<   2010年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論

社会学玄論講義 相対化作法の類型4

(自己言及のパラドックス)
 自己言及のパラドックスとは、相手の準拠する区別そのものに同じ区別を適用することで、相手の言説を決定不可能に導き、その絶対性を否定することである。
 例えば、相対主義者の用いる区別である(絶対/相対)という区別を相対主義にも適用した場合、決定不可能に陥る。相対主義が相対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は正しくなくなり成立たなくなるし、相対主義が絶対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は絶対的だということになり、矛盾することになる。相対主義の主張は、相対的であっても、絶対的であっても、自己矛盾を起こし、成立たなくなる。原理性相対主義は、このように自己言及のパラドックスを含んでおり、成立たない。
 ちなみに、絶対主義の命題である「絶対的な真理は存在する」という命題は、絶対的であれば、成立つことになり、自己言及のパラドックスは起きない。自己言及のトートーロジーが起きるだけである。片方の項のみに、自己言及のパラドックスが起こることになる。あるクレタ島人がクレタ島人は正直だと言った、という命題は、パラドックスは起きないのである。
 
 科学における反証主義自体に反証可能か不可能かを適用すると、自己矛盾が起きる。反証主義が反証されないとすると、反証不可能な命題となり、科学的に正しくなくなるし、逆に反証主義が反証されうるとすると、反証される可能性があるのだから、完全に科学的に正しくなくなることになる。ちなみに、実証主義には、このようなパラドックスは起きない。

 合理主義の準拠する(目的/手段)図式に(目的/手段)を適用すると、目的それ自体も合理的でなければならず、別の目的の手段であることが必要であり、目的は別の目的の手段として相対化される。しかし、そうなると、目的の目的を無限遡及することになり、究極目的はないことになる。しかし、一方で、合理性が成立つためには、手段を最終的に根拠づける目的が必要となってくる。
 要するに究極目的が存在してもしなくても、自己矛盾を起こし、合理性は成立たなくなる。もし究極目的が存在するのなら、究極目的だけは非合理ということになり、世界は合理的であるという合理主義の命題は破綻する。また、究極目的が存在しないとすると、最終的に手段を合理化する根拠としての目的がないことになり、世界は合理的であるという命題は成立たなくなる。
 また、同様にして、決定論=因果律に因果律を自己適用すると、成立たなくなる。第一原因があってもなくても因果律の世界は成立たなくなるからである。

 社会科学が準拠する合理性も、自然科学が準拠する因果性も、ともに自らの準拠する区別を自己適用すると、成立たなくなり、自己言及のパラドックスに陥ることになる。
 一つの区別に準拠する閉じた形式体系は、必ずパラドックス命題を含んでおり、自身からは説明ができないのである。説明するためには、別の区別から観察していく他ないのである。次回、別の「区別の再参入」を紹介したい。
                                           続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2010-09-18 23:51

(目的/手段)という区別の脱構築

 (目的/手段)という二項図式においては、手段よりも目的のほうが時間的にも先にあり、価値論的にも優位であると考えられている。しかし、この二項図式も脱構築されてしまう。
 
 一般に行為の意味は、他者から(目的/手段)という枠組みで解釈され、人々に理解可能なものとなる。つまり、目的が手段たる行為をつくりだすのではなく、行為は他者に解釈されることで、後付けで目的がつくられる。他者に理解可能でコミュニケーションされた行為のみが、社会的事実だとすると、行為の目的や意味はあとでつくられるものである。目的があたかも時間的に先行したと思うのは、一つの錯覚である。犯罪行為の目的や動機が取調べ機関の濾過を経て、社会的に形成されることはよく知られている。行為の意味はあとから付与されるのである。
 
 とにかく、このように手段たる行為が先にあり、手段を条件として、他者の観察によって目的が形成されることになる。コミュニケーションとは、情報、伝達、理解の選択過程であり、特に他者がどのような区別を選択して理解するかが重要なのである。コミュニケーションの事後成立性は、目的と手段の優劣関係を逆転させることになる。
 
 また、(原因/結果)という区別から観察すると、手段が原因となって目的達成という結果を生み出すわけであり、これまた手段が目的をつくりだすことになる。目的は手段に依存していることになる。
 
 実は、何か目的があって手段を選択するというのは、意識システムの次元だけの話であり、意識システムにおいてのみ手段は目的に先行することになる。行為者の意識システムの目的や意図とは別様に、行為は他者による観察によって目的や意味が付与され、コミュニケーションされていくことで、社会的事実となるのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
 
[PR]
by merca | 2010-09-18 09:01 | 理論

社会学玄論講義 相対化作法の類型3

 社会学玄論講義 相対化作法の類型3

(脱構築)
 デリダの脱構築も相対化作法の一つである。西洋形而上学は、善と悪、本質と現象、絶対と相対、客観と主観、真理と虚偽など、様々な二項対立図式から構成されている。しかも、善は悪よりも、本質は現象よりも、絶対は相対よりも、客観は主観よりも、真理は虚偽よりも、根源的で価値があると考えられてきた。形式化していうと、片方の項がもう片方の項よりも存在論的にも価値論的にも優位であると考えられてきた。このような二項対立図式を内部から解体する方法が脱構築と呼ばれる。脱構築によって二項の序列関係が逆転化されてしまうことになるのである。

 脱構築を使用すると、次のようになる。本質から現象が生じたのではなく、個々の現象を観察することで本質たるイデアの観念がつくられた。悪が先にあり、悪を防止するために善がつくられた。主観が先にあり、複数の主観の合意点として客観がつくられた。相対的な考えに耐えることができず絶対的なものを必要とするようになった。虚偽による失敗を防ぐために真理が述べられるようになった。つまり、このように優位と思われた項は、実は、劣位の項を条件として発生したものであることがわかる。そうなると、優位の項が劣位の項を完全に否定・排除しては成立たなくなる。

 ニセ科学批判とは、科学と名乗る学説や商品などの対象を本物科学とニセ科学とに区別し、ニセ科学を否定し、本物科学を肯定する思想である。脱構築をニセ科学批判に適用すると、こうなる。
 (本物科学/ニセ科学)のうち、本物科学のほうが先に存在し優位であると思われているが、実はニセ科学が存在するからこそ、科学主義たるニセ科学批判が発生したということになる。ニセ科学批判の成立条件は、ニセ科学の存在であり、ニセ科学を完全否定してはニセ科学批判は成立たなくなることになる。本物科学は、ニセ科学との差異によって根拠付けられることになり、ニセ科学を必要とすることになってしまう。脱構築の発想からすると、偽物の出現によって、はじめて本物も存在し、偽物と本物の区別はつくられるのである。先に本物が存在するのではなく、ある対象に偽物のレッテルを貼ることで、事後的に本物がつくられるのである。
 かくして、ニセ科学批判が準拠する二項対立図式である(本物/偽物)という区別の価値序列は解体され、破壊される。つまり、脱構築されることになる。
 脱構築は、二項対立図式の両項の序列関係を逆転させ、図式そのものを解体する相対化なのである。脱構築は解体のみに終わる単純な相対化ではなく、実は隠された視点=第三項を暴露することになる。そもそも、二項を区別する基準そのもの=第三項を露にして見せることになるからである。
 実は、科学は、自らが本物だと言うために他説に偽物のレッテルを貼ることでしか、自らのアイデンティティ=自己同一性を保つことができないほど、曖昧なものだということを露呈しているのである。何が科学かという論争はずっと結論が出ていないわけであり、科学観の曖昧性に耐えきれない脆弱な者たちが、他説に偽物のレッテルを張り、かろうじて自己満足しているのである。ニセ科学批判者にとっては、科学の自己同一性はニセ科学批判を通して事後的に構成されるのである。
                               続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-12 23:19

社会学玄論講義 相対化作法の類型2

相対化作法の類型2

(弁証法)
 弁証法による相対化について説明したい。弁証法と言えば、やはりヘーゲルやマルクスである。しかし、ヘーゲルやマルクスが流行っていた時代があったが、かなり廃れて来たように思える。あまり弁証法を使用するネット論客を見かけなくなった。寂しさを感じるのである。
 簡単に言うと、弁証法による相対化とは、相手の命題と反対の命題を立てることで、相手を相対化するという手法をとる。詳しく言うと、反対の命題を立てて、相手の命題とその反対の命題はともに同等の正当性があり、どちらの主張も正しいという自己矛盾を指摘し、その矛盾を止揚するジンテーゼに導き、相手の説を否定するとともに包含し、より高次の立場に導くわけである。だから、単なる相対化とは話が違うことになる。相手を相対化するものの、ジンテーゼという解決策を示すことで、ニヒリズムに陥ることもない。
 具体例を示そう。「世界は有限である。」という命題を相対化するために、「世界は無限である」という命題を立てる。カントのアンチノミーであるとおり、この二つの命題は互いに矛盾しているが、同等の正当性を主張し、どちらが正しいかわからない。そこで、「世界は生成変化する」という命題を提示することで、有限と無限を止揚することができる。生成変化においては、一瞬一瞬の状態は区別され有限であるが、次の瞬間に別のものに変わることで無限に続いていく。生成変化のエレメントとして、有限と無限があり、有限だけでも無限だけでも、生成変化という運動を説明することはできないのである。かくして、「世界は有限である」と「世界は無限である」という二つの命題は、「世界は生成変化する」という命題によって止揚される。
 ヘーゲルは、同一性と別異性、有と無、善と悪、真と偽などの哲学的な概念は、弁証法によって克服されていくと考えた。このような弁証法は、一般に正反合の過程で形式化される。
 これを科学主義やニセ科学批判を相対化することに応用するとなると、かなり難しい。弁証法は哲学的な抽象概念を相対化する技法であるからであり、かなりレベルを抽象化しないと適用しにくい。適用するとすると、科学やニセ科学批判の根本的前提にかかわる部分だけになる。
 
 例えば、ニセ科学批判者は「事実は一つしか存在しない」(客観主義)という命題を前提とし、ニセ科学の知識が虚偽であると批判するわけである。その場合、ニセ科学批判者の「事実は一つしか存在しない」という命題に対して、「事実は複数存在する」(主観主義)という対立命題を定立して科学を相対化したとする。どちらが正しいかは決めることができず、結局、決定不可能に陥る。そこで、事実は、対象と認識主体の関係性で形成・構成されると考え、同じ認識方法を採用すれば、事実は一つになり、異なる認識方法を採用すれば、事実は異なり複数になるという考え方で止揚する。
 つまり、同じ認識方法で認識すれば、必ず同じ認識内容を生ずることになり、対象についての事実は一つになる。一対一対応となり、客観化される。しかし、認識方法が異なると、事実も異なることになる。対象と認識主体の分離主義ではなく、関係主義をとることで、止揚することができる。認識内容の客観性は認識方法の同一性によって担保されるし、認識内容の主観性は認識方法の別異性によって担保されることになる。かくして、客観性と主観性の対立矛盾は、関係主義によって止揚されるのである。
 ニセ科学批判者は、相手の認識方法が異なることを無視し、事実は一つであるから、自己が正しいとしてニセ科学の主張を批判する。さらに、認識方法が全く異なるスピリチュアルまでも批判するのである。事実を根拠にして、相手を批判する場合は、相手も自己と同じ認識方法を採用している場合だけである。ニセ科学批判者は、しはしば、この鉄則に違反していることがあるので、要注意である。

 さて、以上のように、弁証法は、相手の説に対して反対の説を提示し、相手の説を相対化しつつも、相手の説を取り入れることで、思考を発展させていき、総合的解決へと導くのである。弁証法は、固定化された原理主義とはほど遠いのである。また、「相対性も特定の目的を実現するためにのみ有用」や機能的等価主義などとも異なる作法である。弁証法は対立する考えを総合する運動が目的であり、目的は固定化されているところが異なるのである。世界にある全ての異なる観点を総合へと向けて無限に発展させていくのである。目的が固定化されているからといっても、相手を完全排除するのではなく、むしろ包摂していくところが弁証法の特徴であると言えよう。特定の目的から相手を完全排除するタイプの相対主義のほうがむしろ原理主義になってしまうのである。

 弁証法はポストモダン思想の前に流行った思想であり、日本でも弁証法をうまく使用できるタイプのネット論客をほとんど見かけない。ヘーゲルのドイツ観念論をきっちりと習得したネット論客は少なく、いたとしてもかなり年配であり、つまらぬネット議論からは距離をとっておられることと思われる。若手のネオ・ヘーゲリアンの登場に期待したい。

                                    続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-12 12:38 | 理論

社会学玄論講義 相対化作法の類型1

相対化作法の類型1
 
 他者の説を相対化する作法を相対主義と定義するのなら、相対主義は色々な種類が存在する。それについて説明していきたい。
 さて、黒木玄さんの相対主義に関する見解が掲載されている以下のHPがある。
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html#absolutism
 しかし、実はこれはかなり古すぎる考えであり、相対主義についての見解として単純・凡庸すぎる。認識と価値に区別して相対主義を分類する方法は、単純すぎる。他にも、別の区別に準拠して相対主義を考える必要がある。多くのニセ科学批判者は、相対主義の種類が単に認識論的相対主義と価値論的相対主義の二つしかないと考えており、相対主義について深く思索してきた人文系の研究者にとっては、全く話にならないのである。
 
(認識論的相対主義)
 まず、認識論的相対主義の基本を押さえておこう。このタイプの相対主義は、事実(真理)は一つという考え方は間違っており、認識方法が異なると対象は異なって認識されるので事実は複数存在しており、一つの認識方法に基づいた知識のみが正しいと考えるのは、間違いであるとして、他説を相対化する。例えば、同一対象についての科学的認識も宗教的認識も、どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも正しく、平等であると相対化する。進化論も創造論も同等の正しさがあると考えるわけである。同一の対象に矛盾した認識があっても、どちらも正しいとして肯定する。認識論的相対主義者という視点から観察すると、自己の認識のみが正しく他説は正しくないと否定する科学主義者やニセ科学批判者は、自説を他と比べて特別化・絶対化しているので、絶対主義者として観察されてしまう。言い換えると、事実は一つであり、他説は間違っていると堂々と批判するニセ科学批判者は、認識論的絶対主義ということになる。認識論的絶対主義の否定が認識論的相対主義である。
まとめると、次のようになる。

認識論的絶対主義・・・一つの対象についての事実は一つであり、正しい認識方法は一つしかない。暗黙に、対象が単相的・全体的であることを前提としている。
 
認識論的相対主義・・・一つの対象についての事実は複数であり、複数の異なる認識方法のどれも正しい。暗黙に、対象が複相的・部分的であるとことを前提としている。異なる認識方法は、対象の異なる部分を観察していると考えているのである。

 認識論的絶対主義も認識論的相対主義も、別の区別から観察すると、同一の観念であると観察できる。それは、いずれも真理の対応説に準拠しているからである。どちらの主義も、真理は対象と認識の一致という考えを採用している。この前提を共有していることについて、両者は盲目である。

(機能的等価主義)
 これは、ある目的(あるいは意味)から観察すると、異なる知識や思想であっても、手段=機能として同一であるとし、相対化する方法である。例えば、仏教もキリスト教も、人々に死生観を与えて生きる意味を提供するという点においては、同一の機能を有することになる。教義内容は全く異なるが、生きる意味の提供という目的からすると、同一であり、どちらも正しく、互いに否定しあう必要もなく、対等である。信教の自由なので個人の選択まかせればよい。
 また、人々に科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識であると流布する目的(科学のイデオロギー化という目的)から観察すると、ニセ科学もニセ科学批判も、機能的等価である。この観点からすると、ニセ科学もニセ科学批判も目くそ鼻くそを笑う関係であり、ともに科学主義として観察されることになる。
 この観察点から最初に記事を書いたので、目くじらを立てて、菊池氏や天羽氏が私のブログに殴り込みに来た。つまり、科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識とその獲得方法であるという前提をニセ科学もニセ科学批判も共有していることに、盲目であることを指摘したら、怒って来たのである。ちなみに、ニセ科学とニセ科学批判が機能的に等価であるという視点は他にも多くある。(思想としての機能とか・・・)
 とにかく、あくまで特定の視点に立ったら、ニセ科学とニセ科学批判が相対化されてしまうことを理解できなかったようである。もちろん、他の視点から観察をすると、ニセ科学とニセ科学批判は差別化されると思われる。私は社会学の立場にたち、社会学的の視点(イデオロギー論的視点、知識社会学的視点)を選択化しているだけであり、絶対化しているわけではないのに、絶対化していると菊池氏は勘違いな反応をしてきたが、ナンセンスなので、あえて答えなかったを覚えている。
 このように機能的等価主義とは、特定の視点や目的から観察することで、異なるものを同一視して相対化する手法なのである。ただ、これと反対の作法である機能的不等価主義もあり、異なるものの中から一つのだけを絶対化する作法も理念としては考えられる。例えば、科学の公準などに含まれる実証性という点からは、科学は他の知識体系よりも優れており、絶対化されることになる。しかし、これも一つの観点にすぎないのに、ニセ科学批判者は他者に押し付けることで絶対化している。ニセ科学批判者は一つの観点を固定化し、それを他者にも共有することを強制し、相手を説得にかかる傾向にあるので、要注意である。
 正しい視点はあり得ないが、仮に同一の視点を共有することで、議論の正否は確定できるという穏健な態度を理解できていないので、ニセ科学批判者はコミュニケーションで摩擦が起きているのである。
やはり、コミュニケーション形式を観察すると、全てのニセ科学批判者は、自己の視点のみを他者に押し付けて正当化する原理主義者である。
 究極のメタな視点=神の視点が存在しなく、基本的には異なる全ての視点が平等であるという相対主義を機能的等価主義は前提としている。

     続く

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-11 12:25 | 理論

ニセ科学批判に釣られる相対主義者たち

 逆転の発想をとって別の視点から観察してみよう。もしや我々相対主義者たちは、ニセ科学批判者の本来の意図はさておき、結果として今までニセ科学批判に釣られてきたのではないか? 実際、そのようにも観察できる。私も含めて多くの文系相対主義ブロガーたちが、科学は絶対的でないとニセ科学批判者に言うことで、ニセ科学批判に釣られてきたのではないか?
 自説を絶対化している人間を見ると、一言いいたくなる傾向が相対主義者にはもともとある。そこをうまく利用され、今までニセ科学批判に釣られて来たとも言える。これは反省しないといけない。
 今更ながら、ニセ科学批判の恐るべし、ネットパワーを痛感する次第である。もうこれは一つのネット文化となっていると断言したい。あっぱれなり、ニセ科学批判!! 
 ネット議論で、ニセ科学批判関係ほど、甘美なものはない。これはもう科学論争として観察するよりも、ネットコミュニケーションによる大スペクタル・エンターティメントとして観察したほうが面白い。ニセ科学批判、おそるべし、おそるべし・・・。
 しかし、それでも、私は、科学は絶対的でないという主張をやめないであろう。もはやそれが私の役割として固定化しているからである。(これまでと異なる視点からの観察でした。)

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-08 01:02 | ニセ科学批判批判

情報学ブログさんへ(若干の回答)

情報学ブログさんが取り上げた私のブログに関するエントリーに論評を加えておきたい。
  「社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠」
 タイトルの書き方は、私のエントリーの書き方と似ている。相対主義がそんなに怖いかと思うが、このくらい大袈裟に書かないと、読者の気をひかない。エンターティメントとして観察すると、こういう表題を見ても、私は感情的にならない。さらに、ニセ科学批判者たちの批判を受けて慣れているからである。この点、ニセ科学批判者に感謝、感謝・・・!! 誠に、てーげーな状態なのである。

○ 情報学ブログさんもやはり相対主義である。
 情報学ブログにおいては、絶対的に正しい真理や道徳の基準は存在しないと考え、それをベースにして、原理主義を回避し、目的に応じて、異なる相対的視点を用いて議論されている。構造構成主義と同じく、絶対的に正しい真理や善悪は存在しないということを根本仮説として立てていることから、基本的に相対主義であると言える。つまり、相対主義を否定しては、情報学さんの考えは成立たなくなる。相対主義を原理として利用している。むしろ、そのような徹底した相対主義に立っているからこそ、原理主義に陥らず、臨機応変に対応することができる。私のように、相対主義者と宣言されたほうがすっきりとするのではと思う。
  参考
 私は、ニセ科学批判者の問題を、単なるニセ科学の被害のレベルではなく、ニセ科学批判者のもつ世界観及びそれに基づく自我の統合の在り方の問題として観察している。同じく情報学ブログさんの認識構造についても、同じようなレベルで観察させてもらっている。メタな視点なので、当人が自覚しているレベルと自ずと異なるかもしれない。当然のごとく、私の思想についても、他者の観察にさらされる他はないのである。目的が異なるからといって無視するかどうかで、議論は変わってくる。

○現代社会のあり方はどうなっているのか?
 相対主義が社会に既に蔓延しており、今更相対主義を唱えても意味がないという主張であるが、逆であると認識している。相対主義が蔓延しているのは一部のインテリ階層や日本の若者であり、全世界に行き渡っていると思えない。前期近代社会の段階の社会もあり、科学や民主主義が絶対的なものであると信奉している方も多い。近代化思想の絶対化である。非西洋は、もともと神仏習合など多神教的世界観=相対主義的感覚をもっており、後から来た近代化のせいで西洋の原理主義的思考が混入されてしまったというべきである。
 現代社会を日本の国民社会と捉えるのか、ルーマンのように世界社会として捉えるのかで異なると考えられ、成熟社会化している国民社会はまだ世界には少なく、原理主義的な思考はかなり多くある。また、欧米、西洋、イスラムは一神教の文化が根付いており、原理主義的文化を払拭するのは困難である。相対主義が行き渡っている階層に関しても、相対主義やニヒリズムに耐える力こそ必要であるのに、安易に科学主義などに陥っている。

○ニセ科学批判者にメタな視点はない。
 多くのニセ科学批判者は、宗教、占い、オカルトなどニセ科学でない領域まで批判する。菊池氏にこそその本質が伺える。菊池氏は、江原氏のスピリチュアルを批判している。科学的事実のみが正しいという科学原理主義の発想をとらないと、このような領域侵犯は起こらない。また他者を強く批判し、他人のブログに侵入してくるなど、絶対的な自信がないとできないことである。ニセ科学批判を布教するコミュニケーション形式から判断して、科学原理主義者である。菊池氏には、メタな視点はないと考える。多くのニセ科学批判者は、相対主義を毛嫌いしており、自らのうちに相対主義を取り込み、生かそうとする態度が認められない。

 基本的に情報ブログさんの観察もありうるので、否定はしませんが、私の他に相対性原理主義者がいるかどうか教えてもらいたいです。いなければ、数少ない立場として希少価値があるので、当分、この立場を利用させていただくことも視野に入れています。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-05 12:17 | 他ブログコメント

知性発展段階説

 相対主義の問題については、実はかなり前から以下の説=知性発展段階説のように私は捉えている。あまりにも難解なことなので、あえて単純な相対主義の立場をとっていたし、現状ではそれが適切だと判断していたのである。
 情報学ブログさんが色々と誤解している節がある。(意図的に誤解していただき、議論を発展させたいのだと思うことに期待) しかし、なかなかおもろしい議論なのでのってみよう。単純な相対主義とそうでない相対主義の区別を明確化しておく必要があるからである。天台仏教にアイディアがあるが、人間の知性は次のような段階で発展すると私は考えている。

1 有見=素朴実在論
 認識できる現象には全て実体があり、存在するものの根拠=底があるという考え方。素朴実在論がそれにあたる。我々の日常的思考である。日常生活を円滑におくる上で、必要な思考である。真理の対応説をとる。科学も基本的には、この立場であると考えられる。
 しかし、このものの見方にこだわり、相対的な現象を永遠不変な実体であると思い込み、それに執着すると、我着となり。苦が生ずる。
 
2 空観=単純相対主義
 一切の事物は、つくれたものであり、無常であり、固定的な実体がなく、相対的であると悟るものの見方である。仏教では空の思想と呼ばれる。現代風にいうと、底が抜けているということである。真理や道徳に絶対的で固定的な基準自体などなく、底が抜けていると考えるわけである。所謂、相対主義である。老荘思想や社会構成主義などがこの立場に入る。
 ただし、空観も、これを絶対化すると、一切が無意味だというニヒリズムに陥る。世界にある全ての思想を絶対的でなく、相対化して否定するだけであり、何も現実に選択できなくなるからである。生きるとは価値判断の連続であり、何かを選択することなしには生きていくことができないのである。仏教でも、空観=単純相対主義が悪しき場合には、無見と呼ばれることになる。私がこの立場に陥っていると情報学さんは思っている。
  
3 仮観=相対主義の相対化
 一切の現象には固定的な実体がなく、構成されたものであるが、その都度、現実に差別相をもって現象は立ち現れており、全くの無ではない。従って、やみくもに事物を相対化して否定するのではなく、状況に応じて選択していくことが求められる。仮観とは、固定的なものの見方をせず、その都度、適切なことを判断していく立場である。胃が悪い人には胃薬を、目が悪い人には目薬を与えるわけである。胃薬も目薬も同じであると相対化し、胃の悪い人に目薬を与えては間違いとなる。現実の差別相を観察し、目的に応じた適切な選択をとるのである。
 この立場は、相対主義の相対化と呼ばれるものである。例えば、現代社会においては、民主主義には絶対的な正しさはないと悟りつつも、あえて民主主義を採用しているわけである。宮台真司が、「民主主義の不可避性と不可能性」」という主張をしているがそれにあたる。ポストモダン社会においては、絶対的なものはないと知りつつも、あえて現実を生きるために仮に民主主義のような相対的なものであっても、目的に応じて選択していくことが求められるというのである。
ちなみに構造構成主義は、相対主義そのものを前提として、全ての科学の統合を目指そうとしているわけであり、この段階の思想である。
 宮台流の「あえて主義」については、このブログでも何度も論じて来た。情報学ブログさんも、この段階の思想であり、自らは相対主義ではないと言っているのである。そして、情報学ブログさんは、おそらく私の思想を空観の相対主義だと見なし、自己とは異なると考えている。
 情報学ブログさんが悪しき相対主義に陥らず、科学を肯定的に捉えようとする態度に表れている。ただし、科学を仮に肯定する究極目的は明かしていないように思われる。時と場合によっては、科学を批判し、ニセ科学を肯定するおそれがあるので、ニセ科学批判者が気味悪がっているのだと思う。
 ニーチェの積極的ニヒリズムもこの段階の思想かと思われるが、肯定するための目的が不明確であるため、結果として、悪しき相対主義と変わらない。
 仏教では、この立場が悪しきものになると、亦有亦無見と呼ばれることになる。

4 中道第一義観=関係主義 
 これは、全てのものには、実体がなく、底が抜けているというものの見方=空観(相対主義)と、それでもあえて状況に応じて現実に選択していくことが必要であるというものの見方=仮観(相対主義の相対化)が、互いに依存しあっているとするものの見方である。
 仮観だけならば、現実を選択肯定するだけで終わってしまう。しかし、選択においては何かを肯定することが常に別の何かを否定することをともなっていることを悟る必要がある。あえて何かを選択することは、あえて別の何かを否定することを伴う。肯定することだけに目が奪われ、この否定の側面=相対化の側面が見落とされると、不十分となる。あえて民主主義や科学を選択することは、それ以外のものの仮の相対化を伴う。
 いずれにしろ、これまで述べてきた全ての知性の段階は、バラバラに存在するのではなく、つながっており、関係し合っている。その関係性を深く認識し、なぜ人がそのようなものの見方に陥るのか観察していくことが求められるのである。

 平和のためには、単純な相対主義をあえて選択したほうがいいというのが、私の立場である。
 また、私は、ニセ科学批判者や科学主義者などの原理主義者にはあえて単純な相対主義で対応しておいた方が適切であると選択している。その理由は、原理主義者は自己の主張を究極のところで絶対化しているからである。この我着=絶対主義を否定しておかなくては、次の段階の思想に進めないのである。徹底的な相対化を経ないと、知性は後退したままになるのである。相対主義も方便であり、人を見て法を説けということである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-09-05 03:37 | 理論