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社会学はコード化された反省的判断力


 カントは、人間の能力を、因果律に支配された世界を認識する悟性(純粋理性)と自由意志の世界を認識する理性(実践理性)に分けた。悟性の対象は現象世界であり、自然科学の領域に対応し、理性の対象は本質(叡智界)であり、道徳学・倫理学の領域が対応するということになる。つまり、事実判断と道徳判断の区別を厳しく線引きしたのである。カントは、道徳判断は、科学の対象外という哲学的根拠を見いだしたわけである。
 さて、しかし、この二つを統合する能力として、カントはさらに判断力という能力を持ち出してくる。判断力とは、主語と述語を結合する能力のことである。判断力は、規定的判断力と反省的判断力に区別できるという。
 規定的判断力は、「これは何々である」という命題で表され、主語たる対象に述語が属性として含まれていることを意味する。つまり、対象に真理が宿るということであり、客観的であり、自然科学の判断は全て規定的判断力ということになる。「この鳥は生物である。」という判断は、規定的判断力の認識結果である。
 反省的判断力は、「これは、何々として見なす」という命題で表され、述語は主語たる対象の属性ではなく、ある目的に応じた役割や機能を意味することになる。「この棒は、武器である」という命題は、「この棒は、武器として見なす」ということであり、主観的であり、価値判断の世界に属することになる。真理性は、対象たる主語ではなく、述語の中に宿ることになる。つまり、主観の目的意思に関係する。
 要するに、判断力は規定的判断力として悟性の領域に関わり、反省的判断力として理性に関わっているのである。
 
 社会学、特にシステム論の思考が反省的判断力に属することは、容易に見て取れる。集団、規範、行為、コミュニケーション等を役割や機能の側面から観察するからである。ただし、一人の主観から観察した役割や機能ではなく、共同主観=多くの人々の共通の観察点から記述した認識であるところが異なるのである。多くの人々の共通の観察点を区別コードという。例えば、コミュニケーションという対象に対して、法システムは(合法/違法)という区別コードに準拠して観察し、経済システムは(支払う/支払われない)という区別コードに準拠して観察することになる。
 社会なるものは、おおよそ規定的判断力ではなく、区別コードによる反省的判断力によってのみ観察できるのである。

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by merca | 2009-11-29 20:10 | 理論

厳罰化による犯罪者保護

 刑罰は、治安維持のためにあるだけではなく、犯罪者の人権を保護するためにも必要である。犯罪に対する罰則は、国家による刑罰によって定められ、それ以外の制裁は不当だと見なされ、犯罪者が余分な人権侵害を受けずに済むことになる。
 犯罪者に対して、人々は、道徳的怒りから、非難・罵倒し、時には石を投げつける等、制裁を加えるおそれがある。また、企業が就職差別をしたり、福祉が生活保護を受けさせなかったりと、犯罪者差別を行い、社会的制裁を加えるおそれがある。さらに、被害者から無制限の報復を受けることも考えられる。
 
 刑罰制度は、そのような無制限の社会的制裁を禁止し、刑罰を終えたら、犯罪者でなくなり、基本的に一般人として扱うというシステムなのである。法治国家では、刑罰を終えた人間に対して犯罪者として制裁を加えることは、いかなる場合においても許されないし、たとえ受刑中でも私的制裁は許されない。
 刑罰やそれにともなう資格制限制度によって、犯罪を犯した人間が犯罪者である期間が定まり、刑期が満了すると、一般人として社会に甦ることになるのである。刑を終えた刑務所出所者に対して、「あいつは犯罪者だから気をつけろ」という発言は、実は人権侵害の差別発言なのである。

 厳罰化すればするほど、犯罪者は罪を償う時間が多くなり、その分、世間からの非公式の社会的非難や差別を受ける機会や理由はなくなるのである。厳罰化は、人々の道徳的暴力や社会的差別から犯罪者を保護する装置なのである。

 刑罰が犯罪者を保護するという機能を無視し、厳罰化イコール被害者の立場と思考するのは短絡的なのである。厳罰化することで利益を得るのは、むしろ犯罪者のほうなのである。

  補足説明
 厳罰化の意味は、自由刑の期間延長化だけでなく、罰金の増額、執行猶予期間の延長化なども含んでいる。つまり、自由刑以外の刑罰の厳罰化も意味している。例えば、執行猶予に社会奉仕命令を付ける等して厳罰化すれば、犯罪者が社会に貢献することで人々の非公式の社会的制裁を緩和する機能を持つことになる。刑罰による保護が自由刑=ムショに入ることだけと取り違える人がいるで釘を刺しておく。
 確かに、刑務所勤務体験のある犯罪学者・浜井浩一氏が指摘するように、ホームレス化した高齢犯罪者が自己の生存権(衣食住)を確保するために好んで刑務所に入るという事実は多く認められるようである。いわゆる、刑務所太郎である。実刑という刑罰は、福祉から差別的に排除されている累犯高齢受刑者を保護する機能はあると言えよう。犯罪者自身が刑罰が自己の利益になると認識して再犯して服役することはあるのである。
 
 ところで、刑罰を受け終えた後の社会的制裁とは、資格制限を除けば、全てインフォーマルなものであり、法システムの外にある。言わば、コミュニケーションシステムの次元において差別を受けることで、犯罪者は雇用システム、福祉システム、親族システム等の各種システムから差別・排除という制裁を受けるのである。例えば、結婚する際に犯罪者だとわかれば、相手の親が結婚を反対することがよくある。これは、親族システムからの差別・排除であり、一種の社会的制裁である。理論的に言うと、近代化により法と道徳が分化し、法はフォーマルな世界に属し、道徳はインフォーマルな世界に属するようになった。道徳的には悪であっても、法律に触れない限り、フォーマルな制裁はできないのである。システム論的には、法と道徳は互いに閉じているのである。
 従って、法と道徳が分化した近代社会では、このような非公式の社会的制裁に対して、法システムは無力である。非公式の社会的制裁はインフォーマルな私的領域の出来事として処理され、フォーマルな公的領域を扱う法の介入はできないからである。犯罪者を雇用しないこと、犯罪者と結婚しないこと、犯罪者と友達にならないことは、組織や個人の私的な自由であり、法的に介入できないからである。法システムに訴えることができないから困るのである。
 犯罪者の非公式の社会的制裁のメタコードは、善悪という道徳コードである。社会学者・北田暁大が指摘するように、道徳コードは、どのような種類のシステムに対しても関わることができる特殊なコードなのである。非公式の社会的制裁は、犯罪者を善悪で判断し、その人格を侮蔑することで、各種システムから差別・排除することになる。
 確かに、非公式の社会的制裁を受けても、善悪以外の別の区別でコミュニケーションを接続させ、非公式の社会的制裁を免れることも可能である。しかし、他者がどのような区別でコミュニケーションをしかけてくるかは他者の自由・偶然であり、いくら犯罪者自身が別の区別でコミュニケーションをしようとしても、無駄なのである。
 社会は究極的に実体なき、創発されたものであるが、みんなが同じ区別でコミュニケーションをしかけてきたら、本当になるのである。つまり、多くの人たち=みんなが善悪の区別に準拠して道徳コミュニケーションを犯罪者にしかけてくることで、犯罪者の人格に悪という性質が内在するかのように実体化してしまうのである。これを物象化という。貨幣に価値が宿るという原理と同じである。
 一人の人間が自由な意思に基づいて好きな区別を選択し、コミュニケーションをしても、多くの人間が共有する区別に圧迫されてしまうのである。それは、自分だけでなく、他者=みんながあってのコミュニケーションだからである。社会学の超人である宮台真司が権力の予期理論を念頭におき、社会学は「みんな」を考える学問であると豪語したことは正しいのである。「みんな」ほど怖いものはないのである。存在論的社会観の根源は、この「みんな」なのである!!
種明かしすると、いわゆる「社会」創発の究極のメタコードは、(みんな/みんなでない)というメタ区別である。
 
 多くの場合、個人の夢=幻想は、共同幻想に負けるのである。個人の夢=幻想を絶対化すると、狂人と化すのである。(実は、そういう立派な方もおられるのである。このエントリーの補足を書くきっかけとなったその方だけは例外であり、崇拝対象となるのである。偉大である。)

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by merca | 2009-11-08 15:13 | 社会分析

「2円で刑務所、5億で執行猶予」書評


 治安悪化神話批判者かつ刑罰信仰批判者の犯罪学者・浜井浩一氏が、新書で面白い本を出した。
 それが、このほど刊行された「2円で刑務所、5億で執行猶予」(光文社新書)である。
 端的に言うと、これはすでに治安悪化神話批判を越えて、司法官僚(裁判官・検察官)及びその思考形態である法学批判である。同氏の人間科学の立場から、法学を非科学的であると批判している。科学を盾にした検察官・裁判官・弁護士という司法エリートに対する技官(人間科学を専攻する官僚)の反乱であるだと思った。
 論理は一貫している。科学の立場から事実判断=科学的事実を重視し、法学の立場である価値判断の世界を嘘だとして批判するという方法である。この事実主義は、ニセ科学批判者や俗流若者論批判者と同一の思考形態をもつ。
 そこで、浜井氏の主張する二つのトピックを取り上げてみたい。

・心から悔い改めさせれば再犯は防げるのか?
キャンベル共同計画(犯罪者処遇の効果を実証的に検証する科学的プロジェクト)では、犯罪被害者の心情を理解することは犯罪者の再犯防止ではなく、再犯促進に向かう可能性があるという。浜井氏の解釈では、犯罪被害者の心情を知ることで犯罪者は自尊心を低下させ、社会適応が阻害されるというのである。
 人間科学によるこの結論は、道徳主義に準拠する法学的思考と真っ向から対立する。検察官や裁判官の道徳的思考からすると、裁判時に加害者は犯罪被害者の心情を理解し、その上で反省心や悔悟心をもつことが求められ、そのことで更生が期待され、量刑が軽くなると考える。ところが、人間科学の立場からは、被害者の心情を理解すること、相手の気持ちを考えること、これらが更生ではなく、再犯促進につながる可能性もあるというのである。
 司法官僚、国民、犯罪被害者は、犯罪者に対しては被害者の気持ちと痛みを理解し、罪悪感をもつべきだと考えるが、それが再犯につながるおそれが科学的事実としてあるのなら、どうすればよいのか迷ってしまうのである。
 人間科学の正しい知識を選択するのか、司法官僚たちの信仰を選択するのか、はたまた国民の価値判断に委ねるのか、それを突きつける議論である。
 道徳的に正しいことが非道徳的な結果を招くというパラドックスが見て取れる。

・刑罰信仰
 このトピックは本書の眼目である。浜井氏は、死刑の犯罪抑止効果を例に出して、刑罰の犯罪抑止効果を否定している。端的にいうと、刑罰の犯罪抑止効果は信仰にしかすぎず、非科学的であるというのである。要するに、刑罰には、治安を維持する効果はないというのである。法学の根幹である罪刑法定主義の否定を意味する。
 もし浜井氏のいうように、刑罰が治安維持に関して無効だというのなら、刑罰のない社会、警察のいない社会、刑務所のない社会を想像してみてはどうだろうか? 果たして安心して国民は暮らせるだろうか?
 浜井氏は、 刑罰の社会的機能の多くを捨象して議論しているため、刑罰無用論に聞こえてしまう。社会学的には、刑罰の社会的機能としては、犯罪抑止機能(一般予防、特別予防)の他にも、紛争処理機能(加害責任の所在を明確化する)、犯罪無効化機能(犯罪者の隔離収容)、応報感情の充足化機能(被害者による報復を禁じる)、社会正義の実現機能などがある。
 科学の立場からは刑罰の犯罪抑止効果は事実ではなく信仰にすぎないとしても、刑罰を廃止すると、やっかいなことになるのである。
 ただ、未成年には原則的に刑罰は適用されず、刑罰に代わるものとして保護処分が科せられる。保護観察と少年院である。未成年は刑罰のない世界に置かれている。しかし、少年にとっては、保護観察と少年院は刑罰と同じ意識で受けとめられているのである。悪いことをしたら少年院に行くという意識と、悪いことをしたら刑務所に入るというのは身柄拘束を伴う罰則としては同じである。保護処分の機能は、刑罰と同じであると考えられる。少年院に入りたくないからこれ以上悪いことをしないという非行少年はいるであろう。
 
 ともあれ、同著は、べき論としての司法の領域に科学が侵入している事例である。べき論たる道徳判断の司法の世界は、科学の対象外であり、科学的根拠で持って司法の正当性を判断することは本来カテゴリーの混同である。科学の対象外の領域について科学の立場からその正当性を判断しようとする浜井氏の犯罪学は、このままではニセ科学化するおそれがたかいのである。

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by merca | 2009-11-08 10:32 | 社会分析