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世界論と真理観の相対主義


 他者がどの真理観に準拠して言説を述べているか、それを見極めることが非常に重要である。特定の真理観でもって、別の真理観に準拠した他者を非難する教養のない者たちがいる。ニセ科学批判者や治安悪化神話社会論者はその典型である。
 
真理観は、対応説、整合説、合意説、実用説に分けることができる。
対応説とは、模写説とも呼ばれるが、対象と一致する命題、言説、知識が真理だとする説である。自然科学は、この立場をとる。
整合説とは、形式論理学に反しない命題、言説、知識が真理だとする説である。要するに、論理的矛盾のない命題、言説、知識が真理だというのである。意味の整合性と考えてもよい。
合意説とは、人々の合意を得た命題、言説、知識が真理だとする説である。つまり、社会的に認められている命題が真理だとする説である。
実用説あるいは有用説とは、ある目的を達成するのに有用な手段である命題、言説、知識が真理だとする説である。

これを世界領域との対応でみると、
物理的世界=対応説 物理的事実  
心理的世界=整合説 心理的(精神的)事実 
社会的世界=合意説 社会的事実 
世界そのもの=世界の無限の複雑性(三世界を含む全体世界)=実用説 形而上学的事実
 
 基本的には、真理の実用説のみが全ての世界に関わることができる。システム論社会学や構造構成主義は、実用説に準拠した理論である。三世界の全てに自由自在に関わることができる立場である。

 ニセ科学批判者たちによるスピリチュアル批判は、真理の対応説に準拠している。しかし、江原氏などのスピリチュアルカウンセラーは、真理の対応説には準拠しておらず、真理の整合説や実用説などに準拠し、物語として語っている。
 心理的世界=精神的世界は、物語として意味の整合性さえあれば、それが本当だと思えば、外部世界と関係なく、本当にそれが事実になるのが原理である。このような世界は意識によってつくられていくものである。また実用説からすると、前世物語をもつことで、癒され生きる意味を得て生活が充実するという実用性があれば、それはそれで真理なのである。このように真理の整合説や対応説に準拠した言説=物語に対して、ニセ科学批判者のように真理の対応説に準拠して批判するのは間違いである。
 手厳しいかもしれないが、多くの場合、議論が噛み合ないのは、相手がどの真理観に準拠して発言しているのか類推する想像力が欠如しているからである。議論に際しては、全ての真理観を使い分ける器用さが必要なのである。

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by merca | 2008-11-30 11:49 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

反証主義と実証主義は同一

 反証主義は、実証主義である。
 「全ての鳥類は、飛行できる。」という科学的命題は、鶏やペンギンが飛行ではないという事実によって、反証される。ところが、これは裏返すと、一つの命題の実証である。
 「全ての鳥類は、飛行できるわけではない。」という科学的命題は、鶏やペンギンが飛行できないという事実によって、実証されることになる。そうなると、「全ての鳥類は、飛行できるわけではない。」という命題は反証不可能な実証的真理となってしまう。反証主義の理窟を押し進めると、このようにかえって反証不可能な実証的真理の存在を認めることになってしまい、科学的命題は全て仮説であるという自己の前提と矛盾してしまうのである。
 このように反証主義は、実証主義を否定しては成立たない。自らのうちに実証主義を含んでいるからである。反証主義は、否定命題の実証主義である。要するに、反証主義の本質は、命題の形式を操作することで改竄された実証主義の変種である。

 また、反証主義は、有限個の存在物には適用できない。対象となる普遍名詞の集合の要素=個数が有限個の場合、破綻する。「全ての何々は、何々である」という場合の全ての何々が有限個ならば、全て調査することが可能であり、真理として実証されるからである。反証主義は、全てを把握できないという前提に基づいて構築された理論であるが、その全てが有限個ならば、把握できるのである。


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by merca | 2008-11-02 21:21 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

治安の社会的構築

 当ブログのコメントからの引用
 多くの人は自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化しているらしいと考える傾向にあるようなのです(久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』(公人社)、K.F.Ferraro、Fear of Crime(State University of New York Press)など参照)。

 普通、治安は、犯罪発生率で測定される。犯罪発生率が高いほど、犯罪に合う確率が高いことになるからである。しかし、犯罪に合う危険性は、人によって異なる。防犯意識が高い人間は、日頃から犯罪被害に合わぬように心掛けており、犯罪には合いにくくなる。警察は、防犯教育の一貫として、振込み詐欺や戸締まりについて防犯教育をする。防犯教育が行き届いている人や地域社会は、犯罪に合いにくい。一方、無防備な人や地域社会では犯罪に合いやすくなる。
 このように考えると、防犯意識が高く、犯罪被害に合わない人や防犯活動が盛んな地域社会の住民にとっては、身の回りには犯罪がないが、治安の欲求水準が高くなり、社会全体として治安は悪化しているとの意識を持ちやすくなるではないかと考えられる。
 つまり、これまで犯罪被害に合わなかった人は、それなりに防犯意識が高たいために、体感治安について、自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化していると答えると考えられる。
 翻って考えると、体感治安が悪いという意識は、防犯意識の高さを測定していることになるかもしれない。
 しかし、この仮説が成立つためには、被害者学の知見を必要とする。例えば、犯罪被害にあった人と一度も犯罪被害にあったことのない人の間に、防犯意識や防犯態度において、差異があるか検証する必要もある。
 
 もっとも、重要なことは、防犯行為をしなくなったら、犯罪に合いやすくなるということである。防犯行為が犯罪防止につながるという単純な因果関係を無視して、治安悪化神話批判をしても意味がないことは確かである。それは、ちょうど、警察がいなくなり、刑務所がなくなると、どうなるのかそれを想像してみるとわかる。たちまち、犯罪被害に合う人が続出するだろう。
 要するに、治安悪化神話批判は、「治安は維持されるもの」すなわち刑事政策や防犯活動によって、社会的につくられたものであるという根本的認識を欠いた議論なのである。2002年から現在に至って、犯罪発生率が低下しているのは、警察官の増員と警察や地方自治体による防犯キャンペーンの成果によって、仮に治安は維持されるているからである。従って、警察や防犯活動に批判の鉾先をむける治安悪化神話批判論者は、根本的に間違っているのである。

 治安は、教育、福祉、経済、マスコミによってつくられるのではなく、機能主義社会学の観点からは、第一義的には国家の刑事政策システムによって、自己言及的につくられるのである。

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by merca | 2008-11-02 20:32 | 社会分析 | Comments(0)