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センの思想とハイパーメリトクラシー論

 ホームレス・貧困問題の権威である湯浅誠氏は、アマルティア・センの思想を基礎においているようである。同氏の「溜め」というキーワードは、センの潜在能力と機能的に等価である。
 さて、ここではセンの思想を評論したい。まずは、気にかかったのが、貧困は民主主義が十分に浸透していない結果であるというセンの分析である。センが民主主義を普遍的価値として宣揚しているのは有名である。センのいう民主主義は、自由な対話を重視しており、ハーバーマスのいうコミュニケーション的理性に似ているのである。
 しかし、ここで注意しないといけないのは、民主主義の適用範囲である。民主主義は、政治システムの一つであり、他の社会的領域への適用には慎重でなければならない。社会は、民主主義のみでは運営されていない。例えば、企業組織は、上下関係によって統制されており、民主主義では運営されていない。また、家族も学校も、愛情や校則で運営されており、民主主義では運営されていない。社会学の立場からすると、企業組織、学校、家族を全て民主主義で運営すると、社会は崩壊するであろう。そういう意味で、民主主義は普遍的ではない。民主主義は政治システムにおいてのみ適合的な統治形態であり、他のシステムには有効とは限らない。センは、政治システム優先主義者なのである。政治システムが他の全てのシステムを従属させているという社会観に準拠していると考えられる。マルクス主義のように経済システムに準拠して貧困を観察しないところが面白い。
 
 社会学におけるポストモダン論=機能分化論では、全てのシステムは対等になったと考える。成熟社会たる日本社会の貧困は、センの枠組みでは解釈できない。日本社会は、民主主義国家であるにもかかわらず、ホームレスやワーキングプアがいるからである。日本の場合、貧困の原因は、民主主義ではなく、教育システムにあると考えられる。そういう意味では、教育社会学者・本田由紀によるハイパーメリトクラシー論のみが成熟社会たる日本社会の貧困を分析する枠組みとしては有効ではないだろうか?

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by merca | 2008-07-27 10:49 | 社会分析 | Comments(0)

生きる意味の脱パラドックス化

 生きる意味とは何か? を考えてニヒリズムに陥る者が多い。 
 生きる意味を追求する思考は、必ず自己言及のパラドックスに陥る。一つの生きる意味が見つかったとしても、またそれを根拠付ける意味が必要となり、無限遡及に至るからである。これは、(意味/無意味)という区別自体に(意味/無意味)という区別を自己適用していることになる。
 同じく、(本当の)自分とは何か?を考えて独我論に陥る者は多い。
 自分とは何かを追求する思考は、必ず自己言及のパラッドックスに陥る。自分が何であるかがわかった途端、その何とは何かという疑問が生じ、無限遡及に陥るからである。これは、(自分/自分でない)という区別自体に(自分/自分でない)という区別を自己適用していることになる。
 善悪、真理、幸福など、これら全ても同じである。

 このように全ての哲学的課題は、必ず自己言及のパラドックスに陥り、原理的に答えることは不可能であり、不毛な議論となる。
 そこで、物事の何々である(=本質)を問うのではなく、物事が何々としてありうる(=用)というレベルで観察することがコミュニケーションを連接させていくことになる。
 例えば、リンゴは植物であるということよりも、リンゴは食物としてあり、リンゴは商品としてあり、リンゴは贈物としてあり、という具合に、関係相関的に観察していくことのほうが我々の生活にとって現実的なのである。この「として」そのものが特定の区別に基づいた観察であることは言うまでもない。
「生きる意味とは何か?」という哲学的課題についても、生きる意味は、自我統合の機能としてあると、社会心理学的に答えることが可能である。生きる意味に対して、(自我統合/自我解体)という区別から観察したわけである。これは一つの脱パラドックス化である。
 また、善悪とは何か?という課題は、善悪(道徳)は社会統合の機能としてあると、社会学的に答えることが可能である。善悪に対して、(社会統合/社会解体)という区別から観察したわけである。これも一つの脱パラドックス化である。善悪や生きる意味などの哲学的課題に対して、人間科学の立場からは、それがどんな内容であれ、自我統合や社会統合の機能を発揮する可能性があると解釈するわけである。内容は問わず、形式から答えることで哲学的難問を別次元の話にしてしまうのである。哲学と宗教に対して、(内容/形式)で観察するのが人間科学の常套手段なのである。

   参考
 ちなみに、生きる意味については、社会学者宮台氏が(意味/強度)という区別から観察し、脱パラドックス化を試みたことは有名である。(意味/強度)というコードをもってして、知的なタイプの意味系、超越系の若者への処方箋としたのである。これは、極めて社会学的な処世方法である。

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by merca | 2008-07-26 22:23 | 理論 | Comments(5)

「崖の上のポニョ」にドクターキリコか?

 宮崎駿の「崖の上のポニョ」を鑑賞した。
 びっくりしたことが一つある。
ブラックジャックのライバルであるドクターキリコかと勘違いしたキャラクターが登場していた。手塚治虫系の目の下に隈のあるキャラクターではないかと勘違いした。それは、ポニョの実父であるフジモトというキャラクターである。この変なおじさんが極めてドクターキリコに似ているのである。
今回の作品は、絵に陰があまりなく、70年代のアニメーションを見ているイメージを受けた。宮崎駿は、手塚治虫の虫プロ出身だというが、原点に帰ったということだろうか? ともあれ、手塚治虫系のキャラクターと似ている登場人物が出ているだけでも、手塚治虫の雰囲気がかもしだされてしまい、改めて漫画の神様である手塚治虫の偉大さに気づくのである。ちなみに、手塚治虫は、ニーチェよりも、ニヒリズムについては鋭い感覚をもっている。

 「崖の上のポニョ」のフジモトがドクターキリコと似ていると感じた人は、共感コメントを下さい。

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by merca | 2008-07-22 23:14 | 社会分析 | Comments(3)

ニセ科学批判の脱パラドックス化


 ニセ科学批判は、(科学/非科学)という区別に準拠し、対象となる言説や技術を観察する。ところが、そうすると、(科学/非科学)を区別する当の判断基準そのものが科学的であるかどうかという議論が必ず起こる。さらにその基準の基準についても議論が起こり、再度(科学/非科学)の区別を適用せざるを得なくなり、永久にニセ科学批判は不確定となる。このような区別の自己適用から起こるパラドックスを「自己言及のパラドックス」という。簡単に言うと、科学とは何ぞやという問いは、永久に不確定であり、ニセ科学批判は永久に完全に成り立たないということである。真偽、善悪という区別も自己言及のパラドックスに陥り、結局、不毛な議論となる。

 ニセ科学批判を脱パラドックス化するためには、同じ区別を遡るのではなく、別の多様な区別で観察する必要がある。例えば、(有用/無用)、(有害/無害)、(合理的/不合理)等という区別から観察してみるのである。そうすると、行き詰まりから開放され、別の地平が開け、コミュニケーションが連接していくことが可能となる場合がある。例えば、地球温暖化説がニセ科学かどうかを観察する場合、その基準そのものが科学的かどうか問われることになる。しかし、原理的に科学的かどうかは究極的には確定できない。しかし、世界平和の観点から観察すると、地球温暖化説は有用かもしれない。地球全体にかかわる関心事であり、国際社会の連帯を強化するように機能する可能性があるからである。別の観点から観察することで、対象の意味内容がいくらでも違って見えてくる。

 一つの現象に対して、特定の区別のみを固定点として観察する方法は、必ず行き詰るのである。多様な区別を駆使し、観察することで、問題は無害化される。ニセ科学批判者は、(科学/非科学)という区別のみを固定点として絶対化し、他の多様な区別による観察に開かれていないように見える。私は、(近代社会のイデオロギー/イデオロギーでない)という別の区別でニセ科学現象を観察してエントリーを立てたが、科学を相対化する視点に立てるニセ科学批判者はあまりいなかったと思う次第である。

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by merca | 2008-07-20 13:47 | 理論 | Comments(2)

反貧困の脱パラドックス化

  反貧困を事例とし、区別の論理を述べたい。

 何をもって貧困とするのか、このことを突き詰めると、決定不可能に陥る。つまり(貧困/反貧困=貧困でないこと)というコードも結局のところ突き詰めると、決定不可能に陥る。貨幣の所有で貧困を定義すると、専業主婦や子供も貧困になり、何かおかしくなる。また、誰と比較して貧困なのか? 誰と比較するかは全くの任意である。
 そのような任意性を排除するために、(絶対的貧困/相対的貧困)というメタコードに準拠して貧困を定義する考え方もある。この区別は、(生命維持可能/生命維持不可能)という別のコードに準拠している。社会的概念である貧困を生物学的観点から観察し、脱パラドックス化しようとする試である。しかし、(生命維持可能/生命維持不可能)という区別も、突き詰めると、話が困難になり、別の区別に依存することになって、無限に遡り、決定不可能になり、挫折する。区別を遡る方法はこのように無際限である。区別を遡ることなかれである。最初の区別を固定化し、その区別を根拠付けるのために他の区別を求めるという方法は挫折する。一つの区別と別の区別に序列関係をつけているわけである。区別どうしが対等な関係でなく、一方的であるところに問題がある。
 
 さらにこの点が重要である。区別の弁証法的方法で観察すると、反貧困を唱えることがかえって貧困をつくりだすという現象が見て取れる。一つの区別の片方の項=反貧困にこだわるのはいいが、それは常に反対の項=貧困との差異によって可能なわけである。反貧困は、(貧困/反貧困=貧困でないこと)という区別に準拠しており、貧困なしには成立たない。反貧困を唱えることで、かえって反貧困と貧困の境界線が必要となり、貧困を常に生み出してしまうわけである。従って、反貧困を唱える限り、永遠に貧困はなくならない。社会を(貧困/反貧困=貧困でないこと)のみで一元的に観察するかぎり、この弁証法的パラドックスから逃れることができない。包摂が排除を伴うという論理と同じである。少なくとも、反貧困が常に貧困の意識をつくりだすことになり、反貧困運動は永久革命となる。このように一つの区別に止まり続ける方法も、活動の無発展的形骸化を生み出す。

 一つの区別を遡っても、一つの区別に止まっても、発展性はない。一つの区別は複数の対等の別の区別から観察することでのみ生かされる。

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by merca | 2008-07-12 09:27 | 理論 | Comments(0)

反貧困から貧困の免疫化へ

 (排除/包摂)というコードから社会を観察する世論や理論が増えてきた。近代社会後期を排除型社会と位置付け、その社会病理を指摘する議論である。ひと昔前は、社会主義等が準拠していた(差別/平等)が社会病理のキーコードになっていた。様々な人権運動や解放運動は、(差別/平等)の観点から社会問題を構築してきた。
 だが、最近は、(排除/包摂)という図式のほうが優勢になっている。社会福祉の分野においては、(排除/包摂)という観点はメインになってきている。貧困者、失業者、ホームレス、障害者、犯罪者、高齢者、派遣社員等が社会的排除の対象となっているという。社会的排除というのは、教育、家族、企業福祉、公的福祉、自己(道徳)の五つのシステムから排除されているという意味である。一方、子供と女性は包摂=保護の対象となっている。例えば、治安悪化神話社会では、子供を犯罪から守るために、あらゆる社会的領域から犯罪者を排除するという構図が出来上がっている。
 
 ここで、宮台氏がよく使う論法であるが、包摂は必ず排除を伴うことを押さえておきたい。福祉等の社会的援助の対象になるかならないかは、一定の基準がある。基準に合う者は援助されるが合わない者は排除される。完璧な包摂は原理的に不可能なのである。よく使われる基準に、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別がある。例えば、働くことを選択できるはずなのに、働かず貧困になっている人は福祉の対象にならない。(排除/包摂)という区別は、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という別の区別に依存しないと、パラドックスに陥るわけである。脱パラドックス化するためには、このように全く別次元のコードを参入させることになる。
 
 湯浅誠氏というホームレス問題の大家がいる。湯浅氏は、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別に準拠し、排除されている貧困者、失業者、ホームレス、障害者、犯罪者、高齢者、派遣社員を(自己責任=自己選択でない)という項に押し込めて、貧困問題を構築している。典型的な包摂主義社会論者のコードである。教育社会学者の本田さんも(排除/包摂)にこだわり出している。
 ただし、厳密に言うと、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別にもう一つの隠れた区別を参入させることで、湯浅氏の貧困問題は構成されている。それは、(社会/個人)という区別である。つまり、自己責任でない場合、それを個人的な事情に帰着させるのか、社会全体の仕組みに帰着させるのかでは異なる。湯浅氏は、貧困を個別事情ではなく、社会全体の仕組みに帰着させ、貧困問題を社会問題化しようとする。溜めのない社会が貧困問題の根本原因であると喝破している。溜めとは、機能遂行するための潜在能力を意味しているが、社会学でいう文化資本を含めた財一般を指すものと考えられる。社会という全体性を仮設している点において、数字の集まりとその傾向に終始する統計主義とは異なるように思える。
 
 しかし、社会病理学的あるいはデュルケーム流に言うと、一定数の犯罪はかえって健全な社会の証拠であるのと同じく、一定数の貧困がある社会はかえって健全な社会であると言えよう。社会から貧困を完全に排除することは不可能である。現代日本社会は貧困な社会というよりも、貧困とつきあう免疫力がない社会かもしれない。貧困との付き合い方を忘れているのである。歴史上、日本も世界も貧困であった時期のほうが長いからである。
 そこで、社会病理に対する(免疫力がある/免疫力がない)という区別に準拠した「免疫化社会論」を唱えたい。包摂社会論に対抗し、免疫化社会論を構築したい。それは、一定数の貧困や犯罪等の社会病理があっても、モラルパニックを起さず、社会全体として無害化していく社会である。

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by merca | 2008-07-05 15:55 | 社会分析 | Comments(0)