<   2010年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

貧富格差の自己責任説=自業自得説は、科学的である。


 貧富格差の自己責任論は、極めて科学的である。というのも、自己の行為という原因によって自己の地位という結果が決定されるわけであり、因果図式をとるからである。
 受験勉強をしたという行為が、東大合格という結果をもたらす。東大生が就職活動をしたという行為が一流企業就職という結果をもたらし、裕福になる。勉強してよい大学に入るという行為は、裕福な生活という結果をもたらす。また、野球の練習をするという行為で野球がうまくなり、プロ野球選手となって裕福になる。正しく、自己の努力や才能という自己要因が自己選択を経て富を生み出す。
 反対に、勉強をさぼったという行為が高校進学を不可能にするという結果を生み出し、就職の幅をせばめ、正社員になれず、貧困になる。犯罪を犯すという行為が免職につながり、貧乏になる。酒浸り・借金・ギャンブルという行為で、失業し、貧乏になる。

 特定の社会において、一定の行為=原因が一定の社会的地位=結果をもたらすことを分析するのが、社会学の役割である。また、因果図式で解釈するわけでもあり、科学的である。

 それに比べて、貧富格差は社会に原因があるという思想は、極めて非科学的である。個人の行為とその結果を捨象し、たまたまあなたが貧困なのは、あなたの努力や才能を認めない社会が悪いわけであり、社会を変えるべきだと考える。つまり、貧困を偶然の産物だと捉える。反貧困論も含めて、全ての貧困の社会責任説は、究極的にはこの社会的生の根源的偶然性=所属社会の自己選択不可能性に正当性の根拠を帰着させることになる。偶然性は科学の対象外であるわけであり、要するに非科学的である。

 また、この単純さが、人々をひきつけることになる。社会=悪、自己=善という考えは、いかにもシンプルであり、自身が傷つくことはないからである。これまでの自己の選択と行為を分析することになしに、自己の貧困の原因を社会のせいにすることは容易いし、楽なのである。自己の選択と行為がもたらす結果を観察すれば、社会学的・科学的にならなざるを得ないのである。この社会では、どんな選択が支持され、どんな行為が評価されるのか、観察し、実践することなしに、単に悪い社会を変えるべきであるという短絡的な思想に飛びつくことは容易い。
 会社が倒産し、失業している人も、所詮、自己責任である。倒産をしない大企業や公務員に就職できず、倒産しそうな中小企業や派遣会社にしか就職できなかったことは自己責任である。
 
 社会学的に観察を進めると、自己の現在の社会的地位が、一定の社会における自己の選択・行為の当然の結果であるとわかるものである。


人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-05-29 23:27 | 社会分析

反貧困思想は、努力主義を否定する。

 貧困の原因は社会にあると考える反貧困思想からすると、当然のごとく、富裕の原因も社会にあることになる。つまり、貧富格差は、社会に原因があり、貧困も富裕も、自己責任ではないというのである。
 一流企業の役員、医者、高級官僚たち、タレント、スポーツ選手など、これらの高給の人々は、みんな自己の努力の結果ではなく、たまたま社会の恩恵にあずかって裕福な生活をしているだけということになる。自己選択に基づく自己の努力の結果によって裕福になったわけではないことになる。反貧困思想からすると、必死に勉強して東大に入り裁判官や医者になった青年も、下積み生活を忍しんで成功した漫才師も、日々の激しい練習に耐えて技術を磨いてきたプロ野球選手も、みんな本人の努力の結果で、裕福になったわけではないことになる。
 
 貧困の社会的原因のみならず、裕福の社会的原因も分析して、はじめて貧富格差の社会原因説は完成する。反貧困思想が、社会科学的に富裕の社会的原因を精緻に分析しているとは思えない。
 それはともかく、貧富格差を、自己責任ではなく、社会責任に求める理論は、全て努力主義的価値観と衝突する。自分の為した行為の結果が自分の社会的地位を決定するということがないのなら(要するに努力しても社会的に報われないのなら)、努力は不必要となるからである。

 個人の才能、勤勉、努力と貧富格差が無関係であるという説は、次のような社会哲学的前提に基礎付けられている。それは、たまたま生まれ落ちた社会がある特定の才能、勤勉、努力が生み出す成果を高く評価する社会であるからだという考えである。例えば、野球のない社会では、野球が出来ても裕福にはなれないわけだから、ブロ野球選手は単に野球のある社会の恩恵によって裕福になっているだけの話なのである。また、未開社会に生まれたら、いくら頭がよくても腕力がないと獲物をとることができず餓死するわけであり、腕力のない学者が高給を得ることができるのは、現代社会のシステムの恩恵に授かっているだけである。
 このように、生まれ落ちた社会の価値基準によって、貧富格差が決定されるわけである。つまり、人間は生まれてくる社会を自己選択できないという意味において、個々人の貧富格差(社会的資源の差別的分配)は自己責任ではないというのである。これを社会的生の根源的偶然性と呼ぼう。
 そして、社会的生の根源的偶然性=所属社会の自己選択不可能性は、人々に一定の不条理観を与えることになる。その結果、社会を悪とし、社会を変革しなければならないと考えだす。それが社会思想である。マルクス主義や反貧困思想もその一つにしかすぎない。社会思想は、社会的生の根源的偶然性が生み出す不条理を解消する社会変革計画を打ち出すことで、不条理を強いられる人々を解放しようとする。

 確かに、貧富の格差は、社会哲学的には根源的に偶然であり、自己選択性や自己責任とは無関係であるように見えるが、社会学的には自己選択性や自己責任として観察するほうが科学的であることを次の記事で述べたいと思う。
 つまり、貧富格差の社会原因説をとるよりも、貧富の差の自己原因説をとるほうが、明らかに社会学的、科学的であることを論証したい。
 浅学のブロガーたちは、貧富格差の社会原因の探求こそが社会学の役割だと勘違いしているようである。実は、事態は全く逆であり、貧富格差の自己責任論・自己原因論こそが社会学の立場であることを明かそうと思う。

 ひとまず、ここでは、反貧困思想が努力主義を否定する思想であることを確認しておくこととする。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-05-29 22:25 | 社会分析

いじめの処方箋としての相対主義

 何か全体=関係がまず一次的に存在しており、その後から要素としての各項が二次的に存在するという考え方がある。これを関係主義、あるいは関係の第一次性と呼ぶ。
 関係主義的社会観においては、行為あるいはコミュニケーションはあらかじめ全体的関係の中で規定されており、選択の自由はないものとなり、社会病理に至る。社会学者内藤朝雄のいじめ理論は、この立場から分析している。
 
 いじめは、仲間集団のノリという全体的な場の雰囲気から逸脱しないために創発されたコミュニケーションシステムであり、場に参加する個々の成員の独自の自己選択性は、逸脱による制裁を恐れて、大きな制限を受けることになる。そのために、個々の参加者にいじめの自己責任感覚はない。
 制裁を予期し参加者の自由な自己選択性を制限することで、(いじめる/いじめない)というコードに準拠したコミュニケーションしか連接させないわけである。そこで、自由な自己選択性を制限するシステム作動条件の粉砕こそがいじめの問題への対応策となる。なので、内藤氏は、いじめシステムの作動条件である、中間集団全体主義というマクロ社会環境にメスを入れる。
 
 何が言いたかったというと、自己選択性を制限する要因=システム作動条件として、他者一般(仲間)からの制裁と報酬の予期が各個人の価値観とは関係なく、機能することで、集団秩序が発生するということである。パーソンズなどは、各個人が所有する共通の価値規範によって、秩序が発生すると考えたが、それがなくても秩序は発生するのである。
 いじめ集団に参加する個々人は、いじめ反対の価値観=「人をいじめるのは嫌だ」をもっていても、集合的制裁を恐れて、いじめ集団に加担するわけであり、集団秩序発生は個々人の価値観とは全く関係ないことになる。つまり、異なる価値規範を所有している人間どうしでも、共通の制裁と報酬の予期構造を共有することで、秩序は発生する。言い換えれば、個々人の実現可能な選択肢が、制裁と報酬の予期構造によって制限されることで、集団秩序が発生するのである。少なくとも、これは、理論社会学的には論証できなくても、臨床社会学的には、実証できる事実である。
 
 価値規範の共有ではなく、予期の構造の共有こそが、システム維持=秩序発生の源ではないかと考えるわけである。従って、人権道徳教育で個々人の価値規範を変革しても、いじめはなくならない。なぜなら、いじめは、個々人の内面化している価値観や道徳観念とは別次元で生ずる集団社会現象であるからである。
 
 いじめ集団特有の「制裁と報酬の予期構造」を破壊することで、いじめ秩序は崩壊するのである。いじめ撲滅は、集団破壊と同じなのである。

 確かに、仏教的にいうと、一切の存在は関係の中にあり、関係なしにはあり得ない。しかし、一つの限定された関係に閉じ込められ、異なる他の関係を選択できないところ問題がある。仏教の無常の公理からは、関係それ自体も無常であり、変化していくはずである。
 関係の制限性=関係の実体化を否定する関係の自己選択性こそがキーワードになるであろう。関係そのものも空なのであり、関係項を離れて実体化できる絶対的関係=全体者はない。一つの関係(社会観)を絶対化、実体化、固定化することで、社会病理現象は発生する。
 
 子供とっては、仲間集団が世界の全てとなり、絶対化、全体化してしまっているのである。もっと他の世界を生きることができることを示し、関係を相対化することが必要なのである。相対主義はいじめの処方箋になるのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
 
[PR]
by merca | 2010-05-15 09:53 | 理論

意味システムと生命システムの本質的差異

 意味システム論では、原理的にベルグソン的な連続的変化つまり持続は存在しない。意味システムの変化は、常に断続的であり、区切りがある。社会システムにおけるコミュニケーションの連接には、区切りが必ずあり、断続的である。また、意識システムにおいても、一つの思考から別の思考にうつるという区切りがあるし、睡眠によって停止することで区切られる。
 
 一方、生命システムは、連続的に変化し、持続するわけであり、即、停止は死を意味する。意識システムも社会システムも、作動と停止を断続的に繰り返すが、それが可能なのは、意識システムの究極的な作動条件である生命システムが連続的に持続しているからである。(意味システム/生命システム)の区別は、(断続/連続)のメタ区別に準拠しているわけである。
 
 オートポイエーシスシステム論は、連続性を本質とする生命体を記述する理論として始まったが、意味システムのように断続的な現象をどのように捉えるのか、これは大きな課題である。
 今のところ、連続性システムと断続性システムの統合については、弁証法的な考え方を利用するしかない。つまり、システム論に弁証法を組み入れることで、この難点を克服できないかと考えるわけである。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
 
[PR]
by merca | 2010-05-09 17:45 | 理論

作動一元論批判 システム論に伴う論難

 システムは作動している時のみ、実在し、停止している時は、消滅する。そして、作動と停止を繰り返す。意識システムにあてはめると、これはわかりやすい。起きている時は作動し、睡眠している時は停止する。社会システムも、コミュニケーションが連接している間は作動しているが、コミュニケーションが途絶えると停止し、消滅する。
 問題は、停止しいてる時も完全無に帰したと断ずることはできないことである。むしろ、停止中こそポイントである。停止中の周囲の状況こそが次の作動の条件をつくるからである。停止中にシステム作動条件が確保されていないと、システムは作動しない。例えば、生命システムと脳神経システムが作動している条件でのみ、意識システムは、作動と停止を繰り返すことが可能となる。また、社会システムは、複数の意識システムが作動しているという条件でのみ、作動と停止が可能となる。
 
作動と停止の区別があって、はじめてシステムは真実在する。このことは、作動一元論=創発論的社会観の欠点と限界をしめしている。
ルーマンのシステム論は、作動一元論であると批判されることがよくある。つまり、システムが創発された時のみ、システムたりうるという考えである。しかし、作動一元論だけでは、社会現象の拘束性・規則性は説明できない。作動一元論だけでは、社会は完全な偶然性としてしか観察できず、社会現象の拘束性・規則性=蓋然性は観察できない。
 
 実は、選択という概念に、この問題を解く鍵がある。コミュニケーションは相互選択である。他者からの情報を理解する際に、多くの観察コードから一つの観察コードを選択して理解し、コミュニケーションを連接させていく。選択された観察コードは顕在化し、選択されなかったコードは温存される。システムが作動すると、選択されなかった状態と選択された状態の区別が生ずることになる。何を選択するかは偶然ではあるが、実は選択肢の数が限定されていることが、社会の規則性・拘束性の起源である。
 つまり、意識システムが所有する選択コードの数は限定されているのである。もっと簡単に言えば、個人が所有する概念や価値観は限られているのである。限られた選択肢から、個人は行為を選択し、他者に対してコミュニケートし、他者も限られた選択肢から理解してコミュケートし返すのである。自他が共有している限定された選択肢こそが、社会の規則性・拘束性をもたらし、秩序を生成するのである。この限定された選択肢は、共同主観と呼ばれるものである。無限の選択肢は神のみがもつが、社会的人間には有限な選択肢しか与えられていないのである。ただ、限定された範囲での選択肢から、どの選択肢を選択するかは、自由であり、偶然である。必然の中の偶然こそが蓋然性と呼ばれる事態なのである。

 作動一元論からは、選択肢の温存という発想は出てこない。むしろ、作動が可能になるのは、停止中に可能態として選択に必要な選択肢が温存されているという条件である。社会システムが停止中に、複数の意識システムに選択肢が所有されていないと、そもそも社会システムの起動はありえないのである。作動は停止を前提とし、停止は作動を前提としているのである。

 コミュニケーションが何でもありになり、予期理論だけでは、社会秩序の生成を説明することができないというシステム論に対する論難は、意識システムに所有されているゼマンティクが限定されていることで説明がつくのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
[PR]
by merca | 2010-05-08 10:54 | 理論