<   2010年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。ブクマ編!!

「ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。」というエントリーを書いたら、はてブで多くの反応があった。いつもと同じような方もいるが、中には参考になるブックマークもあったので、列挙しておきたい。

「arakik10 議論の体をなしていない挑発的エントリを書くとublftboあたり起点でイナゴのようなネガコメでブクマが伸びるサンプルとしてクリップ」
 
 ブロガーレベルで最高のニセ科学批判の水準を誇るTAKESANさんに、あらきけいすけさんは、つっこみをいれていたと記憶する。ブクマでは、 TAKESANさんの世話になっているので、なんとも言いがたい。
ちなみに、TAKESANさんと天羽さんのニセ科学批判は、異なる。ニセ科学批判の範囲について、天羽さんが自然科学に限定するのに対して、TAKESANさんは社会科学も含めようとする。

damae 「「ニセ科学」と言い出したのは菊池誠ではない」http://shibuken.seesaa.net/article/104100509.html/菊池さんと天羽さん、あと左巻さんあたりを見ただけでもだいぶ芸風に差があると思うが。

 ニセ科学という言葉は最初から存在したかもれしないが、ニセ科学批判の実質的意味を確立させたのは、やはり菊池さんでしょう。

「mfigure ニセ科学, 参考, 思想, 批判, 興味深い, 疑似科学 生半可な意識で批判するとシンパに潰されるのか。批判記事を書こうかどうか迷っていたが、あぶないあぶない。/この記事の内容についてはさらに調査が必要だな。 」
 
 安易なニセ科学批判は怒られます。正しいニセ科学批判は、科学的真理が唯一であるのと同様に、一つの正しいニセ科学批判しかないと考えているからです。

「quix_que ニセ科学批判批判, これはひどい, 陰謀論 いやぁきくまこ先生ってそんなに教条主義的だっけ?おおよそその対極にいる人だと思うが。そりゃ末端には教条主義的なニセ科学批判者もいるかもしれないけど、それを見て全体がそうだと思うのって視野狭窄もいいとこ」

 そうかやはり正当・主流が菊池さんで、末端が存在するのか。正統派と異端末端がいるということを教えてくれてありがとうございます。

「 y-mat2006 ニセ科学批判批判 自分の論敵は結託してるように見えるの法則/社会的影響力がなさそうだったら、言及するだけ時間の無駄なのかも。 」

 論宅こと私の影響力は、私を非難してくれるニセ科学批判者によって支えられています。社会学で言う予言の自己成就ですね。

「NATROM 安易なニセ科学批判を批判したら、「自分たちの論理に合わない発言を異端視し排除する」。安易なニセ科学批判をスルーしたら、それはそれで、「身内に甘い。相互批判が出来ておらずカルト的」だとか言いそうだ。 」

 正しいニセ科学批判は一つしかないという発想をとるなら、そのような考え方になる。このコメントは、正しいニセ科学批判は、科学的真理と同じく、一つしかないから議論で一つに絞る必要があるという発想が根底にある。はなから根底に置いて菊池教授による一つの正しいニセ科学批判でまとまっているのなら、相互批判も必要ない。異なるニセ科学批判が共存している状態を想定できないところに、NATROM氏に深く根付く典型的な科学的絶対主義が認められる。

「steam_heart ニセ科学批判を社会現象とするなら、セカンドオーダーからの視点で言うべき。ポストモダンの社会学としては半端。 」

 残念ながら、セカンドオーダーの観察をすると、具体例を提示しないメタでかたずけられてしまうので、あまり効果はありません。一度やってみて下さい。必ずはてブでスターになります!!

「nue-nubata 考え方, ニセ科学 ニセ科学批判ったって一枚岩ではないです。『水に言葉を投げかけると~』に対する批判ですら、『とにかく実験すべき』派と『物理的におかしい』派と『キレイな結晶とは何か』派がいたりします。(他にもいます)」

 この方の意見は一番価値がある。確か水伝については、菊池教授は「反証実験すべき派」を批判し、これまでの科学的知識から判断して水伝は科学的事実ではないと批判していると記憶している。反証実験すべき派は今はどうなっているか知りたい。水伝について反証実験すべき派は、ニセ科学批判者として登録抹消されたのでしょうか? 菊池教授に反対する反証実験すべき派について知っている人がおればコメントが欲しいです。

 補足
 あらきけいすけさんからクレームのトラックバックがありました。ニセ科学批判をしているということで、その部分は事実誤認のなので削減しました。ただ、TAKESANさんと論敵かどうかは、私の解釈のレベルなので、事実誤認とは性質が異なりますので、削減しようかどうかと迷いました。しかし、本人が熱くなっており、気分を害されているようなので、余分な摩擦をさけるために削減しましまた。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
[PR]
by merca | 2010-02-12 21:09 | Comments(0)

ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない。

 ニセ科学批判批判に対して、ニセ科学批判者を一般化して論じるなという方がよくいるが、これはニセ科学批判にも色々なかたちがあるということを前提にしての反論である。
 しかし、実際はどうだろうか? 確かに、多様なニセ科学批判が乱立している状況ならそうもいえるだろう。残念ながら現実は全く違っているのである。
 
 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。
 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。
 
 まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学批判者はほとんどいない。菊池教授のブログ「キクログ」という聖地があり、多くのニセ科学批判者が集い、語り合う。サブリーダーたち=常連たちがおり、その下にあまたのニセ科学批判に同調したブロガーやコメント屋がいる。
 興味深いことに、もし自分たちの論理に合わない発言をしたら、攻撃をくらい、訂正しないのなら、ニセ科学批判者から閉め出され、異端視され、ニセ科学批判批判者としてレッテルを貼られる。
 例えば、安易なニセ科学批判を自己のブログですると、サブリーダーたちからの襲撃をくらい、異端者のレッテルを貼られ、正規のニセ科学批判者のグループからはじき出される。
 そのようなかたちで、当初、ニセ科学批判に賛同していたブロガーが、自己の説の自由性・個別性を否定され、ニセ科学批判批判者へと変貌していくのである。ニセ科学批判は誰にも開かれた思想ではあり得ないのである。異端派のニセ科学批判者は、いずれニセ科学批判批判者となるのである。

 ニセ科学批判は、宗教組織と同じであり、教義は一つであり、それは菊池教授のニセ科学批判思想である。従って、菊池教授のニセ科学批判思想をニセ科学批判として一般化することが可能なのである。ニセ科学批判の個別性・多様性は存在しない。
 質的な社会調査法の考え方を応用するのなら、ニセ科学批判者としてその典型である菊池教授のニセ科学批判思想を代表事例として調査するだけで、ニセ科学批判を知るためには十分なのである。菊池教授のニセ科学批判思想に対立するニセ科学批判者はいない。ダメなニセ科学批判=異端としてニセのニセ科学批判者として排斥されるからである。

 ニセ科学批判に多様性・自由性がないのは、自分たちの方法と異なるニセ科学批判を排斥し、教祖の思想に同調し、画一化しているからであり、ニセ科学批判者そのものの責任である。そもそも、私のようなニセ科学批判批判者にその責任を押し付けるのはお門違いである。
 外から見たら、一つの教義に見えるのである。新興宗教にはまる若者が自身の立場を認識できないと同じである。早く気づいて欲しい。

 補足説明
 ここでいう多様性とは枝葉末節のレベレでなく、根本的な部分に関わる多様性である。要するに、科学と非科学を区別する基準、つまり科学観についての相違である。科学観において菊池教授と決定的な相違があるニセ科学批判者がいないということである。科学的事実は一つであるという根本的な信念を共有しているため、正しいニセ科学批判も唯一であるという結論となり、議論による排斥がおこるのが、ニセ科学批判の宿命である。




 参考・・・意見する自由がない体験談です。

Commented by ニセ科学批判引退者 at 2009-04-02 15:46 x
以前書き込みしたことがありますが
名前を変わってますので
ご了承お願いしたいと思います。

ニセ科学批判の悪用についてですが

ニセ科学批判の中心にいる人に
ト学会系のトンデモウォッチャーは多いですよね。
以前からここに問題があると思ってるんですが。

ト学会ファンの人たちはト学会ファンであるかぎり
つねに自分はつねに正しい側にいるという態度を
とり続けなければいけなくなりますね。
でもこれは無理が生じる気がします。
ト学会的な傾向は自分の中で矛盾が生まれ
他者との間には軋轢を生む。
ト学会ファンは永遠に自分をごまかして
生きなきゃいけないんじゃないでしょうかね。

ニセ科学批判者たちが批判される側にまわったときに
みせるあの異常なまでのヒステリックな反応は
面白いなと思います。

Commented by ニセ科学批判引退者 at 2009-04-02 16:03 x
ニセ科学批判のサイトは見ることがないので最近
はどうだか知りませんが以前と変わってないので
しょうね。

以前見てるとニセ科学批判には意見することがもう
出来ない状態でした。

意見したところでそこでまた
議論ごっこ論破ごっこがはじまるだけで
不毛な議論に永遠つきあわされることになります。

ニセ科学批判者たちが謙虚に
外部からの声に耳を傾ける姿勢があればと
と思いますが難しいんですよね。

私はニセ科学批判者たちの態度を見て
むしろニセ問題の根深さを感じます。
ミイラとりがミイラですね。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
    
[PR]
by merca | 2010-02-11 17:21 | ニセ科学批判批判 | Comments(6)

宗教が処理する領域=世界の根源的偶然性

 宗教は、物理世界や社会世界を対象とするのてばなく、世界の根源的偶然性を対象とする。この領域は決して科学の対象にはならない。

当ブログ「科学で扱えない領域について」より抜粋 
 「社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないといけないのかという原因はなく、偶然だとしかいいようがない。
 また、なぜ私は奴隷の身分で生まれてきたのだろうかと思う人がいたとする。しかし、その原因はなく、偶然としか言いようがない。この偶然性は、反証不可能であり、科学の扱うべき対象ではない。
 また、熱量の法則や質量保存の法則など、自然科学が発見した法則があるが、その法則自体が存在すること自体は原因がなく、偶然である。
 社会や人間は、このような世界の偶然性を未処理のままにしておくことができず、何らかの解釈や物語をつくりだす。それが宗教である。輪廻転生や神の存在である。

 スピリチュアルも占いも、この世界の根源的偶然性を処理するために物語をつくることが役目となる。世界の根源的偶然性を処理する社会的装置を宗教(スピリチュアル、占いも含む)と呼ぶのなら、宗教はなくならない。病気の科学的(医学的)説明の他に、人はたまたまなぜ私だけが病気になったのかという説明を求める。宗教が提供する物語(神が与えた宿命、自己の前世の因縁等)によって処理し、無害化する。
 
 ポイントは、この場合、科学的説明と宗教的説明は、なんら矛盾しないことである。というのも、一つの出来事に対する別の側面を対象としているからである。科学は「いかにして」という説明に答え、宗教は「なぜ」という説明に答えているからである。病気になった人は、医学的治療を受け続けつつも、宗教によって提供された物語で癒されるのである。問題は、この二つの真理を対立的に捉えたり、一方を優れているとする未熟な思考である。
 
 おそらく、スピリチュアルを批判するニセ科学批判者は、一つの出来事に二つの問い方があることを理解できず、スピリチュアルの真理をインチキ=嘘と呼んでいるのである。スピリチュアルが世界の根源的偶然性を適切に処理し、癒しをもたらす限り、有害にはならないのである。何度もいうが、世界の根源的偶然性については真偽のコードからは観察不可能なのであり、そもそもインチキだと見なすのは、カテゴリーの混同である。
 もし有害だとしたら、宗教の領域を科学的に判断する場合と、科学の領域を宗教的に判断する場合である。江原氏の発言を見る限り、科学を否定していないどころか、病気治療には医学が必要であるというなど、科学を肯定している。非常に寛容であり、すみ分けができており、成熟した思考である。
 
 むしろ宗教の領域を科学的に判断して真偽の区別をつけようとするニセ科学批判者の方が有害かもしれないのである。医学的治療も受けつつも、神仏に祈っている不治の病の人に対して、祈りで病気が治るというのは科学的事実でないからやめろと言うのと同じである。あるいは、不治の病になった人に病気が治るように祈願して与えたお守りを踏みつけるのと同じ行為である。祈ることが励みとなり、治療意欲が湧いている患者に対して、マイナスの効果になるのである。

    参考
 自然科学はいかにしてを説明するが、なぜを説明することはできないのである。ちなみに、人間の行為については、「なぜ」=「動機」から説明することは可能である。社会学は社会的行為を扱うために、なぜについては目的-手段で解釈し、社会を解明する。外からではなく、対象に動機を直接問うことができる社会学は自然科学よりも、真理到達については優遇されているのである。ある意味、はなから対象と認識が一体となった状態からスタートできるからである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2010-02-07 22:07 | ニセ科学批判批判 | Comments(43)