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科学はつくられたもの。(反証主義批判)

 科学議論に対して、(本質/構成)という区別で観察し、科学はつくられたものであるという基本的な前提を忘却する者どもに警告を発したい。

 反証主義は、「反証可能性のある命題は、科学的である。」という命題を主張する。ならば、反証主義のこの命題それ自体は科学的なのだろうか? そのためには、「反証可能性のある命題は、科学的である。」という命題それ自体が、反証可能性があるかどうか吟味しないといけない。しかし、この命題に反証可能性があったとしても、なかったとしても、命題は成立しない。反証可能性があったとしたら、いずれは反証され、命題は正しくない可能性があるということであり、命題が完全に正しいということは証明できなくなる。反証可能性がなかったとしたら、反証可能性のない命題となり、科学的な命題ではなくなる。
 このように反証主義は、自らの区別である(反証可能性/反証不可能性)を自己適用すると、自己言及のパラドックスに陥る。科学の中心的定義だと思われている反証主義は、科学的であることを自ら根拠付けすることができないのである。このことが意味するのは、本質主義によるいかなる科学の定義も不可能であるということである。本質主義とは、あらかじめ科学という客観的実体が存在し、その対象の本質的性質を把握することで、科学を定義したとする考えである。ポパーの反証主義は典型的な本質主義である。
 しかし、万民を納得させる科学の定義など、最初から存在しない。むしろ、構築主義的には、多数派の科学者集団に受け入れられることよって仮に特定の科学観が正当な科学の定義として公認されるだけの話である。科学は、人々のコミュニケーション過程を離れては存在するものではなく、極めて社会的につくられた一つの文化なのである。
 ここで注意しないといけないのは、人々のコミュニケーション過程で生み出されたものだと言っても、人々の合意や約束事によって科学が定義されると考えてはならないことである。合意主義や規約主義は、往々にして本質主義に走る傾向がある。つまり、人は科学とは何であるかを討議して話し合う場合、(真/偽)の区別を密輸入し、「本当の科学(ニセ科学)とは何か?科学とはどうあるべきか?」という本質主義的な方向に走る。様々なブログで認められるニセ科学批判論争は、この方向に走っている。区別をさかのぼる思考である。そのために、各人の科学観が実体化され、摩擦がおき、排他的・攻撃的・閉鎖的になってしまう。科学は、そもそもつくられていく人工物であり、最初はニセも本当もないという基本的な認識を喪失してしまっているのである。
 (特に、自然科学者は、自然という非人工物を扱うので、科学がつくられた人工物という認識を喪失しやすい。)
 
 構造構成主義者がいうように、科学は、人々の偶然なコミュニケーション過程における使用法の同一性にしかその実質を見い出すことはできない。

   (参考)
ハーバーマスの理想的発話状況における討議的理性によって真理を確定するという発想は、コミュニケーションを優先させているようであるが、ある意味、本質主義の典型である。合意主義、規約主義は、ともすると、本質主義に陥り、パラドックスに陥る。


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by merca | 2008-08-10 08:40 | 理論

(論証/実証)という区別

 実証主義の呪縛を解くために少し例をだそう。世の中には実証ではなく、論証のみで正しいことはいくらでもある。
 例えば、ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れたとする。この場合、調べなくても箱の中には、ボールは三個あるという真実を論証することができる。つまり、調べて実証する必要はない。
 次に、重さが1キロの鉄板を10枚重ねて束ねたとする。その束の重さは、天秤で測らなくてもわかる。1×10で10キロである。調べなくても、論証で済む。
 最後に、Aの身長はBより高い。Bの身長はCより低い。この場合、AとCの身長のどちらが高いかは実際に両者を比較して調べなくてもわかり、実証する必要はない。AよりCの方が身長が高いことは論証できる。
 このように実際に調べて実証しなくても不都合はなく正しさを導き出することは可能なのである。何でもかんでも実証しないと正しくないという考えは間違いである。同じくポバーの反証主義も間違いであることがわかる。先の事例では、反証のための実験を何度繰返しても同じ結果になるであろう。調べなくてもたちどころに真理は手に入る。
 実は、数学と論理という法則だけで十分であり、実証などあまり気にせずに、数的原理や論理法則に基づいて人々は現実に生活している。同じく社会にも特有の論理があり、それを観察することで、人々は生活している。社会特有の論理は、区別という観察の形式によって露になる。
 数学や論理学は、実証ではなく、論証だけでその正しさを獲得する。同じことは、社会学にも言える。ある社会における根本論理(メタ論理)を観察できれば、実証などなくても、簡単に正しさを導き出せるのである。これが理論社会学の究極的な到達点である。
 科学を(論証/実証)というメタ区別で観察すると、科学は実証に論証を従属させるという思考形態である。論証されたところで実証されなければ真理とされない思想である。科学的真理は実証的真理であるが、先の例のように論証的真理も存在しうるのである。(注意・論証的真理は頭の中の観念世界のできことではない。ここが大切。)
 科学のみが他の知識体系と比べて今のところ信じる値する人類の唯一の知識だという凡庸な信念をもつ連中がいるが、実証や調査を伴わない論理法則と数的原理に基づく論証的真理も存在し、科学よりも確かである。社会における論証的真理がシステム論などの理論社会学による記述であることは言うまでもない。このことがわからず実証主義のみに囚われて社会を語る者は、(論証/実証)というメタ区別に盲目すぎるのである。実演主義においては、論証と実証は一致するが、実証主義たる科学は両者の解離を出発点とする。(論証/実証)の落差が科学の意味をつくる。

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by merca | 2008-08-06 22:17 | 理論

実証主義から実演主義へ!!

 実証主義という固定観念に束縛されて社会を語ろうとする者に対する社会学的解脱のために、述べておきたい。 
 
 例えば、日本社会が、民主主義社会であるということを実証してみろという論者がいたとする。法律を調べて日本が民主主義社会であることを実証できるのかと言えば、必ずしもそうではない。また、人々の価値意識を調査することで実証できるのかと言えば、必ずしもそうではない。法律を調べても実際にそのように運営されていなければ意味はない。価値意識を調査しても、実際にそのように行為していないと意味がない。人々が民主主義的に行為、コミュニケーションすることではじめて民主主義社会は創発される。

 要するに、社会は実証されるものではなく、人々が実演した時のみ、発生し、仮にその存在を露にするものなのである。人は社会=物語を演じ観察することでのみ、社会を知ることができる。社会は実証されるものではく、実演されることで、そのリアリティを得る。この点についてのセンスが乏しいものが、実証性に欠くということで、システム論などの社会理論を批判するわけである。

 実証主義による調査は社会の死骸を観察しているだけである。実演主義による観察は生きた社会を捉え、つくりだし、維持する。実証主義者は、社会に何か不動の客観的事実があると思い込み、それを絶対化する思考のドクサに囚われているのである。実証主義者の記述を信仰すると、社会宿命論に陥り、自由がなくなる。
 何度もいうが、社会は、その都度、つくられ、維持され、刹那滅する仮象である。完全無ではないが、区別によって仮に立ちあらわれるのである。実証主義者は社会を絶対有として固定化している。仏教的にいうと、社会は空なる存在である。
 
 実証主義から実演主義への移行こそが知の新しい地平を開くのである。


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by merca | 2008-08-03 08:22 | 理論

社会の創発

 利己主義という悪が善(利他)を生み出すことがある。悪が善を生み出すというのは、理論的には矛盾しているが、社会の創発の妙理からはありうる現象である。

 ある国が飢饉になって餓えた人たちが発生した。この国に、愛のない利己主義者の役人がいたとする。この役人のもとに、餓えた国民が援助を求めてきたとする。この役人は、規則に従って、一人の国民に対して、決められた量の食料しか与えなかった。従って、餓え過ぎた国民が泣いて余分に懇願しても、役人は規則を破らず、機械的に仕事をこなし、情など一切かけなかった。国の規則を破ると役人は罰せられるので、自己防衛=自己利益のために規則を守った。その結果、食料は満遍なく配給され、一人も飢え死せずに済んだ。もろちん、疫病や内乱があれば、結果は異なり、究極的には社会の創発は偶然である。(善の動機から善なる社会が生ずることを妨げるわけではない。)

 役人の動機は利己主義=悪であるが、役人の行為は社会全体レベルでは善を生み出している。道徳コードから観察すると、個の論理が悪であっても、全体の論理では善になる。同種のパラドックスはいくらでも見出せる。逆に、役人が情のある善人であり、全体性を予期せず、泣いて懇願する餓えた人に対して規定より多くの食料を与えて、そのために餓死者が多くでたとすると、この場合、役人の行為は全体レベルでは悪を生み出したことになる。
 さらにもう一ついうと、先の例で、役人は、全体性=社会を予期して行為するが、実は、この全体性=社会は物語であり、実体などない。ただし、行為することで、結果的に全体性は実在するようになる。つまり、社会という全体性なるものは、行為=実演することでのみ創発=起動されるものである。
 例では、役人と餓えた人のコミュニケーションの集積が、福祉社会を創発したことになる。しかし、一度、役人が異なった行為をとると、瞬時に福祉社会は消滅する。社会はつくられ、維持されることでのみ、仮に実在するのであり、本来、刹那滅的なのである。
 この点、非常によく誤解されており、社会がはなから固定的に実在すると錯覚している論者も多くおり、特定の区別を絶対視し、格差社会、学歴社会、資本主義社会などが不動の存在としてあると思い込んでいる。ちなみに、社会を不動の存在と観察する社会観を存在論的社会観あるいは社会宿命論という。
 ビートルズのイマジンではないが、全世界の人々が国境があると思って行動するから国民社会が作動するだけであり、もし全世界の人々が国境などないと思って行動すると、瞬時に国民社会は消滅する。

 ここでは、個の論理と全体の論理が異なることもあること、さらに行為あるいはコミュニケーションが作動して、はじめて社会という全体性が起動するという点を押さえておきたい。

  参考
 社会契約論や社会的選択論の欠点は、行為システムにおける役割行為の具体的内容を捨象していることである。一方、パーソンズの社会体系論では、個人の利己的欲求は社会的役割を通して満たされ、社会全体の秩序維持という善に貢献しているという観察がなされている。ロールズの正義論やセンの社会的選択理論は、個々の社会システムの役割内容を捨象しており、創発の妙理の極地まで到達できていない。経済学者や政治学者や法学者の社会理論は、創発の妙理を無視しており、社会理論としては不完全なのである。 
  

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by merca | 2008-08-02 10:42 | 社会分析