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コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能

 成熟社会においては、経済的資本や文化的資本をいくら所有していても、人間は幸福になれない仕組みになっている。この社会では、社会関係資本(人脈・友人関係など)こそが決定的な幸福格差をつくる。社会関係資本の産出・使用には、コミュニケーション能力が必要となる。
 コミュニケーション能力とは、場の空気(状況)を読み、他者を理解し、正確に自身の意思を伝え、他者を動かすことで、コミュニケーションを連接させていく能力のことを指す。このような能力に長けたものが、いつでも頼ることができる人間関係を構築し、成熟社会の勝者となる。
 残念ながらコミュニケーション能力の差によって排除されることは社会責任にすることはできない。例えば、結婚できないことや恋人ができないことは、自己責任だと思われている。社会が悪いから俺は恋人ができないという言葉に共感する者はほとんどいないだろう。それと同じで、俺を雇ってくれないのは社会のせいだというのも、おかしいことがわかる。成熟社会では、恋愛・結婚と同じく、失業・就職も自己責任として処理される。共同体的呪縛から解放された成熟社会では、むき出しの個と個の関係が中心となり、あらゆる行為は社会的に自己選択・自己責任として処理される。

 また、コミュニケーション弱者は、様々な社会的排除の対象となる。コミュニケーション能力の欠如は、自己責任であり、セフティネットがなく、社会的に排除され続ける。

(職業社会からの排除)
 組織労働における対人関係に適応できずに、失業する。また、コミュニケーション能力を重視する企業から面接で落とされる。
(家族関係からの排除)
親を説得する話術がないために、良好な家族関係を保てず、家を追い出される。
(結婚・恋愛・性からの排除)
コミュニケーション能力が低いために、不器用で異性の気持ちを理解できず、恋愛ができず、見合いをしても断られ、結婚できない。自ずと、性的関係まで至らず、性欲もセックスで満たすことができない。
(学校社会からの排除)
コミュニケーション弱者は、スクールカーストの身分は下層となり、学校の学業に適応できても、友人関係やクラス内のグループに参加できず、孤立化する。いじめの標的となり、不登校となり、排除される。
(友人関係からの排除)
コミュニケーション能力が低いために会話に面白みがなく、友達ができない。
(自身からの排除)
 人は他者から褒められるなど、コミュニケーションを通して自己肯定感をえるものであるが、それがないために否定的な自己イメージしかもてず、自己肯定感が低い。

 上記のようなコミュニケーション能力のなさによる社会的領域からの排除がコミュニケーション弱者の経済的貧困・ホームレス化をもたらすわけであり、景気や経済的貧困によって社会的に排除されるわけではない。湯浅氏は、この部分の因果関係を見誤っている。

 しかし、どんなコミュニケーション弱者も唯一受容してくれるものがある。それが宗教である。宗教は、コミュニケーションができるかどうかで人を評価しないからである。これからは、コミュニケーション弱者を取り込む新興宗教が益々大きくなる可能性がある。
 宗教によって自身を肯定されたコミュニケーション弱者は、宗教に認められたことを足がかりに一気に積極的なコミュニケーションをとりだし、熱く人に布教するであろう。これは、よくあることである。
 もし宗教による受容が怪しくて嫌なら、ボランティアや福祉サークルへの参加によって、無宗教的に自己肯定感を高める処方箋もある。ボランティアや福祉の世界も、コミュニケーション能力によって人を評価せず、人権ということだけで受け入れてくれる仕組みになっているからである。ボランティや福祉は、コミュニケーション弱者がカルト新興宗教に吸収されないようにする防波堤として機能しているのである。

 システム論社会学の立場からすると、コミュニケーション弱者救済のシステムをつくりだすことが急務である。反貧困論やマルクス主義のような浅薄な社会責任論・社会原因論ではなく、社会システム論を前提とした高度に再帰性な自己選択論・自己責任論に立脚したシステム構築が必要なのである。社会科学を専攻する者ですら、古典的な社会観にとらわれており、この点を理解できる者は極めて少ないのである。

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by merca | 2010-11-23 11:16 | 社会分析 | Comments(0)

仮説主義科学論はニセ科学である。

 竹内薫氏は、科学作家であり、多くの科学評論を手がけており、科学マニアのうちでは特異な位置をしめている。著書においては、「99.9%は仮説」「なぜ科学は「ウソ」をつくのか」「白い仮説 黒い仮説」という疑似科学批判やニセ科学批判に関わる本をだしており、自身の科学観を浮き彫りにしている。竹内氏の科学観をひとことで言うと、仮説主義科学論ということになる。つまり、全ての科学的知識は、仮説であり、いずれ反証される可能性をもつ相対的知識であるということである。

 竹内氏は、菊池氏のように科学的知識を知識獲得方法によって定義するのではなく、仮説であることにそのアイデンティティを見いだしている。また、複数の矛盾対立する仮説が乱立することも肯定している。さらに、自己と異なる他者の仮説を理解したうえで、議論することの重要性を説く。極めて寛容である。
 さらに、全ての科学的知識は仮説なわけであり、端的に言えば、科学はウソをつくという発想となる。従って、科学的知識は仮説であるにもかかわらず、それを事実とみなし、他人に押し付けることは、ウソを押し付けたことになる。科学的知識は仮説としての虚構なので、その虚構に基づいて他説を否定することはできないことになる。要するに、原理的に、仮説主義科学論は、ニセ科学批判の正当性そのものを否定することになる。これは、すでに一種のニセ科学批判批判である。
 ちなみに、社会構成主義は、全ての科学的知識は科学的方法によって科学者集団によって人為的に構成されたものであり、相対的なものであると主張する。従って、仮説は科学者によって構成されたものであると考える仮説主義科学論も、究極的に社会構成主義と同一であり、原理主義的相対主義を本質とする。
 ニセ科学批判者は相対主義を批判するが、当の科学が相対主義だったのかと思うと、自己矛盾的だと思った。

 システム論社会学の観点からすると、竹内氏の仮説主義科学論は、科学が絶対主義を含んでいることを見落としているという誤謬をおかしている。科学が、真理あるいは事実は一つという観念を所有していることを見落としている。科学システムは、もともと真偽というコードに準拠しており、社会的には事実は一つであるという前提に基づいて進化・発展してきたのである。事実が複数あるのなら、そもそも科学的議論自体がありえず、知識の真偽の区別はつかず、科学の進化もあり得ない。
 科学者は、正しい知識を求めて実験し、他の学者と議論することで、古い仮説を否定し、正しい仮説を真理として定立するのである。真理が複数あるのなら、古い仮説を否定する必要はなくなるのである。真理に近似している仮説が採用され、古い仮説は否定されるのである。観測や実験によって新しい仮説が採用され、古い仮説が否定されるのは、事実や真理が一つという観念が存在するからである。
 その点を完全に無視して、仮説だから全て科学的知識はウソであるというのなら、ウソである点において科学も迷信と変わらなくなるのである。

 相対主義者である私がこのような議論をするのはおかしなものであるが、真理が唯一性・絶対性(事実はひとつしかないという観念)をもつという科学観こそが正統であり、菊池氏に代表される過激派ニセ科学批判者こそが正統な西洋の自然科学の後継者なのである。科学純粋主義者からしたら、竹内氏は異端者である。異端審問にかかるおそれがある。

 竹内氏の仮説主義的科学論からは、ニセ科学批判は成立たない。全てが仮説であり、真理や事実が複数あるのなら、究極的に知識の正当性は皆同一になるからである。ニセ科学批判者が嫌う悪しき相対主義の典型である。
 
 これまでの科学的知識から演繹して水が人間の言葉に反応することはあり得ないとする菊池流の批判は、菊池氏が科学的知識を仮説ではなく、真理だと思っているからこそ、可能になる。これまでの科学的知識が仮説=ウソだと思っていたら、水伝を否定できなくなる。竹内氏の仮説主義的科学論からは、水伝、ホメオパシー、ゲーム脳も、全て批判できなくなるのである。仮説というウソでもってウソを否定することはできないからである。

 竹内氏の仮説主義科学論に準拠すると、全ての科学的知識は、仮説として平等であり、否定すべきではないことになる。そして、科学は仮説であり、全て究極的にはウソである、ということになる。
 これは、科学主義者によるニセ科学批判批判である。しかし、これは、より事実に一致した知識のみが真理だとする科学の理念に対する冒涜なのである。
 
 竹内氏の仮説主義科学論は、正しく科学の理念である真理は一つという観念を含まないニセ科学である。

 参考エントリー
科学の絶対性とは何か?


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by merca | 2010-11-21 10:15 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

社会妄想=マルクス主義による犯罪行為

 社会心理学者エリクソンによれば、近代社会においては、ちょうど大学生くらいになると、自我同一性=アイデンティティを確立することが発達課題となるらしい。職業社会に出るためには、若者は自分が何であるかを確立することが求められるわけである。
 その際に自我を統合するツールとして、思想は機能する。自我観念は、それを取り巻く世界観とセットになっており、若者は一定の確立した世界観を提供する思想に飛びつくことになる。新興宗教が大学生を狙って勧誘するのはこのためである。
 宗教でなくても、社会思想や政治思想も、青年期の若者の自我同一性を支える世界観を提供する。このようなエリクソンの近代社会における自我の発達段階理論こそが、あの過激な全共闘学生運動の意味を説明してくれる。要するに、全共闘の学生たちは、自我を確立するために、マルクス主義という物語に飛びついたのである。さらに、それが反体制的思想であったがために、親=社会に対する反抗期としても機能したのである。しかし、不幸なことにマルクス主義は、近代社会=資本主義社会に適合的な思想でないために、多くの若者はそれに埋没するほど犯罪行為に至り、社会不適応に至った。過激化し、カルト化していったのである。
 
 全共闘学生運動は、革命のためと言いつつも、結局、社会学的に分析すると、自我の確立という若者の利己的な動機をもととする活動にしかすぎなかったのである。それはともかく、当時、マルクス理論が実証的根拠を欠く非科学的ものであることを気づいていた学生はほとんどいなかった。
 当時の日本社会は、資本家によって搾取されて貧困が日常化しているどころか、高度経済成長期に入り、豊かになっていた時期である。むしろ、学生運動の大学生は、学歴社会の勝者であり、貧困とは無縁な存在である。低所得層のブルーワーカーになったヤンキー系の若者たちからみたら豊かなのである。頭もいいはずなのに、経済や労働状況などに関する戦後からの社会統計に目を通さず、一気に観念的なマルクス主義思想が真実だと勘違いし、飛びついたのである。自身の家庭が資本家に搾取されて貧乏だったという実感体験からマルクス主義を支持した大学生などいなかったのである。社会統計による事実も無視し、体感的な貧困感覚にも根付かず、知的な若者が自己の自我同一性を統合してくれる絶対的真理を求めて、マルクス主義に走り、全共闘運動に走ったのである。
 
 若者たちは、社会統計的事実からも体感事実からも遊離した反科学的な思想=ウソであるマルクス主義に自我を託したのである。当時の学生の社会に対する妄想はすごい。教育問題、政治問題、家庭問題など全ての社会問題を資本主義社会の問題にしようとする認識の歪みが認められる。共産主義革命が起これば、全ての社会問題が解決されると考えていた。そして、全世界が共産主義革命が起こりつつあり、日本社会でも起こると考えていた。そして、有名大学の知的な若者が、強盗や暴力や殺人などの犯罪行為に手を染めていった。思想のために殺人を平気でするのである。
 命よりも大切なものがあると小林よしのりは言っているが、戦後は、皮肉なことに左翼思想によってそれが体現されているのである。人の命よりも、自己の自我を支える思想の方が若者にとっては大切に思えたのである。

 とにかく、マルクス主義は、極めて、実証性を欠く反社会科学的思考であり、妄想である。こんな根拠レスな社会妄想を打ち砕いてくれるエビデンス厨もいなかった。もし当時、俗流若者論批判者である後藤氏のような統計的事実主義者がいたら、面白かったことだろうに。連合赤軍の社会妄想を後藤氏なら見事に打ち砕くであろう。統計的にはマルクス主義は間違いということで、全共闘の学生たちの自我を一撃で粉砕したことであろう。「あんたら自分で社会調査して調べたのか?資本主義に原因があるという実証的証拠を見せてみなさい」というだけで、論破できるのである。
 もしそんな科学主義者たちがいたら、社会妄想から若者を解放し、連合赤軍の殺人行為も防げたかもしれない。マルクス主義というつまらぬ社会妄想のために、いじめを受けて死んでいった人たちは可哀想である。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に描写されているとおりである。一度、見てみたらわかると思う。思想のために人を十二人殺している。
 
 とにかく、全共闘の学生たちは、マルクス主義理論による認識が事実であると勘違いし、物語として相対化できなかったのである。自身の思想を事実として絶対化し、それに従わぬ者に暴力的制裁を加えたのである。当時は、前期近代社会であり、物語を物語として相対化し、自己選択していく器用さがなかったのである。ウソだとわかりつつも、あえて選択するという成熟社会の意識ではなく、マルクス主義が不変の絶対的真理であるという感覚で受容していたところに問題があるのである。当時の若者たちは、動かぬ社会という感覚をもっており、社会を実体視していたのである。彼らは、社会がその都度生ずる空なるものであるという妙理=創発論的社会観を知らなかったのである。

 今、反貧困運動も学生運動家を育成しつつある。社会が悪い、という思考形態は、マルクス主義と同型であり、少し注意しておく必要がある。なんでも社会問題にしてしまう思考形態は、すぐに共産主義と結合する傾向にある。反貧困運動に参加する若者たちに、貧困体感経験があるのなら、まだ健全であるが、知識の上での貧困しか認識していない一流大学の学生には、反貧困理論を思想として内面化して欲しくないものである。

 学生運動と機能的に等価なのが、ボランティア活動である。ボランティア活動は分野も色々とあるし、思想的強制はないので、安全である。ボランティア活動が発展することで、他者と関わり、自我を確立することが成熟社会には適合的な在り方なのである。

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by merca | 2010-11-14 21:30 | 社会分析 | Comments(0)

ニセ科学批判者(通俗道徳主義者)はマイケル・サンデルの正義を学ぶべし

 ニセ科学批判者がニセ科学批判する正当性の根拠は、科学的事実にあるのではなく、最近、世間の通俗道徳にあることがわかってきた。これは、ニセ科学批判批判派の一部のブロガーのうちでは常識となっている。
 つまり、「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」と言った通俗道徳に最終的な自説の正当性の根拠があるようである。このような通俗道徳に準拠して世間の集合的非難と公憤を動員する方法は、週刊誌やスポーツ新聞と同じである。一種のポビュリズムである。
 
 しかし、これらの道徳律は確かに世間の道徳規範として流布しているが、よくよく道徳や正義について深く考えていくと、そんなに道徳判断は単純でないことがわかる。

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」 
 例えば、殺人犯に追われている女性が自分の家に逃げ込み、殺人犯が探しに来たら、「私の家にはいません」というのは、道徳的に悪なのだろうか?

 「人を殺していはいけない」
 例えば、秋葉原無差別殺人事件のような殺人鬼が路上で暴れ、通行人に刃物で襲いかかっているのを目の前にして、他に止める手段がなくて、警察官が発砲して殺人鬼を射殺することは道徳的に悪であろうか?

 「他人に迷惑をかけてはいけない」
 例えば、車両の故障が発覚し整備のために電車をとめ、多くの通勤客に迷惑がかかったとする。安全確保のために車両整備で通勤客に迷惑をかけたことは道徳的に悪なのだろうか?  

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」などの通俗道徳を単純に適用するだけでは、現実の道徳判断はできない。行為のおかれた状況やその他の条件を加味し、議論し、合意をえることでしか、道徳的判断はできない。
 マイケル・サンデルが正義に関する議論で主張しているのは、このような道徳の複雑性である。通俗道徳を単純に振り回すだけでは、道徳判断できないということに尽きる。
 道徳的議論は重要である。ちなみに、社会学でいうと、ハーバーマスが主張する理想的発話状況による対話的理性こそが、道徳的議論で求められるコミュニケーション・システムである。

 しかるに、ニセ科学批判者は、通俗道徳を振りかざし、複雑な道徳に関する民主的議論をすっ飛ばし、したり顔でニセ科学というレッテルを付与した知識、技術、商品などを否定しまくる。科学的事実や通俗道徳という正論で単純に他者を否定する。正論だからという意識に甘えて、他者との正当な議論を経ずに、自説を押し付けて他者を否定する。
 
 ホメオパシーに対しても「人に迷惑がかかるから悪い」「効果がないのに効果があるとウソをついているから悪い」「人が死ぬから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。
 水伝においても、思想の自由(人権)という道徳要因を無視して、「科学的事実ではないウソだから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。

 安易な通俗道徳に基づく価値判断に正当性の根拠を求めず、科学のアイデンティティを穢すから科学的に中途半端な知識を批判するという純粋な科学原理主義に立脚したニセ科学批判者のほうがまだ筋が通っているのである。そういう正当派をみかけなくなった。大槻教授くらいである。菊池氏は通俗道徳主義者である。

 多くのニセ科学批判者は、通俗道徳に流されず、マイケル・サンデルの正義に関する議論を学ぶべきである。

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by merca | 2010-11-14 11:35 | ニセ科学批判批判 | Comments(3)

ホームレスは減っている! 貧困化社会論は統計的にはウソ。

 ホームレスが増えて社会が貧困化しているという貧困化社会論は、神話である。実は、統計上、ホームレスの数は減っている。7年前に比べてほぼ半減しているのである。
 社会実情データ図録 厚労省「ホームレスの実態に関する全国調査結果」
 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2970.html
 
 厚労省のデータによれば、2003年は25296人であったものが、2010年には13124人に減っているのである。これは正しく、貧困化社会論・格差社会論を反証するデータとなっている。
 ホームレスが減っているのにホームレス問題がなぜこんなに取り沙汰されるのだろうか? ホームレスが客観的に減少しているのなら、公設派遣村は本当に必要だったのだろうか? そのような疑問がわいてくる。
 実は、ホームレスは貧困の象徴であり、貧困化社会論を唱える人たちにとってはホームレス減少は都合の悪いデータなのである。
 また、近年、失業率はあがっているにもかかわらず、ホームレスは減っているのである。失業率とホームレスの相関関係は、統計上、全く関係ないことになる。統計から科学的に解釈するとそうなる。統計的事実からは、不景気で失業率があがると、職を失い、ホームレスになるという理屈は反証されるわけである。

 キッセの社会問題における社会構築主義理論で解釈すると、湯浅氏のような活動家たちによってホームレス問題が社会問題(社会責任)として取り上げられ、マスコミで報道され、ホームレスが増えているという印象を人々に与え、社会は貧困化していると、人々が思い込んでいるのである。ホームレス問題は疑似社会問題である。

 これは社会学でいうモラルパニックの一種である。ホームレス問題の報道が増えたことで人々が問題を社会責任として意識化してしまった結果、ホームレス問題が社会問題として構築されたのである。ネットで自己責任説を唱えてみたまえ、たちまちそれは間違っていると非難の嵐がくるだろう。
 湯浅氏の反貧困論の戦略に見事に社会ははまったのである。反貧困論の社会思想としての社会機能には感服する次第である。国策までに影響を与えている。今や自己責任論を唱える人は世間から叩かれるようになったのである。そして、生活保護率は上がっている。反貧困思想の煽りで厚生年金に加入していない老人が生活保護を受けやすくなり。高齢化に伴い生活保護世帯は増えている。
 ともかく、これほどまでに思想=物語が社会に影響を与えた例は近年ない。宮台氏と寺脇氏の成熟社会論という思想による「ゆとり教育」政策以来である。
 統計的事実ではなく、社会思想が社会をつくるという私のテーゼは、反貧困思想によって見事に実証されているのである。私が客観的事実に立脚してホームレスの自己責任説が正しいとか、ホームレスは減っており、社会は貧困化していないと言ったところで、その事実が社会を動かすことはないのである。
 
 それと重要なことをもう一つ。ホームレス化は自己責任であるというのは、次の事実からもわかる。男女という区別からホームレスを観察することで、ホームレス問題が相談力という対人スキルの問題であることが明確化してくる。ここはホームレス問題の盲点であり、みんなあまり気づいていない。
 ホームレスの男女比率は、2010年の統計によれば、男性が12253人、女性が384人、性別不明が487人らしい。ほぼ95%以上が男性であり、女性は数パーセントにしかすぎない。この差異はどこからくるのか?
 それは、女性のほうが人に頼るコミュニケーション能力が高いからである。女性は、離婚して、母子家庭になっても、ホームレスにはならないのである。両親の家庭を頼ったり、友人の援助を受けるための相談交渉能力があるのである。女性は男性よりも、悩みを人に相談する相談力があるので、援助を受ける機会が増えるのである。貧困になっても、相談する女性は生き残り、相談するスキルのない男性は不器用でホームレス化するのである。
 とにかく、ホームレスになる前に、プライドを捨てて相談しまくることが必要であり、これは自己責任の話である。女性はうまく人に相談することでホームレスにならないのに、男性はうまく相談することができず、ホームレスになる。自己責任として、男性ホームレスも人にうまく相談する対人スキルを学びなさいということである。

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by merca | 2010-11-07 21:21 | 社会分析 | Comments(8)

貧困の自己責任説蔓延というウソによって蔓延する反貧困思想

 「若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因」というエントリーは、反響が大きかった。しかし、そのほとんどの意見は、私に対する批判で、自己責任論否定であった。
   
http://b.hatena.ne.jp/entry/mercamun.exblog.jp/14320171/

 さて、湯浅氏によれば日本社会では貧困の自己責任説が蔓延っているというが、ネットでの反応を見る限り、自己責任説をとる者はほとんどいない。私くらいである。つまり、湯浅氏が主張する、日本社会に貧困の自己責任説が蔓延している、という仮説は事実ではないことが証明された。従って、自己責任説の蔓延がホームレス支援の妨げになっているという湯浅氏の主張は全くデタラメだということになる。
 日本社会で、ホームレスが自己責任であると思っている人間は、私を除いて誰もいないのではないかと思うほどである。つまり、多くの国民は、ホームレスは自己責任だと思っていないのである。
 皮肉なことに、多くのネット論客は「日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている」という虚構を信じることで、自己の価値基準からそれはいかんと思い、躍起になって貧困の社会責任説を支持する仕組みになっているのである。これが、私の自己責任論を道徳的に叩くネット論客の心理構造である。このことによって、日本国民がほとんどホームレスの自己責任説を支持していないという事実が隠蔽されることになる。
 
 反貧困運動は、虚構物語としての貧困の自己責任説蔓延説を仮想的敵として、運動の動機付けを調達しているのである。この社会運動上の巧妙なトリックに気づいている者は少なく、多くの浅学のネット論客は、貧困の自己責任説蔓延説を事実と勘違いし、自己責任説を叩くのである。

 日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている、という確かな事実はない。少なくとも、もし自己責任説を否定する多くのブコメの論客たちが日本国民の意見を代表しているというのなら、なおさらそうであろう。

 もし自己責任説が蔓延しているというのなら、自己責任説に賛同するブコメのコメントが欲しいものであるが、全くない。やはり貧困の自己責任説を唱える者はおらず、仮に唱えても私のように叩かれるわけであり、貧困の自己責任説を持つことは世間の集合的制裁にあうのである。自己責任説を唱えている人をネットで探すのは困難である。
 
 私見であるが、むしろホームレス支援団体のケースワーカーや福祉事務所職員たちの方が、本音においては自己責任説が実感として正しいと思っていると思う。日頃からホームレスと関わる福祉事務所職員や施設職員たちは、自己責任説が正しいと心の中で思っていても、世間や反貧困思想をもつ人たちに叩かれるので、口に出せないのが実情ではないだろうか?
 
 ちよっとした職場でのトラブル、飲酒やギャンブルなど、自分勝手な理由で仕事をやめ、自分勝手な理由から家族を頼らず、福祉事務所に金を出せと脅迫にくるホームレスに深く傷つけられた福祉職員たちが、蔓延している反貧困思想のせいで、大きな声で自分たちの本音を表明できない状況をつくっている。

 よかったら、自己責任説を支持しているブログを探してみはと思う。ほとんどないだろう。それは、自己責任説を唱えると叩かれるからである。これではネットは、大衆全体主義社会と同じである。ここでも、ニセ科学批判運動と構図は同じである。
 
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by merca | 2010-11-06 11:05 | 社会分析 | Comments(1)

耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析 | Comments(0)