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人工生命、人工意識の研究はニセ科学?


 ロボットに命と心を与えることは不可能である。

 自然のみが生命体や心=意識を生み出すことが可能であり、人間がそれらを作り出すことは不可能であると考えられている。科学は自然法則の奴隷であり、生命体と心は自然のみが生み出すことができる神聖な権利である。そういう意味では、自然=神である。

 今のところ、人間が人工的に生命体や心を作り出すことは科学の限界を示している。つまり、現在の科学では、「人間が人工的に生命体や心を作り出すことができる。」という命題は、偽である。逆に言えば、現段階で「人間が人工的に生命体や心を作り出すことができる。」ことを真であると主張するとしたら、ニセ科学である。

 しかし、実際には人工生命や人工意識の研究は、科学の一分野をなす。不可能な命題を実現しようとするわけだが、これらは疑似科学やニセ科学の範疇に入るのだろうか?
永久機関(無限に動き続ける機械)は可能である、という学説は、疑似科学だと聞いたことがあるが、それと同じで、「人間が人工的に生命体や心を作り出す。」という目的のもとに研究をしている科学者がいたら、その研究は、所詮、ニセ科学なのだろうか? というよりか、命や心という形而上の存在を前提とすること自体が、科学の範疇に非科学的要素を混入していることになり、科学を装ったニセ科学となるのか?

 もし仮に生命と心は人間にはもともと備わっていないと考えたら、人間と同じ構造システムをつくることは可能かもしれない。人間とロボット(あるい人造人間)の区別はなくなる。そういう前提に立てば、アトムのようなロボットが人間と同じような行動をとり、コミュニケーションもできるとしたら、人間と見なしてもいいことになるのではないか?

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by merca | 2009-01-29 00:04 | ニセ科学批判批判 | Comments(5)

心と命を扱う科学は成り立つか?


 心理学は、心(精神)を対象とする学問である。しかし、心は目に見えない。人間(あるいは脳)という物体に心が宿っていることを科学的に実証できるのか知りたい。また、生物学は、生命を対象とする学問である。有機体という物体に生命が宿っていることを科学的に実証できるのか知りたい。
 はなから心や生命の存在を前提とする心理学や生物学という学問は、心や生命という非物理的実体を対象としている。生きていること、心があることは、科学的証明以前の出来事であり、人間の本能的直感で感知することである。命がある存在かどうか、心がある存在かどうかは、対象との接触やコミュニケーョンで感じとることで、生ずるものである。心の存在を感知できるのは、科学的方法ではなく、別の心をもった存在の本能的直感だけである。この能力は科学では説明がつかない。
 
 とすると、ある物体に心や生命という神秘的存在が宿ることを前提とする心理学や生物学は、コントの提唱した神話的思考形態に近いものがある。ある物体が動いた原因を心や生命というスビリチュアルな存在に帰着させるからである。
 私は心理学と生物学が非科学的で間違っていると言っているのではなく、むしろ非科学的要素に支えられてこそ成立つ科学であることを主張しているのである。
 
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by merca | 2009-01-25 00:45 | 理論 | Comments(7)

コントの三段階の法則

 社会学を学んだ者なら、社会学の創始者コントの三段階の法則を知っているはずである。社会が進化するにつれて、人間の精神の歴史は、三つの段階をたどるという有名な古典社会学の理論であり、近代化論の先駆である。
 三段階とは、神話的段階、形而上学的段階、実証主義的段階の三つである。神話的段階は、現象の原因を神などの想像上の存在のはたらきとして解釈する思考形態をいう。原始社会や古代社会ではよく見受けられる思考形態であり、神話や宗教が幅をきかせていた。世界の説明原理は神話や宗教ということになる。
 形而上学的段階とは、現象の原因を論理的で抽象的な原理によって説明しようとする思考形態である。哲学がこれにあたる。中世社会では、スピノザやライプニッツの形而上学は有名である。世界の説明原理が抽象的な哲学理論ということになる。
 実証的段階とは、現象の原因を観察と実験による実証的な事実に求めようとする思考形態である。これは正しく、近代社会における科学のことをさす。世界の説明原理が科学理論ということになる。なお、実証的な学問は、単純な対象から複雑な対象へと向かっていき、数学、天文学、物理学、化学、生物学を経て、もっとも複雑な対象である社会を扱う学問である社会学で完結すると言う。つまり、社会学が実証的精神の最終目標となるのである。

 教科書的なことを書いたが、コント社会学の発想それ自体は今でも使える。確かに人間社会の歴史は、三段階の法則に従って進化してきたと観察できるからである。近代社会では、宗教的思考や抽象的な哲学的思考は周辺に追いやられ、実証性を重んじる科学的思考形態が知識の主役となっている。天災を物理現象としてではなく神の怒りとして解釈するのは、神話的段階の社会では、違和感がなかったことであろうが、近代社会では迷信となる。水に心があり、人間の言葉を理解するという思想も、神話的思考からすると、整合性はあるが、近代社会においてはマイナーな思考形態になると考えられる。

 しかし、コントの三段階の法則は、現実の現代社会と多少ズレており、そうでない部分もある。
 というのも、近代社会に入っても、宗教も哲学もなくなりはせず、中心ではないが、分業社会でそれなりに重要な機能を担っているからである。
 哲学は思想や道徳というかたちで、人々に社会規範や価値基準を提供し、宗教は誕生・結婚・葬儀などで人間の生死の意味付けを扱う。宗教と哲学は消滅せず、むしろその機能が純粋化されたとも言えるのである。三段階の思考形態は、近代社会になっても、全て人間にとって必要なものなのである。実証的な思考形態である科学のみが、全ての機能を代替することはできない。
 一つの思考形態だけを絶対化せず、この三つの思考形態を目的と場に応じて使い分けるのが、後期近代産業社会=成熟社会に適合的な生き方なのである。

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by merca | 2009-01-24 23:56 | 社会分析 | Comments(3)

「植物はほめると育つ」はニセ科学か?


 ニセ科学批判者のうちでは、「水からの伝言」(水伝)に関する議論が流行っている。これは「ありがとうという言葉が奇麗な水の結晶をつくる」という命題が科学的事実ではないという前提によって、なされている批判である。
 さて、これとよく似たものに「植物はほめると育ち(けなすと育たない)」という命題があり、ネットでざっと調べてみると、かなり人々に流布しており、植物にも心が宿ると信じている人は多い。また、この命題を利用して子供の教育もほめて育てるのが正しいという教育観の根拠とする人もいるようである。
 (「植物をほめる 実験」などで検索すると沢山でてくる。)
 このことについては私は詳しく知らないが、随分前に私もテレビで、ほめた植物とけなした植物の成長の比較実験していたのをうるおぼえで記憶している。また、どこかの本にもそのような記述があったと記憶している。
 科学の立場からすると、つまり脳科学的には、植物には脳はないので、心があることは否定される。これまでの科学的知識とは反することなる。
 「植物はほめると育ち(けなすと育たない)」という命題の発祥起源は、そもそもどこから来たのだろうか?
  そういうわけで、調べると、クリーヴ・バクスターという科学者=心理学者に由来しているのではないかとわかってきた。

http://www.amazon.co.jp/植物は気づいている―バクスター氏の不思議な実験-クリーヴ-バクスター/dp/4531081463
 
 これは、「バクスター効果」と呼ばれ、「波動」と結びつけて理論化している人たちもいるようである。(「バクスター効果」と「波動」でネット検索)

 水からの伝言よりも先に流布しており、幅広く広まっており、校長先生の講話で述べられたり、学校の先生が理科の授業で話すこともあったようなネットでの記述も認められる。草木や花にも命が宿っており(生物学でも生命体)、心があるという感性をもつ人なら自然に受け入れてしまうと考えらる。無機物である水よりも、有機体である植物であるからなおさらである。水伝とよく似た構造である。いや水伝のルーツであるかのようである。
 水からの伝言が波及する社会的土壌がすでに、「バクスター効果」によって形成されていたのではないかと推察される。 
「バクスター効果」は、ニセ科学批判の対象になるだろうか?
 
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by merca | 2009-01-24 15:52 | ニセ科学批判批判 | Comments(6)

コミュニケーションの自己生産に伴う難問

 コミュニケーションは、コミュニケーションから生み出され、自己産出されるという。これをオートポイエーシスという。つまり、一つのコミュニケーションは、連接する次のコミュニケーションを生み出す。コミュニケーションの発生原因は、コミュニケーションの外にある何かではなく、直前のコミュニケーションであるというのである。
 例えば、授業で、先生がある生徒に「この問題の答えがわかりますか?」と言ったら、その生徒が首を横に振った後、別の生徒が「私はわかりますので、答えます」と言い、先生が「それでは答えてみなさい」と言ったとする。
 先生と最初の生徒のコミュニケーションが、別の生徒と先生のコミュニケーションを生み出したことになる。教育コミュニケーションが連接していき、教育システムが創発されることになる。このように、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出す。

 ところが、ここで一つの難問が生じる。それは、最初のコミュニケーションだけは、コミュニケーションから生み出されたわけではないと思えることである。そうなると、ファースト・コミュニケーションは、コミュニケーョンの外部に原因をもつことになってしまう。そうなると、コミュニケーションの原因はコミュニケーションであるという原理に例外を認めることになり、矛盾する。このようなシステム論に付きまとうアポリアは、システムの起源問題としてハーバーマスによって鋭く批判されている。この難問を解くために、コミュニケーションの事後成立性と相互規定性を吟味していく必要がある。

 結論から言うと、コミュニケーションは他のコミュニケーションとの規定関係からしかコミュニケーションとして成り立たないという視点を導入することで、この難問は解決できる。ファースト・コミュニケーションは、セカンドコミュニケーションが連接することではじめてコミュニケーションとして成立するということである。一つのコミュニケーションは、連接する次のコミュニケーションを待ってはじめて意味を獲得するのである。
 これをコミュニケーションの相互規定性という。ファースト・コミュニケーションは、セカンド・コミュニケーションに意味付与し、セカンド・コミュニケーションもファースト・コミュニケーションに意味付与するというわけである。セカンド・コミュニケーションの出現によって、ファースト・コミュニケーションも自己産出されたと考えるわけである。集合論的にも要素が複数あってはじめて集合は意味をなすわけであり、コミュニケーションという要素が複数あってはじめてシステムも意味をなす。これは、要素とシステムの区別の起源にもかかわる問題である。要素が複数になることで、要素とシステムの区別が生ずるのである。
 
 先の例で説明しなければなるまい。先生が生徒に「この問題の答えはわかりますか?」と言ったら、その生徒が首を横に振った。これが一つの教育コミュニケーションであるかどうかは、これだけでは認定されない。ファースト・コミュニケーションを観察した別の生徒が「私はわかりますので、答えます」と言い、先生が「それでは答えてみなさい」という次のコミュニケーションによって、ファースト・コミュニケーションが先生による生徒に対する教育上の質問行為であるとことが承認されたことになる。最初のやりとりだけで終わっていたら、最初の生徒が本当に答えを知らないのか、答えたくなく教育コミュニケーションを拒否しているのかわからず、教育コミュニケーションとして成り立たない。もう少し詳しく言うと、セカンド・コミュニケーションによるファースト・コミュニケーションの観察によって、同一コードに準拠するコミュニケーションとして同定されることになる。(この場合、教育コミュニケーションとして同定される)。もちろん、セカンド・コミュニケーションも、ファースト・コミュニケーションがないと意味をなさない。セットになって、はじめて教育コミュニケーションとして二つの隣接するコミュニケーションの意味は成り立つ。

 一応、社会システム論的な意味でのオートポイエーシスとは、コミュニケーションが他のコミュニケーションとの相互規定関係から生み出されることであると考えておきたい。
 
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by merca | 2009-01-19 00:00 | 理論 | Comments(1)

コミュニケーションの事後成立性


 マックス・ヴェーバーは、行為の主観的意味が他者に理解されることで、社会的行為が成り立つと考えた。この場合、程度や質の差はあるものの、一応、行為の主観的意味は目的-手段図式で表され、理解されることになる。行為は、社会の最小単位である。別の観点からは役割とも呼ばれる。行為を要素として成立するシステム論を行為システム論という。パーソンズの社会システム論は、行為(役割)システム論である。
 
 ところが、ルーマンは、行為者自身の主観的意味を行為の社会的意味とするのではなく、他者による解釈を優先させ、行為を他者がどう解釈するのかというところに力点を置き、社会システムの要素をコミュニケーションとした。このことの意味は大きく、行為者の自己完結した主観的意味や他者と共有する解釈枠組とは関係なく、コミュニケーションが発生するという事態を意味する。この考えにより、より多くの社会現象を記述することが可能になった。行為者の主観的意味を他者が誤解していても、コミュケーションは連接していくということである。

 コミュニケーションは、情報、伝達、理解の三構成要素の選択過程からなる。例えば、レンタルビデオ屋でビデオを借りる際に、客がレジにビデオを置き、店員が「何日借りますか。」と言ったとする。この場合、客は多くの情報から「ビデオを借りる」という情報を選択し、多くの方法からビデオをレジに置くという方法を選択して伝達したことになり、一方店員は数多くの理解枠組みから客がビデオを借りるということだと理解し、「何日借りますか?」と言ったということになる。そして、客は「3日」と答え、現金を払い、コミュニケーションは連接していく。
 しかし、例えば「何日借りますか?」という店員の言葉に、客が「いやこのビデオが床に落ちていましたよ」と答えたとすると、店員は最初の理解を訂正し、「かたずけておきます。ありがとうございます。」と言うだろう。この場合、客の意図は「ビデオが床に落ちていた」ということを伝えたかっただけであるが、それを店員が誤解しても一連のコミュニケーションは続くことがわかる。また、時と場合によっては、誤解されたままでも、コミュニケーションが続くことはある。
 コミュニケーションの意味の確定は、連接する次のコミュニケーションによって確定することを、コミュニケーションの事後成立性という。重要な点は、コミュニケーションが連接していく限り、一区切りのコミュニケーションは、いつでも別の意味として解釈される可能性があることである。つまり、一つのコミュニケーションは、仮に意味を同定されているだけであり、究極的には不確定であるということである。

 例えば、これは、ブログにおける議論コミュニケーションにおいても重要であり、発言の意味内容の同一性は究極的には不確定なのであり、実体として固定化されてあるわけではない。発話者の主観的な意味が普遍かつ不動のコミュニケーションの意味ではないのである。
 コミュニケーションの事後成立性を掘り下げることで、社会なるものが創発する仕方を探求したい。

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by merca | 2009-01-18 19:28 | 理論 | Comments(0)

ニセ科学批判は科学ではない?

他ブログの私のコメントです。ニセ科学批判者を科学主義者として観察するよりも、道徳主義者として観察してみた方が面白いと思いました。

http://blog.livedoor.jp/eastcorridor/archives/51149848.html#comments

 ニセ科学批判者は、事実判断のレベル=科学としてニセ科学批判をしているというよりも、自分たちの道徳観による価値判断によってニセ科学批判をしていることに気づきました。本来、自然科学は社会科学同様に事実判断のみに関わり、道徳の問題=価値判断は括弧に入れておき、公平性や中立性を保つものですが、ニセ科学批判はそうではないということです。前から科学的・客観的であるはずなのに主観的な価値判断による感情的表現が混入しているのが不思議だと思っていましたが、自分たちの道徳的価値観を他者に伝えることが目的だったというわけですね。主観的・感情的な表現が入ると、科学としての客観性を損なう発言になると、eastcorridorさんは危惧されていたわけです。主観的感情を表明して批判する菊池氏らニセ科学批判者は科学者としてではなく、道徳家や思想家としてニセ科学批判をしているということです。そうなると、「ニセ科学批判は科学ではない。」「ニセ科学批判者は道徳主義者」をもっと多くの人たちに理解してもらうことが必要ですね。科学者の仮面を被った道徳主義者という視点は非常に新鮮です。

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by merca | 2009-01-15 23:14 | 他ブログコメント | Comments(1)

正論という名の暴力=ニセ科学批判


 驚く事なかれ、ネットで検察すると、水伝、マイナスイオン、ゲーム脳、血液型性格判断については、対象そのものよりも、批判的に対象を観察をした者たちによる間接的情報の方が圧倒的に多い。つまり、我々はある人々(=ニセ科学批判者)の価値観に基づいた間接的情報をまず目にすることになる。
 社会心理学において、コミュニケーションの二段の流れという学説がある。ある対象や出来事についての情報は、中間集団の濾過を経て、間接的に人々に伝わるというものである。例えば、政治問題は、労働者の所属する労働組合のオピニオンリーダーの解釈を通じて、労働者たちに伝わる。ここで重要な点は、対象にまつわる知識は、対象そのものから直接得たのではなく、すでに特定の他者や集団の価値観に染められた間接的情報であるという点である。つまり、ネットに溢れる水伝、マイナスイオン、ゲーム脳、血液型性格判断に対する知識は、すでにニセ科学批判者たちの共有する特定の価値観=区別から観察された間接的知識なのである。もちろん、その観察コードは、(科学/ニセ科学)という区別である。ニセ科学批判者であるブロガーたちがオピニオンリーダーとなり、独占的にネットを見る人々に批判対象に対する情報を伝達する。我々は、ニセ科学と呼ばれている対象についての知識は、この特定の区別によるフィルターから観察されたものであるということを心得ておく必要がある。
 対象について、一つの色眼鏡から観察した知識は、その全体像を把握しているわけではない。多様な観点から観察してこそ、対象そのものについての全体像がある程度浮き彫りになってくる。しかし、ニセ科学批判者は批判対象に対する他の観点からの観察はとるに足らず自己の観点のみが重要であると主張し、あたかも自分たちの観察が批判対象の全体像・全価値であるかのような錯覚を人々に生じさせる。この点がニセ科学批判の胡散臭さの本質である。詰まる所、私は、別の観点からの眺め方を許さないニセ科学批判者の態度に危惧し、違和感を抱いている。あるいは、自己の観点こそが他の観点よりも社会的に重要であるという価値判断の押し付けが嫌なのである。全ての観点の重さは人それぞれであり、自由で対等であり、押し付けることはできない。価値判断は、対象と主観(の関心)の関係性によって生ずる。
 確かに、ニセ批判者の批判対象に対する価値判断は、一つの観点に固着すると、多くの場合、正論に聞こえる。しかし、ネットに溢れるニセ科学批判者や周辺者たちの言説を観察すると、批判対象を別の観点から観察する者に対する否定、罵倒、軽蔑、揶揄が多く、凄まじいものがある。科学ではなく、別の観点から少しでも水伝や血液型判断などの肯定的な側面を観察しようとしたら、あなたの観点はとるに足らず、認識が甘く、私たちの観点こそが重要であるという態度で攻めてくる。多くの場合、その見方おかしいですよ。私たちの見方の方が重要なので採用しなさいと、コメントしてくる。ネット上における布教活動である。この点も胡散臭い。
  
 ニセ科学批判者に対する私の観察は、観察の観察、つまり第二次観察である。私の準拠する観察コードは、(絶対/相対)である。ニセ科学批判者の言説は、批判対象を他の観点から観察することを許さない、あるいは他の観点を下位に置く、絶対主義なのである。正論とは、無条件に他の観点を軽視・否定・排除する故に、一種の暴力なのである。ニセ科学批判はまさに正論である。社会学は、社会に溢れる正論を疑う。正論が正論ゆえに暴力を伴うパラドクスに敏感なのである。
 
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by merca | 2009-01-07 00:38 | ニセ科学批判批判 | Comments(4)