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疑似科学入門・書評予告


 疑似科学批判者の大御所である池内了氏が、岩波新書「疑似科学入門」を出した。この新書は整理され、なかなかしっかりとしているだけに、まともな書評も批判もしやすい。著者は、「疑似科学の社会学」という題にしたかったらしいが、社会学の専門家ではないので、そうしなかったらしい。基本的に、疑似科学問題が社会学の対象であるという認識が認められる。疑似科学の蔓延を社会現象として分析しようとしている。同書には、俗流若者論者に見られるような飛躍が散見されるが、問題提起そのものが間違っているわけではない。
 にもかかわらず、疑似科学の蔓延を研究している社会学者が見当たらない。本来、生粋の社会学者が自然科学者と組んで、疑似科学問題を調査、研修するのが適切だと思う次第である。
 疑似科学問題を社会現象として認識し、社会学の分析に委ねたいというのは、他の疑似科学批判者にも認められる傾向なのか非常に興味深い。

  とりあえず、同著を随時批評したい。
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by merca | 2008-04-30 06:39 | ニセ科学批判批判

世界、私、他者

 世界は無限である。だから、私は永遠に生きられる。世界は尽きることなく、出ることもできない。だから、世界なのだ。私は存在しているから、世界は無限だと信じざるえないのだ。
 私は存在し、世界の中で生きている。無数の他者とともに、変化し動きまわっている。時の流れを感じつつ、私は活動することで生きており、存在している。私の生を支えるのは、世界の無限である。

 世界が有限だと感じたときには、私は止まり死んでしまっている。世界が有限だと思ったときには、狭い世界を本当の世界と錯覚しているからである。この錯覚が全ての根源悪であり、後にも先にもこれ以外に人間が悪と呼べるものはない。私を殺すのも、他者を殺すのも、この悪のみである。

  世界の外には出ることができない。出たときには、すでにそれは世界ではなくなってしまっている、なぜなら、世界とは、中にいるかぎりにおいて世界であるからである。無限なる世界からは決して出ることはできない。出た瞬間、それは無限なる世界ではないことが証明されるからである。だから、理性は世界が無限であることを証明できない。但し、理性がはたらきであることそれ自体は、世界が無限であることと並行している。世界が無限でないと、理性は止まり死ぬからである。

  小さな世界を小さな世界と思えるのは、無限なる世界の中に生きているからである。小さな世界と心中する者は、小さな世界が自分の住んでいる全ての世界であると錯覚している。むしろ、小さな世界が存続するためには、無限なる世界と浸透しあうことが必要なのである。よき共同体は無限なる世界に包まれているのである。

  世界は無限である。だから、私は全てを把握することはできない。しかし、無限であることは知っている。それは私も無限であるからだ。世界の不可知性は、いささかも私を不安定にさせない。むしろ、世界の全てを知ってしまうと、世界は消滅し私も死ぬ。だから、世界は不思議のままでよろしく私を永遠化する。不可知の知こそ、世界についての私の態度。

 懐疑の魔手は、人と人を分断し、全ての宗教を滅ぼすだろう。そして、無限なる世界のみが最後に残る。懐疑は無限なる世界を否定することはできない。なぜなら、懐疑が懐疑として生きるためには、無限なる世界が必要だからである。人間にとって最初で最後の信仰、それが無限なる世界である。

 星空を眺めながら私は思う。星空は遠くにあるのではない。私は星空の中に存在しており、そのかけがいのない一部であることを。

           拙著「形而上学玄論・論点集」より
 
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by merca | 2008-04-29 10:20

物語と科学理論の連続性

 物語と科学理論を対立させて捉える人たちがいるが、実は科学理論そのものが物語の一種であるという捉え方もある。
「信念対立の克服をどう考えるか」という構造構成主義者たちの論文集が出版されている。斉藤氏の書いた「物語と対話に基づく医療(NBM)と構造構成主義」という論文は興味深い。
 全ての物語は、構造(要素と要素同士の関係とその総体)として観察でき、常に構造構成されていくという。物語の要素はテキストであり、テキストはコンテキスト(文脈)によって意味付けられる。理論も、テキストとコンテキストから構成されている。科学理論も、科学の公準(論的一貫性、反証可能性、予測可能性など)という文脈によって担保された一つの物語にすぎないという。
 宗教思想や神話なども物語であるが、テキストとコンテキストから構成されている。宗教思想も科学理論も、物語の一種であり、同一ということになる。違いは何かと言うと、単にコンテキストが異なるだけである。科学理論は、実験と学者同士の議論の中でつくられていく物語である。そして、科学の営みを「くりかえし体験される現象を構造化する目的で物語(広義の)を構成する試み」であると定義している。科学は、実験に基づき、学説=科学理論という物語を生産する活動であるわけである。
 また、斉藤氏による科学の定義の優れた点は、自然科学と社会科学をともに包括できる科学の定義として使用できる可能性があることである。「くりかえし体験される現象」つまり反復性は社会科学の領域でも必要となる。
 科学だけが物語であることを免れるという科学万能主義は通用しない。科学主義は、科学も物語であるにもかかわらず、科学のみを特権化する。科学もニセ科学も神話も、全て物語である。その違いは文脈の違いだけである。

 話題は変わるが、構造構成主義とシステム論との類似性が認められる。構造を「要素と要素同士の関係とその総体」として捉えるのならば、ほぼ一般システム論におけるシステムの定義と同一である。コンテキストつまり文脈を二元コードに置き換えれば、ルーマンのシステム論と重なってくる。
 一つ異なる点があるとすると、システムの「閉じ=閉鎖性」を構造構成主義は十分に取り入れ損ねている。閉じることがないと、システム=構造は一つシステム=構造として定立できなくなる。閉じを可能にするのが、二元コードである。構造構成主義においては、二元コードが二元対立たる信念対立として観察されている側面があるので、「閉じ=閉鎖性」という概念が採用しにくいのだと考えられる。

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by merca | 2008-04-20 16:51 | 理論

構造主義科学の信念対立


 同じ科学といっても、構造主義科学(あるいは構造構成主義も含む)の科学観は、ニセ科学批判者である田崎氏の科学観の対極をなす。観察対象が(実在する/実在しない)という区別から観察すると、田崎氏の科学観は実在するをマークしており、構造主義科学は実在しないをマークしている。(厳密に言うと、構造主義科学は外部対象が実在するしないにかかわらず、科学は成立つと考える。) 自然界に普遍の因果法則という同一性が実在すると信じる田崎氏と、そのような同一性は人々の頭の中にある観念あるいは言葉の使用法の同一性としてしかあり得ないという構造主義科学とは、相容れない。
 これは、それ自体構造構成主義のいう信念対立ではないかと思う。マルクス主義のコードである(存在/意識)という区別から観察するともっとわかりやすい。意識するしないにかかわらず、人間(意識)を外から拘束する存在があると前提するのがマルクス主義である。意識によっては構成されない、つくられざるものである。そのようなものを自然と呼ぶと、不動の自然は科学の対象となり、田崎氏的な科学観の前提をなす。マルクス主義においては、社会にもそのような法則があり、それが史的唯物論であり、社会は必然的に共産主義に発展すると考えられた。
 確かに、科学は本質的に自然界にある法則を見つけだす活動であるという科学観は、科学者のロマンを掻き立てる、崇高な動機付けである。自然界は偶然のデタラメの世界であり、法則などは存在しないという信念ではやっていけないだろう。因果法則の同一性の根拠が、人間の頭の中だけにあるのか、自然界という外部にあるのかによって、科学観は異なる。もし脳科学者が指摘するように、人間の頭の中だけにあると考えると、物語と事実の差異は消滅し、究極的に宗教も科学も区別がなくなることになる。
 世界は偶然か必然かということは、カントが指摘したアンチノミーであり、人智を越えていると哲学的には思われている。世界が偶然ならば、田崎氏が理想とする科学は成立たない。一方、構造主義科学は、世界が実在するかどうかを括弧に括ることで、世界が偶然か必然かにかかわらず、科学として成立つと主張している。しかしそれではもはや科学は世界を記述する方法ではなくなり、対象と認識の一致という自然科学が準拠する物理的リアリティは無に等しくなる。ここから、迷信も科学も同じであるという発想が出てくる。ニセ科学批判者などは、それを嫌うわけである。こうなると、科学もニセ科学も、同じになるからである。極端な相対主義として非難の対象となる。ところが、その相対主義を出発的・大前提とし、諸哲学や諸科学を統合しようとするのが、構造構成主義である。
 そこで、私はカントを否定し、こう考える。世界は複雑であり、偶然な部分と必然な部分が混在しており、必然な部分は科学が観察し、偶然な部分は宗教が対処するというかたちで考えたほうが現実的であると思われる。また、必然を偶然へと転換し、偶然を必然へと転化する営みが、人間の自由意思のはたらきだと思う次第である。
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by merca | 2008-04-19 09:07 | 理論

ネット魔女狩り現象の解決

 西條氏の構造構成主義から観察すると、ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者との対立は、一種の信念対立に還元されると考えられる。
 ニセ科学批判者とその周辺者たちが、ニセ科学批判問題にまつわるエントリーにピラニアのごとく食い付き、延々とコメントが続き、種々の他ブログが炎上している。さらに、必ずふま氏が現れ、情報を拡散する。このような構図は何度も繰返されている。これはもう一つのネット社会病理現象である。
 ニセ科学批判批判をして炎上したブロガーたちの思うところには共通性がある。ニセ科学批判者が、自身の科学観(物差し)を絶対化し、魔女狩りをしているという印象を受けるわけである。私のみならず、多くのブロガーたちがそう思っているようである。ネット空間社会で起きている「ネット魔女狩り現象」について社会病理現象として分析することは興味深い。
 西條氏がニセ科学問題に参戦したかどうかは知らないが、この信念対立を解消することができるのは、構造構成主義のみである。両者の信念対立は、(事実/物語)、(絶対主義/相対主義)、(客観主義/主観主義)という二項対立に還元される場合が多い。
 科学と宗教を共に相対化できる哲学的理論をもつ構造構成主義者たちに、ニセ科学批判論争の結論を委ねたい。システム論者であるこの私は、構造構成主義者の若手論客の参戦を期待しているのである。

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by merca | 2008-04-13 23:23 | 理論