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ニーチェはいらない。

 善悪の内容は、社会によって異なり、相対的であるのが事実であり、異なる社会同士の道徳観は対立することもある。何を善とし、何を悪とするかは、倫理学の根本的テーマである。
 さて、古くから、西洋哲学では、功利主義(幸福主義)に基づく道徳観と理性主義に基づく道徳観との対立がある。ベンサムに代表される功利主義とは、人々の利益になることが善であり、人々の不利益になることが悪であると考える道徳観である。簡単に、アリストテレス風に表現すると、善とは幸福の手段であり、悪とは不幸の原因であるということになる。功利主義は、行為の結果に着目した道徳観と言える。
 これに対し、カントに代表される理性主義とは、損得とは関係なく、すべきことをし、してはならいことをしないことが善であり、すべきことをせず、してはならないことをすることが悪となる道徳観である。例えば、人の命を救うことは、すべきことであり、結果の損得とは関係なしに、善である。また、人の物を盗むことは、してはならないことであり、結果の損得とは関係なしに、悪である。このように、行為の結果に関係なく、善悪はあらかじめ無条件に定められているということになる。簡単に言えば、道徳規範に従うことが善であり、反することが悪であるということである。道徳規範の内容が問題になるが、カントの場合、実践理性による自由の実現が道徳規範の内容となる。

 いずれにしても、功利主義も理性主義も、何を善とし、何を悪とするかについて、満足のいく回答ではない。そこで、善悪を別の区別から観察してみたい。
 (利他/利己)という区別で観察すると、善は利他に対応し、悪は利己に対応することになる。よく思い起こしてみると、我々は、普通に利他的人物を見ると感動するし、利他的人格の人間をいい人だと人格判断している。宮台真司が指摘するように、多くの人々は利己主義者には感動が湧かず、利他主義者に感動と尊敬の念を抱き、その価値観に感染することは事実である。
 逆に、多くの人たちは、自分のことしか考えない利己的人物をつまらぬ悪い人だと感じる。全く他人に思いやりのない利己主義者は人から軽蔑され、嫌われる。
 このように、利他と利己は、純粋に善悪の観念と直結しているように思える。この感覚は重要であり、ここに功利主義と理性主義を越える秘訣が隠されている。
 
 実は、利他主義は、功利主義の要素と理性主義の要素の両方を含んでいる。利他主義は、目的において他者の利益や幸福のために行為するわけであるから功利主義的であるし、また自己の利益や幸福を度外視して他者のために行為すべきと考え、自己犠牲的に振る舞う点において理性主義的である。動機において自己の欲望を抑えてまでも他者のためにすべきと考え、結果において他者に利益と幸福をもたらそうとする。仮に、結果的に自己の行いが他者のためにはならなかったら、利他主義者は後悔の念に襲われ、自己を責めることになるだろう。つまり、利他主義こそが善なのである。そして、利他的行為を妨げる利己主義が悪となる。とにかく、利他主義は、功利主義と理性主義を止揚するジンテーゼの位置にあるのである。
 
 さらに、キリスト教、仏教、儒教などの世界宗教においては、(利他/利己)という区別はそのまま善悪と同義である。仏教では、端的に善行とは利他を意味している。儒教においても仁愛とは、他者への思いやりの情である。キリスト教の隣人愛も他者へのいたわりである。このように文化を越えて伝播する世界宗教は、善悪の基準として(利他/利己)という区別を採用している。世界宗教の場合、利他の「他」とは特定の共同体の内部を越えた人類全てを指すということはいうまでもない。利他的行為の対象である他者は全人類であり、全人類を救済の対象にするからこそ、世界宗教たりうるのである。

 人々のおおよその自然な善悪感覚及び世界宗教の倫理観からすると、「利他は善であり、利己は悪である。」 簡単であるが、これが事実的な善悪の基準の回答である。これには多くの人はさして異議はないと思うし、これで十分である。多少異議が有ろうとも、私は、利他を善と呼び、利己を悪と呼ぶことに違和感はない。
 
 なお、明確で厳密な善悪の基準の定義=概念を求めたがる人は、善悪の基準を法則と勘違いしている人である。人と人の関係に先立って、善悪は宇宙の法則のようにあらかじめ存在するものではない。人と人が関係しあうことでコミュニケーションが創発され、それを一つの区別から観察することで後から善悪は構成されるものである。
 私は、利他を善と名付け、利己を悪と名付けるだけであるし、そうすることで、他者とのコミュニケーションにおいて差し障りはない。私が利他的行為をなす人を見て善人であると言ったとしても、私の言葉の使い方がおかしいという人はいないであろう。
 私の場合は、ニーチェのように絶対的で明確な善悪の基準にこだわりすぎて、ニヒリズムに陥り、ことの本質を見失うということはないだろう。
  
 利他は善であり、利己は悪であることで、倫理は成立ち、世界社会は回るのである。ニーチェはいらないのである。

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by merca | 2010-12-26 23:35 | 理論 | Comments(2)

つくられる反中感情の脱構築

 他国・他社会の視点・視座から構成された事実を虚構と見なし、自国・自社会の視点・視座のみに準拠して構成された事実に基づいて、他国・他社会を価値判断し、敵国感情を抱くことは、社会病理現象の一つである。
 中国社会は意図的に反日感情を煽る教育をしているわけではなく、中国社会の視点から構成された侵略行為という事実に基づいて自国の歴史教科書をつくっているわけである。この場合、侵略かどうかを決定する権利は被害を受けた側にあり、その視点から事実が構成されることになる。
 例えば、いじめはいじめを受けた者がいじめと思うことでいじめとなるのと同じであり、中国が日本から侵略を受けたというのなら、中国人たちのその思いは真実であり、日本人には否定できない。
 これは、少しでも臨床心理学、犯罪被害者学、社会構成主義を習得したものであれば、手に取るようにわかる原理である。これをわからずに中国を非難するのは、浅学と言わざるを得ない。
 
 一つの出来事は、多様な視点・視座によって、多様な解釈が与えられ、複数の事実が構成され、その事実に対する価値判断として複数の物語が誕生することになる。
 小林よしのりが反中感情を煽っているが、彼は客観的事実に準拠していると思い込んでいる。しかし、その客観的事実たるものこそ曲者である。例えば、同じ食べ物を食べても、ある人はまずいと感じ、ある人は美味しいと感じたりする。同じ物理的対象なのに味覚が異なることになる。しかし、二人とも自身の味覚を事実であると思い込み、言い争い、対立が続くのはナンセンスである。味覚が個人ごとに異なるという感覚の相対性が現実であるということを知っている賢者・相対主義者のみが二人の対立を和解させる視点を提供できるのである。

 出来事は単一であるが、事実は複数存在し、事実に関する解釈も複数存在する。このような人々の認識における相対主義を嫌う科学主義者は多いが、このこと(認識の相対性)は人間の事実認識の本質的構造であり、相対主義が正しいわけであり、それが現実である。
 この現実から目を背け、事実は一つであるという固定観念から、絶対主義的な独断によって、他者批判に至るのが一番怖いのである。相手の視点・視座を理解することで、絶対性の呪縛から解放され、人は寛容になれる。寛容さを欠いた反日・反中感情は愚かである。

 中国人が非人道的であり、利己的であると多くの日本人が思い込んでいるが、これは部分の全体化という認知の歪みであり、日本社会がもつ集団認知の歪み=社会病理現象である。
 まず、中国人が非人道的で利己的であるという人たちに対しては、具体的に中国人を対象とした規範意識の調査をしてみたのかと問いたい。どのような実証的な社会調査を根拠にして、このような認識を構成したのか問いたい。
 共同体の外にある他者に対する利他的行為というのなら、中国人のほうが優れているかもしれない。敵国である日本人の残留孤児を自らが貧困であるにもかかわらず、育てた中国人養父母は極めて人道的・倫理的である。日本人残留孤児を育てた中国人養父母たちは、共同体内部への帰属意識=愛国心のみを強調する小林よしのりよりも、哲学的に見て倫理的である。
 ちなみに、同じように共同体の外部に利他的であった人物は日本人にもいる。自国の命令に違反してまでも、出国ビザを発行しナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝である。
 中国人であろうと、日本人であろうと、人類は、状況によっては、元来共同体を越えた倫理性を創発する可能性をもっているのである。この倫理性への可能性はイエスの「汝の敵を愛せ」、仏教の「一切衆生悉く仏性あり」という世界宗教の根底をなすものである。他者性の哲学者レヴィナスが追い求めた究極の倫理性である。
 北朝鮮問題も、北朝鮮人民が悪いと思っている日本人は少ないと思われる。独裁制国家というシステムの問題であることを賢い日本国民は理解している。
 
 マスコミや煽動家の煽りに騙されず、つくられた反中感情・反日感情に翻弄されず、敵国感情を捨てよう。ジョンレノンのイマジンを思い出そう。国境がないと全世界の人類が思えば、全ての国家は一瞬にして消滅するのである。社会は、国家であれ、企業であれ、人々のコミュニケーションによって創発された仮象=システムにしかすぎないのである。創発の妙理からしても、原理的にジョンレノンのイマジン思想は、正しい。
 中国人養父と残留孤児の関係、杉原千畝とユダヤ人の関係においては、すでに国家は存在せず、寂滅し、倫理コミュニケーションが創発されているのである。

 事実の相対主義=寛容と倫理の単一性こそが平和をもたらすのである。
 
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by merca | 2010-12-19 10:59 | 社会分析 | Comments(0)

「「正義」について論じます」書評 宮台対大澤!!

 宮台よりも観念的な社会学が存在する。それが大澤真幸の社会学である。大澤氏の著作はかなり読んできたが、あまり当ブログで取り上げることはなかった。大澤氏の第三者の審級論は、社会の根本原理を定式化したものとして名高い。
 また、大澤氏は、柄谷行人との親和性もあり、浅田彰、東浩紀などのポストモダンの論客たちと、最高度の文化的かつ知的な日本の思想界を形成してきたのである。
 そんな大澤氏が社会学の鉄人である宮台氏と対談し出版されたものが「「正義」について論じます」である。日本思想界における最高度の観念論的知性がぶつかりあう姿は興味をひいた。数ページ開くと、二人の顔のアップが突然出てくる。すでに、二人とも、学者ではなく、思想家の顔であった。
 大澤氏はいく分普通に見えたが、やはり宮台氏の顔はどこか違っていた。それは、単なる思想家ではなく、社会変革者の顔なのである。私は直感的・霊的にそれを察知できた。
 もうすでに、宮台思想は、ニーチェのごとき陳腐な西洋哲学を越えているのである。日本の学者や思想家は遅れていると思っている西洋かぶれした大学院生たちは多いが、実は、宮台氏に限っていうと、世界レベルの哲学的知性なのである。

 さて、本題の書評の内容に入りたい。三つの話題に絞りたい。三つの話題とは、私なりに整理すると、「正義の唯一性と善の多様性」「利他性への感染(ミメーシス)」「社会的包摂における中間集団の必要性」ということになる。

・「正義の唯一性と善の多様性」について
 正義の唯一性と善の多様性について議論されていた。これは、文化相対主義の問題である。正義とは、各々の文化共同体を越えて人類が従うべき一つの正義=道徳規範を意味する。一方、善とは、各々の文化共同体が所有する個別の道徳規範であり、現実的には共同体の数だけ多様である。
 この二つの区別の重要性が説かれ、さらに正義の唯一性という観念は現実には不可能であるが、必要不可欠であるという議論に収斂していくことになる。この議論は、共同体を越えた外部を思考することと同じであり、他者性の認識不可能性=超越性と哲学的には同義である。
 残念ながら、柄谷行人の名著「探求Ⅰ」「探求Ⅱ」において、この種の議論は結論が出ており、そちらを読むことをすすめたい。ちなみに、柄谷行人の言葉では、正義が倫理に対応し、善が道徳に対応することになる。
 
 宮台と大澤の対談では正義の結論はでなかったが、ここで、正義の唯一性と善の多様性の問題解決についての回答を言っておきたい。
 正義の唯一性は人類社会という無限世界を前提としており、超越的であり、具体的な内容としては認識できず、到達不可能であるが、超越的である故に、かえって善の多様性の前提を形成することになる。唯一の正義は、神のごとく、自身は具体的・個別的な姿を現さず、内容のレベルでは認識不可能であるが、具体的な善の多様性の前提を形成するというかたちで作用しているのである。
 このように正義の問題は、否定神学的弁証法のみが解決してくれることになる。これは、相対主義と絶対主義が対立的に依存関係にあるという論理と同じてある。わかりにくければ、ベタであるが、善の多様性も正義の唯一性の範囲内で許容されるとでも言っておきたい。これが回答である。

・「利他性への感染(ミメーシス)」について
 次に、利他性のある人物への感染についてテーマになっている。人は利己的な人物をモデルにするのではなく、利他性のある人物に魅力を感じ、その価値観に感染するようになるという。これは、宮台氏の考えであるが、非常に現実的である。確かに、そのように私も感じる。
 例えば、薬物依存やリストカットや虐待で悩む多くの若者を救ってきた夜回り先生という人は有名であり、多くの若者たちが夜回り先生という高度な利他性を所有する人格に感染し、自分も他者を助けたいと思うようになっている。
 さて、本当の利他性とは何かと考えていくと、共同体の外の他者への利他性ということになる。自己の所属する共同体に属する仲間のためだけではなく、自己の外にいる他者を救う者が一番感染性がある。大澤氏は聖書の「善きサマリア人の喩え」の例を引き、弱者への感染の可能性を述べていたが、本質は弱者への感染ではない。弱者という他者ではなく、共同体の外の他者を救った高度な利他性への感染こそが、この説話の本質なのである。
 共同体の内外に関係なく、他者を救う者こそが本当の利他性をもっており、そのような利他性に人は感染し、その感染の連鎖こそが、文化相対主義を越え、人類社会の正義の唯一性へとつながっているのである。このような思考回路を論理的に開いたのは、柄谷行人であるが、「利他性への感染」という事実に立脚して、正義の唯一性という到達不可能な倫理の存在の作用を例示した宮台の観察眼はやはり一流である。

・「社会的包摂における中間集団の必要性」について
 中間集団の重要性が議論されていた。中間集団の存在を無視したリベラリズムもコミュ二タリアリズムも、成立たないということが議論されていた。これは極めて社会学的な立場からの議論であり、個人と全体社会の二元論に基づく観念的な政治哲学と一線を画する。
 
 日本では、成熟社会に入り、家族・親族・企業・労働組合・新興宗教などの、全体社会(国民社会=国家と市場)と個人の間に存在する中間集団の凝集性が弱まり、その恩恵にあずかることが困難になってきたという。そのために、国民社会の代表機関である国家が個人をサポートしなければならないという発想が出て来た。中間集団から排除された個人を国家がサポートすべきというわけである。
 この考えの典型が、貧困は社会責任=国家責任とする湯浅氏の反貧困思想である。国家が排除された個人のセフティーネットを構築し、最低限の生活保障をしてやるというわけである。
 しかし、このような考え方は、すでにヨーロッパでは古いという。むしろ、国家と個人の間に存在する中間集団の自立性が焦点となっているらしい。つまり、自立的な中間集団が個人を包摂するというかたちで、社会的排除を防止することが大切であると考えられているのである。反貧困思想のように、国家のみが個人をサポートするという発想は極めて時代遅れでおかしいのである。これは、日本だけである。
 ともあれ、宮台氏も大澤氏も、社会学者であり、個人が相対的に中間集団に包摂されることが重要であると認識しているのである。個人責任でもなく、社会責任でもなく、家族責任や企業責任や学校責任など中間集団の責任という概念を流布すべきであるという結論となる。
 中間集団が責任をとるためには、中間集団の自立性・自律性が求められる。国家や市場に相対的にしか依存しない自立的な中間集団の存在が必要であり、社会的排除の解決策の本丸は中間集団にありとするのが、社会学の本流の考え方である。
 よく考えてみればわかるが、個人は様々な社会集団に関わりながら、欲望を充足するわけであり、全体社会と直結しているわけではない。従って、個人が所属する社会集団が個人の面倒を部分的に見ていくことが、古典的な国家のみによるセフティーネットよりも現実的なのである。
 
 社会学的には、国家は各々の中間集団を調整・支援し、各々の中間集団が個人を支援するというかたちがベストなのである。社会責任論を前提とした国家による個人のサポートを強化するという政策は、財政破綻をきたすだけであり、無意味である。
 国家と個人の二項関係こそが、現実的な個人の孤立化を意味しているのであり、中間集団の支援なしに生活保護を受けるのは孤立化をすすめることと機能的に等価である。国家と個人の二項関係に準拠した反貧困思想こそが孤立化の温床となってしまう逆説があるのである。
 中間集団=共同体の再帰的再構築と、中間集団の国家や市場からの相対的自立性によって、個人を包摂することが貧困問題・虐待問題などの解決策となるのである。国家から相対的に自立した中間集団による個人の社会的包摂こそが、孤立化による貧困問題を解決する社会学的処方箋なのである。

 全般的に、大澤氏の社会学思想というよりも、大澤氏が宮台思想を引き出したという対談の内容であると思った。
 
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by merca | 2010-12-04 11:37 | 社会分析 | Comments(0)