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科学による客観的事実の独占化


 科学が存在する前から、人は自然に対する知識をもっていたわけであり、科学のみが客観的事実を独占するというのは、おかしな話である。
 例えば、河豚には毒があるとか、水を沸かすと蒸発するとか、種をまくことで穀物が生えてくるとか、数え上げれば切がない。また自然に対する知識には、本能というものもある。匂いや味で腐ったものを判別することもできる。近代化し科学が誕生する前から、人間は自然に対する客観的事実を知っていたのである。自然に対する客観的事実は科学の専売特許ではないことがわかる。科学的方法でしか客観的事実を得ることができないと考えたり、科学が一番よく客観的事実を見つけ出す方法であると考える人がいたら、それは一種のおごりである。
 科学という知識に人間が頼りだしたのは、近代社会に入ってからである。近代社会の仕組みと科学は平行している。社会学的には、科学を論じることは、近代化を論じることと本質的に同じである。近代化論の視点から観察すると、ニセ科学批判は、科学による客観的事実の独占化現象の一つなのである。

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by merca | 2008-12-31 16:54 | ニセ科学批判批判 | Comments(2)

クオリアという観察(質/量)


 科学者·茂木健一郎が提唱するクオリア論は、微妙な立ち位置にある。ニセ科学批判者系のブロガーからあまりよく思われておらず、ニセ科学や擬似科学のレッテルを張られそうな雰囲気である。
 区別の論理から、クオリア論をコード分析すると、実は自然科学ないしは数理科学に対する第二次観察だと言える。つまり、自然科学ないしは数理科学は、(質/量)というメタコードに準拠しており、量をマークして構築された学問であるということである。一方、クオリアは、決して量には還元されない世界の一面を指していることになる。自然科学や数理科学は、クオリア論によって相対化される。質は量に還元されず、量は質に還元されない。
 ただし、ここで問題となるのは、クオリア論が実証性、反証性、客観性をもつかどうかである。クオリアは主観的感覚であり、客観化することができない。しかし、そうなると、量の世界は、数式で表現できる客観的世界であるが、質の世界は数式に還元することが不可能であり、実証性、反証性、客観性を持ち得ないという理屈で、クオリア論を擬似科学に押し込める人たちも出てくると考えられる。
 システム論から観察すると、(質/量)というコードで事物を観察する当のクオリア論は、(意味=言語世界/物理世界)というメタコードに準拠しており、やはり物理世界の学問としての域はでない。クオリアは意味システムではない。意味システムとしての意識システムや社会システムとは異なる次元である。
 とは言いつつも、物理世界が量としてだけではなく、質として観察できるという発想は、有意味であり、期待したい。
 
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by merca | 2008-12-31 16:27 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

科学教の本質

  ニセ科学批判者たちが使用するレトリックの自己矛盾を指摘しておきたい。
 ニセ科学批判者たちは、科学的知識は事実そのものである絶対的真理には到達不可能であるが、科学によってそれに近づくことができると主張する。つまり、個々の科学的知識は事実と思われる認識内容であって、永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくことが科学の営みであるというわけである。この論理からすると、かえって科学は、絶対的真理を前提としていることがわかる。もう少し詳しく言うと、科学は、事実そのもの=絶対的真理=対象と認識内容が完全に一致した命題の存在に近づくことを目標とすることで成り立っている。しかし、何を根拠に事実そのものにより近づいていることを判断できるのだろうかという疑問がすぐに湧いてくる。ここで科学そのものがパラドックスに陥ることは、システム論者なら誰でもわかる。それはともかく、ここでは科学は決して自身を絶対化しないというレトリックの自己欺瞞性を粉砕しておきたい。
 
 このように、科学という営みは、絶対的真理=事実そのものという妄想=物語の存在によって動機付られ成り立っている。しかし、皮肉なことに、人間の意識から断絶した事実そのものが存在し、決して到達不可能だとしたら、これはすでに哲学的観念としては、科学が否定してきた神の観念と同義になってしまうのである。また、事実そのものの総体を自然と呼ぶ科学主義者もおり、やたら自然という神秘物語に科学の根拠を求める連中もいる。
 科学は、絶対者としての事実そのもの,あるいはその総体である自然の存在を前提とする絶対主義なのである。このことを理解せずに、科学は絶対主義ではないという浅はかな理解しかできないニセ科学批判者は多い。科学は絶対的真理という観念なしには、成り立たない思想なのである。
 科学が信仰する事実そのものという観念は、宗教、特にキリスト教の神観念に近い。これは科学が西洋社会を起源にもつ文化現象であるという一つの証拠である。キリスト教の神観念は、人間の外にある絶対者であり、人間にとって認識不可能かつ到達不可能な存在である。これは正しく科学が前提とする事実そのものの存在と同じである。ちみなに、仏教では一切の存在に仏の生命が宿ると考える。仏性=真理は外にある絶対のものではなく、個々の存在に宿る内面的なものである。真理は自身のうちにあり、外にはないと考える。科学は真理を人間の意識の外に求めようとする点において、極めてキリスト教的、西洋的である。到達不可能な絶対者を立てる科学は、キリスト教と同型の思考形態をもつ。真理そのものがはなから自己のうちに宿ると考える仏教的発想によって、科学は相対化されるのである。また、構造構成主義もシステム論も、意識から隔絶した事実そのものを定立することなく、世界を記述するので、科学とは観察方法が根本的に異なることになる。 

 科学は、意識から隔絶した事実そのものを絶対者として定立し、その仮構の存在を信仰する一つの宗教である。その挙句の果て、科学を標榜する者たちは我こそが真理に近づいたりと闘争し、自己と似た者たちに対して疑似科学やニセ科学という邪教のレッテルを張り、排斥するのである。科学が手段にとどまらず、自己目的化し、スピリチュアル、宗教、占いを破壊し、暴走する可能性は、この本質構造にあるのである。
 ニセ科学批判者たちが科学は永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくから、科学は絶対化されることはないと言うのは、かなり陳腐で恥ずかしい弁解なのである。
 ただし、科学を手段=道具として相対化して利用することで、科学は科学教=ニセ科学批判運動にならず、解毒されるのである。


   参考
 ある観点からは科学も宗教も機能的に等価だという相対主義を嫌う科学主義者もいる。これは、客観的事実の分野においては、科学のみが特権化·絶対化されるという絶対主義のあらわれである。しかし、実際のところ、科学的手続きと客観的事実は、論理的には全く無関係である。科学的手続きを経ない客観的事実は、いくらでも見出させるからである。

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by merca | 2008-12-29 17:40 | ニセ科学批判批判 | Comments(6)

ニセ科学批判への違和感の本質


 客観的事実とは、その対象について、いつ誰が見ても同一の認識内容をもたらす命題のことを言う。客観とは、個々人の視点を離れた万民が共有・利用できる視座からの観察である。そして、科学主義者は、科学という方法で認識すれば、万人が同一の認識内容を得ることができ、人類共通の知識、技術として共有できると考える。一方、主観的事実とは、特定の個人にしか立ち現れない認識内容である。例えば、ある絵を見て特定の印象をもったとする。しかし、その印象は、その個人にとっては、厳然たる事実であるが、万民が共有できるものでない。しばしば、それは心理的事実、精神的事実と呼ばれる。(霊能力者がオーラが見えるというのは、主観的感覚のレベルの話であり、客観的事実とは異なる心理的事実である。従って、客観的事実として見なすのはカテゴリーの混同である。)
 しかし、このように客観的事実を定義すると、科学のみが客観的事実をつくりだす道具ではないことがわかる。同じ認識方法をとれば、同じ認識結果をもたらすのなら、同じ宗教思想を身につけた人間どうしは、同じ認識内容をもたらすことになる。例えば、雷が鳴ったら神様が怒っているという物語を所有している未開社会があったとすると、その共同体の成員は、神様が怒ったと同じ認識をもつことになり、その社会では客観的事実となる。(社会学者トマスの公理・・・人々がそれをリアルだと見なすと、本当にリアルになる。) これを客観的事実ではなく、間違いと指摘するのは、いかにもナンセンスである。もし万民が同じ物語を所有したら、客観的事実になるからである。一つの民族社会で生じた宗教観念が世界全体に行き渡り、利用可能なかたちで共有されていく過程は、歴史を学んだ者であれば、誰でも承知の事実である。ユダヤ教から発したキリスト教などの世界宗教がそれである。科学のみならず、あらゆる思想は利用可能性に開かれており、その認識が客観的事実となる可能性を秘めている。
 
 人に対して客観的事実と異なり間違っていると指摘することは、暴力を伴うことがある。つまり、我々の見方が多くの人々の見方で正しく、あなたの見方は訂正しなければならないという圧力となるのである。ニセ科学批判者たちが、科学を利用して、スピリチュアルや占いを闇雲に批判しまくるのは、一種の暴力としても観察できるのである。
 このようなニセ科学批判に暴力性を見てとる平和で穏健な人々は、ある種の違和感を感じるのである。ニセ科学批判者やその周辺者たちがピラニアのごとくコメントしてくる社会病理現象はよく知られている。その言説の暴力性は凄まじい。ニセ科学批判に賛同する社会学者をほとんど見かけないのは、このような違和感に由来していると思われる。手を出せず、沈黙を守る社会学者がほとんどである。言いたいことが言えない状況かもしれない。
 以前、私は、ニセ科学批判は、人々から科学と呼ばれるものだけに限定し、科学内部の闘争に止めるべきだという趣旨でエントリーを書いた。つまり、スピリチュアルや占いや宗教などの社会における他の分野の文化を対象にすることは慎むべきだということを書いた。科学による文化破壊によって、人々の選択肢が減ることを懸念していたのである。
 
 視点は変わるが、ニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、必ずしも人々は客観的事実として受け取っているとは限らない。血液型性格判断は科学ではなく占いとして受け取り、水伝はロマンとして受け取り、クーラーの機能さえあればマイナスイオンはどうでもいいやと思っている人もいるし、ゲーム脳は勉強をさせるための方便として利用している親もいる。これらを科学や客観的事実を装う対象として認識するように、人々に強制する権利はない。もしニセ科学批判者がニセ科学のレッテルをはる対象に対して、全ての人々も科学や客観的事実として観察していると思い込んでいるのなら、かなり非現実的である。大衆を馬鹿にしているとしか言いようがない。思い上がりである。つまり、ある言説、学説、商品の機能や効能を客観的事実として受け取るかどうかは、受け取る人々の観察コードによる。どのような観察コードで対象を認識し利用しようと、他人が支配できることではない。受け取る人々の観察コードの自由性を無視したニセ科学批判者たちの議論は、抽象的であり、益々、世間から遊離していき、違和感を増していくであろう。
 
 最後に、全ての科学者・科学技術者がニセ科学批判者のような立場ではないことを祈る。ニセ科学批判者のような科学者・科学技術者は、ほんの一部なのだろうか? 科学者・科学技術者全体に一般化しないように心がけたい。

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by merca | 2008-12-23 18:35 | ニセ科学批判批判 | Comments(4)

科学的知識とは、一種の推論である。


 科学的知識は、実験と観測による仮説の検証によって得られる。この検証というのは、部分から全体を推論する作業である。つまり、部分を調べて、全体も部分と同一の性質をもつだろうと統計学的に推論するわけである。ここで重要なことは、決して全体を直接に調査しているわけではなく、頭の中で全体を観念的に推論しているということである。統計学では、部分を標本集団と呼び、全体を母集団と呼ぶ。推論に頼る以上、科学は実証的でありつつも、推論する際の観念的な思考過程を必要不可欠とする。部分と全体の同一性を担保するものは、実験や調査ではなく、純粋に思考なのである。多くの場合は、統計的検定という統計学=確率論=数学による推論である。
 ほとんどの対象は全数調査が不可能である。全数調査が不可能な対象についての科学的知識は、全て客観的事実ではなく、確率論という純粋に人間の頭の中の論理でつくられた推論によって構築された観念的知識なのである。言うまでもなく、全数調査の不可能性がポパーの反証主義の前提となっている。
 ちなみに、部分と全体との間に完全な同一性が成立するのは、原子論的世界観である。世界のどの部分を切り取っても、原子という同じ要素から構成されているからである。これを自然の斉一性とも言う。金太郎飴の世界である。もしこの世界観が正しければ、一つの個体を調べるだけで全ての個体を調べたことと同じになり、確率論による推論はいらなくなる。部分即全体である。

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by merca | 2008-12-21 00:10 | 理論 | Comments(2)

自己観察=社会観察


 自己認識は、同時に社会認識であり、社会認識は自己認識である。なぜなら、社会のシナリオ=役割は、我々人間の中に存在するからである。言語や規範の習得そのものが社会の内面化である。社会学では、人間が社会を内面化することを社会化という。この社会化が社会秩序を発生させる基盤であり、社会の素になる。だから、自己を観察することで、自己に内面化した社会を観察することができる。(人間は他者との関係性の中にあり、自己観察は同時に他者観察も含むことに注意)
 
 人が社会について語ることができるのは、実は自己に内面化した社会を観察できるからである。調べてもいないのに社会を語るなという人もいるが、これは社会学というものに対する無理解からくる。少しでも社会学を学べば、調べなくても社会を語ることは可能であることがわかる。社会は自己に内面化しているからである。人間は、社会を内面化することで社会生活を送ることができるのである。ただし、自己の中に内面化した社会なるものを学問として体系的に観察するためには、観察道具が必要である。その道具が様々な社会理論である。
 自己と分離した外にあるものとして社会を定立し、物のように調べることではかえって社会の本質を捉え損なう。人間と切り離して社会は存在し得ないからである。社会理論の使用可能性によって、社会学の客観性は生じるのである。社会学者が社会学として社会を語ることができるのは、統計調査によるのではなく、社会理論によるのでるある。統計調査は社会学者でなくてもマスコミや行政機関でもできる。統計調査イコール社会学ではない。この点、勘違いしている人たちが多い。例えば、反社会学講座は、その勘違いの典型である。
 人は社会の中で生き、社会と連動している。個々の人間は、社会全体を写し取る鏡である。ちょうど、一つのモナドが宇宙全体のモナドを表象しているというライプニッツのモナド論に例えられる。社会学をするとは、社会理論を使用して自己を観察することで、社会を語り、新たな社会理論を構築していく営みである。少なくとも、それは理論社会学者には当てはまる。

 参考
 これは、宇宙論にも通ずることかもしれない。人間は宇宙の一部であり、一人の人間は宇宙全体を表象しているとしたら、自己認識がそのまま宇宙論となる。哲学者は、宇宙を調べはしないが、宇宙全体を語ることができ、哲学を構築していくのである。

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by merca | 2008-12-13 22:12 | 理論 | Comments(0)

説明可能性に基づく科学論


 自然科学が準拠する世界モデル=公理系は、因果法則が存在し、形式論理学や数学に合致した宇宙観である。素朴実在論的宇宙観と名付けよう。ポパーの反証主義も素朴実在論的宇宙観に基づいた物理世界を前提にしている。因果法則を超えた自由意志論や形式論理学を超えた物語論は、自然科学の外に置かれた虚偽世界となる。
 しかし、素朴実在論的宇宙観では説明できない現象が起きたときに、科学者は様々な宇宙論を展開しだす。ビッグバーン宇宙論や五次元宇宙論など、様々な宇宙論があるが、どれも反証(実験)可能性はなく、反証主義科学論からは科学だと言えないようである。観察と数学による推論などでつくられた宇宙モデルである。疑似科学であると非難されることもあるこのような宇宙論は間違いなのだろうか? 否、宇宙論に求められているのは反証可能性ではなく、説明可能性である。物理現象をよりよく説明することができる宇宙モデルは、それだけ妥当性があることになる。さらに、その宇宙モデルに基づき、個々の物理現象を予測し、予測結果を当てることができれば、ある意味、実証されたことになる。予測実験である。
 社会全体も反証実験が不可能であり、反証可能性を求めることはできない。しかし、社会のモデルはつくることができる。それが社会理論である。宇宙論と同じく、説明可能性が高い社会理論が妥当性をもつことになる。例えば、パーソンズの社会体系論は、社会理論の最たるものであり、個々の社会的行為を説明する能力もそれなりに高く、このモデルによって、ある程度、社会現象の予測も可能である。現代思想家のポストモダン社会論よりも説明能力は高い。
 宇宙論がそうであるように、社会理論も複数存在する。宇宙論が宇宙そのものを写し取ったものではなく、宇宙を説明する道具であるように、社会理論も社会そのものを写し取ったものではなく、社会を説明する道具である。実体そのものではないので、道具は複数あってかまわないのである。

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by merca | 2008-12-07 10:05 | 理論 | Comments(0)