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社会学の宿命

 いまだかつて社会についての事実が社会を動かしたことはない。歴史を見ればわかる。
 思想や宗教という物語が社会を動かしてきた。ルターの宗教思想や社会契約思想やマルクス主義は、科学的な実証的根拠に基づく事実ではなく、物語にしかすぎないが、そのような物語が社会を動かし、変えてきた。自由と平等という物語が市民革命をもたらし、近代社会の扉を開いた。
 思想家は、実証的根拠なしに、「世の中はかくある」「世の中はかくあるべし」と社会を語り、物語を流布し、人々の間でコミュニケートされていく。この過程が社会を構成する。
 科学的根拠や実証的根拠がないとかという観点から、社会にまつわる物語を生産する社会思想家の口を止めることはできない。多くの人々が願望する物語は受け入れられ、社会的影響力をもつことになる。
 
 今や宮台社会学は、社会学の枠組みを越え、社会思想の域に達している。社会学が単なる学問ではなく、人々から社会思想として観察されてしまうという宿命をもつことを彼はよく心得ている。また、日本社会学の大御所である富永健一が大著「思想としての社会学」を出した。
 そうなのである。社会理論は、常に思想として人々から観察されてしまう宿命にあるのである。この自覚がなしに社会科学は成立たない。俗流若者論批判者である後藤氏などは、社会学の専門的教育を受けていないためか、このことを理解せず、実証性を欠くという視点からのみ宮台社会学を批判している。

 学問ではなく、思想として観察した時、宮台社会学は、マルクス主義以上の魅力があるのである。単なる学問は人々の自我意識を支えないが、思想となれば自我意識を支え、社会を変える機能を持ち出す。
 我々が社会思想に求めるのは、対象と認識が一致した知識=事実ではなく、己の自我意識を支える世界観を提供し、社会をつくりかえる機能を有する力なのである。
  
 宮台氏の「日本の難点」が売れているのは、それが学問的に正しいということではなく、社会思想としての完成度が高いからなのである。 社会学が学問ではなく社会思想として観察される宿命にあることを自覚しながら、社会学の道を歩んでいる社会学者こそが本当の社会学者である。
 
 当ブログのテーマである「社会学を社会学する」であるが、社会学を社会思想として観察することを意味している。

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by merca | 2009-06-28 22:50 | 社会分析

ポストモダン社会は、メタ道徳社会!!

 社会学は近代化を扱う学問であるが、ポストモダン社会とはどんな特徴をもつ社会なのか、宮台真司の著「日本の難点」を手がかりにそれを論じたい。
 
 ポストモダン社会について、様々な特徴を宮台真司は述べている。
 まず、ポストモダン社会とは多くの人が社会の底が抜けていることを知っている社会であるという。つまり、万民に共通な絶対的な真理や善悪の基準は存在し得ず、それらは恣意的に選択され構成された物語にしかすぎないということを、社会の多くの人々が自覚している社会である。
 ちなみに、このような相対主義から、殺人を肯定し、自己の殺人の動機を合理化する脱社会性馬鹿も時折散見される。絶対的真理や善悪の基準がないからと言ってニヒリズム殺人に走るという感覚は、成熟したポストモダン社会と全く無縁であり、かえって近代前期の古典的ニヒリズムの域をでない。
 そうではなく、ポストモダン社会では、底が抜けていると自覚しつつも、底があるかのように振る舞うことが不可欠であるという意識が人々に共有されてくる。このような意識を再帰性という。宮台氏はこれを「普遍主義の不可能性と不可避性」と表現している。
 つまり、全ての前提には絶対的・究極的な根拠はないが、それを意識化した上で、あえて物事を選択し、善悪と真理の物語を構築することが必要であるという意識である。
 全ての前提は恣意的に選択されたものであるから、これからも選択していく他ないという意識である。ただし、選択・構築された物語に底=根拠があるかのように擬制する手段も必要となる。そのツールが科学と民主主義である。
 絶対的な真理の根拠はないが、科学的手続きを得た知識は、一応、信じるに値する知識=真理の烙印を押され、人々が採用する。
 絶対的な正義であるという根拠はないが、民主主義的手続きを得た意見は、一応、受け入れるに値する正当性の烙印を押され、人々が採用する。
 科学と民主主義は、底が抜けた知識や道徳の世界に底があるかのように半ば期待を抱かさせる社会的装置なのである。この擬制装置が機能しないと、ポストモダン社会は回らない。宮台氏は、「民主主義の不可避性と不可能性」という文句でこれを的確に表現している。これは科学についても言えることで、「科学の不可避性と不可能性」が認められる。
 
 絶対的な基準がないから、何でもありの無秩序なニヒリズムに行きつくのではなく、恣意的に選択された前提を自覚・利用し、次の選択の材料としつつ、新たな選択をし続けることで回るのがポストモダン社会である。選択することそのものが道徳化された社会であり、選択しないことも一つの選択として処理される社会である。その意味において、実は、ポストモダン社会の隠されたメタ道徳規範は、自己選択性なのである。
 
 一部のニセ科学批判者のように、ポストモダン社会をニヒリズムや相対主義と勘違いして論じる論客もいるが、ポストモダン社会は自己選択性=自由意思を尊重する極めて洗練されたメタ道徳社会なのである。もう少し平たく言えば、ポストモダン社会は、全ては究極的には無意味だけれども、そのことにとどまらず、相対的な意味をつくるべきだという道徳命題を提唱しているのである。この道徳は、ニヒリズムも一つの選択として自己に取り込む強靭な思想であり、ニーチェの積極的ニヒリズムの論理的誤謬も克服している。

 ポストモダン社会のメタコードは、(選択可能/選択不可能)である。

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by merca | 2009-06-28 11:40 | 社会分析