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映画「告白」にみる若者の脱社会性感覚

 底の抜けた成熟社会に入ると、善悪の絶対的基準はなく、殺人をしてもいいという虚無主義的かつ懐疑主義的な文化が蔓延りだす。宮台真司の言葉を借り、脱社会性文化とでも呼んでおこう。
 そのような文化的潮流に位置する一つの映画が公開された。(映画そのものは殺人を奨励しているわけでないが、テーマは脱社会性現象を扱っている)
  湊かなえ原作、中島哲也監督の「告白」である。
 娘を生徒に殺された女教師が、少年法に守られた犯人生徒に復讐をするという話である。殺人の動機は、肥大化した己の自尊心を満たすことや自身の寂しさである。つまり、単なるエゴイズムから殺人をするわけである。少年法に守られて、死刑にならないことを盾にとり、どんな殺人もできるみたいなところを描いている。少年は、己の自尊心を満たすことのみが中心であり、殺人に対して何ら罪悪感はなく、良心装置が全く埋め込まれていない。殺人をしたら、自己の道徳的値打ちが下がるという罪悪感がない。殺人をした自分を責める意識は全くない。殺人鬼としてクラスからいじめられるが、クラスメイトによる集合的制裁も全く通用しない。
 
 道徳的観点からは、犯人の少年は利己主義的な悪の怪物である。「善悪の基準は存在しないので、自己の自尊心を満たすために殺人をしてもかまわない」という思想、つまり脱社会性文化の根幹を体現している。ちなみに、この思想の流れに位置するものとして、バトルロワイヤルという映画もあったと記憶している。命の大切さを教えて殺人防止を図ろうとするまじめな言葉のみの道徳教育は、一部の若者たちが所有する脱社会性感覚によって、ダサイものとされ、簡単に挫かれてしまうのである。
 
 社会学予言者・宮台真司のみが、底の抜けた成熟社会に蔓延する脱社会性という新種のニヒリズムに若者たちが感染していることに気づき、社会に警鐘を鳴らしていた。
 一方、少年の凶悪犯罪減少という統計的根拠を盾に、治安悪化神話社会批判論者や俗流若者論批判者などによって、宮台の脱社会性論は、若者を怪物化する虚構物語として批判を受けている。
 しかし、社会学的には、少年の凶悪犯罪が統計的に減少しているという数字の問題ではなく、成熟社会を生きる若者たちの一部が当時簡単にサカキバラ事件等に共感した事実のほうが重要であろう。
 例えば、NHKのしゃべり場などて、堂々と殺人をしてもいいと豪語する知的な若者たちが現れたりした。殺人をしてもいいという価値観を公の場で明言することができる感覚はすでにおかしい。私は潜在的殺人鬼であると、国民の前でいうことができるのは大変恥ずかしいことである。世間の視線を内面化しておらず、脱社会性思想の持ち主なのであり、裁判員には不適当である。
 いずれにしろ、治安悪化神話社会批判論者や俗流若者論批判者などは、この新種のニヒリズムが発生したことに気づかず、統計的数字と犯罪事実のみにとらわれ、社会病理現象の本質を観察できなかったのである。
 
「善悪の基準は存在しないので、自己の自尊心を満たすために殺人をしてもかまわない」という思想=脱社会性感覚と、それを流布してしまう映画、文学、漫画がサブカルチャーとして社会に根付きつつあるのである。
 刑罰を恐れて損得勘定から殺人や犯罪はしないが、殺人をしてもいいという価値観をもっている若者は統計上増えているかもしれない。犯罪統計のみに気を奪われて、犯罪統計にあがってこない若者の潜在的な価値観を観察し損なっているのである。殺人の件数は減っていても、潜在的殺人鬼の数は増えているかもしれないのである。映画「告白」が15歳未満禁止の映画になっているのは、脱社会性感覚が若者に感染しないようにする規制として機能するのである。

 裁判員制度が発足し、全国民が道徳的判断ができる裁判員となることができるために、国家によって刑事司法制度などの法教育が中・高生に実施されることになる。
 しかし、「善悪の基準は存在しないので、自己の自尊心を満たすために殺人をしてもかまわない」という思想=脱社会性感覚をもつ者が、裁判員になることを国民は許していいのだろうか?

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by merca | 2010-06-27 17:27 | 社会分析

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 浜井浩一や安原女史などの治安悪化神話批判論者たちは、統計上は犯罪が減少していることを根拠に、世間にはびこる治安悪化論をマスコミや評論家等がつくりあげた虚像として断罪してきた。そして、多くのブロガーたちは、世間の常識を覆す治安悪化神話批判論者の言説に追従した。
 同じように、統計的事実を根拠に、世間にはびこる貧困社会論及び雇用不安社会論をマスコミや学者がつくりあげてきた虚像として批判する理論が登場した!! 
 それが、人事コンサルタントの海老原嗣生氏による「若者はかわいそう論」のウソ データで暴く「雇用不安」の正体、という書である。
 端的に言うと、同書は、貧困社会論批判、雇用不安社会論批判の書である。また、加えていうと、俗流若者論批判批判の書でもある。

 同書では、統計的根拠に基づき、若者の焦点を絞り、貧困社会論にまつわる通説をことごとく否定する。
 若者の就職難はウソである。大企業の求人も減っていないし、中小企業の求人は非常に多いという。からくりは、大学進学率の増加によって大学生の数=母数が増加し、学生たちが中小企業の求人を拒否し、大企業の求人に殺到することにあるという。椅子取りゲームの椅子ではなく、椅子取りゲームの参加人数に原因があり、競争倍率を吟味することなく、殺到する若者たちの就職意識に問題があるわけである。湯浅氏の反貧困論はここで破綻する。これは、大企業への就職競争に殺到する若者たちの自己責任なのである。中小企業を選択すると、椅子取りゲームにはならないのである。椅子取りゲームは社会から強制されているのではなく、プライドの高い若者の自己選択の結果、つまり自己責任である。また、20代の前半の正社員が激減しているというのも、学生アルバイトの増加を考慮しない虚像なのである。職業の選り好みという若者の自己責任要因によって、就職難の体感意識が形成されていると考えられるのである。

 貧困社会論、つまり日本が貧困になった、貧困格差が拡大したというのもウソである。OECDの貧困率(平均所得以下の世帯の割合)については、高齢者世帯の増加が考慮されていないわけであり、貧困率をもって貧困格差が広がったと言い辛い。全体世帯の7%弱の非正規社員が増加して貧困率があがったのは、ウソである。つまり、ワーキングプアが増加して日本社会が貧困になったというのは、マスコミがつくったウソである。
 市民活動家、マスコミ、ブロガー、政党が貧困社会論や格差社会論を煽り、人々に日本は貧困化しているとの意識を植え付けたのである。その結果、国民の一億総中流意識もなくなってきたのである。これは、もはや貧困論におけるモラルパニックである。日本が貧困化してきているという貧困社会論は世間の常識となったのである。

 海老原氏の貧困社会論批判は、広い射程をもつ。一つには、貧困社会論の大御所である反貧困論の虚構を暴いた点があげられる。椅子取りゲームの前提は崩れた。椅子取りゲームになるような雇用情勢は、大企業就職を希望する若者のプライドの高さによる自己選択の結果である。雨宮氏などのワーキングプア論も一部の現象であり、全体の貧困率とはあまり関係がないことが実証された。
 もう一つは、社会から若者がバッシングされているという「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判も虚像であったことがわかった点である。少なくとも雇用面では排除されているわけではないことになる。排除されるのは、ひきこもり系の対人折衝の苦手な若者たちであり、それ以外の大多数の若者は排除されていない。「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判などに共鳴する若者たちは、おそらく自らが不登校やひきこもり体験をもつなど、一部の内向的な若者たちであり、そのイデオロギーに基づくものと考えられる。あたかも全ての種類の若者が社会全体からバッシングされていると虚像をつくりあげる後藤氏の俗流若者論批判には注意しておこう。若者の雇用不安とひきこもり系若者の雇用不安は区別されるべきなのである。

 ともあれ、貧困社会論、若者はかわいそう論(俗流若者批判等)などは、同書によってニセ社会問題であることがわかった。高齢化社会問題、学歴社会問題こそが、隠された本当の社会問題だと思う次第である。

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by merca | 2010-06-19 15:26 | 社会分析

資本の運用が貧富の差をつくる。

 資本は、収入や財産などの経済資本、学歴や資格や教養などの文化資本、人脈や社会的信頼などの社会(関係)資本の三種類に分けることができる。一般に、これらの資本が多いほど、豊かな社会生活を送ることができる。経済資本、文化資本、社会資本は、それぞれ互いに変換性をもつ。お金があれば、塾に通うことができ、高学歴という文化資本に変換できる。また、高学歴で医者や弁護士などに就職すると、高収入という経済資本を得ることができる。また、社会資本が多ければ、商売でも人脈を使用し、顧客を得ることができ、儲かることになり、経済資本を蓄積できる。
 
 これらの資本は、社会階層ごとに不平等に分配されており、下層ほど資本が少ないということになる。例えば、病気で失業しても、資本を多く所有する上層の人たちは、失業期間は貯蓄でまかない、最新の治療を受けて病気を治し、人脈と学歴を使用してすぐに就職ができ、豊かな生活を送ることができる。
 ところが、資本が少ない下層の人たちは、病気で失業すると、失業期間中でも食べることに困り、求職しても低学歴のために見つからず、そのうち家賃も支払えず、さらに生活保護受給の窓口と手続の知識も知らないためにホームレス化する。湯浅氏のいう溜めとは、ここでいう資本のことである。そして、資本を不平等に分配する格差社会を批判する。
 
 ところで、当たり前のことであるが、資本は所有するだけでは機能しない。所有しているだけでは、宝の持ち腐れである。お金をもっていても、使用しなければ、飢え死にする。人脈も学歴も使用しなくては、意味がない。資本の使用権限は、誰にあるのか? もちろん、使用権限は、その所有者である個人にある。個人が自己の所有する資本を使用する場面を自己選択するわけである。
 どんな社会的状況でも、資本の使用が有効であるわけではない。外国に行くと、自国の文化資本や社会資本はあまり役に立たない。経済資本が役に立つのである。資本といっても、特定の国民社会の中でのみ、資本たり得るわけであり、有効である。
 (使用する/使用しない)という区別に準拠して観察すると、資本は使用されている時のみ、社会的機能を発揮するのである。究極的に資本を使用するかしないかは、個人の自己選択に帰着することになる。極端な話し、自己の所有する資本=お金を使用しないのなら、いくら金持ちでも、失業すると、ホームレスになるのである。
 どのような社会的場面で、どのようなかたちで資本を使用するのが適切なのか判断する知恵=社会学的啓蒙があって、はじめて資本は適切に機能する。ブルーワーカーの職業では学歴はあまり役に立たない。高学歴なのに、組織労働の伴う事務労働を嫌い、単純な肉体労働を選択し、その結果、重労働で体を壊して失業し、貧困化したら、これは自己責任である。また、低学歴なのに、選り好みして、公務員や事務労働ばかりを希望し、就職できないままいるひきこもり系ニートが貧困化した場合も、自己の資本の見積もりを間違って使用しているので、自己責任である。

 このように自己の所有する資本を適切に使用できない責任は、社会ではなく、個人にあるのである。社会を変えるよりも、貧困化している若者に対しては、所有資本の正確な見積もりと、その使用の仕方について、教えていくことが必要である。資本が乏しいと嘆く前に、資本の認識と使用方法について吟味し、資本を増やすことを心がけてはと思う次第である。資本の自己管理と適切な使用、それに資本の増加について、努力していない若者が貧困になっていることはないであろうか?
資本が少ない貧困な家庭からも、資産家になった人たちはいくらでもいるのである。これらの成功者は、資本の運用について優れているのである。
 資本の運用こそが貧富の差をつくる原因であり、それは個人の自己選択の結果によるのである。社会を変える前に、溜め=資本の運用についての知識=社会学的啓蒙を学ぶべきである。

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by merca | 2010-06-13 23:50 | 社会分析

貧困の自己責任説の根拠=ハビトゥス


 貧困の自己責任説は、ブルデューのハビトゥス論から説明がつく。ハビトゥスとは、社会階級ごとに人々に身体感覚として埋め込まれた習慣=心的傾向性であり、個人の自己選択の前提=選択肢の範囲を形成する機能を持つ。例えば、上流階級の子息は、音楽についてはロックよりもクラシックを選択する。下層階級で育った若者は、医者や弁護士になろうとは思わず、工員や土木作業員になろうとする。自分が希望する物事が、社会階級ごとに家族を通して植え付けられた文化的遺伝子たるハビトゥスによって無意識に決定されているというのである。
 
 しかし、だからといって、個々人は社会からの拘束や強制を感じているわけではない。当事者たちにとっては、それが自身の本当の希望であり、自己選択だと感じているのである。希望格差社会論を唱える学者がいるが、実はハビトゥスによって希望格差が生じているのである。人の社会的行為の規則性や秩序も、社会的賞罰があるからではなく、ハビトゥスによる習慣的行動の結果なのである。
 重要な点は、ハビトゥスは個人の内部に内面化した性質であり、個人の外部にある国民社会や国家ではないということである。従って、論理的かつ法的には、ハビトゥスが自己選択に作用しているとしても、それは自己責任であり、社会や国家の責任ではない。ハビトゥスは個人が所有する文化的遺伝子であり、個人の一部なのである。
 例えば、ハビトゥスの作用で結婚相手も無意識に所属階級が同一の異性から選択するわけであるが、結婚した当人にあなたの自由意志で結婚したのではないと言い放つと違和感をもたれるであろう。誰もが結婚相手は自由意志で選択した思っているわけである。当事者的には自由意志で行為したと思っているわけであるし、実際、ハビトゥスは個人に内面化したものであり、事実的には個人に原因がある。溜めのない貧困な下層階級の家庭を再生産してしまうのも、配偶者選択の原理がハビトゥスにおける自己選択が働いているからである。
 逆説的であるが、貧富の差を生み出すのは、ハビトゥスに限定された個々人の自己選択の結果なのである。
 
 高度経済成長期の日本社会では、「いい学校、いい会社、いい人生」という文化的目標をハビトゥスに抗して、異なる全ての社会階級に共通に強制された時代があった。その結果、農村から都市への大移動があり、経済が発展した。多くの人たちが、自己の所有するハビトゥスと異なる価値規範を強制され、受験戦争を強いられた。なぜ勉強しないといけないのだと疑問を抱いた若者が多く出て来た。社会が個人を束縛するものとして若者に映った時代である。近代化の過程で必ず起こる意識である。
 皮肉なことに、ハビトゥスではなく、ハビトゥスを否定する価値規範こそが個人に社会的束縛感をもたらすのである。自己を束縛する社会的事実=学歴社会こそが、本来の意味で自己を社会的宿業から解放するものであることに気づいていた若者はいたであろうか?
 いずれにしろ、どんな社会階級の家族のもとに生まれるかは自己決定の外であり、本人の原因ではない。また、社会の原因でもない。この不平等は単なる偶然である。
 
 しかし、少なくとも、事実的かつ実体的には、貧富の差の原因と責任は、社会にあるのではなく、個人が内面化したハビトゥスを前提にした自己選択にあるのである。ハビトゥスによって、湯浅氏のいう溜の量も規定されるのである。社会からの解放ではなく、自己の社会的宿業からの解放こそが、貧困からの解脱につながるのである。

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by merca | 2010-06-13 11:31 | 社会分析

反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

 社会に貧困の原因や責任があるという反貧困思想の原理的本質は、椅子とりゲームという理論的物語にある。反貧困思想にとって、このモデルは、社会契約思想の原初状態の物語に匹敵する理論的仮定である。
 椅子とりゲームとは、要するに、椅子の数がゲーム参加者の数よりも少ないために必ず椅子に座れない脱落者が出るという仕組みをもつシステムである。敗者こそが貧困者となるわけである。
 重要な点は、反貧困思想では、敗者に敗因があるのではなく、椅子の数に原因があると考える点である。椅子の数は社会の喩え、ゲームでの敗者は貧困者の喩えであり、椅子の数が少ない社会が悪いと考えるわけである。必ず敗者=貧困者が出るという社会の仕組みこそが貧困の原因であり、従って社会を変革する必要があると考えるわけなのである。
 
 ところが、果たして椅子の数に敗者の敗因はあるのであろうか? 敗者がでるのは、椅子の数に原因があるのではなく、参加者の数に原因があると考えることもできるのである。参加者が椅子の数よりも多いことが原因であり、椅子の数には原因はないとも考えられるのである。つまり、一方的に椅子の数=社会が悪いと決めつけることはできず、ゲームの参会者側に原因があるとも言えるわけである。椅子の数は限られているのに、それを見極めず、闇雲に座ろうとする参加者の方に原因があるのではないか?
 
 例えば、宝くじが当たらないのは、宝くじのシステムの責任であるといい、宝くじの主催者を訴える人間はいるだろうか? 宝くじが当たらず、はずれて損した責任は、宝くじを自由意思で買った本人の責任である。それと同じであり、椅子取りゲームに参加して敗者になったのは、敗者がゲームに参加した自己責任なのであり、決して椅子の数に原因があるわけではない。
 競争倍率を考えずに、ゲームへの参加を選択する個人責任なのである。コンテストの脱落者、受験の失敗、これらは本人に原因があると見なすのが普通の考えであり、落ちたからといって、コンテスト主催者や大学を訴える人はいないのである。椅子とりゲームもこれと全く同じなのに、反貧困思想のトリックに騙され、貧困は社会が悪いと思わされているのである。
  それでも社会が悪いと言えるためには、富が人々に平等分配されるべきあると国家社会が約束した時のみである。全ての参加者が椅子に座れるようにしますと約束したときのみである。つまり、完全平等主義の社会が正しいと人々が合意したときのみである。反貧困思想の椅子とりゲームのモデルを見て、社会を変えるべきだと思ってしまう人は、自身が完全平等主義が正しいという前提を所有しているだけなのである。
 繰り返して言うと、反貧困思想の椅子取りゲームのモデルでもって社会が悪いと主張できるのは、平等主義が正しい場合のみであり、そうでない場合は全く正当化できないのである。
 要するに、反貧困思想の本質は、単なる結果の平等主義のイデオロギーである。これが結論である。従って、平等主義に賛成しない人たちを説得できないのである。
 
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by merca | 2010-06-05 10:10 | 社会分析