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科学の限界

 自然科学の対象は、(交換可能性/交換不可能性)という区別から観察すると、交換可能性という項に入る。例えば、鉄は磁石にひっつくと言った場合、どの鉄であってもひっつくわけであり、たまたま目の前にあるこの鉄でなくてもよく、交換可能である。
 二個の鉄の原子があった場合、存在としての差異は無視され、鉄一般として記述される。空間的には、異なる二個の存在であるが、取り替え可能である。
 しかし、二個の鉄の原子は似ているが、哲学的には、全く別の存在である。世界に同じ物は、たとえクォークであれ、存在せず、それぞれが唯一である。そのような存在の唯一性=交換不可能性を無視して、科学は対象を記述する。世界は無数の唯一の個物から成立すると考える哲学の立場とは異なる。科学の限界はここにある。存在の唯一性の領域は、科学の対象外である。
 このことを考えれば、人工意識=心をつくることが不可能であるとわかる。なぜなら、心とは、常に誰かの心であり、その人格の唯一性を抜きにしては成立たないからである。科学は個々の人間の心を心一般として観察し、再構成しようとするのである。仮に、ある人物の脳を分析し、その人物の脳と全く同じ神経細胞ネットワークをもつ脳をつくりだしたとしても、二つの脳は別物であり、心も別物である。
 人の心とは、心一般ではなく、常に誰か一人の心であり、存在の唯一性と結合してはじめて本当の心が生ずる。この唯一性を魂あるいは生命という。唯一性は構成されざるものであり、つくられるものではない。魂あるいは生命は、哲学や宗教の領域となる。科学は、心一般を構成することはできるかもしれないが、存在の唯一性としての魂を扱うことができはない。もし仮に脳科学が進歩し、人工意識が可能であったとしても、誕生した人工意識に密かに魂が結合したと考えざるを得なく、完全に科学がつくったとは言えないのである。

 心とは、常に誰かの心であり、その誰かという一つの存在の唯一性を科学はつくることができないのである。これが科学の限界であり、この限界が科学の前提をつくっており、かえって科学も生かされるのである。

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by merca | 2009-05-31 12:58 | ニセ科学批判批判

科学におけるパラドックス命題

 全ての体系は、パラドックス命題を含む。自然科学の体系も例外ではない。自然科学は、因果法則を追求することを目的とし、必然性の相で世界を観察する。つまり、自然界には因果法則が存在しており、それを発見することが自然科学の目的である。
 しかし、例えば「熱すると、水は気体になる。」という自然法則それ自体の原因はない。あるべくしてあるとしか言いようがない。つまり、科学が発見した自然法則・物理法則の存在そのものは無原因である。
 
 ここで、因果法則に自身のコードである(原因/結果)という区別を自己適用すると、決定不能に陥る。「全ての自然現象は因果法則に従う。」という自然科学の根本命題それ自体が因果法則に従うと考えても、従わないと考えても矛盾に陥り、決定不可能になる。
 もし仮に「全ての自然現象は因果法則に従う。」という自然科学の根本命題それ自体が因果法則に従うと考えるなら、因果法則のそのまた因果法則を無限に遡及することになり、究極原因が不確定となり、命題が成立たなくなる。
 一方、もし仮に「全ての自然現象は因果法則に従う。」という自然科学の根本命題が因果法則に従わないと考えるのなら、「全ての自然現象は因果法則に従う。」という自然現象のみが因果法則に従わない例外の現象となり、全てのという定義と矛盾を起こし、成立たなくなる。
 
 このような自己言及のパラドックスを避けるためには、「全ての自然現象は因果法則に従う。」という命題それ自身は、自然現象ではなく、別の領域の現象であると解釈する以外ない。つまり、端的に言うと、「全ての自然現象は因果法則に従う。」という根本命題それ自身は、哲学の領域に属するものである。
 かくして、自然科学は哲学なしには、成立たないのである。その逆ではない。

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by merca | 2009-05-30 23:03 | ニセ科学批判批判

科学は「真理の近似説」に基づく。

 「科学は自然の近似である」という科学観の主張をしたために、ニセ科学批判者の標的になった方がおられるので、少しこの命題について考察してみたい。(自然とは自然科学の対象である。)
 
 この命題が真理の対応説と関係しているのは、明らかである。近似という考えは、科学におけるサンプリング調査と関係してくる。母集団の全てを調査することはできないから、母集団から抽出してきた標本集団を調査し、母集団のあり方を類推することになる。この場合、標本集団は母集団と完全に一致=対応していると断定するのではなく、科学ではあくまでも近似値をとるしか言えない。
 しかし、標本集団を大きくすることで、限りなく母集団に近似していくと考えられるわけである。近似の先には、一致=対応という究極目標があるが、現実には全てを調べることは不可能なので、一致=対応ではなく、近似という言葉を使う訳である。
 
 科学は、一般に「全ての何々は何々である。」という全称命題を追求し、母集団との一致=対応を目標とするわけであるが、この全てがくせ者で調査できないので、部分調査で満足し、一致=対応ではなく、近似という言葉を使用するわけである。
 厳密には、科学は「真理の近似説」をとるが、このように近似説は対応説の一種なのであり、「科学(的知識)は自然の近似であるという」のは、間違いではない。

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by merca | 2009-05-10 15:39 | ニセ科学批判批判

自己意識の輪廻転生論


 自己意識は、睡眠(夢を見ている状態を除く)や気絶した時には存在しないが、覚醒すると立ち現れる。自己意識は、作動と停止を繰り返している。脳神経システムに自己意識を作動させる条件が整うことで、自己意識は立ち上がる。睡眠や気絶している間は、この世=現象世界にその人の自己意識は存在しないことになる。一種の死である。ところが、覚醒すると、その人の自己意識は生じ、この世に立ち現れる。これは一種の生である。かくして、脳を含む肉体という物質的基盤を条件として、自己意識の輪廻転生が成り立つ。
 このように解釈すると、ある限られた条件であるが、自己意識=心の輪廻転生は、普通に考えて正しいことになる。むしろ、科学と矛盾しない。
 
 自己意識の輪廻転生論からすると、もっと重要なことは、心身二元論は正しい結論になることである。つまり、心=自己意識をもたない脳の状態が存在することを認めることになり、自己意識と脳は別物となるからである。睡眠中の脳は、心がない脳であり、心と分離しているのである。別の言い方をすると、睡眠中や気絶状態の時には、心が脳に宿っていないことになる。システム論的には、脳神経システムが意識システムを作動させる条件を整えていない状態が心の死であり、意識システムを作動させている状態が心の生である。
 また、意識システムを作動する条件を人工的に整えることが可能なら、人は心の輪廻を操作することができる。実際、寝る前に目覚まし時計をかけるのは、それである。

 さらに、自己意識の輪廻転生論を認めると、自己意識は連続してないことになり、ベルグソンの純粋持続や所業無常の原理に反し、自己意識は不連続であるという結論になってしまう。睡眠時の意識の停止をもって、意識の連続性を否定することができるのだろうか?
  自己意識は連続していないが、脳神経システムは作動し続けており、睡眠時も心の無意識の部分は作動し続けていると考える立場もありうる。あるいは、生命システムが連続的に作動していることが、脳神経システムの作動と自己意識の輪廻転生そのものの条件であると考えられる。

 睡眠する前と後の意識が自己の連続する意識として同一であるという感覚が存在するためには、記憶の蓄積だけではなく、変化するものの中に変化しない同一性を想定することが必要となる。(記憶は自己意識の同一性を知るための手段であっても、自己意識の同一性そのものではない。)
 究極的には生命体システムの連続的同一性が自己意識の同一性を支えていると解釈できる。簡単に言えば、同じ命ということが自己意識の連続的同一性を支えている。

 脳神経システムを含む生命システムが、(自/他)という区別コードで自己言及した時に、自己意識が発生するのである。生命体システムが別の区別コードで自己言及した時には、自己意識は滅却するのである。


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by merca | 2009-05-08 10:39 | 理論