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ニセ科学批判の恣意的運用の危険性

 ラベリング論で問題にされるのは、レッテルを貼る側に基準がなく、あるいは仮に基準があっても曖昧で解釈次第であり、ラベリングが恣意的に運用されることである。社会的強者が弱者に対して恣意的にレッテルを貼るという危険性を問題視した社会学理論である。裁判官の所属階層と同じ社会階層に属する少年は、そうでない少年よりも、同じ非行を犯しても、少年審判で軽い処分しか受けないなど、セレクティブサンクションとして問題化されている。たとえ法律という基準があっても実は解釈次第であり、このように恣意的な運用がなされることがある。

 社会学的に見て、ニセ科学批判は、レッテルを貼る側の基準が実に曖昧であり、恣意的に運用されるおそれが非常に大きい。まず、非科学と科学を区別する基準もしっかりと人々に共有されているわけでない。科学哲学論争で科学とは何かという究極的結論は出ていない。さらに、科学を装うというのは、どのようなことを指すのか、それ自体共有されておらず、完全に恣意的であり、ニセ科学批判者の主観に委ねられている。また、法的に言うと、「科学」という名称そのものの特許申請は存在しえず、科学という名称の占有権は誰にもない。法システムから観察すると、誰が科学と名乗ろうが違法性はない。その意味で、ニセ科学批判者は、「科学」という名称の使用権利が自己のものだけと勘違いをしており、傲慢なのである。

 おそらく、人々が科学を共有しているというのは嘘であり、科学という名称と科学は正しいという観念だけが共有されているレベルである。言い換えれば解釈次第の世界であり、ニセ科学批判者の恣意性・主観性によってレッテルが貼られる危険性が高い。   
 逆に言うと、人々の間に共通の科学の基準とニセ科学の定義が合意の上で共有されているという前提においてのみ、社会的にニセ科学批判は正当化される。

 現状では、ニセ科学批判は、ニセ科学批判者の恣意性・主観性に委ねられており、解釈次第である。いや本当に恣意性・主観性をどのように克服するのか知りたいものである。恣意性・主観性のチェックがないまま、レッテルを貼られると、魔女狩りと同じになってしまう。これを何とか防ぎ、客観性を確保できないものかと思う次第である。共有されていない曖昧な基準や定義に基づく現状のニセ科学批判の社会的正当性は、どこに根拠があるのか知りたい。このままでは、ニセ科学批判の悪用も十分考えられるのである。


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by merca | 2008-02-28 23:07 | ニセ科学批判批判 | Comments(5)

ダメなニセ科学批判=科学(万能)主義

 近代化とは、機能分化の過程であると、社会学者ルーマンは考えた。
 つまり、近代後期では、社会システムは、経済システム、政治システム、法システム、宗教システム、学システムなど各種システムに分化し、相互に従属関係がなく、対等な関係で自律性を保つと考えた。それぞれのシステムには、メタコードがあり、経済システムは(支払う/支払わない)、政治システムは(与党/野党)、法システムは(合法/違法)、宗教システムは(内在/超越)、学システムは(真/偽)というメタコードで観察されて創発されると考える。ちなみに、中世西洋社会においては、宗教が学問を含めて全ての社会領域を統制するなど、システム間に従属関係があった。ところが、完全な成熟社会=後期近代社会では、全てのシステムは対等であり、互いに閉じており、独自のメタコードで観察されるようになるわけである。これが機能分化という社会進化である。人類学でいう人間が誕生して以来、人間は脳ではなく、社会を進化させてきたわけである。(唯脳論の盲点)

 ところで、科学という学システムが他の全てのシステムを支配し、自己のコントロール下におこうとするのが、所謂、科学(万能)主義と言えよう。少しでも科学的知識に反する、政治、法律、教育などがあったら、それらは全て認めず否定し、科学的知識と合致するものだけが肯定されるのである。ちょうど、中世西洋社会で、キリスト教に反する政治・法律・学問が批判にあったのと似ている。このような在り方は、当然のごとく、ルーマンの社会観に反する。経済、政治、法、宗教、教育はそれぞれ独自のメタコードに基づく価値を有しており、科学という学システムのメタコードである(真/偽)という価値に一元的に還元されるものではない。それぞれには、他に還元されないそれぞれの自律的な価値や世界がある。科学の立場から宗教やスピリチュアルを否定するのは、明らかにおかしな行為なのである。科学が宗教やスピリチュアルを批判できるのは、宗教やスピリチュアルが自身のメタコードを使用せずに科学のメタコード(真/偽)に基づいて自らを主張し、科学の領域を侵犯した場合のみである。
  
 ニセ科学批判は、科学と名乗るものを批判するわけであり、科学と名乗らないものまでも批判する権利はない。ニセ科学批判は、科学が分限を越えて他の社会的領域を侵略することを防止する科学自身による自己足枷である。ダメなニセ科学批判は、科学を名乗らない対象までも、自己の恣意的判断で批判対象とするのである。科学のように見えるものまで批判の対象とすると、完全に批判者の恣意性と主観性に委ねられ、魔女狩りと同じになるのである。魔女狩りにおいては、魔女のように見える者が魔女狩りの対象とされたわけである。同じ歴史的過ちを繰返してはならない。そのためには、ニセ科学批判は、批判対象を科学と名乗るものだけに禁欲すべきである。そのことが科学が他の社会領域の価値を破壊することを防ぎ、他の社会的領域と共存する処方箋となるのである。逆に言うと、自己の分限を越えて暴走するニセ科学批判は、科学万能主義の一種なのである。
 宗教やスピリチュアルも同時に批判しているニセ科学批判者を見つけたら、科学万能主義者であり、危険なのである。反対に、批判対象を科学と名乗るものだけに限定した適切なニセ科学批判は、科学万能主義を防ぐ社会的装置になるうるのである。

 
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by merca | 2008-02-28 22:06 | ニセ科学批判批判 | Comments(1)

ニセ科学批判の潜在的機能

  科学を信じると言った場合、人々は本当に科学を信じているのだろうか?
  (名称/概念)という区別に準拠して観察してみたい。
 
 答えは否と思う。人々は、科学の実質的概念=科学の公準を正確に把握した上で、個々の科学的言説や科学技術を信じているわけではないと思う。人々は、科学という名称を信じているだけなのであり、科学の実質的概念内容を信じているわけではない。というか科学の概念を正確に知らない。科学あるいは科学的根拠という名称=レッテルに人々は反応しているのである。レッテルが重要なのはそのためである。
 さらに、科学という名称=レッテルは、「正しい知識=真理」という意味内容と結合している。科学は正しいから、人々は科学を信じるのである。もし科学が正しくないと思うのなら、人々は科学を信じることはないだろう。また、真理の追究を動機付けとしていない科学者はいないのではないかと思う。自然に対する正しい知識が欲しいと思うから研究するわけである。
 いずれにしろ、「科学=真理、ニセ科学=虚偽」という構造図式となり、ニセ科学のレッテルを貼られると、人々はニセ科学は正しくないから信じないということになる。構造主義的には、概念内容よりも、名称間の差異構造の対応関係が重要になってくる。とにかく、科学と正しさ=真理性という概念を分離し、議論することはできないと思う次第である。もし科学が正しくなければ、ニセ科学が自らを科学と装う必要はないからである。科学は、人々の間で正しさを象徴する記号として機能しているのである。

   (ニセ科学批判の潜在的機能)
  しかし、こうなれば、ニセ科学のみを偽とすることで、非科学は全て正しくないという構図に陥るよりも健全だと言える。非科学である宗教や伝統的知識に対する攻撃に向かう力がニセ科学批判に集中することになるからである。科学という学システムは、ニセ科学批判を通して、自己の外にニセ科学をつくりだすことで、非科学一般を破壊する力がそがれる。ニセ科学批判は、科学から宗教や文化的伝統を守る社会的な装置として機能しうる可能性があるのである。詳しく言うと、非科学に対しては、科学が自己の基本コードである(真/偽)を適用しないという制御がはたらくわけである。その代わりに、科学を名乗った途端、たちまち科学システムは、ニセ科学批判によって自己にとって異物かどうか判断し、(包摂/排除)の選択をするわけである。
 
 ここで、逆説的であるが、ニセ科学批判には、非科学一般=宗教や文化的伝統に対する科学による破壊行為を制御する社会的装置として機能することを願うのである。ニセ科学批判は、科学システムが絶対化され、宗教システム、政治システム、教育システム、文化システムを侵食することを制御するシステム内部装置なのである。科学システムは、この制御装置によって、科学という名称のついたものしか攻撃できなくなり、科学が暴走することがなくなるのでるある。科学はニセ科学のみを批判すればよいわけであり、宗教やスピリチュアリズムや文化的伝統を批判する必要はなくなるのである。

    参考
 ニセ科学批判をする科学者たちが、ニセ科学だけをターゲットにするか、それとも非科学一般(宗教、スピリチュアリズム、文化的伝統、人文思想など)にも手を広げるか興味深いところである。
  
    関連エントリー
 香山リカ批判 


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by merca | 2008-02-24 18:59 | ニセ科学批判批判 | Comments(6)

自己言及的ラベリング


 ラベリング論(社会学理論)によるニセ科学批判の考察
  
 実は、多くの場合、他者に対するレッテル付与は、自己ラベリングを伴う。レッテル付与は、二者間の相互作用だけではなく、それを見ている観客の視線こそがポイントなのである。ゴフマンの演劇論の視点を入れることで、ラベリング論は完成する。
 
 例えば、他者の不正や犯罪を摘発する者は正義の味方だと思われる。誰かを悪人と呼ぶためには、自分は善悪を弁えている善人であるという自己レッテルを伴うことになる。また、他人の嘘を摘発する者は、自身は真理を所有している者だと宣言していることになる。これを自己言及的ラベリングという。つまり、他者へのレッテル付与が同時に自身へのラベリングを伴わざるを得なくなる現象である。
 重要なことは、他者言及と自己言及が同時に発生することを観察できる立ち位置は、二者を見ている観客の立場であるということである。この観客の視線は、社会状況や世間と置き換えることができる。言語ゲームは、当事者どうしの相互作用だけではなく、それを観察する観客によって支えられているのである。このことを意識して言語ゲームをするかどうかで、色々と違った結果が出てくる。観客の視線をフィードバックして発言していく当事者と、そうでない当事者は、おのずと違ってくる。

 ラベリング論的には、ニセ科学批判者によるラベリング行為が、自己言及的ラベリングの一種であることは手に取るようにわかる。つまり、批判対象にニセ科学のレッテルを張ることができるのは、当然、自説がニセと本当の区別を弁える基準を所有している真なる科学であるという自己レッテルを伴う。ある意味、これは(真/偽)というコードに準拠する学システム一般がかかえる普遍的な問題である。(自己言及のパラドックス)
  原理的に当事者たるニセ科学批判者には盲点になって気づかないので仕方ないが、観客=世間の人々はそのように観察するのではないかと思う。他者を否定し、自己が本物であると宣言しいていると観察されるのは論理的に当然なのであり、当事者であるニセ科学批判者の主観的意識とは別に、ニセ科学批判者は自説を絶対化している思われてしまうのである。その自説たるものが科学的であればあるほど、科学を絶対化していると思われるのである。そのようなリスクを背負って、ニセ科学を批判しているかどうかはわからない。確かに主観的レベルでは、ニセ科学批判者は絶対化はしていないというのは本当かもしれないが、まさにそれに気づかないことが盲点なのである。ニセ科学批判を見て、最初に科学を絶対化していると反応するのは、ある意味、論理的には正常である。やはりそのように初っ端は反応している方がいるようである。

  追加
 自説を絶対化することで、人々から非難されるとは限らない。もし世間の人々のほうも科学を絶対的に信じているのなら、ニセ科学批判者は妥当で正しいと思われ、非難されることはないのである。その意味で、絶対化していると言われても臆することはない。 

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by merca | 2008-02-24 17:13 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

(合理性/非合理性)

社会学者マックス・ヴェーバーは、近代化を合理化の過程であると喝破した。合理性あるいは合理主義とは、目的にとって最短の手段を選択するということである。近代社会においては、合理主義は、社会規範としても機能していることを述べておきたい。
 つまり、合理的に説明がつく現象や行為しか認めてはならないという社会規範である。合理的に説明がつかない現象や行為は、排除されるという規範である。
 例えば、ひと昔前には、丸狩りを男子生徒に強制する校則をもつ中学校があった。このような規則に対して、生徒や父兄たちは合理性がないと批判し、廃止を求めた。学校の風紀が乱れるという以外に説明しない学校は負けた。自分達が合理的に納得できない風習や規則に対しては受け入れるべきではないという市民的な道徳規範の勝利である。
 ちなみに、一方でプロ教師の会のように、どんな内容の規則であれ、規則それ自体に従うことが教育的効果があると考える立場もある。彼等は、人間にとって思い通りにならない不合理なことは世の中にいくらでも存在し、甘んじてそれを受けいれ、妥協する忍耐力こそが組織社会で生きていくために必要な社会的能力だと考えたわけである。
 プロ教師の会のこの立場は、一見、合理主義ではないように見えるが、実は合理主義の変種である。教育システムの目的に準拠したシステム合理性というものである。別名、社会学的啓蒙という。それに対して、校則の内容に関して非合理的で無意味であると観察する立場は、当事者による第一次観察であり、理性的啓蒙と言える。この二つの合理性のうち、理性的啓蒙にのみとどまって現象や行為を観察する時代は終焉したというのがポストモダン社会論である。社会学者マックス・ヴェーバーは、主意主義的立場から、行為の当事者の主観的意味を観察しており、近代社会における理性的啓蒙に焦点をあてたと言える。それはそれで価値がある。後期近代化社会では、単純な理性的啓蒙だけでは、不十分とするのが、システム論者であるルーマンなどの立場である。観察の観察である第2次観察を武器とし、その事象や行為にまつわるコミュニケーションをシステムの中で位置付けようとした。内容的には非合理な人々の行為も、システム論的観点からは十分に合理性を見い出すことも可能なのである。例えば、ニセ科学という内容的に非合理なものも、別の観点からは合理的であることは十分にあり得るのである。どちらのレベルの合理性を重視するかで、その人物が理性的啓蒙主義者か社会学的啓蒙主義者か選別できるのである。

   参考 
 自己言及のパラドックス
 「合理主義は、非合理である。」
 合理主義そのものに(合理性/非合理性)という区別を自己適用すると、たちまち合理主義はパラドックスを抱え、成立たなくなる。合理主義が本質的に前提とする目的-手段図式そのものが、手段であっても目的であっても、合理性は矛盾するからである。このようなパラドックスを回避・隠蔽するためには、別の区別で合理主義を観察する必要がある。それが社会学的啓蒙の立場である。
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by merca | 2008-02-24 12:30 | 理論 | Comments(0)

ニセ科学批判の考察1

 論点1
 ニセ科学批判は、個々のニセ科学を批判しているが、ニセ科学批判批判はニセ科学批判一般を批判している傾向にある。つまり、ニセ科学批判が水伝や血液型性格判断やマイナスイオンなど個々のニセ科学と思われる技術や学説を批判しているにもかかわらず、ニセ科学批判批判は個別のニセ科学批判の多様性を無視し、ひと括りにしてニセ科学批判一般を批判しており、個々のニセ科学を無視して、抽象的な議論ばかりをし、具体的議論をしていない。(その典型がニセ科学批判者は、科学を絶対化しているという抽象論)

  考察
 ニセ科学批判批判がニセ科学批判を一般化して批判するのは、ニセ科学というレッテルのためである。ニセ科学批判者が、個々の技術や学説に対してニセ科学というレッテルを貼ることは、その時点で問題を一般化していることになる。菊池氏のようにニセ科学という言葉を使用して対象を批判した時点で、すでに個々の問題から一般化された問題として認識し伝えようとしていることになる。(この一般化現象は、社会学で言うラべリング論の基礎である。)少なくとも、第三者にはそのように観察されてしまうので、そのような覚悟は必要である。
 また、天羽さんのように、ニセ科学批判者自体も、(科学/非科学)と(装う/装わない)などのニセ科学の一般的定義なるものを考えざるを得なくなっている。このように、ニセ科学批判者が問題を一般化したわけで、ニセ科学批判批判者が一般化したわけではない。ニセ科学批判批判は、観察(ニセ科学批判)の観察であり、当然のごとく、メタ議論的かつ原理的な批判に向かうことになる。

  論点2
 ニセ科学批判は、レッテルを批判対象に張り付けているのではなく、批判対象から科学というレッテルを剥がしているのであり、ラべリング行為ではない。従って、レッテルを張り付けて高みに立っているわけではない。

  考察
 これは明らかに社会学的には誤謬である。特定の判断基準で観察し、カテゴライズして、一方の項目に分類し、それを対象に押し付けること自体がラべリング行為である。また、ある特定の物差だけで対象を評定し過度に強調することは、自然にそれ以外の側面・価値の排除も伴う。物差=判断基準の押し付けこそがラべリングの本質である。この場合、押し付けとは、あたかも批判対象にそのような属性が内在していることが真であると主張することである。例えば、マイナスイオンがニセ科学であると言った場合、マイナスイオンという学説にニセ科学性が宿っていることが真実であると主張して、それを人々に納得させようとすることである。
 さらに、(非科学/科学)という区別に準拠して、批判対象から科学というレッテルを剥がしても(これも原理的にラべリングであるが)、その後、(ニセ物/本物)という区別に準拠して偽物というレッテルを張り付けるわけであるから、やはりレッテル行為であると言わざるを得ないのである。
 また、特定のレッテルを剥がすという行為は、実は、反対のレッテルを貼りつけることと同義であるという弁証法的な構造が看過されている。科学というレッテルを剥脱することは、同時に非科学のレッテルを貼ることを伴う。また、本物というレッテルを剥脱することは、ニセ物というレッテルを貼ることになる。
 ただし、基本的に社会は人々のラべリングによる相互作用から構成されているので、私はラべリングそのものがダメだと言っているわけではない。

  論点3
 ニセ科学批判批判者は、ニセ科学批判者が科学を絶対化していると批判する傾向にある。
  考察
 これは、ニセ科学批判者が自己の判断基準や認識内容を正しい認識=真理であるとして他者や周囲に押し付けているというイメージからきている。それが真理だったら何でも他人に押し付けてもいいという発想である。真理は誰にも受容されるべきもの=普遍的なものであるからこそ、どんな他者に押し付けてもいいと考えるわけである。それを指して絶対化していると思う人がおり、違和感を感じるのは当たり前である。
 これは、人は正しい認識=真理に従うべきであるという一つの道徳である。真善美利のうち、真に第一義的な価値をおく道徳なのである。また、ニーチェやフーコーが考えたように、真理そのものが人を服従させる権力手段なのである。ニセ科学批判者は、正しい認識=真理に全ての人は従うべきであるという道徳意識を所有していると考えられるのである。正しくないものにも価値がある、嘘(物語)も方便のような価値観(機能の言葉)がかけているのがいかにも窮屈である。

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by merca | 2008-02-22 12:23 | ニセ科学批判批判 | Comments(11)

科学は錯覚である?

 西條氏の構造構成主義の源流には、構造主義科学論がある。構造主義科学論は、池田清彦氏があみだした独自の科学哲学である。構造主義科学論の最大の特徴は、物理的リアリティに準拠していないということである。つまり、対象と認識の一致という真理観を排除した科学論である。普通、自然科学は観察対象に宿る性質を認識するという立場をとり、客観性は観察対象の同一性によって保証されると考える。
 しかし、構造主義科学論では、そのような真理の模写説を完全に否定する。構造主義科学論においては、対象にこれこれの性質や因果法則が宿るという素朴実在論的な科学観を退ける。構造主義科学論においては、科学の根拠を、観察対象に宿る普遍的な属性に求めるのではなく、認識主観が所有する物の見方の形式、つまり構造に帰着させる。人々が共通の認識構造で観察する時に、客観性が成立ち、科学も成立つとする。
 例えば、水が100度で気化するのは、水という物体に宿る属性ではなく、観察主体である人間の認識の形式=構造=言葉の同一性に根拠をもつことになる。認識主観を離れた不動の自然という観念は、存在しない。つまり、科学的客観性の根拠は、言葉の同一性にあるのであって、対象の同一性にはない。
 一般に、言葉が指し示す対象物が実存しなくても、コミュニケーションは成立つ。例えば、神は実在しないかもしれないが、神という言葉の使われ方=構造が同一ならば、神という言葉を使用してコミュニケーションは成立つ。これは経験的・歴史的事実である。
 構造主義科学論においては、神のみならず、水や月も太陽などの自然物も一切実在しないと考える。実在しなくても、言葉の使用の仕方が同一なら、コミュニケーションは成立つ。言葉の使用方法が同一であり、コミュニケーションが成立つことでもって客観的であり、よしとする。実在しないという点においては、科学でいうところの原子も分子も脳も、妖怪や幽霊や宇宙人などと同じなのである。
 ここで、ひるがえって考えると、実在するとはコミュニケーションされるということになる。つまり、コミュニケーションで機能する言葉のみが意味を持ち、実在するように見える。その反対ではない。実在するとは、コミュニケーションされることであるというルーマンのシステム論と通じるところがある。妖怪や幽霊や宇宙人などもコミュニケートされ、社会的に機能すれば、実在することになるのである。コミュケニケーションに立ち現れない限り、何物も実在しない。コミュニケーションを離れて、原子も分子も存在しない。
 自然科学者は、素朴実在論的な錯覚でもって、因果法則が観察対象に宿る属性であると妄想するのである。これは、水伝と同じである。構造主義科学論からすれば、ニセ科学として批判されている水伝もコミュニケートされれば、人々の間で実在してしまうのである。今後、構造主義科学論が、ニセ科学批判にどのように関わるのか知りたいところである。池田清彦氏の有名な科学教批判では、素朴実在論=物理的リアリティに準拠した自然科学を錯覚として退けている。科学は錯覚なのだろうか?錯覚ならば、そもそも科学に偽物も本物もなく、ニセ科学批判も無意味になってしまうのである。
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by merca | 2008-02-17 23:31 | 理論 | Comments(0)

(生物/無生物)の境界

 久々に書評を書きたい。
 「生物と無生物の間」という新書を読んだ。福岡伸一という生物学者の著書である。
  読みやすく、面白く、本質的である。
 
 科学では、生命をどのように捉えるのか知りたかった。確かに、生命のある存在かそうでない存在かを、我々は感覚的に判断する能力をもっている。蛙や鶏が生き物であるというのは見たらすぐに分かる。一方、近代の知である科学は、どのように生命を定義するのか、その点に非常に興味を持った。ちなみに、我々が科学に頼らずに生命のある存在とそうでない存在を見分けることができるのは、本能によると考えられる。つまり、それは、生命は他の生命を食べることで維持できるという単純な真理に根付いている。生き物か生き物でないか区別することは、生き物が生き物として存在し続けていく条件であり、この区別なしには、生存できない。

 さて、同著では、生命体を「自己複製するシステム」「動的平衡」「時間」という三つの要素で定義している。
 「自己複製するシステム」とは、DNAのはたらきのことであり、ネガポジ関係にある二つの紐を分離させ、自己と同じ存在をつくりだすことである。その様は、細胞分裂や生殖に見て取れる。原子や分子には、そのような特徴はない。
 「動的均衡」とは、生命は物質を代謝しているにもかかわらず、特定の均衡状態を保っているということである。物質のエントロピーの増大(無秩序状態)を防ぎ、特定の状態を保ち続けるというはたらきである。確かに生命体は物質が流れる川のようであるが、その流れには一定の均衡状態があるということである。生物は自らを構成している原子や分子を絶えず入れ替え、物質的には刹那滅的に常に異なり続けている。つまり、生物は、刹那的には原子や分子に依存しながらも、それらに存在の根拠をもつわけでないことになる。三次元体である分子等に自己の境界を投射するが、単純な三次元的存在でない。
 「時間」とは、常に成長・変化していく存在=同一物だということであり、空間的・静的なシステムではないという点である。一つの部分=パーツがどのような役割を担っているかは、固定的ではなく、特定の時点で空間的に判断することはできない。機械は時間が経っても変化も成長もすることがないので、一つの部品の役割は固定的である。しかし、生物の場合は、一つの部位が欠損していても、成長過程で、それを補うようにはたらき、動的均衡を保つらしい。ある一つの生命の部位は、時間による成長・変化の中でしか、その役割は特定できない。(オートポイエーシス・システム論の機能的代替項目という考え方につながる。)

 さて、かように生命体は科学的に定義されるわけであるが、しかし、まだまだこれだけでは不十分であることには間違いない。ウィルスを生物に入れるか困難な問題も残っている。これからも科学が発達するにつれて、様々な区別の指標が見い出されるであろう。
 それにしても、科学を知らずとも、生物と無生物を区別できる人間の動物としての本能とやらは大したものである。科学ではなく、自然が与えた大いなる能力である。この自然が与えた本能は、科学に先んじて、科学(生物学)の対象である生物をあらかじめ対象として定立してやっているのである。ありがたいものである。科学だげが正しい知識を得る手段ではない証拠である。科学という単なる人間の理性よりも、自然が与えた本能のほうが偉大なのである。科学技術は人間の手先よりも器用な機械をつくるのに未だに成功していない。自然が我々に与えた能力は科学を越えている。

   追記
 本質的な定義かもしれないが、生物の定義として、(内因動力/外因動力)という区別も必要ではないかと思う。つまり、外因動力とは、他の存在の力よって動く存在であり、原子や分子のことである。内因動力とは、自身の力によって動く存在である。生きているというのは、動かされているのではなく、動いているという本質がともなう気がする。
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by merca | 2008-02-09 16:28 | 理論 | Comments(2)

三つの秩序


 自然界(物理世界)は、必然の世界であり、不動の因果法則によって貫かれている。因果法則を知ることが自然界の秩序を把握することになる。自然科学という知が有効な世界である。(自然界の不動の秩序の美しさに神を感じる科学者もいる。)

 生物界(生命世界)は、環境に適合したかたちで進化発展した遺伝子(あるいは本能)によって決まる世界である。遺伝子の構造を知ることが生物界の秩序を知ることである。生命科学という知が有効な世界である。

 人間界(人間社会)は、自由意思(目的意思、理性)に従い、環境を支配するかたちで変化してきた世界=社会である。目的意思やその関係を知ることが人間界の秩序を知ることである。社会科学(特に社会学)という知が有効な世界である。

 宇宙は、三つの世界として観察できる。それぞれの世界は特有の秩序によって保たれている。具体的な人間(パーソンズのいう人間の条件)は、この三つの世界に所属しており、それぞれの秩序によって生かされている。

 なお、形而上学あるいは哲学は、この三つの科学の基底にある根本原理を追求し、統合する学問である。

   参考
 また、ニセ科学問題を取り沙汰するのもうんざりしてきたが、医学は生物界を対象としている。自然界のような不動の因果法則が通用しない世界であり、その知識も変化し、蓋然的なものとなる。さらに、精神医学となると、人間の精神を対象とするわけあり、人間界の現象となるので、直線的な因果法則は全く成立たない。ポパーは、精神医学を科学足り得ないと批判した。しかし、私からすると、それは観察対象の特性を無視して、自然科学モデルを中心においた偏見としかうつらない。
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by merca | 2008-02-03 19:21 | 理論 | Comments(0)