間の恣意性を超えた自然に問いかけて、そのレスポンスによって真理性を確かめるのが自然科学の特質と営みだと私は思っている。文化を越えて正しいとは、そのような意味である。
 もし今でも仮に天動説が科学者の共通認識であれば、天動説は科学的真理になるのでしょうかねと問いたくなる。単なる共通認識に逃げるのはよくない。
 自然に忠実にあって欲しい。自然界の法則は普遍かつ不変であるという信念をなくせば、自然科学者ではなくなるのである。
 人間の恣意性を越えた世界の必然の部分を認識する自然科学的方法は文化を越えて有効なのであり、だから西洋文化から異文化にも伝播したのである。ただ、必然の世界だけから世界は構成されていないので、私は、科学にも限界があり、相対的だと言っているだけなのである。
 (文化=社会/自然)というコード抜きにして自然科学は語れない。

   参考
 過去に書いたが、自然科学者の科学観は田崎さんのほうが共感できる。
http://mercamun.exblog.jp/7389683/

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by merca | 2008-01-14 13:16 | ニセ科学批判批判 | Comments(3)

ニセ科学批判の定義

 ニセ科学の定義は、(科学/非科学)と(装おう/装わない)という二つの区別で判断すると、非科学であり、科学を装おうというものである。ニセ科学が自ら準拠している区別コードは、専門的なニセ科学批判者の観察によって可視化される。

 ニセ科学批判は、対象を科学かどうか判断した上で、装っているかどうか判断する言説である。当然のごとく、有効なニセ科学批判は科学の公準に準拠した科学の立場から為されることになる。このように、本質的に科学主義に準拠することなしに、ニセ科学批判は成立たない。科学の立場からの批判にならざるを得ない。装っているかどうかは、複雑な問題を含んでいるが、一応、その基準は社会科学による調査で確かめることが有効であると考えられる。

 物理的に(正しい/正しくない)という区別がニセ科学議論に必要かどうかであるが、この場合、物理的に正しいニセ科学が存在するかどうかを考えてほしい。もし正しい=真理であるニセ科学が存在するとしたら、どのようなものかと・・・。正しければ、ニセ科学として批判されないことになるのか、正しくても批判されるのか?

ニセ科学批判者やそれを支持する方々は、もし対象と認識が一致する正しいニセ科学があったとしたら、批判しますか? それとも、ニセ科学と正しくないという概念は切り離せないのでしょうか? 切り離せなければ、ニセ科学批判が、基本的に (正しい/正しくない)という区別に準拠していることになります。

  参考
 TAKAさんのコメントを読むと、ニセ科学の知識は正しくないので、どうにかして欲しいという印象を受けます。そのとおりだと思うのですが、やはり正しくないからニセ科学は嫌なわけです。物理的に正しくないから被害を受けるというわけですね。正しさを求めるからニセ科学批判は支持されるのだと思う次第です。

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by merca | 2008-01-12 11:34 | 社会分析 | Comments(1)

ニセ科学批判の意味空間

 ニセ科学と呼ばれる対象について数人にインタビューしてみた。水伝などそもそも知らない人が多くいた。血液型性格判断はよく知られているが占いとして分別している人もいた。マイナスイオンについても知らない人がいた。個々のニセ科学によって知名度が全く異なる。ニセ科学について、社会調査のアンケート項目をつくる場合、前提として(知っている/知らない)という項目が必要である。またどのレベルまで知っていることを本当に知っていると定義するのか困難である。こういう事実も予備調査としてのインタビュー調査(質的調査・事例調査)の段階でわかってくるわけである。
 しかし、よく考えてみると、知名度がないニセ科学は、社会統計調査そのものがあまり意味をなさないおそれがある。また、知っている人だけを対象にすると、それ自体サンプリングに偏りができる。これこそ社会調査の専門的常識である。あくまでも無作為抽出された標本集団でないといけない。そう考えると、「多くの人が科学だと誤解している」という命題を検証するのではなく、「多くの人が科学だと誤解しうる可能性がある」という命題を検証したほうが適切だと思えてくる。
 そこで、対象に科学を装おうという効果が本当にあるのかどうかを測定することになるが、この場合、大がかりな社会統計調査よりも、心理学的な実験のほうがむいているかもしれない。例えば、一定の人数の被験者を集め、対象(非科学)について説明を受け、対象を科学と思ったかどうか聞くというかたちである。社会心理学や集団力学でよく行われるタイプの実験である。
 さらに、人によって科学の定義が異なるおそれもある。単に科学者による発言や発明品を全て科学と思う人もおれば、ニセ科学批判者のように科学哲学的な公準で厳密に考える人もいる。このように、もし人々の科学観が多様ならば、非科学が科学を装おうことに何の価値や意味があるのかと思う。
 物理的リアリティ(対象と認識の一致)の世界では、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという前提において、はじめて装おうことが意味をもつと考えられる。
 ニセ科学は、やはり科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提に支えられているような気がする。そして、ニセ科学批判も、科学の立場からなされるのならば、科学が唯一絶対的な正しい真理であるという暗黙の前提をもつことになる。「科学が唯一絶対的な正しい真理である」という信念を共有する者どうしの熱い議論である。ところで、科学以外の立場から、ニセ科学を批判する視座はあまり見かけたことがない。
 ニセ科学批判者たちが、なぜそんなに熱くニセ科学やニセ科学批判批判を批判するのか、その理由が釈然としないもどかしさを感じる。科学だけが正しいとは限らないという私のような相対的な認識をもっている者には不思議にうつるのである。科学が唯一絶対的な正しい真理と堂々と思っているから熱く議論するのであると正直に言えばいいと思う。ポストモダンが生み出した懐疑論者やニヒリストたちの前で、科学は文化を越えた唯一絶対的な真理であると単純にいうのは、恥ずかしいと思っているのかと思う。

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by merca | 2008-01-11 00:40 | 社会分析 | Comments(44)

多神教、相対主義の寛容

  寛容は美徳である。
 ブログのイラストは、ローマ元老院の哲人である。今こそ、寛容を是とするローマ帝国の精神が必要だ。
 若いころに、一神教的教条主義と決別し、正しいものは、ある範囲内で複数あると考え出した。正しさが唯一であるという偏頗な思想が争いと傲慢を生むことを知った。科学という一神教が近代の怪物となり、文化破壊をしないか心配である。もともと科学という一神教的発想がなかったらニセ科学もないのである。多神教的相対主義の寛容の精神でもって、科学を認めるとともに、スピリチュアルも認めるのである。ともに対象となる世界=次元空間が違うだけである。争うことなかれ。すみ分けるべし。区別せよ。
 (科学/非科学)という区別に拘泥し、他の区別を受け入れることができなくなると、豊かな人生を送ることはできまい。ニセ科学批判システムのコードである(科学/非科学)、(装う/装わない)という区別は、いくらでも別の区別で相対化しうるのである。

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by merca | 2008-01-06 17:50 | 理論 | Comments(0)