<   2010年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因。

 ホームレス支援施設に、二十代、三十代の青年が入所しており、若年ホームレスの割合が増加しているという。
 若年ホームレス化は、経済的貧困や失業が原因というよりも、コミュニケーション能力の欠如のほうが根本原因であると言える。ホームレスになる前に、生活を立て直すために、他者の協力を得る対人関係能力や交渉能力がないからである。

 例えば、派遣切りにあっても、故郷の親や兄弟、元彼女、友人、元派遣先同僚などに頭を下げて宿泊させてもらうとか、当面のホテル代を貸してもらうなどして、住込み就労先を見つけるなどすることもできる。つまり、対人交渉能力があれば、他者の協力を取り付けることで、ホームレスにならずに済む。しかし、若年ホームレスには、それができない。なぜなら、人に頭を下げて相談し、援助を要請するコミュニケーション能力が欠如しているからである。また、プライドが高いので、人を頼ろうとはしない者もいる。

 他人が自分のために援助してくれるためには、日頃から良好な対人関係を保っておく必要があるが、自己中心的な若年ホームレスには頼れる友人も少なく、孤立化しており、いざという時に誰も助けてくれない。つまり、もともと対人関係が苦手なので、家族関係も友人関係も恋愛関係も保つことができず、いざという時に頼れず、ホームレス化するわけである。
 このように、コミュニケーション弱者が若年ホームレス化しているのである。湯浅氏が考えるような経済的要因=貧困が原因ではなく、対人関係能力が若年ホームレス化の真の原因なのである。
 
 ホームレスから立ち直るためには、ホームレス化したことを社会のせいにするのではなく、自身に対人関係能力が備わっていないという自己責任として事実認識し、自己の行動を改め、人間力をアップすることが大切なのである。若年ホームレスにとっては、社会責任論は自己の問題状況の合理化・正当化の手段にしかすぎない。社会責任論という観念的な物語に甘えるのではなく、コミュニケーション能力の欠如という具体的事実から出発することでしか、問題は解決しない。
 反貧困論は、若年ホームレスには人間力をアップすることがお金よりも大切であるという現実を覆い隠すことで、ホームレスを再生産する思想装置として働くのである。貧困化社会ではなく、コミュニケーション格差社会こそが日本社会の実態なのである。

 若年ホームレスに対しては、資金援助ではなく、心理療法たるSST(ソーシャルスキルトレーニング)の提供こそが真なる処方箋となるのである。

参考
反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 ちなみに、若年ホームレス化の原因がコミュニケーション能力にあるという説は、様々な論客が唱えており、私だけが提唱しているわけではない。
 仮に若年ホームレス化の問題が社会にあるとしても、それは湯浅氏が主張するような貧困などのような経済的問題にあるのではなく、学校教育の問題である。学校教育は組織労働に耐えうるコミュニケーション能力をもつ人材を育成すべきであるのに、その教育機能が十分に発揮されていないわけである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-10-31 17:21 | 社会分析 | Comments(5)

東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評

 東浩紀・宮台真司著「父として考える」という新書が出ている。これは、デリダのポストモダン思想を受け継いだ郵便的脱構築で有名な東浩紀と、ルーマン社会学を受け継いだ社会学の巨人・宮台真司の対談である。
 
 二人と言えば、俗流若者論批判者である後藤和智から批判されているのは周知のとおりである。思想地図においては、今や事実やエビデンスを絶対化する後藤氏らの事実主義思想の登場によって、観念的なポストモダンの論客は時代遅れとして否定されつつある。事実に基づかない反自然科学的な知識体系として、東浩紀や宮台真司らの思想は、駆逐すべきであるというわけである。
 今後、ニセ科学批判運動と同じく、学問の世界において、反自然科学的な知識体系が魔女狩りされていく傾向は強まっていくと考えられる。ルーマン社会学の観点からは、これは、ある意味、科学が自律性のあるシステムとして分出している現代社会では、仕方のないことである。(理論)社会学に残されている道は、社会思想として社会統合と自我統合を担うことに特化されていくことしかないかもしれない。

 さて、そのような思想地図で起こっている戦争状態を踏まえた上で、本書で面白いことが書かれていたので指摘しておきたい。本書は、父として考えるという表題であるが、基本的には社会を語っている社会評論=社会解釈である。
 
 宮台氏は、自らがラディカル構築主義者であるにもかかわらず、鋭く社会構成主義を批判する。
 全てはつくられたもの、つまり構成されたものであるとしても、視座によっては構成されたものは構成されざる無為のものとして観察され、虚構ではなく、真理=事実として認識されるという。詳しく言うと、共同体に所属している内的視座から観察すると、共同体を支える価値規範や知識体系は、根拠のない物語ではなく、真実であるということである。例えば、雷を神様が怒っていると考える共同体があるとすると、その知識体系は共同体に所属する人々にとっては真理であると受け取られるということである。もちろん、共同体の外にいる者の外的視座から観察すると、根拠レスの虚構とうつるわけである。雷は神様の怒りという知識体系があることで、回っている共同体では、それは違和感なく人々に受け取られ、真理として機能するのである。
 とにかく、宮台氏の主張を私なりに解釈すると、一つの共同体を支える価値規範や知識体系は、共同体の外から観察した時には虚構であり、根拠レスにうつるだけであるので、社会構成主義のようにやみくもに全ての共同体の価値規範を全て根拠レスと見なし否定するのはおかしいと指摘しているのである。言い換えれば、社会構成主義者の視座は、一切の共同体から超越した常に外的視座からの観察であり、外的視座を絶対化しているわけである。外的視座のみが正しいわけでなく、内的視座によって相対化されなければならない。社会構成主義者が全ての共同体の価値規範や知識体系は根拠レスであり真実ではないという時、自らを絶対化しているのである。これは、悪しき相対主義である。悪しき相対主義は、内的視座から観察すると、共同体の価値規範が真実であるという事実を虚偽とみなす誤謬を犯しているのである。

 このように(内/外)という別の区別を再参入することで、社会構成主義=相対主義の盲点を見抜き、相対化した宮台は、やはり哲学においても一流と言わざるを得ない。
 ただ、内外の区別は流動的であり、内的視座からの観察と外的視座からの観察が弁証法的な関係に有り、他なくしては自己もない縁起関係にあることも踏まえなければならない。内的視座からは事実であり、外的視座からは物語となるが、事実と物語が相まって共同体と外部は可能になるのである。これはレヴィナス級の哲人である柄谷行人の論理でもある。
 とにかく、一つの知識体系は、ある視座からは真理となり、別の視座からは虚偽となるのである。絶対的な視座たる神の視点は存在し得ず、視座の差異によって、真理値がコロコロと変わるのである。このように考えると、科学はどんな場合でも、真理であるとする科学主義者の観念は誤謬であることがわかる。科学が真理だと思うのは、科学が真理だと信じられている現代社会に属している内的視座から観察しているからである。このことに関してニセ科学批判者は盲目である。
 
 宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。ただ、そのような社会学的見解を彼らに言うと、相対主義だと我々は見なされるのである。端的に言うと、彼らは、自己の視座を再帰的に認識できず、相対主義者よりも、視野が狭いということになる。それだけの話である。
 
 何を知識の正しさの根拠と見なすかは、社会によって異なり、その差異を観察するのが社会学の役目である。

 参考
 記憶が定かではないが、確か社会学者芹沢一也が脱社会性という言葉によって少年を怪物化し治安悪化神話の片棒を担いだと宮台氏を批判していたが、それに対して何かの書物で宮台氏が視座と視点の混同であると反論していたことがあったと思う。これが何を意味していたのかわからなかったが、もしかしたら、宮台氏は、体感治安という人々の内的視座による観察を一方的に非真実として棄却し、犯罪統計という外的視座のみを真理として絶対化する治安悪化神話論批判者の在り方を批判したのかもしれない。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-10-24 08:31 | Comments(0)

カルト信者をつくらない処方箋としての相対主義

 ニセ科学批判者やその系列のブロガーたちは、カルトだから悪いという発想をよくとっている。カルトというレッテルを貼ることで相手を貶めるわけであるが、カルトとは何を指すのか明確にしておいた方が良さそうである。(カルト/カルトでない)という区別がどのような基準によって構成されているのか確認しておきたい。
 カルトは、もともと崇拝・礼拝というラテン語から発生したものであるが、現代的な意味においては、カルト宗教だとかカルト団体だとかいう具合に使用されている。その意味するところは、下記のごとくだと思われる。

 主にある一定の思想や信条を共有する組織を指す。(多くは宗教団体)
 既存の社会的価値から逸脱しており、反社会的である。
 教祖を絶対的に崇拝する。
 教義を絶対的真理とし、他を排除する。
 批判するものに対して極度に攻撃的である。
 強引に勧誘する。
 目的のために手段を選ばない。
 離脱の際に暴力や恐怖心がともなう。

などである。
 これらの性質が認められる宗教や集団をカルトと呼ぶことができる。これは社会学的に言うと、全体主義と性質が同じである。カルト宗教やカルト集団は、社会レベルではなく、集団レベルの全体主義である。過激な共産主義集団はカルト集団と同一の特性を持つことがわかる。カルト集団では、集団構成員の自己選択性=人間性が否定され、集団内部に制裁による虐待暴力が生ずることもよくある。

 ニセ科学批判がカルト化していると言われる際には、ネット社会に限定してのことであり、教祖を崇拝するという点、強引に勧誘(説得)するという点、自己の教義を絶対的真理とし、他を排除する点、批判するものに対して極度に攻撃的である点にあると思われる。
 ネット上のことであるが、ニセ科学批判にまつわる記事を書くと多くの信者さんが私を説得に来たことを記憶している。強引な他説攻撃による説得行為こそがニセ科学批判をカルト化する主な要因となっている。水伝やホメオパシーがカルトかどうかは、信者獲得のための強引な説得行為があるかどうかに関わっている。カルトとは、教義内容ではなく、組織運営形態や布教方法の問題なのである。例えば、既存の仏教やキリスト教は、その教義内容は反科学的であるにもかかわらず、強引に布教しないことで、社会からカルトと見なされない。
 つまり、カルトであるかカルトでないかは、教義内容や思想内容ではなく、組織運営形態と布教コミュニケーションの方法によるのである。(カルト/カルトでない)という区別は、(内容/方法)という区別に準拠しており、方法の項の出来事であることがわかる。組織体システムとそのコミュニケーションが全体主義化していることがカルトの社会学的本質である。反科学的であることがそのままカルトではない。ニセ科学批判者は、反科学的なものに対して闇雲に全てカルトであるというレッテルを貼り、価値を貶める傾向にあるので要注意である。反科学=カルトという図式を安易に使用しているブロガーがいるので、ここで釘を刺しておこう。

 社会学的には、カルト化の処方箋は、ニセ科学批判者が嫌う相対主義である。絶対的なものはなにもないという相対性感覚を保ち続けることがカルトにはまらないための予防線となる。教祖や教義を絶対化しているカルト集団には、相対主義者は入らないのである。みなが強い相対主義者であれば、カルト集団に入ることはありえず、カルト集団は信者を獲得できないのである。カルト信者から私たちの教義は絶対的に正しいから信じなさいと言われても、相対主義者は正しい思想が一つしかないというのはおかしいと思い、入らないのである。カルトに対する最大の処方箋は、原理主義的相対主義者になることである。
 
 ニセ科学批判者はニセ科学をカルトとして批判しているのに、ビリーバーをつくらない最大の処方箋である相対主義を嫌うという自己矛盾を起こしているのである。カルトを滅ぼすのは、ニセ科学批判ではなく、相対主義なのである。相対主義を批判するニセ科学批判者たちは、真理は一つであるという固定観念を人々に植え付け、その結果、真理は一つを求めるカルト信者を増やすことに寄与してしまうのである。事実としての真理は一つという自然科学の観念を持つ故にオウム真理教にはまった理系の若者たちがいた事実を自覚して欲しいのである。事実=真理は一つという固定観念でもって、ニセ科学が科学的に間違いであると批判することは、諸刃の剣である。そうなると、意識構造が変わらぬまま、ニセ科学ビリーバーはそのままニセ科学批判ビリーバーとなるのである。相対主義によって意識構造が変わらないと、真理は一つという固定観念を持つカルト信者は本質的に変わらないのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
 
[PR]
by merca | 2010-10-11 22:46 | ニセ科学批判批判 | Comments(3)

斉藤環氏に見る俗流カルトバッシング論批判

 精神医学者(科学者)の斉藤環が、毎日新聞の時代の風において、「ホメオパシー」をめぐって、という論説を書いている。はてブもまたすごい。
 http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20101003ddm002070085000c.html
 
 この論説は、やはりニセ科学批判者によって批判されている。しかし、斉藤氏の主張は、単なる相対主義ではなく、文化相対主義と機能的等価主義を配合した高度な社会学的処方箋である。
 まず、医学的にはホメオパシーが偽薬効果以外はないと考えている側面は科学に準拠している。しかし、ここがポイントであるが、偽薬効果を肯定し、社会心理学的効用として自己承認欲求充足機能があると認めている。カルトについては、過激な文化的排除がカルト化をもたらすと指摘している。これは社会学的には正しい。社会が支持する価値観と反対する価値観を完全排除する恐ろしさを指摘している。
 実は、これは二重の意味で恐ろしい。一つは、迫害された者たちが過激化することである。斉藤氏はこれを指摘している。それとは別に、平和主義者である私は社会の支持する価値観を無反省に絶対化し、社会が逸脱者に暴力を加えるおそれを指摘しておきたい。社会による文化的排除による暴力現象で多くの人の命や精神が傷つけられて来た歴史を忘れてはなるまい。魔女狩りにその典型をみる。
 社会学では、文化的排除を扱う。ニセ科学批判者は、安易にカルトという言葉を使用し、他者の思想や技術にカルトのレッテルを貼り、社会的異常あるいは社会的逸脱として批判する。既存の社会的価値観から逸脱している反社会集団をカルトと呼ぶのなら、ローマ帝国内のキリスト教もカルトであったということになる。封建社会では、民主主義思想も自由主義思想もカルトであったことになる。中世ヨーロッパ社会では、科学者コペルニクスの地動説はカルト思想ということになる。
 このように、カルトという概念は、時代と地域ごとの社会に相関的な相対性のある概念であり、キリスト教、自由主義、マルクス主義、そして科学もカルトであったのであり、社会から集合的制裁=迫害を受けて来てたのである。
 
 科学が真理の王として君臨した現代社会では、科学に反する知識体系はカルト扱いされることになる。その尻馬にのっているのがニセ科学批判である。科学は自らが中世社会でカルトとして弾圧されてきたトラウマ記憶を忘れ、真理を主張する非科学的知識をバッシングするのである。
 社会が変われば、何がカルトであるかも変わるという社会学的真理を無視して、自らの立場が普遍的に正しく絶対的であると思い込み、自己に違和的な知識体験を文化的に排除するのである。ニセ科学批判や科学主義によるカルト批判は、文化的排除の一種である。

 社会学からすると、古代社会によるキリスト教弾圧や中世社会による科学者の弾圧と同じ社会的メカニズムで、ニセ科学批判が起こっているのである。人類は同じ過ちを繰り返してはならないのである。社会学のみがこの過ちに気づいているのである。
 こういうと、またニセ科学批判者が文化相対主義だと批判してきそうである。ところが、逆説的であるが、社会の秩序を支える知識体系や価値規範がそれに反する逸脱者に制裁を加えるという社会学的真理のみは、時代を通して不変であり、相対性を免れていることになるのである。そういう意味で、自然科学的真理よりも社会学的真理の方が普遍的で確かであるのではと思う次第である。

 既存の社会の価値観を疑うことなしに、社会が支持する通俗道徳に準拠して、他者批判を行うニセ科学批判者は社会に洗脳されており、基本的に保守的である。ニセ科学のビリーバーに対して信じるな疑えと言っているが、当のニセ科学批判者自体が通俗道徳のビリーバーなのである。ビリーバーという観点からは、目くそ鼻くそを笑う関係である。
 ニセ科学批判者は社会を疑わない人たちであり、自己の属する社会を疑い、相対化し、洞察を深める社会学の徒とはそこが決定的に異なる点である。

 斉藤氏は、菊池氏や後藤氏のように俗流カルトバッシングに走るのではなく、異なる価値観をもつ人たちを排除せず、役割分担させ、共存の道を探るという極めて社会学的には妥当な処方箋を示しているだけなのである。ニセ科学批判者たちがこの処方箋を理解できないのは、彼らが自己の所属する社会の支持する科学と通俗道徳を絶対化し、思考停止に陥っているからである。さらに、他の観点を受け入れず、また自己の観点のみが議論するに相応しいと絶対化するのも特徴である。斉藤氏が提示した観点を単なる相対主義と思うのは浅学の者なのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-10-11 12:13 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)