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意味世界の真理観=限定的な相対主義

 意味世界は、複数の真理が成立つ相対主義の世界であるが、無制限の相対主義ではないことを述べたい。
 例えば、一つの棒があるとする。
科学の立場からは、樫の木の枝であると観察したら、杉の木の枝であることはできない。一つの真理しか成立たないのが自然科学の世界の論理である。
 ところが、意味世界では、一つの対象に対して複数の真理が成立つのである。その棒に対して、ある人は杖であると言い、別のある人は物干竿であると言い、さらに他の人がバットであると言ったとする。棒が杖として、物干竿として、バットとして機能すれば、正しい認識=真理となる。目的に応じて対象物に意味付与することができ、一つの対象に対して複数の真理が存在し得ることになる。
 また、宝くじに当選したという偶然の出来事が起きたとする。「神様が奇跡を起こしてくれた」「日頃のよい行いのためだ」「祈りが通じたからだ」とか多様に意味付与することができる。

 複数の真理が一つの対象について成立つのであるが、無制約ではないことを説明しよう。まず、棒の例でいうと、棒が固くなくすぐに折れるようならバットとして機能しないわけだから、その棒をバットであると観察するのは真理ではないことになる。あるいは、その棒をバットとして誰も使用しないのならバットであるというのは正しくない。
 次に宝くじの例でいうと、宝くじに当選した人が「日頃のよい行いのためだ」と解釈し、お金を福祉に寄付したとすると、社会全体の立場からすると、有益であり、真理となる。反対に霊感商法のように100万円の壷を買って先祖の因縁が断ち切れたと認識している人が自分も壷を他の人に売りつけるようになり、買いたくない人々に強制し金銭的に迷惑をかけるようになると、社会全体の立場からすると、有害であり、非真理となる。
 このように、意味世界における真理の正しさは、対象との一致ではなく、目的に応じた有用性、実践性から判断される。目的に応じて、意味世界の真理は複数存在し、互いに妨げ合わないが、有用性・実践性から判断し、不適切なら、非真理として斥けられ、必ずしも無制限の相対主義にはならないのである。
 

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by merca | 2009-10-25 13:35 | 理論 | Comments(0)

実践理性の領域について

 神の存在や死後の世界などが科学の対象外であることは、ある意味、哲学では常識である。何でも科学の対象となると考える人は、一から哲学を勉強し直す必要がある。

 カント哲学では、理論理性と実践理性を区別し、その適用領域も限定されている。物理世界=経験世界は、理論理性で認識しうる因果法則が定立できる領域であり、それに対して、精神世界・倫理社会は、実践理性で意志することで成立つ領域であり、理論理性=科学の対象外であり、宗教・倫理学の領域だと考えられている。この区別によって、カントは、科学から信仰の領域を守ったとよくいわれている。カントのこの区別は、(自然/文化)、(物理的リアリティ/社会的リアリティ)などに受け継がれている。カントは、近代化による合理化・脱呪術化の流れから宗教やスピリチュアルを守ったのである。
 科学主義者やニセ科学批判者が、科学の立場つまり理論理性から、客観的事実でないとして、宗教やスピリチュアルを批判することは、カント哲学からすれば、実践理性が対象とする領域である精神世界への不当な侵入なのである。
  
 実践理性の領域は、因果図式の適用外であり、目的論・意味論の世界でもある。人間精神や社会の存在は、目的や意味によって構成されているのである。例えば、人間の行為は、目的-手段という図式で理解され、解釈される。同じく、社会も目的-手段という図式=機能主義的分析で観察され、解釈される。
 その意味で、社会学者ルーマンが意識システムや社会システムを意味システムとして観察したことは妥当なのである。意味システムは、物理システムと異なった次元で実在するのである。
 意味システムたる社会を因果図式で観察しようとする社会学者もいるが、当の因果図式そのものが意味システムによって二次的に構成されたものであることを忘れてはならない。人は、目的のために因果図式を手段として利用し、行為するからである。
 社会現象を因果図式で観察しようとする統計的手法は、限定的に慎重に扱わないと、社会の本質を捉え損うことになる。

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by merca | 2009-10-25 12:29 | 理論 | Comments(0)

科学と宗教の対立と共存


 宗教やスピリチュアルやオカルトという精神世界を対象とする思想が、科学の対象である物理的世界について言及する時、科学者は反論することになる。科学の領域を侵したことになるので、科学の存亡にかかわるというのである。
 例えば、万有引力の法則があるにもかかわらず、物体を浮遊させた超能力者がいたら、これまでの物理世界の秩序が破壊されることになる。念力という精神的なパワーが物体の法則に例外をもたらしているわけである。これは許せないと思う訳である。
 科学者やニセ科学批判者が、宗教やオカルトなどを批判するのは、宗教やオカルトが科学の領域を侵害する場合であるというのである。水伝が批判されるのは、物理世界に精神世界(意味世界)の原理を適用しようとするからである。物理世界は、精神世界とは完全に独立した領域を構成しており、互いに不可侵であるというわけである。
 むしろ、精神世界は脳という物理世界がつくりだした幻想であると、科学者なら考えるであろう。つまり、唯物論である。
 
 従って、祈ったら病気が治る、お金が儲かるという類いの新興宗教は、物理世界への影響を含んでおり、科学者の批判の的になる。一方、祈ったら幸福になる、心の癒しにつながる、人生の意味につながる、という類いの既存宗教は、精神世界だけで自己完結しており、科学者の批判の的になることを回避できることになる。幸福感や充実感は個人の主観的事実であり、科学の入る余地がないからである。
 また、祈ったら世の中(幸福な社会が到来する)が変わるというのは、道徳のレベルの話であり、これも科学の対象外となる。例えば、プロテスタントなどは、西洋近代社会をつくりだす素地となった。宗教革命がそれである。社会的事実もこれまたつくられたものであり、自然科学の外にある。
 ちなみに、新興宗教(カルト宗教)と既存宗教を区別する最大の基準は、物質世界の領域を侵しているかいないかによるのである。侵していると新興宗教やカルト宗教となり、侵していない場合は既存宗教となる。

唯心論をとる宗教は、精神世界が物質世界をつくりだしたと考え、科学と闘争となる。
唯物論をとる科学は、物質世界が精神世界をつくりだしたと考え、宗教と闘争となる。

 そこで、社会学(社会システム論)では、社会が精神世界と物質世界の区別をつくりだしたと考え、科学と宗教の二つを止揚しようとする。
 (精神/物質)の区別自体が近代化の結果であると考えるわけである。宗教システムと科学システムへの機能分化・専門分化である。機能とその領域を分化させることで、対立を防ぎ、社会システムのサプシステムとして取り込むのである。

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by merca | 2009-10-20 23:34 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

科学が扱えない領域について

 何でも科学の対象にできると考えている方がおられるので、ここで釘を刺しておきたい。もし森羅万象を科学は対象とすることが可能であると考えるのなら、それこそ科学万能主義と言われるものになってしまう。科学は、自己の限界設定ができてはじめてその意味を獲得する。
 基本的に、反証可能性のない対象については、科学の対象ではない。従って、「神は存在する」や「死後も霊魂は存在する」という反証不可能な命題にかかわる対象については、科学の外にある。神や霊魂は、科学の対象外であり、科学的に扱うこと自体がナンセンスなのである。

 社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないといけないのかという原因はなく、偶然だとしかいいようがない。
 また、なぜ私は奴隷の身分で生まれてきたのだろうかと思う人がいたとする。しかし、その原因はなく、偶然としか言いようがない。この偶然性は、反証不可能であり、科学の扱うべき対象ではない。
 また、熱量の法則や質量保存の法則など、自然科学が発見した法則があるが、その法則自体が存在すること自体は原因がなく、偶然である。
 
 社会や人間は、このような世界の偶然性を未処理のままにしておくことができず、何らかの解釈や物語をつくりだす。それが宗教である。輪廻転生や神の存在である。そして、人間はその物語を生きることで意味を獲得するし、それが多くの人々に共有され、実践されている時、ある種の社会的リアリティが生ずる。例えば、近代の物語である人権も一つの虚構物語であるが、人権があることを前提にして法秩序が成立って社会が回るわけである。
 このように、そもそも物語である宗教に対して、科学が真理の一致説に基づき、物語の内容に関して真偽を判断するのは、はなからおかしいのである。物語に対して物理的リアリティを求めるのはカテゴリーの混同である。
 科学は世界の偶然性を対象とできないし、処理できない。科学は世界の偶然性を対象とした途端に、ニセ科学となり、宗教化してしまうのである。科学が宗教の教義内容の真偽について語ることは本来できないのである。
 
 参考
「社会学入門一歩前」書評
 
★社会学者・若林幹夫の「社会学入門一歩前」を読まれたい。同氏の考えは、社会学の徒がおおよそ共有している見解であり、当エントリーを理解するのに役立つと思われる。自然科学を修めた方にも理解できる良書である。

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by merca | 2009-10-18 22:42 | Comments(0)

ニセ科学批判のニセ科学化現象


 死後の世界は、科学の対象とならない。神や霊魂の存在は科学の対象外である。つまり、特定の宗教の教義内容が正しいかどうかは、科学の対象外である。さらに、道徳内容の正しさも、科学の対象外である。もし科学が自らの対象外の存在について語るならば、科学的ではなくなり、ニセ科学となる。科学が科学の対象外のものについて語りだすと、科学は宗教と機能的に等価となり、科学は途端に宗教化する。
 
 ちなみに、死後の世界について、科学者の態度としては、「私の仕事の専門外なので答えることができない。(お坊さんや神父さんに聞いてみて下さい。)」というのが正しく、「科学の立場からは、死後の世界や霊魂は存在しない。」と答えるのは、不適切である。科学者は、死後の世界という科学の対象外の分野については、語ることはできないわけである。
 にもかかわらず、死後の世界について存在しないと語り、スピリチュアルや宗教や占いを否定しまくる科学者やニセ科学批判者がいる。基本的には、死後の世界の内容については科学の対象外であり、科学の立場や方法からは言及不可能なのである。科学が言及不可能な対象について科学的に分析しようとすることは、ニセ科学に他ならない。死後の世界は、科学的方法によっては観察できず、科学の対象外である。(ちなみに、科学的方法のみが正しいと考える人を科学主義者という。)
 科学者が科学の立場から「キリスト教の教義は正しくない。」「仏教の教義は正しくない。」「神は存在しない。」「輪廻転生は存在しない。」と断定するとしたら、それはニセ科学となるのである。
 ちなみに、宗教社会学が宗教について言及する際は、神や霊魂の存在や教義内容の真偽については対象外とし、社会現象・社会的機能としてのみ宗教を扱う。宗教社会学が社会科学たる所以である。
 科学の対象とならない領域について、科学的事実を根拠にして言及するタイプのニセ科学批判は、それ自体ニセ科学であるので、要注意である。
 ニセ科学の定義に、科学の対象外となる領域を科学的に扱うことを含めることを提案したい。この定義を含めることで、ニセ科学批判の一部がニセ科学となるであろう。さらに、科学主義による文化破壊を阻止できるのである。
 
 昨今のニセ科学批判者たちが科学教だと思われてしまう理由は、科学の対象外についてまで言及しているからである。宗教やスピリチュアルが扱う領域の真理を科学的判断から真偽を吟味することで、かえって自らが宗教化・カルト化し、ニセ科学化しているのである。
 「死後の世界で魂は永遠である。」「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」という二つの言説は、機能的に等価である。科学の立場から「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」という世界観を述べることも、人々の死生観・宗教観として機能してしまうからである。
 「死後の世界はなく、死んだら無に帰す。」と断定する科学主義やそれに基づくニセ科学批判は、宗教としても観察でき、正しく宗教社会学の対象となるのである。
 
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by merca | 2009-10-18 08:54 | ニセ科学批判批判 | Comments(81)

スクールカーストは反学歴主義である。


 計量社会学者・吉川氏の指摘する学歴分断社会が統計的に実証された客観的事実だとしても、若者の価値意識は学歴重視から乖離している。それをもっとも顕著に表しているのは、学校内身分、すなわちスクールカーストである。全体社会の社会階層が学歴によって決定されるものであるにもかかわらず、スクールカーストでは学歴と直結する学力は重要視されない。
 スクールカーストでは、対人関係能力、運動能力、外見的魅力という基準によって身分差が生ずると言われ、学歴につながる学力はスクールカーストの基準ではない。学力が高くても、対人関係の苦手なガリ勉秀才は身分が低い。話が面白くスポーツができるヤンキーの方が、ガリ勉秀才よりも学校内身分は高いのである。しかし、全体社会の中では、ガリ勉秀才の大卒の親の方がヤンキーの中卒・高卒の親よりも、社会階層は上である。また、学校を卒業し、社会に出ると、大卒のガリ勉秀才がヤンキーよりも地位が上になるのである。
 スクールカーストにおいては、友人関係やスポーツやおしゃれが重要であり、学力を重視する学歴社会の価値観とは異なっているのである。スクールカーストを生きる若者は自己の人生を幸福にするのは学歴よりも友達であるという物語をもつことになるのである。

 スクールカーストの価値観を内面化した若者は、学歴を重要視せず、その結果、大学に進学しなくてもよいと考え、大学の進学率が押さえられるのである。さらにいうと、非大卒の親をもつ子が大学に進学しないということにスクールカーストは拍車をかけていると考えられるのである。
 若者の希望格差ではなく、スクールカーストへの過剰適応が大学進学への意欲を削いでいるのである。
 
 社会的現実として学歴社会であるにもかかわらず、当の学校社会における学校内身分では学歴と直結する学力が度外視されているという逆説によって、学歴社会が維持されていくという皮肉な社会現象のメカニズムの解明が急がれるのである。

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by merca | 2009-10-11 22:00 | 社会分析 | Comments(2)

学歴社会悪玉説という負け組の慰め神話

 (大卒/非大卒)という区別コードが社会階層の人員配分を決定するという観察をしている学者がいる。「学歴分断社会」の著者であり、計量社会学者の吉川氏である。吉川氏は、学歴は正規の格差発生装置だというのである。
 しかし、学歴は、終戦から高度経済成長期までは、世代間移動における格差是正装置として機能していたことを忘れてはならない。農村部から都市部へ人口移動が起こり、非高卒・非大卒の親の子が高卒・大卒という学歴を取得していき、社会階層の流動化が生じたことはよく知られている。
 学歴主義は、そもそも生まれと関係なく、個人の才能と努力で一流大学に入れば、高い社会的地位を獲得できるという機会の平等主義が本質である。親と同一の社会階層や職業から移動するための重要な社会装置なのである。学歴が既存の社会階層・社会階級を破壊したのである。
 ところが、吉川氏の説によると、高度経済成長期が終わり、成熟社会期に入ると、学歴が逆に格差発生装置として機能しているというのである。つまり、大卒の親の子が大卒となり、非大卒の親の子が非大卒となる傾向が認められ、格差が拡大し、学歴の世代間移動がなくなり、社会階層が固定化してきているというのである。そして、格差社会の正体は、(大卒/非大卒)という学歴格差であると指摘する。大卒であるかないかで、就職、結婚、年収、趣味、社交の範囲などが決定され、社会階層への所属も決定されることになるのである。吉川氏は、文化的再生産も起きていると考えているようである。また、非大卒の親の子が大学に進学する意欲が低いという点を指摘している。
 実は。この点は一番重要である。人数的には、少子化によって大学への進学は誰にでも開かれており、大卒となる方が社会的にメリットがあると考えると、非大卒の親の子が大学に行かない理由が非常に不可解である。高度経済成長期には、ハビトゥスなどおかまいなしに、親の学歴を越えた学歴を取得するのにあれだけ若者が躍起になったのにである。

 ここで一つの社会解釈を提唱しよう。
 それは、高度経済成長期では「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標が人々を動機付け、受験競争に駆り立ていき、現在の高学歴社会を実現したわけであるが、成熟社会に入ると、どうもこの文化目標にリアリティがなくなり、若者が共有しなくなり、大学進学の意欲が減退しているという解釈である。
 
 学歴社会は社会的現実という認識に立てば、「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標はリアリティがあるはずである。なのに非大卒の親をもつ若者には十分に内面化されておらず、大学進学率は上がらないのである。
 「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標に対して、厳しく批判を加えてきた社会的風潮が背景にある。端的に言うと、学歴社会=道徳的悪という価値観である。学歴社会悪玉説である。

 「学歴だけで人生は決まらない」と豪語し、学歴社会を厳しく批判することが正義であるかのような批評家や教育評論家たちが多くいる。また、漫画・小説・映画・テレビドラマなどでは、学歴社会批判の発言をよく聞き、友達関係や恋愛関係のほうが大切みたいな主張がよくなされてきた。報道番組では、いじめ・不登校の原因として受験戦争を批判する番組が取り上げられてきた。
 実は、これらの学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説の言説は、受験戦争から脱落した「負け組」の非大卒の親にとっては自己の人生を解釈する救済神話として機能しているのである。学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説という神話を非大卒の親と子が価値規範として内面化することで、「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標に魅力を感じることができず、大学進学への意欲が低くなるというわけである。
 
 さらに、学歴社会批判あるいは学歴社会悪玉説という嘘=慰め物語がよけいに学歴社会を温存させるという逆説を見て取れるのである。予言の自己成就と反対である予言の自己消滅という社会現象が起きているのである。

 もし吉川氏のいう学歴分断社会が社会的真理ならば、テレビドラマでよく否定される「いい学校、いい会社、いい結婚、幸福な人生」という文化的目標を絶対化する教育ママのみが、嘘をばらまく教育評論家やマスコミの偽善性を見抜いている社会的賢者なのである。
 
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by merca | 2009-10-11 11:59 | 社会分析 | Comments(0)

ハビトゥスの機能する社会の終焉


 ブルデュー社会学は、社会宿命論の完成体である。社会を必然の相で観察するためには、ブルデューが開発したハビトゥスという社会学概念を使用する他ない。これは、規範や価値観とは異なる社会学の説明原理である。パーソンズやルーマンと全く異なる概念でもって、ブルデューは社会を観察する。
 ハビトゥスは、人々に身体感覚として埋め込まれた習慣である。行為は自由な自己選択によって決定されるのではなく、ハビトゥスによって方向付けられるのである。クラシック音楽を好むのは、上流の社会階層に育った人間に埋め込まれた性向だという。育ちによって好みが異なり、その結果、学校への適応力や職業の好みも異なってくるというのである。
 ハビトゥスが、一人の人間の学習態度、職業、結婚、趣味等を規定するというわけである。さらに、所属する社会階層や民族社会によって、ハビトゥスは異なる。言わば、ハビトゥスは文化的遺伝子である。また、社会的宿業とも言える。例えば、育ちによって親からヤンキーのハビトゥスを植え付けられた子はヤンキーとなり、育ちによって親からおたくの遺伝子を植え付けられた子はおたくとなる。確かに、ヤンキーの子がヤンキーになる社会的確率はかなり高いと言えるし、医者の子が医者になる確率も高いような気がする。
 家族から埋め込まれたハビトゥスによって人生は決定され、そのことで社会階級が文化的に再生産されるというのが、ブルデューの言わんとするところである。さらに、社会階級によって社会分業システムは維持され、社会秩序が保たれるわけである。
 なお、合理的選択理論からすると、ハビトゥスは、選好構造と約すこともできる。選好構造は行為を選択する前から与えられている個人の性質であり、さらに社会階級によって共通している。
 ハビトゥスは、規範のように違反しても罰則はないし、思想や価値観のように意識的なものではない。強いて言うと、好悪の感覚である。ブルデューは、価値規範から社会を説明するのではなく、無意識の身体化された感覚や習慣=ハビトゥスから社会を説明しようとした。

 しかし、これは日本社会に当てはまるだろうか?
  ポストモダン社会では、社会階級あるいは社会階層が消滅していくと言われている。文化的再生産という社会装置が消滅化していくのがポストモダン社会の定義である。偶然性の高い社会内移動が自由である流動的な社会の到来である。昔に比べ、親の社会階層に子供が規定されるという現象=文化的再生産は弱まってきているというデータもある。
 ブルデューのように社会を必然の相で観察する方法が通用しない社会になりつつあるのではと考えられる。武士の子は武士、百姓の子は百姓という時代には適合的であるが、ポストモダン社会では社会的宿業論は通用しなくなっている。
 ブルデュー社会学は、前期近代社会までは有効であるが、社会階層が希薄な社会の観察方法としては不適合である。皮肉なことに、ブルデューの得意とする統計的調査でもって、日本社会における社会階層の希薄化が実証されてきている。社会階層が消滅すればするほど、統計的な調査は、価値が薄れてくるのである。統計調査は社会が固定的で必然な場合のみ有効である。
 社会は必然性に支配されていた前期近代社会から、統計調査を無効化してしまう偶然性に支配されたポストモダン社会=成熟社会に変わったのである。この変化に一番敏感なのが、ルーマンや宮台学派なのである。今やハビトゥスの機能停止の社会となりつつあるのである。 

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by merca | 2009-10-05 22:17 | 社会分析 | Comments(0)