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東日本大震災の利他的支援活動が、ニヒリズムの敗北を実証する!!

 人が自発的に他の人の利益になるためにする行動を向社会的行動という。向社会的行動は、端的に利他的行為であり、所謂、あらゆる社会や宗教で善と呼ばれる行為である。今、東日本大震災の発生を機に多くの人々が向社会的行動を行っている。
 被災者同士の助け合い、被災地以外にすむ県民からの支援、世界の国々からの支援があるが、これらは全て義務ではなく、自発的に行われる利他的行為である。災害時には、ほとんどの人たちが、このような自発的善たる向社会的行動をとる。
 しかし、このような人々の善意を蝕んで来た思想がある。それがニヒリズムである。その教祖がニーチェである。ニーチェは、絶対的な善悪の基準は存在しないという馬鹿の一つ覚えで、あらゆる善行を否定してきた。
 東日本大震災の支援のために起こった世界規模の人々の向社会的行動は、ニーチェのニヒリズムからは解釈できない。これは、端的にいうとニヒリズムの敗北である!!
 今回の地震で、多くの人々の中に、ためらいもなく自発的に利他的行動をとる道徳性が内面化されていることが実証されたのである。現代社会の人々は、善悪の基準に迷うことなく、人助け=利他的行動を善きこととし、善行をなしているのである。
 日本中、世界中からよせられている多くの人々の善意のオーラがニヒリズムを粉砕する。善悪の基準は存在しないから、困っている人を助けないというニヒリストは、いないのである。このような現実に準拠するのなら、成熟社会の人たちは、ニヒリズムでは生きておらず、利他的である。社会科学(社会化の理論)からすると、人々は、最初からニヒリズムではなく、利他性を内面化していたのである。
 
 さらに、システム論的にいうと、世界社会において、(利他/利己)という区別コードに準拠したボランティア(コミュニケーション)システムが創発されているのである。善悪という道徳の区別コードは、ボランティア・システムの区別コードである(利他/利己)によって観察されることで、脱パラドックス化され、ニヒリズムを駆逐できるのである。利他的行為は人から人へ伝染していき、善のオーラで世界中が包まれるのである。

 10年ほど前に、少年の猟奇的殺人が連続して起こったことを受けて、モラルパニックがおき、それに釣られて、永井均のような懐疑主義の思想家たちによって、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というニヒリスティックな問いが流行ったことがあったが、今やこのような問いもナンセンスで時代遅れである。そして、NHKしゃべり場で殺人は悪くないと豪語していた相対主義の知的若者に次のような光景を見せてやりたい。
 それは、被災地の子供たちが、学校で被災した人たちの世話などをし、助け合いを行って生活している姿である。
 
 ニーチェにかぶれた一部のポストモダンの論客や若者たちは、人々に利他性が最初から内面化している事実をどう扱うのだろうか?
          正しく、ニヒリズムは敗北したのである!

参考
被災した宮城県女川町の中国人「地元の人のおかげで助かった」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20110316/Searchina_20110316096.html

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by merca | 2011-03-21 11:13 | 反ニーチェ | Comments(2)

反ニーチェ講座 第二回「ニーチェを捨てよ!!」

 社会科学的には、ニーチェの道徳分析=道徳のルサンチマン説は、端的に嘘である。嘘、すなわち物語である。ニーチェが自説を正当化するためにつくった物語にすぎない。
 ニーチェは、弱者のルサンチマンによってキリスト教道徳=利他主義ができあがったと主張している。強者に虐げられている弱者が強者に悪のレッテルを張り、その反対である弱者が自らを善とすることで、強者から弱者が自己防衛するために善=利他主義が出来たという。
 しかし、この説には全く実証的な根拠はない。なぜなら、弱者という対象に意識調査を実施していないからである。まず、弱者とは何かを概念規定し、その上で弱者たちの一部をサンプリングし、弱者の所有する道徳意識がどのようなものであるか意識調査することで、はじめて実証的に解明される。
 そのような社会科学的な手続きを経ずに、ニーチェは西洋社会の道徳について弱者が強者にもつルサンチマンが起源であると断定する。このように社会科学的には全く根拠のない嘘であるニーチェの道徳論を思考を媒介とせずに、多くの若者たちや大学院の哲学科学生が支持しているのは誠に滑稽である!!

  人間科学の立場からすると、一般に道徳の起源は、社会学における社会化理論(価値規範の内面化)やコールバーグの道徳性発達理論、フロイトのエディプスコンプレックス説によって説明される。
 社会化の理論とは、人は他者と関わるなかで価値規範を身につけていくという説である。つまり、幼少時から親や学校や地域社会の人々とのコミュニケーションにおいて、道徳規範を学習し、取り入れていくというわけである。弱者だから道徳規範をもつのではなく、人との関わりで道徳規範を身につけていくわけである。そして、人々が共通の道徳規範を身につけることで、社会秩序が保たれると考える訳である。これは、社会学による道徳の起源の説明である。
 当たり前の話しであるが、自分がなぜ道徳を身につけたのか振り返ってみると、親や教師や周囲の大人などからの影響であるとすぐにわかるのである。自分は弱者だから道徳意識を身につけたという人間はいないのである。このような社会学による説明は、自明すぎるが、誰にも当てはまる実証的なものである。
 コールバーグの道徳性発達理論は、他者とのコミュニケーションを通じて具体的にどのように道徳規範を学習していくのか解明している。賞罰の意識から普遍的な善悪の意識が生ずる錬金術を見事に描いている。コールバーグの道徳性発達理論は、現実の人間の発達過程に対する臨床的観察から得た実証的なものである。まさしく、社会学における社会化理論の内実を補うものである。
 精神分析学のエディプスコンプレックス説も、フロイトが臨床知から得た理論であり、神話を比喩として用いているが、極めて臨床的な実証知である。エディプスコンプレックスとは、子供が父親に母親を奪われるのを防ぐために、父親のように強くなろうとして、父親をモデルとすることで、道徳規範としての超自我を形成するという説である。フロイトが、多くの現実の患者の治療を通して発見した道徳の発生原理であり、物語ではない。
 これらの人間科学の知見からすると、ニーチェの道徳論は幼稚すぎるのであり、実証主義社会学者コントに言わせれば、神話的段階の知識に相当するだろう。ニーチェのルサンチマン道徳論は、まさしく神話なのである。
 
 さらに、知識社会学的にいうと、ニーチェのルサンチマン道徳論は、善悪の基準が絶対的に存在しないと考える思想つまりニヒリズムを正当化するための神話にしかすぎず、近代社会が生み出した一部の裕福な知識階級の子弟のイデオロギーにしかすぎない。つまり、全く実証的根拠を欠く自己のイデオロギーを正当化するための神話なのである。

 このような神話を本気で支持する人たちは、自らの思想であるニヒリズムを正当化するために、ニーチェにかぶれているにすぎないのに、それに気づいていない。

 大震災などの災害が起きた時に、助け合わなければならなという社会規範は強くなる。今、東北関東大震災によって多くの人々が被災しているが、このような危機場面においては、人々はかえって助け合い、利他的にふるまい、道徳意識が高まるのである。全国の人たちが助け合おうとしている。助け合うことは災害時規範と呼んでいいと思うが、阪神大震災の時も、被災者自らが利己的に振る舞わず、助け合い、神戸を復興させている。
 このような事実を考えると、ニーチェの利他主義批判は全く的を射ていないわけである。ニーチェのいう弱者の道徳など全くの虚構であり、社会学的に利他主義は社会的人間の中に最初から埋め込まれている道徳原理なのである。

 ニーチェ哲学では、人を助けたいという人たちの善なる心の本質を解明できないのである。ここでニーチェに心酔している知的な若者にはっきりと言いたい。
 ニーチェを捨てよ!!  社会学をコツコツと勉強し、ボランティア意識を身につけなさいと。

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by merca | 2011-03-16 00:42 | 理論 | Comments(4)

反ニーチェ講座 第一回「ニーチェは死んだ」

 
  はじめに 

 成熟社会である日本社会において、ニーチェの思想が流行っている。ニーチェの思想の眼目は、絶対的な真理や善悪は存在しないから、それゆえ自分の思うままに何をしてもいいということにつきる。認識論においては、唯一の事実は存在しえず、全ては解釈であるという極端な主観主義をとり、また価値論においては、善悪の基準は人間がつくりだしたものとして、極端な価値相対主義をとる。
 ニーチェは、科学も、キリスト教と同じく、真理の存在を前提とする信仰に支えられた思想であるとして、否定している。従って、ニセ科学批判なんてものは、ニーチェにとっては全くのナンセンスな代物ということになろう。そもそも、科学も宗教も真理を前提するという点において、ニーチェにとっては同じなのである。
 
 さて、現代社会科学からすると、ニーチェの思想は、狂人の戯言や妄想にしかすぎない。にもかかわらず、人々に広く流布するのは、それなりの理由があるからである。そして、戯言であっても、それがコミュニケーションされることで、ある種の社会的リアリティをもってくるのである。
 ニセ科学批判のような科学主義や通俗道徳に基づく思想が流行る一方で、全く逆の価値観をもつニーチェの思想が流行るという現象が起きている。
 成熟社会に適合的な思想は、科学主義(ニセ科学批判)かニーチェ主義かどちらであろうか?
 このテーマは奥深い。二つの対極にある思想を批判的に分析し、そして、どちらも止揚・相対化することが社会学の使命である。

 私は、これまで科学主義やニセ科学批判に対する批判を、くどいほどしてきたので、私をニーチェ主義者=相対性原理主義者と同じであると勘違いする人たちもいるかもしれない。私はニーチェのような単純な相対主義者でもなく、また科学主義者のような単純な絶対主義者でもない。
 いずれにしろ、しばらくニーチェの思想を批判していき、その虚構性と欠陥を暴き、ニーチェに騙されている人たちを覚醒させたいと考えている。そのために、当ブログにおいて反ニーチェ講座を連載していきたい。

 反ニーチェ講座 第一回 「ニーチェは死んだ」
 絶対的真理や絶対的善悪は存在しないから、それらは必要ないし、自由に生きればよい。ニーチェはこのように喝破し、キリスト教や科学を批判する。
 ところが、どうだろうか? 真理や善悪を追い求める人間は減るどころかポストモダン社会である現在においても存在し続けている。例えば、真理や善悪=人生の意味は要らないから、今をまったりと生きようと若者に呼びかけた宮台真司のまったり革命は、見事に頓挫した。意味を求めずにうまく今をまったりと生きているはずであったコギャルたちが、結局、メンへル系や自傷系へと落ち込んでいった。つまり、完全に意味を求めない生き方は、どこか無理が生ずるのである。成熟社会では、完全に意味を放棄すると、過剰流動性の中で自己を見失い、超人どころか、廃人となってしまうのである。まったり革命の失敗が、現在の宮台思想の保守化への転向の契機となったのである。
 ちなみに、仏教では、無意味=空無に執着する物の見方を但空観といい、偏った段階の思想として否定されることになる。
 
 実は、真理や善悪は不可能であるが、人間の生や社会にとって必要不可欠な観念なのである。真理や善悪という物語をもつことで、人は動機付けられ、他者と適切なコミュニケーションをとることができ、社会は秩序が与えられるのである。自我統合と社会統合は、真理と善悪なしには、あり得ないのである。
 社会学や心理学を学ばなかったために、こんな単純なことも、ニーチェはわからなかったのである。虚構でもいいから、真理や善悪があることで、人は意欲的に動き、社会は回るのである。
 現代社会では、科学が真理を独占し、人権思想(民主主義)が善悪を独占しているのである。科学も人権思想も一つの虚構ではあるが、それを全否定することはできず、人々の社会生活にとっては必要なのである。社会学の立場からすると、虚構は機能することでかえって真理となるのである。このような社会学上の妙理を悟ることができなかったことがニーチェの限界であり、欠陥でもある。
 
 科学と通俗道徳を真理・善悪とみなし、それらに動機付けられ、意欲的に動いている人たちがいる。ニセ科学批判者たちである。ニーチェの提示する生き方とは逆のベクトルである。科学と通俗道徳によって自我統合と社会統合を達成した人たちである。ただ、科学と通俗道徳が絶対的だと思い込んでいる点において、限界があるが、ある意味、科学と通俗道徳が機能しているわけである。

 まとめると、過剰流動性のある成熟社会では、意味を求めない生き方=超人は、必ず、心の病にかかり、ひどい場合には廃人となる。ニーチェの思想は成熟社会では、通用しないのである。まさしく、ニーチェは死んだのである。
 
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by merca | 2011-03-06 23:53 | 理論 | Comments(17)