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受動意識仮説とメタ認知的ホムンクルス論

 ロボット工学者の前野隆司の受動意識仮説と脳科学者の茂木健一郎のメタ認知的ホムンクルス論は、ともに脳と心の関係を解明しようとする意欲的な理論である。この二つの仮説を簡単に紹介し、その難点を指摘しておきたい。
 
 まず、受動意識仮説とは、簡単に言うと、知情意、記憶と学習などそれぞれの部門を担当する無意識の脳神経細胞の諸活動のネットワークを受動的に受けとるはたらきが自己意識だとする説である。つまり、自己意識は無意識における脳の各部署の活動を支配するのではなく、各部署の活動の結果だけを観察しているにすぎないとするわけである。従って、いかなる意味においても、自己意識に決定権はない。脳神経細胞の諸活動の相互作用から生じた結果のみを把握するだけであり、自己意識による自由意思と呼ばれるものは、錯覚だと言う訳である。
 リベットの実験にあるように、自己意識の意思決定の前に、すでに脳を含む身体は動いているという。自由意思が先にあって身体が動くと思うのは脳が自己意識のためにつくりだした錯覚であるという。これは、自己意識に能動性を求めない説である。
 さらに、前野氏は、この説に基づいて、自己意識=心のあるロボットをつくることが可能だと考える。自己意識は無個性な機能であり、個性はむしろ脳を構成する脳神経細胞に求められることになる。

 次に、茂木健一郎のメタ認知的ホムンクルス論では、受動意識仮説と反対の立場をとる。心=自己意識は、脳内の各神経細胞の活動を見渡す機能があり、擬似的主体と擬似的客体に自己分裂させ、脳全体の変化を内部観察するというわけである。外界からの刺激を受けて変化する身体を脳が感じ取り、自己意識が認識主体と認識対象という区別を自己の中に能動的に生じさせるという主体的な役割を負う。「我思う故に我あり」というデカルトの自己意識論に近い。
 クオリアが私のクオリアとして体験されるためには、私の同一性を担保する不変更としての自己意識を必要とするわけである。茂木氏の議論は、哲学の世界でも繰り返されてきたように思える。

 両者はともに脳の神経細胞のネットワークから自己意識が発生すると考えるが、その根本的差異は自己意識を能動的存在と捉えるか受動的存在と捉えるかである。茂木氏は自己意識を能動的に捉え、前野氏は受動的に捉えている。
 
 ここで、オートポイエーシス・システム論からの解釈を行いたい。オートポイエーシス・システム論では、自己意識としての心は、意識システムのことをさす。意識システムは脳神経システムとは区別され、互いに閉じている。また、意識システムは、社会システムとも区別され、互いに閉じている。意識システムは、脳神経システムと社会システムの二つのシステムのはたらきを必要としながら、自律したシステムとして記述される。意識システムの生成は、脳神経システムと同じくらい、社会システムを必要とする。自己意識が他者とのコミュニケーションから発生するという社会科学の定説は、意識システムが社会システムを必要とすることを意味している。
 このように一つのシステムが他のシステムのはたらきを必要とすることを構造的カップリングという。脳神経システムの要素は、個々の脳神経細胞であるが、意識システムの要素は、何々は何々である、という個々の思考内容である。思考内容は、社会システムが配給する種々の言語によって可能になることは言うまでもない。脳神経システムだけからは、意識システムの誕生は説明できない理由は、ここにある。
 オートポイエーシス・システム論からすると、全てのシステムは能動的であり、全てのシステムに対して閉じており、自律している。前野氏の受動意識仮説は、自己意識の自律性を認めない点において、システム論と反することになる。
 茂木氏のメタ認知的ホムンクルス論も、脳神経システムの全体を観察するという点においてシステム論と反する。意識システムは、閉じており、他のシステムである脳神経システムを全体的に観察することはできない。互いに影響を与え合うことは可能であるが、他のシステムを鳥瞰し、支配する立場に立つことはできない。
 
 システム論の特徴は、物質的実体ではなく、そのはたらきに着目してシステムを定義することである。従って、いかなるシステムも基本的には物質的根拠に依存せず、ただ要素のはたらきにのみ依存している。脳神経システムや生命体システムも、その要素である細胞が常に新陳代謝しており、究極的に物質的実体に根拠をもつわけでない。システムの同一性の根拠は、特定の物質にあるのではなく、要素と要素の関係の独自性にある。モナド論と似ているのである。

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by merca | 2009-03-22 22:53 | 理論

脳科学では、合理性は錯覚である。

 社会科学では、人間は、物事を目的と手段に分けて合理的に行為すると考えられる。目的を達成するために最短の手段を論理的に計算し、行為を開始する。特に、単純な経済学では、このような意識的で合理的な思考過程の結果、つまり利害計算の結果で人は行為すると考える。
 
 ところが、このような自己意識による合理性は、脳科学からは否定される。
 有名なリベットの科学的実験によれば、人は自由意思で行為しているのではなく、人は意思決定する前にすでに脳を含めた身体が動いているという。自己意識は、脳を含めた身体活動を追認しているだけであり、それを自らが動かしたと錯覚しているだけであるという。
 つまり、時間に対する認知を歪め、意識による自己決定が先であり、身体運動が後であると思い込んでいるだけであるという。
 これを将棋にあてはめれば、棋士がどのように駒を打つか意思決定する前に、手が動き、駒を動かしていることになる。棋士が意識化している思考計算は全て脳による錯覚であることになる。 ところが、当の棋士は、合理的に計算して自己決定した結果、駒をうったと勘違いしている。駒を打つ前に考え込んでいるように見えるのは、実は意識が無意識における脳の神経細胞の諸活動を受動的に受け取っているにすぎない。意識は合理的に思考しているのではない。意識は自己が思考していると錯覚を起こしているのである。
 
 このように脳科学からは、自己意識による人間の合理的選択は、全て錯覚となる。人の行為は、意識化された合理的計算の結果であるという常識は覆されることになる。
 ニセ科学が流行るのは、ビリーバーの思考が合理的でないからという論客もいるが、脳科学からすると、もともと合理性そのものが幻覚にすぎないのである。合理主義を盾に取って、占い、宗教、スピリチュアリズムを批判する科学主義者も、合理性という脳の錯覚に束縛されているだけなのである。

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by merca | 2009-03-22 14:32 | ニセ科学批判批判

ニセ科学批判の善用例

  ニセ科学批判の善用の例として、人工意識の否定をあげておこう。
 「人間は機械で心=自己意識を人工的につくることができる。」という命題を目的とする脳科学者やロボット工学者がいたとしたら、それはニセ科学である。
 方法論は科学的であったとしても、命題に反証可能性もなく、またこれまでの科学的知識とは反するからである。有機体である細胞のみが心の座である脳をつくりだすわけであり、機械は脳の材質にはなり得ないからである。現状の科学では、心は生命体のみがつくりだす領域であり、人間が機械によってつくることはできない。それはこれまで科学が発見してきた自然法則に反している。内的動因で動く存在である心や生命は、永久機関と同様に機械でつくることができない。自ら動かない存在は死んでいるのと同然である。
 科学の公準に反するので、機械で心をつくることができると考えるロボット工学はマッドサイエンスであり、ニセ科学である。無論、水伝のように、水という材質から心がつくられるという理屈も否定される。
 このようにニセ科学批判を使用することで、自然のみが命や心を生み出すことができ、心の問題の本質は科学の領域外であり、科学それ自体の限界を示すことができるわけである。ニセ科学批判によって、人間の尊厳と心の神秘という形而上学や宗教の神聖な領域に科学が侵入することを防ぐことができるのである。


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by merca | 2009-03-22 08:50 | ニセ科学批判批判

ニセ科学批判の善用・悪用


 ニセ科学批判は、科学と同様にそれ自体が目的ではなく、道具にしかすぎない。科学が悪用されると、甚大な被害が人々にもたらされるのと同様に、ニセ科学批判も悪用されると、ニセ科学よりも大きな被害をもたらすおそれがある。もちろん、ニセ科学批判の善用もありうるので、善用は肯定するとして、悪用については批判するということになる。

 (ニセ科学批判の善用)
 ニセ科学批判は、善用すれば、科学の純化とニセ科学の被害防止に役立つことになる。科学の純化とは、科学とそうでないものを明確に区別し、科学のアイデンティティを確立することである。そうすることで、科学の領域と限界が設定され、科学が他の文化領域まで侵犯するのを防ぐことができるわけである。ニセ科学批判には、実は社会の科学化現象による文化破壊を防止する機能がある。(もちろん、その逆もある。)
 ニセ科学批判には、ニセ科学の被害を防止する機能がある。ニセ科学の被害者がどの程度いるのかわからないが、医薬品等のレベルになると、その被害は放っておくことはできないかと思われる。しかし、これについては、科学的知識のない素人が摘発するのではなく、本来は、国家が科学官僚を利用して監視すべきである。

 (ニセ科学批判の悪用)
 ニセ科学批判は悪用されると、魔女狩りとなり、文化破壊につながる。その事例がニセ科学でないものまで批判する場合である。多くのニセ科学批判者は、同時に科学のみが客観的事実を得る最適の手段であるという科学者主義者であるため、科学を名乗らない、占い、宗教、スピリチュアルまでも批判する傾向にあり、社会の他領域の文化の機能を破壊するおそれがある。
 人は、社会にある多様な文化領域を選択・利用し、生活を豊かにしているわけであり、科学以外の価値も必要とする。科学の純化に無頓着なニセ科学批判者ほど怖いものはない。
 次に、ニセ科学批判は、相手にニセ科学のレッテルを張るわけであり、相手の利害を侵害するおそれがある。もしニセ科学批判者が間違っているとすると、レッテルを張られた側は、不利益を受けることになる。ニセ科学批判者が間違った判断で、ある商品をニセ科学だとしてレッテルを張った場合、損害賠償を請求されるおそれがある。
 ニセ科学批判は一部の人間に恣意的に運用されると、文化破壊や他者攻撃の手段として利用され、コントロールが利かなくなるおそれがある。そこで、ニセ科学批判をする者には、一定の倫理観が求められることになる。これは科学者の倫理観と基本的に同じてある。
・ニセ科学批判は、利己的目的ではなく、公共の利益のために使用すること。
・ニセ科学批判によるリスク(自己が間違いである可能性)に伴う責任を自覚すること。
・ニセ科学批判は、科学以外の領域に手をださないこと。

 現状のニセ科学批判者とその周辺者への道徳的信頼は可能か?

・ブログが炎上したり、揶揄・中傷・暴言など、集合的ヒステリー状態に陥っている場合が多く、道徳的に信頼できない状態にあり、現状ではニセ科学批判が悪用されるおそれを捨て去ることができない。
・他者の思想や価値観が間違いであると躊躇なく否定するわけであるが、そこには異なる思想や価値観をもつ他者への配慮を欠いている。
・他者をばっさりと否定できるだけ自分が正しいと思い込んでおり、その正しさは絶対化されている。他者が間違いだと言い切ることができるのは、自己に自信があり、自己は間違わないという絶対主義の現れであり、そのことが科学に担保されていると考えると、完全な科学主義である。
・ニセ科学批判が趣味・嗜癖となっており、自己満足のために無駄な議論を続けているように思われ、公共の利益のためとは思えない。

 ニセ科学批判者にこのような印象を抱くブロガーも数多くおり、ニセ科学批判全体の印象を悪くしており、道徳的に信頼できず、ニセ科学批判が悪用される可能性を拭い捨てることができない。  特に、単にネットで議論に勝つ自己満足のためにニセ科学批判という道具をおもちゃにしている感じを受けてならない。

参考エントリー
ニセ科学批判の恣意的運用の危険性
  

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by merca | 2009-03-15 10:52 | ニセ科学批判批判

ニセ科学批判の原理的誤謬


 ニセ科学批判に対しては、二つのレベルの批判が成立つ。一つは、その概念に含まれる原理的誤謬である。もう一つは、ニセ科学批判の乱用・暴走に伴う批判である。ここでは、原理的誤謬について述べたい。
 ニセ科学批判は、批判対象となる学説・商品・技術等に対して(科学/非科学)という区別に準拠して非科学だと判断し、さらに(装う/装わない)という区別に準拠して装っているという判断をし、ニセ科学というレイベリングを行う。
 問題は、(科学/非科学)と(装う/装わない)という二つの区別は事実判断であるが、それにプラスして(ニセ物/本物)という価値判断が伴っている点である。つまり、ニセ物=非科学を本物=科学のように装うから悪いという道徳的判断が混在しているわけである。ニセ科学批判の対象が批判される根拠は、社会に対する有害性が本質ではなく、ニセ物を本物のように装うことは悪であるという特定の道徳観から来ている。
 さて、ここでニセ物が悪いというのは、どんな場合か考えてみる必要がある。それは一言で言うと、他者に対して本物だと騙す場合だけである。もし仮に他者がニセ物だとわかってニセ物を利用するのなら、ニセ物は有用となる。例えば、義歯は本物を装うニセ物だが、ニセ物だとわかりつつも人々は使用し、本物と同一の機能を発揮する。本物の代わりに機能的に等価なニセ物を人々は利用する。これは悪いことではない。
 また、演劇で王様を演じる役者は、本物の王様を装い、観客を魅了するが、役者は客を騙しているわけではないので、役者は悪ではない。ニセ物が悪になるのは、発信側と受信側の関係性を(騙している/騙していない)という区別から観察し、騙しているという場合のみである。
 
 (科学/非科学)と(装う/装わない)という二つの事実判断からはいかなる道徳的判断も導きだすことはできないにもかかわらず、ニセ科学批判は二つの事実判断からニセ物=悪であるという価値判断をくだしているという誤謬を犯している。
 (科学/非科学)と(装う/装わない)という二つの事実判断に(騙している/騙していない)という区別を適用することでしか道徳判断は導きだせない。
 科学でないものが科学を装う、あるいはニセ物が本物を装うだけでは単純に道徳的非難の対象にはならないにもかかわらず、道徳的に批判可能だとするニセ科学批判は、原理的におかしいのである。

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by merca | 2009-03-14 15:08 | ニセ科学批判批判

(自然/文化)という区別の相対化

 (自然/文化)という区別に、あらゆる論者が準拠し、科学論やニセ科学批判を行っている。言わんとすることは、自然現象と文化現象は異なる世界であり、互いに閉じているということである。例えば、法律や道徳は文化現象であり自然現象を根拠にしてはならず、逆に万有引力の法則や熱量の法則などの物理法則は文化現象を根拠にしてはならないということである。
 水伝が道徳という文化現象の根拠を自然現象に求めるというカテゴリーミスとして批判されるのは、ニセ科学批判たちが(自然/文化)というメタ区別に準拠しているからできる批判である。 
 
 (自然/文化)という区別コードは、肉体と精神、脳と心などの二元コードとも対応している。
ニセ科学批判者も共有するこの区別を脳科学議論に適用すると、自然現象である脳に心の根拠を求めてはならないことになり、脳科学の脳という自然現象が心を生み出したという説は否定されることになる。基本的に脳とは無関係に心は存在することになる。これは、心身二元論である。
 脳科学は、心という人間現象=文化現象を自然現象に求めることで、水伝と同じカテゴリーミスを犯していることになる。脳科学と水伝は同じカテゴリーミスを犯しており、ニセ科学批判の脈絡からは、脳科学のいう脳が心をつくりだすという説はニセ科学となる。
 
 さらにここが重要なところであるが、(自然/文化)という区別は真理観とも対応している。自然現象は真理の対応説の世界であり、文化現象は真理の合意説(共有説)の世界である。真理の対応説とは、対象と認識が一致した命題を真理とする説である。真理の合意説とは、人々が共通にそれが正しいと合意を得たり、共有していたりする考えが真理であるという説である。自然=対応説、文化=合意説となる。
 反社会学講義のパオロ・マッツァリーノ氏や俗流若者論批判者の後藤氏らのように、統計的事実を絶対化して社会を語る論客が増えているが、彼らは全て真理の対応説に準拠している。統計的事実とは、対象を測定するという正しく真理の対応説に準拠しているからである。文化現象や社会現象を自然現象に用いられる真理観で観察するのは、厳密な意味では、カテゴリーミスとなる。
 例えば、民主主義社会や人権と言っても、それは対象として外部に実在するのではなく、人々が合意・共有して正しいと思っている理念にしかすぎない。しいていえば、多くの人がその物語を演じることで仮に現象化するものである。対象は不安定であり、砂上の楼閣のごとくであり、統計で図ることのできるような実体的な対象ではない。社会学者の内藤朝雄氏なども指摘していたと記憶しているが、人権は、人々が共存するための必要的な虚構物語である。柄谷行人も同じようなことを倫理の問題として論じている。
 いずれにしても、人間がつくりだす社会現象や文化現象を真理の対応説に準拠した自然科学的手法で分析することは、水伝が犯しているカテゴリーミスと同一である。

 ところで、(自然/文化)という区別もこれまた絶対的な区別ではなく、別の区別から相対化できるものだと考えると(脱パラドックス化が可能だとすると)、また少し話は違ってくると思われる。今、(自然/文化)という区別自体に疑問を投げかけているネット論客は見当たらない。
 しかし、実は社会構成主義的には、(自然/文化)という区別も社会がつくりだした一つの区別にすぎないと考える。(自然/文化)という区別に準拠しない論者には、私が述べてきた説は通用しない。 多くの科学者やニセ科学批判者は(自然/文化)という区別を遵守しているようであるが、社会現象や文化現象に真理の対応説を適用しようとする統計的事実を絶対化する論者たちは、(自然/文化)というメタ区別に無頓着なのか、あるいは別の区別から相対化=脱パラドックス化しているのか知りたいところである。

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by merca | 2009-03-07 11:20 | 理論