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科学の思い込み「事実それ自体」

 事実というものが一つであり、それを客観化・規範化し、絶対化する思考には注意である。対象に関する正しい認識=事実は、本当に一つであろうか?対象が単相的な性質をもつのならそうも言えるかもしれないが、対象が複雑で多様な側面をもっている場合、事実は複数存在することになる。また、対象は認識方法によっても異なって現象化する。
 例えば、ある人間についての認識は、男性である、老人である、日本人であるなど、多くの側面で認識しうる。対象についての事実は一つでない。また、認識方法も認識主体の関心によって規定されている。外国人は、その人間を日本人として観察するだろうし、社会福祉のケースワーカーは、その人間を老人として観察するのである。関心相関的に知識は得られる。関心に相関して「として」というかたちでしか人間は認識できない。ここがポイントである。「として」を離れた事実それ自体は存在しない。科学の悪いところは、この「として」を隠蔽し、事実それ自体という観念上の想像物を捏造することである。人々は科学に騙されているのである。認識活動は、全て対象と認識主体の関係性であり、この関係性を認識することで、対象を把握するのである。科学は、この二つを切り離し、対象と認識主体をまるで別物のように扱う。

 科学は、事実それ自体という空想を前提にしてつくられた物語である。科学が真に客観的であろうとするのならば、知識は全て関心に相関的であることを自覚すべきなのである。ニセ科学批判者は、科学的知識を事実それ自体と思い込み、その思い込みからあらゆる文化や知識体系を破壊するのである。
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by merca | 2008-09-27 20:51 | 理論 | Comments(0)

歴史学は全て非科学的知識。

 (一回性/反復性)、(個別性/一般性)という区別から科学主義や反証主義を観察してみたい。
 原理的に、反証可能性は、反復性のある命題にのみ適用され、一回性の命題には適用できない。
 例えば、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題は、歴史上の真実であるが、この命題には反証可能性はない。
 一回性・個別性から構成されている命題についての真偽は、反証実験ができず、反証主義の適用外である。しかし、このような命題も歴史学では真実として扱われている。何を根拠にして真実であることがわかるのか? 歴史的事実=真実は、演繹的推論でもなく、実験でもなく、成立っているように思われている。
 科学主義者は、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題については、科学的に立証できないので、真実ではないと言うのだろうか?それでは、あまりにも歴史学者が可哀想である。ニセ科学批判者のような生粋の科学主義者なら、歴史学という科目は、非科学であり、究極的に真であるかどうかわからない不確かな知識を事実と偽って教えている可能性もあり、子供に有害であると言い出すかもしれない。彼等からすると、歴史学における歴史的真実なるものは、非科学的であり、スピリチュアリズムの知識と同じである。 
 科学あるいは反証主義は、観察対象の一般性と反復可能性(再現性)を前提とした理論である。ありのままの生の世界は、全て個別的かつ一回性から成立っているという前提に立つ池田氏の構造主義科学論からすると、科学(反証主義も)は、全て錯覚となるらしい。
  
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by merca | 2008-09-18 22:57 | 理論 | Comments(15)

無差別殺人事件と善悪の基準

 あるニュース番組で、最近起きた通り魔無差別殺人事件の犯人がテレビ局に手紙を送っているというのがあった。その中で、善悪の絶対的基準は存在しないので、殺人をしてもかまわないという内容の文面があった。
 これは、犯罪社会学的には、相対主義・懐疑主義を利用した殺人の合理化である。論理的に殺人が悪いという道徳の正しさを証明することは不可能である。このことは、哲学の歴史を見れば、わかる。ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが善悪の基準は存在しなく、絶対的真理や絶対的善はないと豪語したのは周知のとおりである。
「殺人は悪である」という命題は、科学的には証明できず、近代で自己こそ真理であると豪語する科学主義者もお手上げである。科学は、存在と価値を峻別し、価値判断の問題は扱わないという。殺人防止について、科学は無力である。

 道徳は、内面化してこそ道徳として機能する。例えば、盗みをしたら、自己イメージが下がり、罪悪感を感じる人間は、きちんと道徳を内面化している。しかし、無差別殺人事件の犯人は、殺人をしても、自己イメージがさがるどころか、逆にあがっているわけである。
 通り魔無差別殺人事件の犯人たちは、果たして殺人が悪であるという道徳を内面化していなかったのだろうか? 多くの保守的論者は、内面化していないと捉え、道徳の危機を叫ぶ。しかし、実は内面化しているように思えてならない。内面化しているからこそ、合理化・正当化をするのだと。彼等は、「殺人は悪いことである。」という命題が正しいと証明されることを恐れているのである。もし証明されると、罪悪感に襲われ、瞬時に彼等の自我は崩壊するだろう。真なる許しは、その後に聖者たちによって告げられるだろう。
 「殺人は悪いことである。」という命題を認めつつも、自己の行為を合理化するために、「派遣会社が悪い」とか「善悪の絶対的基準は存在しない」とかという屁理屈をもって自己の罪悪感を無効化・中和化しようとするのである。これは、陳腐な犯罪者の使う常套手段である。

 合理化・正当化を徹底的に封じろ!! これが通り魔無差別殺人に対する処方箋である。
 
 ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが発した無責任な言説が、通り魔無差別殺人を起す地獄使者たちの犯罪動機を強化するように機能し、人の命が奪われるのである。ニーチェの罪は深い。また、統計的事実に基づくワーキングプア論や貧困論を唱える論者たちの言説も、この悪魔達の行為の合理化・正当化のために利用されているのである。
 殺人を合理化・正当化するための物語として機能する宗教思想、哲学思想、社会理論、科学理論には要注意である。自己防衛のために彼等は自己の物語を絶対化しようとする。
    殺人を合理化・正当化する物語を相対化せよ!!

  参考・・・「火の鳥 鳳凰編」の我王
       「ブッダ」のアンヒンサー
       「ブラックジャック」のドクター・キリコ
         これを読むべし

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by merca | 2008-09-15 10:26 | 社会分析 | Comments(0)