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「社会の社会」を読むために「思想としての社会学」を読む

 ルーマン社会学の集大成として、「社会のXX」というシリーズがある。「社会の宗教」、「社会の科学」、「社会の経済」、「社会の法」、「社会の教育」などである。そして、その集大成が「社会の社会」である。
 名前が奇妙に感じられるかもしれないが、社会科学と社会学の関係を考えることで、この表題の謎が解ける。
 そのことについては、ルーマンに並ぶ社会学者である富永健一著「思想としての社会学」における「社会の社会」への論評で解明されている。「社会の社会」を読む前に、是非、「思想としての社会学」を読むことをおすすめする。
 富永健一は、広義の社会と狭義の社会を区別し、社会科学における社会学の独自領域を明確にしたことで有名であるが、私なりの表現に変えて説明すると、次のようになる。

広義の社会
人間がつくりだした全てのもの。法律、経済、宗教、教育、科学、芸術などである。自然と対比して、文化と呼ばれる領域であり、自然科学のような方法では認識できない領域であり、経済学や法律学などの各種社会科学や文化科学の対象となる。

狭義の社会
(みんな/みんなでない)というメタコードに準拠したコミュニケーションを要素 とするシステムである。抽象的には、ルーマンのいう相互行為(システム)、組織体(システム)、社会(システム)を指す。具体的には、国家、国民社会、組織、家族、地域社会、社会階層、仲間集団などを考えることができ、これらが社会学独自の対象となる。
 
 つまり、 ルーマンの「社会の社会」は、「(広義の)社会の(狭義の)社会」となる。例えば、そうなると、無論、「社会の経済」は経済システムの記述であり、「社会の法」は法システムの記述となる。

 社会学の「社会」は何を指しているのか明らかになった。単に人間がつくった全てのものではなく、コミュニケーションを要素とするシステムである。やはり、社会システム論は社会学の王道なのである。

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by merca | 2010-01-30 11:36 | 理論

世界社会と国民社会の区別・・・結論

 国民社会を全体社会として見なすか、世界社会を全体社会として見なすかは、見なすことによって自己言及的に決定される。つまり、両者が実体として最初から存在するのではなく、連接していくコミュニケーションを観察するセカンドオーダーの観察者によってその都度規定される。
 簡単に言うと、国民社会を創発するか、世界社会を創発するかは、その都度の生成消滅するコミュニケーションの流れに委ねられる。
 従って、国民社会と世界社会は互いに絶対的に排斥する関係にはない。ある時は、人々のコミュニケーションは国民社会を創発し、別の時は人々のコミュニケーションは世界社会を創発しているという具合にである。これが実際であり、創発の妙理である。
 学コミュニケーションをしている時は、真偽の区別に準拠しており、国民社会の国境など関係なく、真理について語り合うことになる。これは、学システムの次元において世界社会を創発していることになる。しかし、投票行動や選挙活動をしている時は、人々は国民社会を創発していることになる。
 このように無限にある区別の中から一つの区別を他者と相互選択し、瞬時に一つの世界=社会をつくりだすことができるのである。参入とは生成、離脱とは消滅を意味し、生成即消滅の自由自在の境地に達するのである。区別によって三千大世界は生ずるのである。
 一つの区別を実体視し執着することを煩悩と呼ぶのである。一つの区別を実体視することから脱却するためには、区別そのものを否定し同一性=無我の境地=ニヒリズムに至るのではなく、別の区別を用いるべし。この点、再参入の区別の論理は、ニーチェの単なるニヒリズムや相対主義を凌駕しているのである。

 参考・・・ルーマンな人たち
「ポストヒューマンの魔術師」はいずこに いずこに・・・。興味ある方は検索すべし。
 しかし、「ポストヒューマンの魔術師」よりも、偉大な先人=狂人がおられるのである。
ルーマンカルト同盟は怖いのである。(エクルス)
山人のみが真人である。
ニセ科学批判者のブロガーたちは上の人たちを知っているかな・・・。
                    
  論宅の独り言
             (わかる人は社会学玄論のツーです。)

 
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by merca | 2010-01-18 22:28 | 理論

世界社会と国民社会の区別


 ルーマンやボルツは、全体社会を国民社会ではなく、世界社会と考えているようである。全体社会とは、自給自足的で包括的な社会の単位である。この点、デュルケームやパソーンズなどと区別しておく必要がある。グローバリゼーションを考えるまでもなく、社会をコミュニケーションの総体として捉える立場からは、それは必然的な論理的帰結となる。
 また、ボルツが指摘するように、距離が離れているかどうかに関係なく、いつでも連絡さえつけばコミュニケーションは接続可能となる。世界社会を考えるポイントとして、(連絡可能/連絡不可能)という区別は大きい。
 確かに階層分化が優位な時代では、階層分化の範囲は国民社会や民族社会の範囲と重なり、国民社会が単位となると考えられるが、高度に機能分化した社会では国民社会の範囲を超えてくる。
 例えば、経済システムは、(支払う/支払わない)というコードで創発するコミュニケーションであるが、そのようなコミュニケーションは国民社会を越えている。市場は国民社会を越えている。
 
 しかし、近代化は、国民国家が誕生し、国民社会の内部で生ずるというのが常識である。機能分化も、国民社会の内部における分化から始まったはずである。法、政治、経済、教育、医療、福祉などの社会各部門がゲゼルシャフト組織によって合理的に機能遂行されるようになった。やはり国民社会や国民社会の代表機関である国家という単位がなければ、近代化は不可能であったと言わざるを得ない。小林よしのりがその点に敏感であり、国民社会及び国家とそれを支える神話を絶対化しようとしている。
 今、学者や知識人による格差社会論が流行っているが、これも日本社会という国民社会を対象として論じている。学問的に「社会」を論ずる場合、多くは国民社会のことを指している。例えば、湯浅氏の反貧困論についても、日本社会という国民社会単位での話であり、アジア・アフリカ諸国の貧困と比べられば、日本が貧困であるとは到底言えなくなる。湯浅氏の反貧困の盲点は、(国民社会である/国民社会でない)という区別である。これについては、以前、別のエントリーで取り上げた。小林よしのりから湯浅氏に至るまで、国民社会という単位に準拠し、自己の思想を形成しているのである。
 以上のように、社会とは、究極的には世界社会であるというルーマンの理論、思想は特異であり、微妙である。もとより、ルーマンが提示した各機能システムのコードには、(国民社会である/国民社会でない)を前提にするという縛りはない。議論する際に、我々が暗黙に前提にしているにすぎない。社会学を社会学する際に、その社会学者や思想家の理論や思想を(世界社会/国民社会) という区別で観察してみよう。議論のすれ違いを観察できるに違いない。

 参考
 ボルツのポストモダン社会論は、ポストモダン化が進むと、全体社会が国民社会から世界社会に移行するというふうに読み取れる。国民社会内部での機能分化した各システムが国民社会という枠をはみ出でくるということを意味していると考えられる。国民社会の消滅=ポストモダン社会という解釈は面白い。柄谷行人の帝国主義論や世界共和国論と対峙させたい。

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by merca | 2010-01-17 10:26 | 理論

反社会学講座による読者コントロール

 反社会学講座による読者コントロールのトリックを暴きたい。

・自己の提示した統計の解釈イコール客観的的事実だと思わせ、常識・俗説を批判する。
しかし、社会調査法の専門家から見れば、粗雑で間違っている。自らは調査はせず、引用だけですましていることから明らかである。仮説を実証するためには、自らが定めた項目で調査する事項も出てくるがそれがない。
 最初に統計はこうだと主張し、最初の主張で常識・俗説を批判し、その流れから厳密な社会調査をせずに、自己の主張を通そうとする。最初が正しければ、後も正しいという人間心理における認知不協和の理論を巧みに使用した読者コントロールである。

・批判からの自己防衛のために、本当の社会学者からは批判されないという防波線をはる。批判してくるのは学者崩れであると主張する。
 このような予防線をはることにより、社会科学を研究する教授や大学院生が批判すると、自己の値打ちが下がると思わせ、本格的な学術的な批判を受けることから免れている。
 パオロ氏が自信を持って本当に正しいことを述べているのなら、このような卑屈な防破戦をはる必要はなく、議論することで真理に近づくという学問の道を閉ざす必要もない。やはり議論による批判を避けるという点において、はなから学問でない証拠であるし、学問的な真理を述べているわけではないことになる。

・常識・俗説を批判する意外性でひきつける。
 常識・俗説を批判することは痛快・意外であり、読者の関心を引くことになる。また、常識・俗説を批判するだけで、大勢に流されず、冷静に思考を重ねた結果であり、これは真理ではないかと人々は思ってしまうものである。特に、知的な人はこれにひっかかりやすい。俺は騙されないと思う知的な人間をひっかける高等戦術である。

・少し知的な人たちの大衆蔑視による知的優越感の充足
 社会学者を批判するとともに、同時に学説に騙されている大衆も蔑視するという構造がある。パオロ氏の言説に賛同することで、社会学者を侮蔑するとともに、大衆に対する知的優越感を得ることができるわけである。知的優越感の充足が読者の魅力となっている。お前ら大衆は学者に騙されているが、俺は真実を知っているという知的優越感が、反社会学講座の本質である。


 反社会学講座は、内容が正しく真実であるかどうかよりも、内容を正しく見せかけ、多くの読者を獲得することが目的なのである。要するに、読者コントロールによって引用した統計や資料を利用して自己の言説を社会科学的事実だと思い込ませるニセ社会科学なのである。本当に社会科学ならば批判に予防線をはるという卑屈な心理作戦はとらないのである。この点、ニセ科学批判されているが、批判にオープンな水伝よりもたちが悪いのである。
 
 ルーマン社会学からすると、学問のコードである(真/偽)で読者が観察してしまっているのである。本来、反社会学講座は、(真/偽)のコードで観察するのではなく、(面白い/面白くない)というエンターティメントとして観察すべきなのである。しかし、読者を(真/偽)のコードで観察させてしまう社会心理学的トリックを故意に使用することで、読者をコントロールしているのである。
 パオロ氏は、読者が(真/偽)のコードで反社会学講座を読んでいるということ自体を観察し、自身の知的優越感の充足を図っているものと考えられる。多くのブロガーよ!! あさましき自我の餌食になることなかれ!!

 結論
・反社会学講座を批判しない者は、反社会学講座の読者コントロールに洗脳されているのである。
・反社会学講座は、社会心理学者や広告心理学者からの攻撃に弱いと考えられる。しかし、このことを指摘した論客はあまりいない。


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by merca | 2010-01-11 12:12 | 社会分析

公設派遣村が貧困の自己責任論を実証する。

 湯浅氏の派遣村構想を受け、国家が公設派遣村を開設したが、やはりよい結果をだしているとは言いがたい。生活費、就職活動費、交通費にあてるべき援助金を飲酒やギャンブルや煙草に使用した人たちが出てきたり、援助金をもらうと約200人が一斉に行方不明になったりしたらしい。また、あるニュース番組で見たが、職安に行っても、就職を選り好みする人物もおり、順調に職を見つけて住込み就労できた人がほとんどいないという。
 確かに入所者の一部にはまじめな方もいると思うが、約200人が行方不明になったという事実は、到底、統計上無視はできず、それが免罪符になるわけではない。従って、もしまじめな一部の入所者へのインタビューでもって、自己責任説を回避しようとする学者やプロガーがいたら、詭弁にしかすぎないと釘をさしておきたい。

 社会学的にいうと、その根本原因は、ホームレス化の自己責任説に準拠したシステム設計をしなかったことにある。湯浅氏の抱く幻想である社会責任説に基づき、性善説的な援助をしたことに問題がある。貧困は社会や環境のせいであり、個人の自己責任でないというドグマにとらわれた結果、現実が見えなくなり、迷走してしまっているのである。
 私は、「貧固・犯罪の自己責任論は正しい」というエントリーで、自己責任論を排除する湯浅氏や湯浅氏を妄信する多くのブロガーたちを批判しておいたが、正しく今回の公設派遣村の失態はそれを科学的に実証するものとなった。
 いくら生活保護や就労対策で衣食住や就労を確保しても、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己責任に帰着する自己問題要因を解消しないと、これらの問題が再発し、再度、貧困に陥るのである。自己問題要因が貧困をつくったのであり、不況や失業はそのきっかけ要因や補助因にしかすぎない。
 自己問題要因解消の指導をせずに、甘えた支援だけをするのでは、税金の無駄遣いであり、国民の道徳的憤慨を誘発するであろう。
 
 もうそろそろ貧困の自己責任説が正しいという現実にブロガーたちは目をむけるべき時期なのである。湯浅氏の説に幻惑され、自己責任説が正しいと思っている大衆を侮蔑し、あざ笑うかのごとく批判してきた多くのブロガーたちは本当にみとっもないのである。
 常識的見解=俗説を批判している知識人を見ると、その意外性から何か正しいことを言っていると心理的錯覚を起こし、妄信するという病理現象はよくおこる。例えば、反社会学講座もその類いであり、常識・俗説批判による幻惑効果によって読者をひきつけているのである。常識批判効果を利用した言説には注意しなければならない。

 公設派遣村に若者が増えているようであるが、援助すべき対象かどうか疑わしいと思う。宿泊するところがないのが前提であるが、実は故郷に実家があったりするのではないか? 単に親と喧嘩したり親から借金をしたりするなど、親に迷惑をかけて家族のもとに帰れないだけの話であり、親に頭をさげれば税金を使わずとも家族のもとに寝泊まりできるのではないかと思う。頭をさげるという能力が欠如しているプライドの高い若者たちの自己責任であり、我々の国税で面倒をみる必要はないのである。いずれこの点についても、マスコミは敏感に察知するであろう。この記事を見ている記者は、そういう観点で取材してみると、真実を知るであろう。

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貧固・犯罪の自己責任論は正しい
  


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by merca | 2010-01-11 09:04 | 社会分析