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物と心の止揚としての言語=社会

 社会学的にいうと、脳と心、物理的世界と精神(心的)世界をつなぐものは、言語である。言語は、名称や文字のレベルにおいては音声や図形という物理的対象として物理的世界に属しながらも、概念や意味内容のレベルにおいては精神世界に属している。
 脳という物理的実体と心という精神的はたらきの結合は哲学的にも難題であり続けたわけであり、物理的世界と精神的世界をどのように関係づけるかは、多くの脳科学者や哲学者を悩まし続け来た。
 しかるに、言語現象においては、物理的世界と精神的世界が見事に結合されており、社会的に機能している。物理的世界と精神的世界の溝は、言語現象において解明されると考えられる。言語現象とは、端的に言うと、社会現象であり、社会学の対象となる。言語は一人の人間が発明したものではなく、人々の相互作用から自然発生した社会的なるものである。社会的世界は、物理的世界と精神的世界を媒介するのである。
 
 個々の人間にとっては、言語を習得すること、つまり社会を内面化することで、人間精神=心が発生し、物理的世界と精神的世界という区別が後から生ずるのである。その逆ではない。物理的世界と精神世界は最初から区別されているのではなく、後から生じた分別にしかすぎない。物理的世界が精神的世界を生み出したとする脳科学=唯物論も、精神的世界が物理的世界を生み出したとする唯心論も間違いであり、社会的世界が物理的世界と精神的世界の区別を生み出したと考えるほうが説明しやすい。
「はじめに言葉ありき」という聖書の真理は、あながち間違いとは言えないのである。仏教でも、言葉による分別(命名作用)から世界は生ずるとよく言われる、さらに、システム論的にも、言葉の本質である区別が世界の始源と考えられる。
 とりあえず、「はじめに社会ありき」を社会学の妙理として定式化したい。

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by merca | 2009-02-28 19:15 | 理論

言語の恣意性と物象化現象

 言語は、名称と概念からなる。そして、名称と概念の結合に必然性がないことを指して、「言語の恣意性」と呼ばれることは有名である。つまり、ある発音や図形(名称ないしは文字)という物理的対象に対して、何を意味するかは、人々の約束事にしかすぎないという説である。
 
 実は、「言語の恣意性」の原理は、貨幣の原理である物象化現象と本質は同じである。物象化現象とは、対象の中にあたかも価値や意味が宿るように錯覚する社会的機制のことをいう。国家という社会的なるものが存在すると思うことで、紙切れという物理的対象に交換価値が宿り、商品を手に入れることができるのである。紙切れと価値の間には、物理的な意味での必然的な関係はない。紙切れの成分をいくら分析したところで、交換価値の根拠を発見することはできない。
 まさしく、言語もこれと同じであり、発音や図形という物理的対象の中に概念の意味を見つけ出そうとしても、発見することはできない。しかし、人々が貨幣の中に価値が宿ると錯覚するのと同じく、名称や文字に特定の概念=意味内容が宿ると思い込むわけであり、「言語の恣意性」は隠蔽されることになるのである。
 
 ちなみに、恣意性は個人的な恣意性ではないことを確認しておく必要がある。私的言語があり得ないのと同様であり、言語は人々に伝わることでその機能を全うするわけであり、名称と特定の概念の結合は人々に共有されていることを前提とする。つまり、言語の恣意性は、言語の社会性を意味する。別の言い方をすれば、社会は自然=物理的世界から区別されている自律世界であることを意味する。システム論でいうと、意味システムと物理システムは、互いに閉じているということである。

 物象化現象に即して考えると、植物や水に心があるというのも、物理的には正しくないが、社会的には正しいこともあり得る。日本社会では一万円札が商品と交換できることを馬鹿にする人がいないのと同様に、植物や水に心があるという命題も、それが信じられている社会共同体では社会的に正しいことになる。このように、自然の摂理を超えた正しさを創造することができる社会の妙理は深淵なのである。そして、人間は、社会世界の住民であり、人間の幸不幸も自然の摂理ではなく、社会の妙理のなかで決定されるのである。社会学は社会の妙理を観察する学問である。 

   関連エントリー
  物象化現象の記述

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by merca | 2009-02-28 18:16 | 理論

言霊が可能となる条件

 生きていること、心を感じること、これは論理的で厳密な概念で書かれた科学的な学術論文を読むよりも、人々には文学・音楽・美術などの芸術のほうが表現しやすく伝えやいのではないだろうか?

 優れた物語、詩歌、音楽、絵画等に触れて、泣いたことはないだろうか? 言葉の中に心を感じたことはないだろうか? 日常的に言うと、他者と会話している時、我々は、その言葉から他者が生きており、心があることを感じているのである。言葉は命と心を運ぶのである。シンガーソングライターの曲に感動し、心が揺さぶられるのは、曲に心を感じ取ることができるからである。このように考えると、言葉に魂が宿るとする言霊信仰は、我々の日常体験から乖離しているわけではなく、むしろ当たり前とさえ言える。非科学的だからおかしいとは言えない。
 
 仏典や聖書や論語が、厳密な論理ではなく、物語や喩え話からなっていることも、重要である。命や心や道徳の本質を伝えるのに、論理ではなく、物語のほうが人々の直感に訴えるからである。生命や道徳や愛を知るためには、倫理学の論文を読むよりも、手塚治虫の火の鳥や夜回り先生やマザーテレサの物語を読んだ方が心に染みいる。

 言葉や言葉から構成された物語の方が、分析的な論理や統計よりも、命や心という捉えどころがないものを直感的に伝えてくる。しかし、これが可能になるためには、人が言葉やその使用方法や文脈を理解することを習得していること、つまり社会化されていることが前提となる。別の言い方をすると、社会によって心がつくられて、はじめて言霊は機能する。社会という心の源によって、はじめて言葉に心は宿る。
 人は言葉に辞書的内容=記号以上のものを感じ取る能力がある。文脈や状況に応じて解釈することができるからである。これは端的に言って社会を前提とするからである。
 
 ある意味、社会は神である。社会が正常に作動している時は、言葉に心が宿り、人々のコミュニケーションはスムーズにいくが、社会が異常を来すと、言葉に心が宿らず、人々のコミュニケーションは障害を来すことになる。また、言葉に心が宿るからこそ、人間は他者とのコミュニケーションで、心を獲得していくのである。

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by merca | 2009-02-15 23:01 | ニセ科学批判批判

人間科学・社会科学からは、脳科学は疑似科学?


 (ハード=形式/ソフト=内容)という区別から、心を観察すると、ハード面は確かに脳科学者がいうように脳神経細胞のネットワークから創発するものかもしれないが、ソフト面は社会的につくられて発生したものである。つまり、思考や論理は言語によって可能となり、価値意識や規範意識は教育によって可能となるし、その他、感情や感覚も家庭での躾が影響してくる。要するに、思考、価値、感情、感覚は社会的につくられる。このことを社会化という。
 心の構造は脳神経細胞のネットワークによって規定されるかもしれないが、心の内容は社会によって規定される。これはごく当たり前のことであり、社会が存立するためには、ある程度、必要なことである。
 さらに重要なことは、自我意識は、社会がなくしては生成しないということである。赤ん坊には感覚・感情レベルの心はあるかもしれないが、自我意識はまだ生成しておらず、自他未分化だとよく言われる。言語を習得してから自我意識が芽生える。一番古い私の記憶と呼べるものは言語を習得しはじめた4歳ころであることからもわかる。言語とは、まさしく社会的なるものなのである。発達心理学的には、感覚、感情、思考、価値観の順番に心が発達していくと考えられる。これは、胎児が卵細胞から細胞分裂を繰り返し、動物の進化の過程をなぞっていくのと同じであり、心も赤ん坊から大人になるまで社会の進化の過程をなぞっていくものと考えられる。赤ん坊が思考を身につけるには、社会=他者とのコミュニケーションが必要なのである。

 社会心理学者ミードによれば、具体的な他者との関係の中で、他者一般なるもの=社会という観念を心に構築化・内面化することで、自我意識が発生すると考えた。心の発達とは、社会化の過程なのである。他者一般に対する自己の反応の仕方も一般化し役割として取得していく。他者一般と自己の反応を調整するために両者を鳥瞰する自我意識=主我も発生することになる。

 社会なくしては心の発生はない。脳が心のハード面をつくり、社会が心のソフト面をつくることになる。ソフト面のない心は無意味であり、空っぽであり、心とは呼べないと考えると、社会が心を創造すると言ったほうが適切である。人間の脳の進化はクロマニヨン人のころからほとんど止まっているらしく、その代わり、人間は社会を進化させて発展してきた。いわゆる、社会進化である。

 脳科学は心の誕生の物理的条件のみを解明するだけであり、その社会的条件を解明していない。物理的条件のみでは心は発生しないことを考えると、心の誕生の解明には、社会学や発達心理学という社会科学や人間科学が必要となるであろう。

 脳科学だけではなく、社会科学や人間科学の知見からしても、植物に心が宿る、水に心が宿ることはあり得ない。植物や水は人間によって躾や教育を受けていないからである。また、人工意識も、人間による教育を受けることができないのなら、自我意識を作り出すことはできず、心にはなり得ない。自然科学の知識だけではなく、人間科学や社会科学の知識からも、ニセ科学批判は可能なのである。

 社会学は、心の源は社会にあることを発見した最初の学問なのである。脳科学者や唯脳論者が神経細胞のネットワークからのみ心は発生すると断言するとしたら、それは人間科学や社会科学がこれまで蓄積してきた知識体系と矛盾しており、偽であり、疑似科学になるのである。


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by merca | 2009-02-15 08:48 | ニセ科学批判批判

反証主義と論証主義の不一致


 科学は、実験と観察で得られたデータをもとに推論を行い、命題の真偽を判断する。この場合、推論には論理や数学が使用される。しかし、科学が使用する論理や数学は必ずしも正しいとは限らない。
 
 論理的推論や数学が現実に適用できないという例として、ゼノンのパラドックスとして有名な「アキレスと亀」をあげておこう。
 亀よりも速く走れるアキレスにハンディを与え、アキレスよりも進んだ時点から亀はスタートして競争し、論理的にはアキレスは永遠に亀に追いつけないという話である。アキレスが亀がいる地点に来た時には、亀はそれよりも先の地点おり、またその地点にアキレスが来た時には亀はそれよりも先の地点に来ており、結局、追い越せないという論理である。この論理は、直線を無限の点から構成されていると考える数学に準拠している。

 さて、「アキレスは亀においつけない。」という命題を「時速100キロで走る車は、時速10キロで走る車に追いつけない」という命題に置き換え、実験してみたらどうだろうか? 実験したら、追いつくことは誰でも直感でわかる。言い換えれば、実験で確かめることはなくても、我々は直感でこの命題が偽であることがわかる。
 実験すると、この命題は反証されたことになるが、論理的には真である。反証では偽であるが、論証では真である。論理や数学で推論することが必ずしも、正しいと限らないわけである。これと同じで、統計的検定という数学=確率論が必ずしも正しい結論を推論することができるとはかぎらない。

 「アキレスは亀においつけない。」という命題の真偽においては、数学的推論よりも、我々の直感の方が正しいのである。運動の本質は、数学では捉えきれない現象であり、直感でのみ観察できるのである。分析的な論理や数学ではなく、全体的な直感でないと捉え損なう現象は他にも多くあると思われる。生命現象や心理現象についても、運動と同じく、数学や論理だけでは捉えきれないと考えられる。

 補足
 ベルグソンは、変化や運動という現象は、論理や数学のような分析的な思考では把握できず、直観によってのみ把握できると考えた。論理や数学のような事物を分割し、推論によって全体を構成する認識方法では、流れる変化や運動の本質をつかみきれないというわけである。
 諸行無常。物質、生命、意識も常に動き変化し、一つの流れと言える。この流れが時間という感覚の本質である。世界は常に流れ=時間である。科学は分析的思考であり、「流れ」を捉えることができないという認識論的限界がある。
 意識は意識内容が不断に流れるからそこ意識であるとすると、科学という分析的思考からつくられた人工意識=機械はやはり永遠に本当の意識足り得ないのではないか?

関連エントリー
 科学的知識とは、一種の推論である。
 
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by merca | 2009-02-11 23:11 | ニセ科学批判批判

メタ認知的ホムンクルス論の落とし穴


 メタ認知的ホムンクルス論と同型の思想は多く見いだされる。つまり、認識主体と対象の区別は一つの存在から生じた仮構であるという思想は多くある。
 独我論、西田哲学、現象学、唯識論、システム論、構造構成主義などは、全てこの考え方に立脚している。
 独我論では、世界には自己しか存在せず、自己が認識しているもの=対象は全て自己がつくりだした妄想であると捉えられている。
 西田哲学では、自他不二の純粋経験から自他の区別が後から生ずると考える。
現象学では、意識の外の存在があるかないかをアポケーし、全てを意識内の現象として捉え、認識主体と対象は意識内のノエシスーノエマ構造に還元する。
 この発想を引き継いだ構造構成主義では、基本的に外部存在の実在性がなくても、科学的認識は成立すると考える。
 仏教の唯識論では、認識の外には実在はなく、自他の分別は八識という根本意識がつくりのだしたものだと捉える。
 システム論では、システムと環境の区別は、システム内部の疑似区別だと考えられる。システムは基本的に自己観察=自己言及しかできない。自他の区別や認識主体と対象の区別は、意識システムが自己を観察するためにつくりだしたコードにしかすぎない。
 
 さらに言うならば、これらの思想は、基本構造は宇宙生命論型の思想と同一である。宇宙生命論とは、一つの宇宙生命(あるいは神=絶対者=自然)が実在し、自他の区別、主客の区別は、そこから生じた現象世界における相対的なものにしかすぎず、全ての存在は宇宙生命を媒介にしてつながっているという思想である。インド哲学や新興宗教の教義にもよく見受けられる。現代では、トランスパーソナル心理学がこの宇宙生命論にあてはまる。

 一つの存在の自己分割として自他の区別あるいは認識主体と対象の区別が生ずるという思想は意外に多く、脳科学における唯脳論は、メタ認知的ホムンクルス論に限らず、この手の思想と同型である。唯脳論においては、自己が認識している対象は実在物ではなく、全て脳がつくりだした幻想だと考えるからである。

 ただし、一者の自己分割の原因を外部存在や他者や物それ自体に求めるか求めないかで、この手の思想も分かれてくる。論理的には、自己分割の原因は結局外部に求めざるを得ないと思われる。そいうい意味では、システム論は、世界そのもの=世界の無限の複雑性という本当の外部世界を想定しており、宇宙生命論型の思想とは異なると考えられる。メタ認知的ホムンクルス論は、全く外部存在を否定しているわけではないと思うが、外部存在との関係性を理論として取り込んでいない。 
 いずれにしろ、意識内に現象化してこない外部存在を想定するかしないかで、変わってくる。脳科学者が脳の外には世界は存在しないと考えるのか、それとも物それ自体のような外部を自己の理論に組み込んでいるのか微妙なところである。外部存在を完全に否定した場合、神秘思想に至る傾向にある。

 認識論においては、認識主体と対象の区別は意識内現象であることは否定できないと思われ、現象学や唯脳論に軍配があがるが、しかし、一つ説明できないことがある。意識の受動性の問題である。
 対象は私が意識内で構成した幻想であるにもかかわらず、私の期待を裏切ることがあるからである。例えば、魅力的な女性が目の前にいて、交際してくれと言っても、断られることはある。つまり、魅力的な女性は自己がつくりだした幻想であるにもかかわらず自己のコントロールがきかない。また、自分の意思とは別に勝手に認識対象は立ち現れては消えてゆく。これは体験的事実である。風景は意識内現象かもしれないが、自分の意思と関係なく、勝手に現象化してくる。クオリアも私の意思とは関係なく、与えられる。つまり、意識は受動的である。この受動性の感覚、自己の思い通りにならないという感覚が、外部世界が存在するというリアリティの根拠となっている。認識の原因は、私の方にあるのではなく、対象の方にあるだと思うのも、この意識の受動性の感覚からくる。意識の受動性の感覚が、自己以外の何かが自己の外にあるということの存在証明となる。「我思う故に我あり」ではなく、「我感じる故に他者あり」である。
 しかし、懐疑主義者は、意識の受動性も自我意識が作り出した幻想であると考えるかもしれない。しかし、そうなると一切が幻想であることなり、(幻想/現実)の区別はかえって寂滅し、一切が現実であると言っても、一切が幻想だと言っても、同義になってしまう。同じく、一切が脳内現象だと言ってしまうと、脳と脳以外のものの区別はなくなり、わざわざ脳だと言う必要がなくなる。唯心論も唯物論も、全てが心だ、全てが物だと言った瞬間、区別を失い、同義になる。あるものを定立するためには、それ以外のものとの区別が必要なのである。

 込み入った哲学論議は久しぶりであるが、脳科学が唯脳論に走らないためには、意識の受動性を根拠に、自己の理論の中に本当の外部や他者をどのように組み込むかが必要だと感じたわけである。茂木氏のメタ認知的ホムンクルス論も、他者や外部を導入しない限り、一つ間違えると、自他不二の宇宙生命論型の思想になり、トランスパーソナル心理学と同じになるのである。
 だが、決して意識に現象化しない他者の痕跡を理論化することは非常に難しい。意識に現象化した途端に、外部は外部でなくなり、他者は他者でなくなるというのは、他者論の哲学者レヴィナスが指摘するとおりであるからである。

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by merca | 2009-02-11 22:18 | 理論

メタ認知的ホムンクルス論の観察


 脳科学者·茂木健一郎は、メタ認知的ホムンクルス論をあみだした。この理論は、脳という物質的存在からいかにして意識=心が発生するのかを説明しようとする知的な冒険である。
 茂木氏は、脳内にある異なる機能を担当する無数の神経細胞のネットワークを鳥瞰するホムンクルスとしての自我意識を前提とすることなしには、クオリアという主観的体験は成立しないと考える。クオリアとは、質感のことであり、我々はそれを体験していることは主観的な事実であり、その立ち現れ方は、必ず私という自我意識を伴うという。
 さらに、茂木氏は、自我意識を担当する神経細胞を説明するために、さらに別の自我意識を想定していくという無限遡及を防ぐために、メタ認知という物の見方を採用する。これは、システム論における自己言及と同じ構造をとる。この点が非常に重要である。
 厳密な意味では、メタ認知的ホムンクルス論でも脳から意識が発生するメカニズムは解明はされていないが、茂木氏によって、その手がかりとなるフレームが構築されたと言ってよい。

 私になりに解釈し、メタ認知的ホムンクルス論の前提を書き出してみた。

1 クオリアは、私という自我意識においてのみ体験化される。
2「我思う故に、我あり」によって自我意識は確実に存在する。
3 主観的体験のみが存在し、客観的事実は主観的体験の中から数量化·記号化して他者と共有できるものだけを抽象化したものにすぎない。
4 全ての認識は、自己言及的であり、外部存在を写し取ったものではなく、自己を認識しているにすぎない。認識主体と外部対象という区別は自己内で生じた疑似区別である。

1については、カントの先験的統覚と同じではないかと思う。一つの体験が私の体験であるという感覚を伴うのが、意識現象の構造である。

2については、デカルトの有名な命題であるが、この命題については解釈は分かれる。私という自我意識の存在は疑えないということであるが、私の成立は他者(あるいは他者一般)との関係性によって生ずるという社会学や心理学の考えもあり、発生論的な問いに還元することができる。脳に自我意識が生ずる原因解明は、もしかしたら社会学や心理学のテレトリーである可能性がある。デカルトの命題に安住する茂木氏は、形而上学に留まっている。茂木氏とっては、デカルトの「我思う故に、我あり」は、「事実それ自体」であって、「説明されるべき事実」ではないと考えている。社会学や心理学のような人間科学では、これは説明されるべき事実として扱われている。

3については、客観的事実が主観的体験の特殊な一部であり、クオリアとしての主観的体験から抽象化して構成されたものであると考える点において、社会構成主義と同一である。主観的な体験から客観的な科学がどのようにして構成されるのか、非常に興味深い点である。私見になるが、近代科学の真理観である真理の対応説=分離型認識論それ自体が、構成されたものであると考えられる。
 ちなみに、構造構成主義は、主観的な体験から客観的な科学がどのようにして構成されるのかを解明している。茂木氏は、構造構成主義を取り入れることで、理論を発展させることができると考えられる。

4については、私が一番興味をもっている点である。自己の内部に疑似的主体と疑似的客体の区別を構成するわけであるが、これは現象学の意識のノエシスーノエマ構造と同じである。また、システム論でいうところのシステムと環境との区別の認識である。
 もう少し具体的に説明しよう。赤いリンゴを認識している時に、赤というクオリアを感じるわけであるが、それは外部対象を認識しているのではなく、脳内に生じた赤いリンゴの像たるクオリアを見ているにすぎない。決して外部対象それ自体を観察しているわけではない。外部に事実それ自体は存在せず、我々は外部世界から刺激を受けて生じた脳内あるいは意識内で構成された現象を観察しているにすぎない。つまり、自己観察し、自己言及しているにすぎない。
 もう少し言うと、外部世界からの刺激を受け、変化した自己の状態を観察しているにすぎない。全ての認識は、自己認識であり、他者は決して知り得ず、不可知である。つまり、他者それ自体は決して現象化しない。レヴィナスの他者論の視点でもある。(この場合、私そのもの=ホムンクルスも現象化しないことに注意)
 システムは、外部世界そのものとの複雑性の落差をシステムと環境というシステム内部の区別として認識する。システムにとって環境とは、疑似外部であって、外部世界からの刺激による自己内部の変化を投影したものである。
 別の言い方をすると、私たちの認識は外部対象を認識しているのではなく、外部対象との関係性を自己の内部に構成し、観察しているのである。
 このようなメタ認知というあり方は、認識主体と対象を完全に分離した構造で観察する従来の科学観と異なる。分離型の認識論は、必ず無限後退のパラドックスに陥る。だから、分離型の認識論(真理の対応説)に立つ限り、自我意識=ホムンクルスの無限後退が生じ、茂木氏の説は成り立たなくなる。そこで、茂木氏は、メタ認知という考え方を導入し、認識主体と対象を同一者の自己分割として捉え、無限後退を回避しようとする。
 
 心=自我意識の発生は社会(他者一般)の発生と同時であるというミード社会学や発達心理学の前提からすると、脳というのは心が生ずる必要条件ではあっても、十分条件ではないと考えられる。
 今後、メタ認知的ホムンクルス論と「社会が心をつくる」という人間科学の命題との絡みを期待したいところである。


 
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by merca | 2009-02-08 18:43 | 理論

反証主義の適用外(技術開発系科学)


 科学の公準の中に反証可能性が含まれる。つまり、反証可能性のない命題で構成されている学説は、科学ではないとされる。科学と非科学を区別する重要なファクターとして、反証可能性は必須のものと考えれている。

 しかし、「命を人工的につくることができる。」「心を人工的につくることができる。」「永久機関をつくることができる。」「タイムマシンをつくることができる。」という命題は、反証可能性をもたない。例えば、ロボット工学者が心のあるロボットをつくる開発実験に失敗したとしても、「心を人工的につくることができる。」という命題が反証されたことにならない。逆に、その後もし成功すると「心を人工的につくることができる。」という命題は、実証されたことになる。さらに、開発が成功し実証された後は、ずっと反証不可能となる。
 科学技術・開発にかかるこの種の可能性命題は、反証可能性を判断することができず、非科学的なのだろうか? そうすると、人工意識や人工生命などの科学技術の開発を目指す科学は、非科学となる。しかし、これは反証主義による(科学/非科学)の選別の限界を示しているのではなかろうか?

 おさらいになるが、「全ての何々は何々である」という全称命題で表すことができる命題にしか反証主義は適用できない。実際にはそれ以外の形式の命題を主張する科学的命題もあるわけであり、反証主義を絶対化したり、反証可能性を科学の必要条件だとするのは、科学の定義としては間違いである。もし反証可能性を科学の必要条件だとすると、「何々をつくることができる」という命題を目的とする技術開発系の科学は全て非科学になってしまう。
 これでは何かおかしく、人々が科学だと思ってきた多くの科学も非科学になっしまう。このように全ての科学を包括できないポパーの反証可能性を科学の基準として採用するのは根本的に誤りではないかと思い出した。
 全称命題を主張する学説も、それ以外の命題を主張する学説も、ともに包括的に捉えるとこができる科学の基準が必要となるであろう。

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by merca | 2009-02-01 14:54 | ニセ科学批判批判

受動意識仮説とニセ科学


 心は、目に見えないので、行動を通して、はたらきとしてしか観察できない。それでは心のはたらきを知・情・意の三つに区分し、観察してみたらどうなるだろうか?
  脳科学が主張する脳にしか心は宿らないという考えは棄却され、機械にも心が生ずる可能性がでてくる。例えば、知の側面では、人工知能はすでに人間とチェスや将棋をすることができる。つまり、一定のルールのもとで人間とコミュニケーションができる。
 
 ロボティクス研究者である前野隆司という科学者は、いずれ、情・意についても開発可能であり、心のあるロボットをつくることができると確信している。この科学者は、茂木健一郎のクオリア論とは一線を画している。前野氏は、心を受動性のもとで捉え、自由意思を否定する。自由意思と思えるのは、環境からの刺激に対する無意識の脳内情報処理過程の結果を後で認識したものにしかすぎないと考え、「受動意識仮説」を唱え、心のはたらきを完全に物質一元論で割り切る。

 実は、ポイントは受動というキーワードである。意識=心は他の存在に動かされた結果で動いているということである。つまり、必然の因果律を想定している。だからこそ、心というはたらきを発生させる脳のメカニズムさえわかれば、心を人工的につくることができると考えるわけである。感情のクオリアも脳の情報処理過程=メカニズムから発生したものであり、作り出すことは原理的に可能だとする。
 
  そこで、少し見えてきたことがある。(能動性=内的動因=自己原因/受動性=外的動因=他者原因)という区別から観察すると、前野氏の理論は明らかに受動性という外的動因説に準拠している。能動的な自ら動く存在を認めると、前野氏の説は全て破綻する。私は生物と物質の根本的区別は、生物が内的動因によって動き、物質が外的動因によって動くと述べたことがあるが、それと同じである。
 ところで、日常の感覚からすると、内的動因、つまり自分から動く存在こそが、生命であり、心であると、私たちは感じているのではないか? 法学、経済学、社会学などの社会科学でも、人々の能動的な自己選択性を理論に取り込んでいる。生きているとは自分から動くことであり、受動的存在は物として扱われている。

 そのような自己原因的存在、他者から見れば偶然性をもたらす存在は、人工的につくることができないのである。永久機関説は疑似科学だと言われている。思うに、永久機関が疑似科学と言われるのは、永久機関が内的動因で動く存在であり、因果律の適用外となり、科学の外にでるからである。
 
 科学は、自ら動くものをつくることができない。もし自ら動くものをつくることができるという自然科学者がいたら。ニセ科学である。心を受動性に準拠したものではなく、能動性に準拠したものと捉え、それが本当の心だと定義すると、心のあるロボットは不可能であり、ニセ科学である。逆に言うと、前野氏のように受動意識仮説を唱えないと、人工意識の開発はニセ科学になるのである。
 さらにこれを拡大解釈すると、自ら動くものを想定し、理論構成する自然科学は全てニセ科学になるのかもしれない。
 
 ちなみに、唯物論者である前野氏は、原始仏教とポストモダンに肯定的な相対主義者であり、相対主義に批判的なニセ科学批判者たちと少し傾向が違うようである。この点、また興味深い。

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by merca | 2009-02-01 00:03 | ニセ科学批判批判