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思想化するニセ科学批判

 ニセ科学批判は、思想として観察することが適切である。今やニセ科学批判を科学として観察しては的を得ない。
 私は、これまで社会科学・自然科学を問わず、一つの観念体系が思想として人々に採用されていく現象を観察することに心がけてきた。宮台社会学についても、科学というよりも、思想として観察してきた。湯浅氏の反貧困理論、後藤氏の俗流若者論批判や浜井浩一らの治安悪化神話批判も、一つの思想として機能している。
 学説や理論は、いくら提唱者が科学や事実等と称しても、それとは次元を異にして、ネットやマスコミを通じて他者に伝達され、人口に膾炙した時点においては、人々に思想として利用されてしまうのである。そして、一度、思想となると、観念体系は別の機能をもちはじめる。これを観察することが、私のブログの目的である。

 社会学的立場からは、思想の定義は以下である。
思想とは、自我統合機能や社会統合機能をもつ観念体系である。
自我統合機能とは、自己のアイデンティティを支える機能である。思想は単なる知識とは異なり、それを否定されると自己概念も同時に否定されたことと同じになる。これを確かめるのは簡単であり、ある人の所有する知識を否定・非難した時に、その人が憤慨したら、その知識はその人の自己概念を支える物語として取り込まれており、思想となっていることがわかる。例えば、マルクス理論を批判されたら怒りだす全共闘時代の左翼の若者に見て取れる。つまり、その観念体系が知識としてではなく、自己概念の一部として組み込まれてしまっていることになるのである。
 社会統合機能とは、社会秩序を維持したり、あるいは集団形成を促す機能のことである。一つの観念体系が社会秩序の維持に役立っていることはよくある。例えば、社会学者マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムの倫理で明らかにしたように、プロテスタントの宗教観念が西洋資本主義社会を支えたことはよく知られている。また、人権思想、自由主義、民主主義などの思想が、近代社会の在り方を支えている。
 また、一つの観念が多くの人々に共有され、一つの集団を形成することがある。各種社会運動や政党がその例である。マルクス理論が若者たちに共有され、学生運動組織が形成されたことは歴史上の事実であもある。反貧困理論が人々に流布し、反貧困運動及び組織体である反貧困ネットワークができたわけであるが、それは反貧困理論が社会思想として十分に機能している証である。そこで、特に社会統合機能をもつ思想を社会思想と定義しておこう。

 さて、科学=学問と思想は区別されるべきである。科学の役目それ自体には自我統合機能も社会統合機能もない。事実を探求することが科学の役目である。科学はその分限を守る限り有害ではない。ところが、菊池一派のニセ科学批判は、もはや科学ではなく、思想となっている。
 自己のニセ科学批判を否定されたり、異なった意見を言うと、とたんに目くじらを立てて怒りだす。これはネットにおけるニセ科学批判者のコメントを見れば一目瞭然である。彼らニセ科学批判者にとっては、ニセ科学批判という観念は自己概念を支える世界観となっており、だからこそその世界観を否定されたら自己も否定されたと思い込み、怒りだすのである。ニセ科学批判者にとって、ニセ科学は知識ではなく、思想である。
 また、ニセ科学批判は、ネット上で菊池氏を中心としたグループを形成している。さらに、ニセ科学批判をテーマにしたシンポジュウムを開いたり、組織化されたりして、社会運動化している。つまり、ニセ科学批判は社会統合機能をもちだしており、一つの社会思想になりつつある。
 理系の若者たちは、自己の知識に意味を与えてくれる思想に飢えているために、ニセ科学批判の思想的魅力の虜となり、自己の自我を保とうとしている。
 このように、自然科学が科学の領域を越えて思想化してしまっているのがニセ科学批判の現状である。科学は(知る/知らない)という知識レベルの営みであり、思想は(信じる/信じない)という価値判断レベルの営みである。火山学者である早川教授は、そのことに敏感であるようである。以下の同教授のブロクを参考にしてもらいたい。
 「ニセ科学を批判すること」
 http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-267.html
 ニセ科学批判者が他者にニセ科学を信じるなと勧めることは、もはや科学的行為から逸脱し、個人の思想にまで介入していることになるのである。ニセ科学批判ほど非科学的なものはないとあらためて思う次第である。ニセ科学批判こそ、非科学的であり、ニセ科学である。
 なお、早川教授がツィッターで私のブログ記事にリンクしていることに関して、批判しているニセ科学批判者たちがいるが、やはり普通の科学者や第三者の視点からはそのように写るわけである。ニセ科学批判者たちは、認知の歪みがなく、真摯に受けとめたほうがよいかと・・・。
 ニセ科学批判者たちには、早くニセ科学批判という思想的呪縛から解き放たれ、好きな学問に打ち込んで欲しいものである。

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by merca | 2010-07-24 10:36 | ニセ科学批判批判

県民性性格判断はニセ科学批判を越える。

 県民性性格判断が流行っている。県民性性格判断とは、異なる地域社会=県に育った人間は、異なる性格傾向や行動傾向を有するという仮説である。東京と大阪で育った人間が異なる文化を身につけ、異なる行動様式を身につけていることはよく指摘される。そもそも、言葉が違っており、思考形態が異なるのかもしれない。血液型性格判断はニセ科学かもしれないが、県民性性格判断は、社会学理論と実に適合的である。
 社会学では、人間は社会によって共通の価値観や規範を埋め込まれ、行為すると考える。パーソンズ社会学は、それを精緻に分析し、理論化している。また、ブルデューのハビトゥス論も育った社会によって人の趣味や嗜好が異なることを理論化している。いずれにしろ、社会学のこれまでの知識体系と、県民性性格判断は矛盾しない。県民性性格判断は、社会学で言うところの人間の社会化という事実に理論的根拠をもっている。育った社会が異なれば、異なる性格と行動になるというのは、社会学的には真理である。
 
 ただし、県民性がアイデンティティとして強く意識されると、異なる局面を迎える。例えば、大阪人は大阪人らしく何事に関しても笑いをとらなければならないということが規範化され、それを演じるように作用するようになるのである。本当は静かにしたい大阪人も、大阪人として振る舞うことを強いられ、東京人に対して無理に笑いをとろうとするようになる。このような大阪人をよく見かける。他県民の前で、自己の県民性を演じる義務を負うことになるのである。県民性が過度に誇張され、過剰役割意識となるのである。こうなると、社会化ではなく、物語化となる。大阪人はいつでも漫才師のように笑いをとるということが、育った環境というよりも、そのようなアイデンティティ物語を所有していることで、本当にそうなるのである。
 
 さて、ここで鋭い人ならもうお分かりだろう。所謂、社会学でいう予言の自己成就が起こっているのである。大阪人は笑いをとるという県民性性格判断そのものが、大阪人をして笑いを取るようにしむけ、本当になるのである。
 そうなると、もともとあった地域社会での社会化のせいで県民性ができたのか、それとも県民性性格判断が流行ったせいで県民性がつくられたのか、区別ができなくなるし、実際上は区別しても意味がなくなるのである。ウソ(対象と認識の不一致)が本当(対象と認識の一致)になり、ウソと本当の区別が無効になるのが、社会学上の真理であり、自然科学とは全く異なる原理で社会は観察されなければならないのである。当初、デタラメであった一部の県民性性格判断も、流行れば事実になるのである。
 
 これと全く同じで、脱社会性やニートという若者概念も、それが流行り、若者が自らのアイデンティティとして採用すると、本当にそうなるのである。宮台社会学における若者概念も、それが流布し、大人たちが若者に対して使用し始めると、両者の相互作用の結果、若者に内面化・規範化され、本当にそうなるのである。学習障害や人格障害やアドルトチルドレンなどの精神医学的あるいは心理学的レッテルも、流行って内面化されれば、本当にそうなるのである。単純な実証主義は社会には通用しない。実演主義のみが社会的真理を獲得するのである。
 
 ニセが本当になる社会科学の世界において、ニセ(社会)科学などは存在しないし、無意味である。その意味において、ニセ科学批判は自然科学のみに限定するというニセ科学批判者天羽氏の姿勢は極めて正しいのである。

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by merca | 2010-07-13 00:04 | ニセ科学批判批判

社会変革福祉集団ほっとポットに見る専門エリート意識

 特定非営利活動法人「ほっとポット」が、これまでの古典的な社会変革とは全く異なるかたちで社会変革を推し進めようとしている。これまで社会変革と言えば、政治システム、経済システム、法システムを変えるという方向が多かった。しかし、成熟社会に入り、福祉システムを変革することが社会変革の中心になってきた。その象徴が、まさしく特定非営利活動法人「ほっとポット」の支援活動である。
 「反貧困ネットワークの実践」という書物に活動の理念や実績が克明に書かれている。
 福祉の壁、つまり住所がないと生活保護の申請ができないという虚構を見抜き、家主等の協力者と組んでホームレスを保護し、自立に導いている。実に、素晴らしい実践である。
 その本質は、被支援者が求めるものを分野を越えてコーディネイトするジェネラルソーシャルワークという理念である。福祉事務所は、支援対象者を分類し、一つのカテゴリーに押し込め、型にはまらないと排除するという方法をとって来た。福祉の水際作戦の底流に流れる分類主義である。ほっとポットは、そのような福祉行政を全て否定する。
 多くの支援対象者=ホームレスなどは、病気、住居、高齢、家庭問題、就労問題など、関連する複数の問題を抱えている。ほっとポットにおいては、これらを分割して支援するのではなく、支援対象個人に集点を当てて、トータル・コーディネイトするわけである。例えば、就労するためには、住居が必要であり、病気治療も必要である。単に職業安定所にいけと言っても、住所がないので職を紹介できませんとか、病気の人を雇ってくれる会社はないと言われるので、住居の確保からはじめ、医療、就労へと広げていくことになる。公的相談機関は、問題を分類し、バラバラに捉えて措置することで、適切に援助できないわけであるが、ほっとポットが援助の中心となることで、各々の分野の相談機関の支援を有機的に連動し、真に支援対象者を助けることが可能となるのである。

 さて、社会学的な立場から、ほっとポットの若者たちに関して非常に興味をもったのは、自分たちの専門性と資格へのこだわりである。社会福祉士という国家から付与された専門性と資格こそが彼らを支えているという事実である。ほっとポットの若者が高い倫理性と志をもち、活動を続けている理由は、社会システムから付与された専門的役割と社会的使命感に基づいているからである。それは、法システムの専門家である弁護士が社会運動するのと似ているのである。無資格のボランティアではなく、社会福祉学という人間科学を学んだ専門家だという誇りが、専門エリート意識をもたらし、彼らの活動を動機付けているのである。
 特定の分野に置いて、特別な存在として社会的に自尊心を満たすことができること、これは非常に社会学的には高い動機付けの仕組みである。臨床心理士や精神保健福祉士などにも、同様の専門エリート意識がある。もはや学歴が自尊心の根拠になるのではなく、専門的資格が自尊心の根拠となっている。
 反貧困創始者の湯浅氏は東大法学部卒の学歴を有し、社会を実体化し社会責任説を唱えるなど古典的な社会観にとらわれている。ほっとポットは全く違っている。学歴ではなく、社会福祉士という資格をもつ者こそが社会変革の中心なのである!! 
 今後、(社会責任/自己責任)という社会的に構築された区別に拘らず、社会福祉士の使命として、求める支援対象者に対して平等に支援してくれることを期待したい。
 
 現在、大学では、人間科学系や福祉系の学部が多く出来ている。社会福祉士、精神保健福祉士、臨床心理士などの資格をとることで、社会から肯定され、専門エリートとして育成されるのである。
 序列のある学歴社会から対等な専門職が活躍する社会への移行、これは教育社会学者・本田氏の理想でもあるのである。
 今後、福祉会のスターである、ほっとポットに憧れる福祉系の若者たちが増え、社会福祉士の資格に魅了されていくであろう。社会主義や新興宗教に走る救済者願望の強い意味系の若者たちが、成熟社会の花形職業である福祉職に流れ込み、社会から生きる意味=使命感を与えられ、無害化されることを期待したい。

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by merca | 2010-07-11 11:48 | 社会分析

統計より凶悪犯罪に共感する若者の感性こそ事実 

 統計上、少年の凶悪犯罪は減っているという理屈から、少年の脱社会化現象をマスコミのつくりだした虚構として指摘する論客やブロガーが多くいるが、そういう人たちは統計信仰に騙されているのである。統計=事実だと思い込んでいることは、非常に危険で短絡的な思考である。まずは、統計そのものを疑ってない点が短絡的である。統計は、直接体験したものではなく、間接的な情報であり、本当かどうかは、統計調査を担当した社会調査の専門家にしかわからない。統計を安易に信じるブロガーたちは、政府の統計担当者=官僚を短絡的に信じているわけである。自分の目で見て感じた現象と統計がマッチングしている時のみ、統計はリアルである言えよう。統計信者たちは、マスコミ報道をたたく反面、官僚に煽動されやすいのである。
 
 実は、社会病理学的には、サカキバラ事件や秋葉原無差別殺人などの凶悪犯罪者に対して、多くの若者たちが共感したことこそが注目に値するのである。凶悪犯罪者を英雄化する若者たちも現れたりした。自己の自尊心のためには、殺人をしてもいいという脱社会性感覚に共感し、それを公言することも恥ずかしいと思わない一部の若者の登場こそが、底の抜け社会における社会病理現象なのである。
 
 一部の若者が凶悪犯罪者に共感したこと、それは若者の中に脱社会性感覚がある証拠であり、数字よりも明らかに確かなのである。何よりも、若者自身の直接的判断であるから、それ以上に確かなものはないと言えよう。若者それ自体が感じる感覚であり、若者の内面的真実そのものである。統計のように表面的で間接的な数的虚構ではない。さらに、若者が脱社会性感覚をもったからといって、すぐに行動化して犯罪し、統計にあがってくると思い込み、統計こそが社会をあらわす絶対的指標だと思い込む人たちほど、浅学の者たちはいない。脱社会性感覚に共感する若者が全て実際に凶悪犯罪をすると考えてはならない。犯罪に対する刑罰で自由を奪われるのが損なので、本当に凶悪犯罪などするものはほとんどいないのである。このような人間の損得勘定の行動原理を無視して、少年の凶悪犯罪の数のみで判断する統計信者ほど、短絡的で愚かな者はいない。反社会学講座で簡単に騙される読者に多いタイプである。
 問題なのは、何度も繰り返すが、そのような殺人をしてもいいという感性の持ち主が裁判員として適切な道徳判断を下すことができるかどうかである。

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by merca | 2010-07-03 09:51